包丁を構えて迫る澪に、律は瞬く間に隅へと追い詰められた。

「澪……落ち着けって。一緒に助かろうって、約束したじゃん」

「お前だって、私を裏切ったくせに」

「裏切ってない……あいつ等とは、身体だけの関係だ。
心の中ではずっと、澪だけ愛してきたよ」

「ふざけるなっ。そんな言い訳、誰が信じるか。
信じたとして、身体を他の人間に許した事は罪だ、そして裏切りだ。
だからさ」

 澪はもう、間近まで迫っていた。

「死んで、二度と浮気できないようになれよ。
私もすぐに後を追うから」

 既に包丁の届く範囲にまで、澪は迫っている。
このまま言葉で説得を試みても、延命になるかさえ微妙だった。
この絶体絶命の状況を前に、律は意を決する。

(澪、ごめんっ)

 律は胸中で澪に詫びると、体当たりを敢行した。
身体の半分以上が水に浸かっている為、勢いは無かった。
だが、虚を衝かれた澪は、律の体当たりを受けてあっさりと姿勢を崩した。
今まで逃げていた律が、突如として向かって来た事に驚いたのだろう。
律はこの機を逃さず、包丁が握られている澪の手を掴んだ。

「離せ、律っ」

「お前が落ち着いてからだ」

 激しい水飛沫を上げながら、二人組み合う。
初めの内こそ、虚を衝いた律が優勢だった。
だが、次第に体格の差が現れ始めた。
体格で劣る律は、徐々に押し戻されてゆく。

「律っ。手を離せっ」

「お前が包丁離してからだ」

 押されつつも、律は掴んだ澪の手を決して離さなかった。

「律ぅぅ……」

 怨嗟の唸りを上げながら、澪は律を振り解こうと激しく暴れた。
手を解きそうになる度、律は何とか持ち堪えてきた。
だが、激しさを増す澪の動きに、限界を感じ始めてもいた。

 律は脚を澪の身体に絡めて、動きを制限しようと試みる。
しかし、すぐに脚は振り解かれてしまった。

 弱まっていく握力に反比例して、律の焦燥は高まっていく。
このままでは手が振り解かれて、凶器を持つ澪の手が自由になってしまう。
そうなれば、今度こそ終わりだろう。
手が振り解かれる前に、暴れる澪の動きを緩めなくてはならなかった。

 近づく限界の中、律の脳裏で案が唐突に閃いた。
実行へ移す事が躊躇われる案ではあるが、背に腹は変えられない。

(もう、限界に近い。何とか動きを止めないと……。
澪の動きが激しくて、今にも手が滑りそうだ。
不本意なんだけど……ごめんな、澪)

 律は片脚を上げると、澪の下着へと足先を掛けた。

(このまま下ろせば……太腿が拘束される)

 律の思いついた案とは、それだった。
即ち、下着を下ろして太腿を拘束する事で、澪の動きを止めようとする事だった。
澪の今の勢いなら、急に脚が縺れれば転倒する事も充分に考えられた。
あわよくば、その機に乗じて包丁を奪い取る心算で居る。

 しかし、目論み通りには中々いかなかった。
相手が暴れている為、下着に爪先を掛けてもすぐに振り解かれてしまう。
限界を訴える手を叱咤激励しつつ、律は何度も試みた。
暴れているとはいえ、腰は水中なので成功確率が絶望的という訳では無い。
律はそう思いつつも、巧くいかない事に苛立ちと焦燥を募らせてゆく。

 律は再び、足先で澪の下着を挟む事に成功した。
振り解かれないよう、力強く足の指で布地を掴み込む。
そして振り解かれないうちにと、素早く強く下着を下げた。

 巧くいかない焦燥からか、律は力が入り過ぎていた。
そして、澪は動き続けている。
結果、下がった下着は拘束具の役割を果たす事無く破れた。

(しまっ。もっと慎重にゆっくりと、やるべきだったか?)

