律は目を覚ましてすぐに、驚愕の声を上げた。
寝起きはそういい方では無いが、
目に飛び込んでくる情景が脳を一気に覚醒させた。
眠った場所と起きた場所が違えば、眠気など一瞬で飛ぶ。
左足首に鉄の輪が嵌められていれば、尚の事だ。
その鉄の輪は鎖に繋がっていた。
鎖の先を目で追うと、床に打ち込まれた小さな鉄の輪を通っている。
その鉄の輪には、有刺鉄線が幾重にも巻かれていた。
律は鎖に沿って、更に目を先へと向けた。
そこには、右足首を律同様に拘束されている澪の姿が映った。
「澪っ」
反射的に恋人の名を叫び、澪に駆け寄る。
名前を呼んでも反応を返してこない澪に胸騒ぎを覚えたが、
顔を覗きこんで安堵の息を漏らす。
「眠ってるのか……」
それでも一応、慎重に外傷の有無を確認する。
怪我の無い事を確かめると、肩を揺さぶりながら叫んだ。
「澪っ、澪っ、澪っ」
「んっ?り、律ぅ?」
澪は眠たげに目を擦り、覚醒し切っていない虚ろな目を向けてきた。
「起きたか。大丈夫か?気分悪くないか?」
「何言って……って、何っ?」
澪は自分を取り巻く異様な状況に気付いたのか、頓狂な声を上げた。
「私にもさっぱりだよ。目が覚めたらこうなってた」
律は周囲を見回しながら言った。
2メートル四方はあろうかという四角い空間だった。
その内、3つの辺は変哲の無い壁だが、
残りの一つの辺は壁にしては妙な造りだった。
二つの壁が左右から合わさって出来たような微かな隙間が、中央に走っている。
それは宛ら、取っ手の無いドアに見えた。
「律、悪ふざけは止せよ」
澪の口調はやや怒りを帯びていた。
どうやら、律が仕組んだ悪戯だと思っているらしい。
状況を見ればそう考えるのも無理は無い、それは律にも理解できる。
そして、悪戯であればどれだけ良かったかと、律自身思っている。
「残念ながら、悪ふざけの類じゃねーよ。
さっきも言ったけど、私自身何が起こってるか理解できてないんだ」
「本当か?」
「本当だって。てゆーか、どうしてこうなったか。確か昨夜は……」
突拍子も無い場所で目覚めたせいか、記憶が混乱していた。
自宅以外の場所で過ごした憶えはあるが、それが何処だったかよく思い出せない。
だが、少なくともこのような場所で過ごした憶えは無かった。
「ムギの別荘に泊まったんだよ。
その流れで、こういう悪戯を律達が仕組んだんだと思ったけど」
「ああっ、そうだっ。ムギのとこ泊まったんだっけ。
と、なるとムギが仕掛け人か?いや、唯辺りも噛んでるかもな」
「唯と梓は居なかっただろ?私と律だけが、ムギの別荘に行ったんだよ」
「そっからしておかしーじゃん?何で唯と梓、来ないの?
実は来てるんだよ、きっと。
私らがこのビックリな悪戯のターゲットで、唯とムギと梓が仕掛け人って事だ」
「まぁ、唯と梓に隠れる必要性があるのか分からないけど、その推理は正しそうだな。
本当にお前が噛んでないなら、だけどな」
澪はまだ律を疑っているらしかった。
日頃の行いを思えば、それも無理からぬ事だと律自身が痛感している。
だが今回は、本当に絡んでいない。
「いや、本当に私関係してないっての」
律は溜息を吐くと、視線を上に向けて叫んだ。
「ムギーっ。唯ーっ。梓ーっ。悪ふざけが過ぎるぞー」
彼女達の声は返って来ず、代わりに律の声が虚しく反響した。
「ちっ、無視しやがって。何処かで見てるんだろ……」
律は視線を上に向けたまま、観察した。
唯達の姿を見つける事はできなかったが、代わりに気になる物を幾つか捉えた。
プラスチックに守られたディスプレイと、こちらを向いている複数の大きな管がそれだった。
二つとも律達から相当に離れて、その姿を覗かせている。
その周囲には薄暗いライトが灯り、律達を照らす役目を果たしていた。
そして、その更に遥か上に天井があるのだろう。
暗くて見通せないが、天井部分は不自然なくらいに高い。
(いや、違う……)
律は気付いた。
地面から二メートル程上の壁際と、そこから先の壁に小さな段がある事に。
まるでそこにあった天井──というよりも蓋──を外したかのようだった。
律は中央に小さな線状の隙間を形作っている壁へと、もう一度視線を走らせた。
続いて、その左右を見回す。そして、理解した。
(そうか……分かったぞ。今私達が居る場所が)
そこまで思考した時、澪が驚愕に満ちた声を上げた。
「って、律」
その声に引き摺られるように、律は視線を向けた。
澪は唖然とした表情を浮かべ、指先を律の後方へと向けている。
そこは、中央に微かな隙間が浮かんでいる壁の反対側である。
「なっ」
振り返った律の口からも、驚愕に染まった声が漏れた。
澪の指し示す壁際の床に、包丁が二つ置かれているのだ。
鎖と澪以外に注意を払っていなかった為、後方の床の違和には気付いていなかった。
「何なんだよ……。っとに悪趣味な冗談だ」
律は悪趣味な冗談と言ってみせたが、本心では悪趣味だとしか思っていない。
冗談であるとは、そろそろ思えなくなってきていた。
「本当に、何なんだよ……」
澪も律の言葉を復唱してから、続けた。
「それ以前に、此処は何処なんだよ。どうして、こんな事になったんだよ。
昨夜はムギの家に泊まったはずだ。それがどうして、こんな事に……」
「ここが何処かは、もう分かってる」
律がそう返すと、澪は目を見開いた。
「ど、何処なんだっ?」
「具体的な地名だとか、或いは家からの距離だとか、そういう事は分からない。
分かったのは、この空間の名称だよ」
「な、何なんだよ……。
まさか、墓場だとか比喩めいた事言う心算じゃないだろうな?
