和「…!さ、さわ子先生…」

さわ子「和ちゃん。ボタン、押して」

和「…は、はい」

和は、言われるがままにボタンを押そうとして…

しかし、思いとどまった。


違和感。

違和感としか言いようがないが、このまま言われるがままにボタンを押すことに、どうしようもなく薄ら寒い予感を覚え…和は最終的に、ボタンの押下を躊躇った。

和は、自分の起こした行動に、自分自身で戸惑っていた。

なぜ、私は、ボタンを押さなかったのか。なぜ、先生の言う通りに、ボタンを押さなかったのか。

和は、助けを求めるようにさわ子に視線を上げて…ようやく、その違和感の正体を理解した。

さわ子「…和ちゃん。早く、押して?」

和「…!」

さわ子は、形容のしがたい、異様な表情を浮かべていた。

笑っている。心中はどうあれ、微笑を浮かべている。

しかし、同時に。

焦燥。怒り。恐怖。…ありとあらゆる負の感情が同居した、形容のしがたい、異様な表情を浮かべていた。

和は、その表情を見て、ようやく、その違和感の正体を理解した。


和「…先生。そ、その、質問が…」

さわ子は、駆け引きをしていたのだ。

和「…そ、その…次から、私、OUTのボタンが無くなる訳ですが…」

さわ子は、駆け引きをしていたのだ。恐らくずっと前から。表面上の思考はどうあれ、心の奥底では、ずっと前から。

その考えに至り、半ば現実逃避していた和の意識が、急速に覚醒を始める。

和「その…今回で、終わらなかったら、どうしたらいいでしょうか」

さわ子の決心に、恐らく嘘偽りはない。さわ子は、和から見て、立派な大人だった。

しかし…この出来事は明らかに、自己犠牲の精神で年少者を庇いきれる範囲を逸脱していた。

さわ子は純粋に善意で行動していた。していたはずだ。

しかし結果的に、現在の状況は、和に極端に「不利」な状況を生み出していた。

ここに来て、駆け引きというか、和のさわ子に対する疑念が生まれた要因は、要するに次の法則性に集約する。

「後になるほど、より受け入れたくない男性になるのでは無いか?」

現状、既に、写真を見るだけで嘔吐する様な男なのに…

和「これ以上、もっと、酷い男の人が出てきたら…さわ子先生、どうしますか?」

たとえば。

実際のところ、割り切って考えるなら、別に誰の精液でも変わらない。

仮に妊娠したとして、必ずや堕ろす事は間違いないのだから。

気分的に、より嫌ではあるが…それでも、注射される精液が、醜男であろうがそうでなかろうが、本質的には何も変わらないのだ。


だけど、たとえば。

性病。

詳しくはないが、性病を持っている男がこの先現れたとしたら…

たとえば、エイズ。

さわ子の言うように、アフターピルで避妊したとしても、恐らく性病には効果は無いのではないか。

妊娠は免れたとして…しかし、そのような致命的な病気に感染してしまえば、文字通り人生が終わってしまう。

さわ子「…質問の意図が、よく、分からないわ。はっきりと言ってみて?」

恐る恐る、言葉を選びながら質問を重ねる和。

さわ子は、そんな和に、ストレートにそう言った。

和は、意を決して、疑惑を口にした。

和「…先生。すいません。私…先生が、駆け引きを、しているんじゃないかと、疑っています」

さわ子「…」

声が震える。

身体が震える。

このように、他人への疑惑をストレートに伝える事は、和にとって初めての経験だった。

さわ子の目が据わって行くのが分かる。

そのさわ子の表情をみて、和はようやく、自分のしている事の本質を理解した。

疑っているだけならまだしも。一度口にすれば、それはもう。

本質的には、それもう、争いなのだ。

今、和がこの疑念を口にした事によって…それまでの、庇護し、庇護されるという関係が、完全に瓦解したのだ。

二人の関係は、今まさに、このタイミングでようやく、急速に、フラットなものへと変化していた。

和「…先生、教えてください。次からは、最初と同じように、二人で半分ずつ、になるんですよね?」