 律はそう思ったが、すぐに考え直す。
慎重にやっていれば、また振り解かれて終わっていた事だろう。
結局、律の案は名案では無かったのだ。
思いついた案を唯一救いに至る方法だと信じ、躍起になって試していたに過ぎない。
溺れる者の前では、藁でさえ浮き輪に見えるように。

 しかし、澪の動きは止まっていた。
呆けた顔付で、自身の下腹部、その更に下を見詰めている。
そこには、黒々と靡く毛に覆われた性器があった。
その露出は澪にとっても、前後不覚に陥る程のインパクトがあったらしい。
律は狙っていた身体的拘束は果たせなかったが、
僥倖にも精神的拘束という予想外の成果を得られた。

 勿論律に、この機を逃す心算は無い。
澪の手を捻って、包丁を奪い取ろうと試みる。
だが、その刺激を受けて、澪も我に返った。
澪の手に再び力が篭り、律の試みは惜しくも失敗した。


「油断も隙も無いな」

 律を睨みながら、澪が言った。
逆に、律は澪の隙を見取っていた。
澪は脚を閉じ、やや前傾気味の姿勢を取っている。
それは即ち、性器を極力隠そうとする姿勢だった。
また、身体も動かしていない。
やはり性器を露出する事に、少なからぬ羞恥を感じているのだろう。
胸の露出で羞恥を抱かない程に、澪は怒気を滾らせている。
だが、性器の露出にはまだ躊躇いがあるらしかった。
その羞恥を掻き立てるように、律は言う。

「なぁ、澪。それ、隠した方が良くないか?
さっきも言ったけど、私ら監視されてるぞ?」

 澪は監視されている事を、然して気にしていないかのように言う。

「ふんっ。水の中だから、どうせ見えない。
大体、下着を破ったのはお前だろう」

「いや、破ろうと思った訳じゃ無いけど。
足の動き、封じたかっただけで。
ほら、さっき脱いだシャツとかあるじゃん?あれ巻いとけば」

 その時、澪は包丁を手放す事になる。
それに乗じて包丁を奪う、という戦略まで律は立てていない。
逆に、そういった防御的な動作は、澪の神経を逆撫でしてしまう恐れがあった。
凶器を手放し他の作業を行う間に、澪の気も幾分か静まるのではないか、
という期待故の提案だった。

「元々、水を含んで重くなるっていう理由で脱いだはずなんだけどな。
本末転倒に陥らせてまで、お前は見たくないのか?」

 澪の瞳に、訝しげな色が浮かんだ。

「あ、いや。そうじゃなく、見せたくない、って言うか。
誰かに澪の……その、あれが見られてるって思うと、妬けるって言うか……」

「どうだか。本当は、見たく無いんじゃないのか?
お前は私の名前を聞くだけで、萎えるんだろう?」

 梓と律が交わる映像の中で、澪を激昂させた律の発言。

──澪の名前、出すんじゃねーよ、萎えるだろーが──

執念深く、澪は根に持っていた。

「いや……。あれはそういうんじゃ無くて……。
梓に空気読んで欲しかったって言うか……。
と、とにかくっ。澪だって、そこ晒しっぱなの、恥ずかしそうじゃん?
足閉じてるしさ、前屈みだし。
だから、隠した方がいいんじゃないかって提案だよ。
私以外のヤツに見せるなんて、澪も嫌だし恥ずかしいだろ?」

 律は慎重に言葉を選びながら、過去の己の発言から話題を遠ざけようと試みた。
澪の羞恥を指摘しつつ、凶器を手放す方向への誘導も忘れなかった。

「恥ずかしいからこんな姿勢取ってるワケじゃ無い……。
見せたくないのも、お前以外の人ってワケでも無い……。
お前に見せるのが怖いから……だよ」

 澪は瞳を伏せながら、静かな声で言葉を放ってきた。

「えっ?」

 予想外の返答に、律は思わず頓狂な声を上げていた。

「萎えるんだろ?
名前聞くだけで萎えるんなら、私のを見たら、更に萎えるよな」

 澪は『萎える』という律の発言から相当衝撃を受けていたのか、
執念深くその話題を繰り返した。
律は試みが徒労に終わった事を落胆しつつ、否定を返す。

「いや、そんな事、無いけど」

「お前に萎えられるのが怖いから……見られる事が嫌だった……。
今だって、お前は目を逸らしてる」

「いや、逸らしてるワケじゃ無いって。
敢えて見る必要が無いってだけで。
ほら、凝視するものでも無いだろ?」

「好きな人のなら……恋人のなら……見たいと思うのが普通だろ?
そう思ってないって事は、やっぱり萎えるんだろ?
見たくないんだろ?」

「いや、お前が見せたく無いんだろ?」

「それは萎えられるのが怖いからだ。
お前が見たがるなら、それはつまり見ても萎えないって事。
それなら、見られる事に恐怖は無い。でも、そうはならなかったな」

 澪は寂しそうに呟くと、包丁から手を離した。
律の注意は、ずっと凶器である包丁へと注がれていた。
故に、澪が包丁から手を離せば、律の視線は落下する包丁へと向く。
それが意外かつ唐突な行動であれば、尚更だった。
即ち、律の警戒対象から澪が外れる。
それは律の隙だった。