予め言っとくけど、それ、全然上手くないからな?」
「んな事言うかよ」
律は、中央に線上の隙間を走らせる壁を指差した。
正確には、右端寄りの一面に指を向けている。
その指先に釣られるように、澪の視線が動く。
「あっ」
澪も気付いたようだった。
「分かったか?ここ、エレベーターの中だよ」
律の指が示す先にあるパネルには、
『開』『閉』『開延長』といった文字や数字の書かれたボタンが並んでいる。
律も見慣れている、エレベーター特有のパネルだった。
中央に走っていた微かな線も、エレベーターの扉の構造を表していた。
だが律がショッピング等で乗るエレベーターに比して、随分と広い。
加えて、デザインも洒落たものではなく、酷く無骨なものだった。
剥がされた天井から受ける印象だけではなく、
床や壁の造りからして装飾性が微塵も感じられない。
客を迎えるものでは無く、業務用エレベーターなのだろうか。
そしてパネルの数字を見る限り、此処は少なくとも3階まではある建物らしかった。
律は立ち上がると、『開』と書かれたボタンを押す。
予想していた事だが、反応は無い。
「やっぱり駄目か」
剥がされたエレベーターの天井部分に一瞥を加えてから、律は呟く。
「壊れてるのか?」
「閉じ込められてるんだろ」
律は溜息を吐くと、扉に手を掛けた。
取っ手が無い平面という力を加え辛い構造ではあるが、それでも手動で開こうと試みる。
「あっ、私も手伝うっ」
澪も加勢してくれたが、やはり扉は動かなかった。
「やっぱ無理か……」
律は諦めたように溜息を吐く。
「そんな……。じゃあ、どうやって帰るんだよ?
扉が開かなきゃ、帰れないだろっ?」
「開いたところで、帰れないだろ?ほら」
律は足を振って、拘束している鎖を鳴らした。
「いや……鎖は、ほら、あの鉄の輪を床から引き抜けば……。
あの輪を通ってるんだから、あれさえ引き抜けば……」
「それで二人三脚、素晴らしい発想だけどな。
どうやって誰が抜くんだ?」
律は鎖を通している鉄の輪を指差す。
否、輪を覆っている有刺鉄線を指差す。
「それに、どうせ床の裏側には返しとか付いてるんでしょ。
抜けっこ無いって」
律がそう続けると、澪は顔を青褪めさせて叫ぶ。
「誰かっ」
澪は扉の前まで駆け寄ると、激しく叩きながら続け様に叫んだ。
「誰かっ、助けてっ。聞こえたら、助けてっ。誰かー」
誰かが側に居たとして、決して助けはしないだろう。
恐らく誰かは、この近辺に居るはずだと律は思っている。
だがそれは、きっと律達を閉じ込めた側の人間だ。
「誰かっ誰かっ、助けてっ、お願いっ」
半狂乱に扉を叩き続ける澪を見ていられず、律は澪の肩に手を掛けながら言う。
「落ち着けっ。落ち着けって、澪。
そんなに手を乱暴に扱うなよ。お前が手を傷めたら、誰がベース弾くんだよ」
「ベースっ?ベースだって?」
澪が咄嗟に振り返った。
「そうだよ。お前はHTTのベーシストだろ?」
「この状況下で、ベースなんて弾けるかっ。そもそもベースなんて何処にある?
ああ、そうさ、家さ。家に帰らなきゃ、そもそも音楽なんて弾けないだろっ?」
「扉叩いたって、大声上げたって、家には帰れないよ。
落ち着いて、誰かが助けに来てくれる事を待とうよ。
まだ、唯やムギの悪戯だって言う可能性も……あるワケだし……」
自分でも信じていない悪戯の可能性を、律は口にする。
そのような苦し紛れを、澪は一蹴した。
「こんな悪質で手の込んだ悪戯、いくら唯やムギでもやると思うのか?」
「いや、万が一って事も」
「そんなの、期待できるかっ」
「助けこそ、期待できないよ」
「そんなの……やってみなきゃ……」
「誰かが扉の向こうに居たとして、或いは声の聞こえる範囲に居たとして。
それはきっと、私達を閉じ込めた人間だよ。こんな事するからには、目的がある。
目的を達する為、側に留まっている事はあり得る。
そんな人間が助けると思うか?
もし助ける可能性があるとしたら、唯達の悪戯だった場合だけだよ。
同情誘われてやり過ぎた悪戯だと反省して助ける、そのケースだけだよ」
澪はもう一度だけ、強く扉を叩いて叫んだ。
「くそっ」
それ以上、澪は扉を叩こうとはしなかった。
澪にしては珍しく口汚い言葉だった。
そう律は思い、冷静さを欠いている姿に幾許かの危機感を覚えた。
尤も、律自身にしても、いつまで自分が平静を保てるか自信が持てなかった。
澪を窘めた今にしても、既に心が折れそうだった。
『ご機嫌は如何?』
その時、室内に人間の声とは思えない、無機質な声が響いた。
澪の声でも無ければ、勿論律の声でも無い。
『こっち、こっち』
声は上から聞こえていた。
声の発生源を求めて、律は視線を上へと向ける。
先程見つけて気になっていたディスプレイに、不気味な人形の姿が映し出されていた。
声はそこから響いてくるらしかった。
「何だよ、あれ……」
澪の震えた声は、律の心情を表したものでもあった。
最終更新:2011年10月23日 00:32