さわ子「そうね。そうなるわね」

和「だけど、先生。先生には、他の選択肢がある。その気になれば、OUTボタンを押して、私だけに送る事が出来る」

さわ子「そういうことも可能だけど、しないわ」

和「でも、先生。先生はさっき、迷いました。迷った末、INボタンを押しました」

さわ子「違うわ」

和「この状況で、迷うことは一つしかありません。先生は、OUTを押すかどうか迷って…結果、INを押しました」

さわ子「違うわ」

口の中がからからと乾く。

和は、ディスカッションなどは得意な質であった。

生徒会や、文化祭などの実行委員会などでも、様々な生徒の意見を調整したり、自分の意見を主張したり、そういった経験は豊富だった。

他人と意見を交換し、意見を調整し、最終的に意思を決定する。

そういった、年の割にはシビアなコミュニケーションを、和はその年にして長く経験してきていた。

…しかしこれは、そのような平和的な内容とはかけ離れた、駆け引きだった。

相手が嘘をついているかもしれない。ついていないかもしれない。

最終的に、どうすれば自分が一番得をするのか、被害を最小限にできるのか、暗中模索の状況下で…

しかし、相手は既に、自分よりも多くの気づきを得て、自らが有利になるように立ち回っているかもしれない。自分を誘導しているのかもしれない。

一度疑い出すと、きりがなかった。急速に首を擡げる猜疑心。被害意識。

和は、そう言った負の感情に支配されつつあった。

さわ子は、和の質問に淡々と答えていった。その本心はまだ分からない。

しかし、ついに。

和「…先生。たとえば、ですが…エイズの人が出てきたとして、先生は甘んじて、半分こにしますか?OUTボタンを押せば、回避できる状況で…」

さわ子「押さないわ」

和「…!」

それは、一見すると、それまで同様の即答であった。

しかし…和は、確かに、感じ取った。

微妙な顔の筋肉の動き。微妙なイントネーション。そして、恐らくさわ子もそこまで想定をしていなかったのであろう。想定外のリスクを唐突に突きつけられ…一瞬、ほんの一瞬。思考が遅れ、応答が遅れ…

一見すると、それは今までと同じ即答であったが、微妙なレスポンスの遅れが発生していた。

和は、これを過敏に感じ取り…

そして、最終的に和は、こう判断した。

さわ子は、嘘をついている、と。

さわ子は、嘘をついていた、と。



「0:10」

タイムリミットが迫る。和にはもう、その判断を顧みる時間的猶予はなかった。

和「…先生。私、いやです。病気は嫌です」

さわ子「…それで?どうするの?」

和は、意を決して…

INのボタンを、力強く押下した。

それは、決別の表明。

その行為は、さわ子に、こう、はっきりと告げていた。

「お前は信用できない。お前は私にリスクを押しつけている。私は、願わくば、そのリスクをお前に押しつけたい」

さわ子の目に、今までに見たことがない、鈍い光が宿った。

ここから先は、もう。


さわ子「…いいのね?」

和「…!」

その眼光に、和は思わずひるみそうになったが…それでも。

和は、キッと、その眼光を見返す。

ここから先は、もう。…明確な、争いなのだ。

「0:03」

「0:02」

「0:01」

「ピー」

5回目の、タイムアップ。

ちゅうっ、と、精液が二人の子宮へと送られる。

さわ子はこれで、都合5人目の精子を受け入れた。

和は、2人目。

それも、規格外の醜男の精液を含めて。

しかし、二人は、今や別の感情に支配されていて、もうその場で深く傷つくことはなかった。

分かりきったことではあるが…

現状は、和が圧倒的に不利な状況にある。

さわ子はもう、ランプがつきるまで、OUTボタンを押すだけでいい。

しかし、和は。残った一つのOUTボタンを使うことで、一回分の精液を減量する事しかできない。

(双方がOUTを押すと、初回同様、半分ずつになるという前提ではあるが、恐らくこの予想は正しいだろう)