 爆ぜたような音が響き、水飛沫が上がった。
包丁が水面を打った音では無い、澪が勢いよく跳ねた音だった。
それに気付いた時には、澪は律の膝に両脚を掛けていた。
包丁を手放した事自体、律の隙を誘う戦術だったのだろう。

「み、澪っ?」

 驚きの声を上げる律の頭を掴み、澪が不安定な姿勢を支える。
膝と頭から受ける澪の体重で、律は水面の位置まで首が下がり中腰の姿勢となった。

「恋人なら萎えたりしないで、見たいと思うのが普通だろ?
触れたいと、舐めたいと、悪戯したいと思うのが普通だろ?
嫌でも押し付けてやる。お前は私のだ、私の物なんだっ」

 半狂乱に叫んだ澪の陰部が、律の眼前へと迫る。
水に濡れそぼった黒々とした毛の奥に、ザクロが蠢いているような紅色が見えた。
それが、律の顔面へと押し付けられた。

「興奮しろよっ、感じろよっ、お前、此処が大好きだっただろ?
可愛いって、綺麗だって、美味しいって、いい匂いだって、愛してくれただろ?」

 澪が激しく腰を動かし、
律の顔に密着している”それ”を強く擦り付けてきた。
陰毛と摩擦を起こした肌に鈍い痛みが走り、堪らず律は声を上げる。

「いったっ。痛いって、澪」

「萎えるの次は痛い、か。
お前は何処まで私を痛めつければ気が済むんだよっ。馬鹿律っ」

 擦る強さが更に増した。
生暖かい粘液が絡み摩擦を緩和しているが、それでも痛みは消えない。

「痛いっ、落ち着けって、澪っ、なぁ、わぶっ、げほっ」

 唐突に律は咽び、抗議の声を途切れさせた。
澪の陰毛が口中で絡んだのだろう。

「嫌なのか?さっきから抗議ばかりしてる。
嬉しくないのか?好きな人の性器に触れて、嬉しくないのか?
それとも、もう私なんて好きじゃないのか?答えろよ……律ぅ」

 濃厚な粘液の味と、千切れて口腔に残る陰毛の感触を舌が伝えてくる。
擦れる陰毛の硬い感触と粘る液体の感触、
そして陰唇の蠢く柔らかさと滾る熱を肌が伝えてくる。
嗅覚を直撃する衝撃的な匂いを鼻が伝えてくる。
水と粘液によって艶を放つ陰毛の黒さと、蠕動する紅色を目が伝えてくる。
そして感情からは、澪が好きだという叫びが伝わってきた。
それを澪に伝えようと、律は口を開く。

「好きだよ。澪の事、大好きだよ。だから、離れて?
だって」

 耳から伝わるもの、それは室に注がれる水の音だけでは無い。
粘度の高い液体が肌と交わる音を加えても足りない。
鎖が軋む音も聞こえていたのだ。

「澪、足痛いでしょ?」

 無理な姿勢や動きのせいで、
拘束具である鉄の輪が足へと食い込んでいるに違いなかった。
それは鎖の鳴る音で容易に想像できる事だった。
また、律が痛みを覚えていたのは顔だけでは無い。
足にも鉄の輪が食い込み、鈍痛を感じていた。
それは二人を繋ぐ鎖が伸びきっている事を示しており、
澪も痛みを感じているはずだった。

 澪は何も言葉を返してこなかったが、擦り付ける動きを止めていた。
律は続けて言う。

「好きだから、澪に痛みを感じてほしくないんだ」

「だったら、浮気なんて始めからするなよ……」

 澪は静かに呟くと、律の膝から下りた。
ふと見ると自分の左足首も澪の右足首も、
拘束具が食い込んだ事を示す赤い跡が付いていた。

「律……」

 澪が身体を寄せてきた。
足の痛みで立っている事が辛くなったのだろうか。
そう思った律は、抱き寄せるように受け止めた。
粘つく顔を洗うよりも、まずはそうすべきだと思った。

「痛っ」

 唐突に、律の性器に痛みが走った。

「律……」

 澪が律の性器の奥へと、強引に指を差し込んできているのだ。
その事を理解するのに、一秒程の時間を要した。



7