澪と律が落ち着きを取り戻した事に、ムギソウは少しだけ驚いた。
二人が組み合った段階で、このゲームは早くも律や澪の敗北で終了すると思っていた。

 澪の盲信と律の隠蔽で繋がっていた脆い絆だと、ムギソウは考えていた。
故に、律の隠蔽が晒され澪の盲信が裏切られれば、絆は切れるはずだった。
浮気映像を二人の前で見せ付ける事が、その二つを同時に達成するトリガーとなる。
だが実際には、二人は持ち直した。

「脆い絆であっても危機に瀕して切れないのは、
長く続いてきた関係だから、という事ね」

 ムギソウは自分に言い聞かせるように呟いた。

「この世はそんなもので溢れてる。慣習はそう簡単には覆らないから。
非効率な組織や仕組だって、長く続いていれば改めるのが難しいように。
人間関係も長く続いていれば、
双方嫌いあっていてもそう簡単には切れるものじゃない。
お互い不満を抱えつつも離婚しない夫婦が、その典型例。
この二人だって長く一緒に居たからこそ、
決定的な対立を回避してゲームオーバーを免れた」

 そもそもムギソウ自身にせよ、その慣習によって敗れた事があるのだ。
正確に言えば、澪が律と共に過ごした時間の長さ故に、恋心を破られた。
ムギソウは画面に映る澪へ向け、哀れんだ視線を向けた。

「罪が無いのは分かってる」

 続いて、律へと恨みの篭った視線を向けた。

「有罪なのは、こっちだって事も分かってる。
私を裏切って捨てたこっちが悪いって事、分かってる。でも……」

 律を見詰めるムギソウの表情が蕩けた。
頬は上気し、瞳が潤む。
ムギソウは画面に映る律の姿に舌を這わせながら、言葉を紡ぐ。

「でも、未だに好き。未だに、嫌いになりきれていない。
まだ、愛してる」

 ムギソウは愛憎渦巻く想いを込め、律の姿に沿って画面を一頻り舐めた。
続いて、澪へと視線を向けた。今度は哀れみなど表情に篭っていない。
嫉みを表情に滾らせ、妬みを視線に孕ませている。

「だから、貴女が憎い。そう、これは八つ当たり。
分かっていても、憎い憎い憎い憎い憎い憎い」

 呪詛の言葉を繰り返して、協力者に思いを馳せた。
それはムギソウに、このゲームの計画を持ちかけた者だった。
練りこまれた指示、そして場所の選定から一部道具の提供まで行ってくれた。
見物する為のカメラはムギソウが用意したが、
武器や睡眠薬、拘束する為の錠は協力者の用意だった。
そして、律の浮気現場を押さえたビデオディスクまでも。

 その協力者の正体を、ムギソウは知らなかった。
メールや郵便、コインロッカーを通じて指示や道具の提供を受けていた。
それでも、動機は何となく分かっている。
ムギソウと同じく、澪への嫉妬や律への憎悪だろうと。
二人の仲を引き裂くようなゲーム設計が、それを思わせた。

 そこまで推理できれば、その協力者も律と恋仲になっていた者が連想される。
即ち、律の浮気相手の誰かでは無いか、と。
もしかしたら、ビデオディスクに収められた者の中に居るのかもしれない。
律に裏切られ捨てられた、ムギソウの仲間が。

「そう思ったからこそ、このゲームに私は乗った」

 ムギソウは呟いて、手元の人形へと視線を向けた。
ゲーム説明を行うライブ映像で、自身の代理として出演させた人形である。
左側に澪を模し、右側に律を模したこの人形は、ムギソウの自作だった。

「憎しみ、代行してあげる」

 ムギソウは新たに動画を再生させ、エレベーター内のディスプレイに送信した。
それもまた、律の浮気映像だった。
程なくして、再び摩擦する二人の姿を見る事ができるだろう。


『今度は何だよ……』


 律の呟きが、マイクを通して聞こえてきた。

「今度は誰だよ、が正解だろうに」

 ムギソウは独り言で返して、手元の人形に爪を立てた。
二人がゲームに敗れて絆が失われた段階で、この人形を真っ二つに切り裂く心算でいた。
律と澪が別れて死にました、という象徴的な意味を込めて。
協力者と自分、二人分の憎しみも込めて。