「ブー、ブー」

6回目の、ゲーム。本当の意味で、二人にとっての、初めてのゲーム。

ブザーの音。カウントダウン。

そして、ディスプレイに表示された男は、どういうわけか、標準とくらべハンサムな顔立ちをしていた。

ただ、金色の短髪を立て、いくつもピアスをつけた、派手な顔つきで…正直、さわ子も和も、全くタイプではない男性だった。

そして…今、二人にとって最も、危惧すべき内容が、そこには記されていた。



 持病:淋病 

さわ子「…!」

その表示を見て、さわ子は顔をしかめた。

和は、淋病という物がどういう病気か分からなかったが、さわ子の表情を見て、それが何か良くない病気である事は分かった。

しかし、和は、最後に残ったOUTボタンを慎重に使わなければならない。

あと何回続くのか分からないが…最も致命的な病気の時に使用して、その病気にかかる可能性を軽減させる必要がある。

さわ子は、残った4つのOUTボタンに目を落としていたが…ふい、と、顔を上げて、和に言った。

さわ子「…和ちゃん。私はボタンを押さない。あなたは好きにしなさい」

和「…」

和は、力強く、INのボタンを押した。

さわ子「…」

和「…」

和がINボタンを押した理由はいくつかある。

まず、ボタンを押さないと、INとOUTがそれぞれ一つずつ消化されてしまう事。

これでは、せっかく一つ残したOUTボタンが無駄になってしまう。だから、何かしらボタンを押すことは必須だった。

そして、OUTボタンではなく、INボタンを押した理由。

和は、さわ子の発言を聞いて、こう判断した。

「この病気は、大した病気じゃない」


さわ子「…和ちゃん。あなたがどうして、私を疑っているのか、正直、理解できない。私はボタンを押さないわ」

和「…」

さわ子「仮にエイズの患者が出てきても、押さない。さっきも言った通り。これ以降は、何が出てきても、半分こよ」

和「…」

さわ子「…確かに。認めるわ。私、正直、迷った。さっきの男が出てきて、それで、一瞬、INを押すの、躊躇った。OUTボタンを押しそうになった。それは認めるわ」

和「…」

さわ子「だって、分かるでしょ?いきなり、あんなのが出てきたら…私、すごい、びっくりしちゃって。それで、ちょっと、混乱しちゃったの」

和「…」

さわ子「でも、もう大丈夫よ。私は絶対にボタンを押さない。だから、和ちゃん。気が済んだら、ボタン押すのやめて」

和「…」

和は、さわ子の問いかけに、返事を返さなかった。

さわ子は、複雑な表情で、和を見つめていた。

…二人の胸中は、非常に複雑な状態にあった。

和は、さわ子の話が、本当なのか嘘なのか、全く判断がつかなかった。

もともと、信用していた人物でもある。自分が穿ちすぎて、取り返しの付かない行為をしているのではないか、という、後悔の念と。

いやいや、そんなはずはない。さわ子は、自分をだまして、自分にリスクを押しつけようとしているのだ、という、負の感情。

それらがせめぎ合い、結局、和は、自分が今、いったい何をしているのか、直前の決心とは裏腹に、完全に理解できていない状態にあった。

そして、実のところさわ子は、和よりさらに不安定な状態にあった。

端的に言うならば、さわ子は嘘をついていない。

しかし…和に疑われ、そして、予想をさらに上回るリスクを突きつけられ…さわ子は、一言で言うと、文字通り混乱していた。

自分が、今どうすべきか?

教師であり、年長者でもあるのだ。当然、和を庇護し、救うのが役目だ。

でも、その和は、今私に何て言ったんだっけ?

教師であり、年長者であり、そして今の今まで庇護していた私に…和は、いったい、何て言ったんだっけ?



「0:30」

いつの間にか、残り時間はわずかとなっていた。

二人は、無言で見つめ合いながら、時間が過ぎるに身を任せるしかなかった。

現状、和がINを押下し、さわ子は何も押していない。

その結果、恐らく、今回は和に全ての精液が注射されるだろう。

そして、残りのボタンはさわ子がOUT3、和がIN2とOUT1になる。

「0:02」

「0:01」

「ピー」

タイムアップ。

6回目のタイムアップ。

ここに来て初めて、和は、一回分の精液を全て受け入れる事になった。

ちゅうっ、と、管を通って、液体が流れ込んできて…胎内に、ぴゅっ、と、注入され、生暖かい液体で子宮が満たされてゆく…

そして、和自身はそれがどういう病気か分からなかったが、淋病に感染するリスクがあった。

堕胎では払拭し切れないリスクを、初めて背負い込む事になったのは、年長者のさわ子ではなく和だった。

さわ子「…和ちゃん。多分知ってると思うけど、これ、性病よ」

和「…知りませんでした。…お詳しいんですね」

和は、複雑な表情でさわ子に目を向けた。

さわ子は、性病に少しだけ詳しい。

潔癖症で心配性だったさわ子は、性交の度、少しでも身体の異常があるとすぐに病気を疑い、自分で学習して性病の知識を身につけていた。

さわ子「…幸い、女性の場合、すぐに治療すれば、殆どなんの不都合もないわ。…終わったら、一緒に、産婦人科に行きましょう」

和「…」

これは、ポーズだろうか。和には、全く判断がつかなかった。

さわ子が本心から気を遣っているのか、はたまた自分を油断させるためのブラフなのか…和には、全く判断がつかなかった。

和「…お気遣いなく」

さわ子「…」

さわ子が、和に何か言おうと、口を開けた瞬間だった。次のゲームを知らせるブザーの音が鳴り響いた。

カウントダウンが始まり、注射器に精液が充填され、ディスプレイに写真が表示され…もう7度目のそれを、ただ受け入れる。

ディスプレイに写された男は、ごく普通の顔立ちの中年だった。

そして。さわ子がそれを見て、うっと、うめき声を上げる。

 持病:ヘルペス クラミジア 淋病 

さっきの男と同じく、淋病を持ち…しかも、他に二つ、新たな病気を持っていた。



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