 ディスプレイに映っているのは、紬と律の姿だった。
律はやるせない気分になる。
折角澪の怒りを鎮めたと思ったら、再び怒りを再来させかねない映像が届けられた。
苦労して切り抜けた窮地に、再び突き落とされる脱力感が律を苛む。

 尤も、この展開も予想しておくべきだったのかもしれない、律はそう思った。
ムギソウもカメラを通じて、律と澪のやり取りは逐一把握しているのだろう。
だからこそ、最悪のタイミングで新たな映像を届けてきた。


『ねぇ、りっちゃん。私だけ愛している、そう言って?』

『えー?いやお前、前も言ったと思うけどさ、私の本命は』

『その先は言わないで、その名前は出さないで。分かってるから。
嘘でいい、嘘でいいから言って欲しい。一時でいい、酔わせて』

『お前だけが好きだよ、ムギ』


 澪が凄まじい勢いで律を睨み付けてきた。
律を苛んでいた脱力感が瞬時にして消え、改めて恐怖が訪れる。


『ありがとう、りっちゃん……ありがとう』

『喜んで貰えて、私も嬉しいよ』


 映像の中、律は紬を抱き寄せて耳元で囁いた。
紬は頬を染めて、更なる要求を口にする。


『りっちゃん……誰よりも、私の事が好きだと言って?』

『誰よりもムギの事が好きだよ』

『嘘でも嬉しいな。うん、これは嬉し涙』

『この瞬間だけは、嘘じゃないけど?』

『もうっ。優しいんだか残酷なんだか……』

『言葉はどっち付かずかもね。でも行為は、優しくするよ』


 画面に映っている映像は、紬の涙を拭く律の姿だった。
続いて、紬の制服のリボンを解き、ブラウスのボタンを外してゆく姿。

 律は画面を見詰めながら、この時の事を思い出していた。
思い出した瞬間、凍りつく。


『その前に……もう一言だけ、言って欲しい事があるの』

『何?』

『その……澪ちゃんより、私の方が好きだと言って?』


 画面に映る律は、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
その過去の自分に向かって、独り言のように呟きかける。

「止めろ……」


『その名前、出して欲しくなかったんじゃないの?』

『りっちゃんの意地悪っ。ねぇ、お願い……』


 紬の瞳は潤んでいた。再び涙が零れ落ちる前にと、あの時、律は──

「止めろよ……」

 叫びたかったが、出てきた声はか細かった。
凍りついた口が、思うように動かない。

 対照的に、映像の律は流暢に告げていた。



『澪よりムギの方が好きだよ』



 律は反射的に澪へと視線を向けた。
途端、澪と目が合う。

「み、澪。あれは……その場の……空気を読んだと言うか……」

 稚拙な言い訳に対し、澪は冷たい声で応じてきた。

「つまり、この先も空気とやらを読んで、
私以外の人間と寝る可能性があると言う事か」

「ち、違っ。反省してる、本当に反省してるよ」

「一体何人と交わって、私を裏切った?
いつまでも信じてやると思っているのか?」


 澪は言うなり、腰を屈めて上半身も水中へと潜らせた。
すぐに身体を起こした澪の手には、鈍く光る包丁が握られている。

「澪っ?」

 律は思わず頓狂な声を上げて、澪の手元を見つめた。

「許さない……」

 映像はまだ続けられているのか、未だ光彩が水面に投げかけられている。
ディスプレイを見上げなくても、聞こえてくる声で分かった。
律と紬が交わっている光景が、展開されているのだろう。
降ってくる激しい喘ぎ声が、それを証している。

「み、澪……冗談は止せよ」

 律は後退りしながら言った。
既に腹部までを覆う水など意に介さず、澪が距離を詰めてくる。
その表情を見れば、冗談では無い事など一目瞭然だった。

「許さない……」

 水面から光彩が消失した。ムギソウが映像の再生を止めたのだろう。
白熱灯の灯りのみとなった空間の中、澪の声が静かに沁みてゆく。

「悪かった、本当に謝る。だから、な?澪……。
許してよ、お願い、許して……」

 謝罪を繰り返すその最中、スピーカーから一言だけ再生された。
律の投げたあの言葉が、空間の中を激しく響き渡ってゆく。


『澪よりムギの方が好きだよ』


 リピートされた律の声に──


「絶対に許さないっ」


──澪の咆哮が続いた。




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