始めに感じたのは、異様なまでの全身の倦怠感だった。

ぼんやりとまどろみながら、その少女は、状況が理解出来ず、自分を呼ぶ声に生返事を返す事しか出来なかった。

薄暗い空間。すえた空気。

向かい合って座る誰か。微かに、換気扇の回る音。

向かい合って座る誰かは、何度も何度も、その名前を呼び続けていた。

真鍋さん、真鍋さん、と。

和は機械的に、間延びした返事を返しながら、こぼれそうになった唾液をむにゃむにゃと嚥下した。

さっきからずっと、この繰り返しだったが、和の反応は少しずつ変わり始めていた。

「真鍋さん。真鍋さん!」

意識が覚醒に近づき、和はようやく、自分を呼ぶ声に、明確な応答を返しつつあった。


「…はい…山中先生…」

薄ぼんやりとした意識と視界が徐々にまとまりを帯び始め、和の意識はようやく覚醒しようとしていた。

向かい合って座る、山中さわ子が、身体を乗り出すようにして続けて声をかけた。

さわ子「真鍋さん!よかった。目、覚めた?私、分かる?」

寝起きの億劫な気怠さを振り払うように、和はさわ子に返事を返した。

和「…はい。ごめんなさい、山中先生。私、寝てたみたいで…」

和は、きょろきょろと周囲を見渡しながらそう言った。さわ子がその様子を見て、ふぅっと、安堵のため息をついた。

和「あの、すいません。あの…今、何でしたっけ?」

半分寝ぼけた頭で必死に状況を思い出そうとするが、寝起きのぼんやりした頭では思い出す事が出来ず、何とも間抜けな問いかけをしてしまった。

しかし結果的に、その問いかけは、状況を鑑みると適切なものだった。さわ子は、顔を伏せながら、気まずそうに状況を簡単に説明した。

さわ子「今、その…ごめんなさい。私も、よく、分からないの。学校にいたと思ったんだけど…起きたら、ここにこんな風にされてて…」

さわ子の言葉を頭で反芻しながら、和の意識はようやく、覚醒を迎えていた。

和は、自分が寝ぼけた頭でさわ子と会話をしていた事を思い出し、少し気恥ずかしさを覚えた。

ふわあ、と、大きくあくびが出てしまい、その口元を隠そうとして、手が挙がらない事に気づく。

和「…??な、なんですか、これ」

椅子の手すりに固定された手が、動かそうとする度に、ぎちっとその戒めを主張する。


和「え…え…嘘。何これ」

ぎちぎち、と、腕を動かすが、その戒めは全く緩む気配はなかった。

和の腕は、椅子の手すりに、革製のベルトでがっちりと固定されていた。

両足も同様に椅子にがっちりと固定されており、動かす事が出来なかった。

そこまで把握してようやく、和は、自分が異様な状況に置かれている事に気づいた。

しばらく身体を捩ってみたが、両肘と両手首、太ももとふくらはぎと足首を固定されており、腰と首を捻るのが精一杯だった。

そして…和が、その最も重要な違和感にようやく気づく。

スカートの中から、ひょろっと、2本の透明な管が延びていた。

よく意識を凝らすと、下半身に妙な開放感があり、自分が下着を履いていない状態なのだと、ようやく気がついた。

それに気づいた瞬間、電流に弾かれたようにぎょっとした。

まさか、眠っている間に…!

瞬時に心拍数があがり、和はパニックを起こしそうになったが、さわ子が寸での所でそれを諌めた。

さわ子「真鍋さん、落ち着いて。…その、そういう事は、無かったみたい。ただ、ここに縛られてるだけみたい」

さわ子にそう言われ、和は少し落ち着きを取り戻した。

しかし、じゃあこの管は一体…

ふと、さわ子の視線に気づき、その先を追うと、その先には大きめのビーカーの様なものがあった。

それは黄色い液体で満たされ、スカートから延びた管と、そして何か棒の様な物が浸されていた。

その中に、管からちょろちょろと、新たに液体が排出されて行く。

しばらく不思議そうにそれを眺めていた和だったが、ようやく、それを理解した。

この管は、カテーテルで…このビーカーに、自分の尿が排出されているのだ。

理解した瞬間、羞恥心と、この理不尽な状況に対する憤りで、顔がかあっと熱くなるのが分かった。


和「な、何ですか、これ!な、何なんですか!」

和が感情を爆発させ、思わず怒声を上げる。

さわ子は、真鍋和という生徒が始めて見せる感情的な反応に、思わずたじろぎながら、状況を説明した。

さわ子「…私も、分からないの。目が覚めたら、真鍋さんと一緒に、こうなってて…。ほら、私も…」

ちょい、と、さわ子が顎で指し示す方を見やると、そこには確かに同じようにビーカーがあり、おそらくはさわ子の尿であろう液体で満たされていた。

それを見て、変な話だが、和はほんの少しだけ、落ち着きを取り戻す事が出来た。

訳の分からない状況ではあったが、教師であるさわ子が同じ境遇である事に、少しだけ心強さを感じ、心理的な余裕が取り戻せたからだ。

さわ子「で、こういう状況な訳だけど…。真鍋さん、何か心当たりは…無いわよねえ…」

和は、苦笑しながら問いかけるさわ子に、かぶりを振って返事を返した。

和「…すいません、分からないです…すいません」

さわ子「そうよねえ。ごめんね、別に、謝らなくていいから」

和「あ、いえ…。その、いきなり大声出して、すいませんでした…」

和は、先ほど自分が怒鳴ってしまった事を思い返し、それをさわ子に詫びた。

さわ子は微笑しながら、いいのよ、と言って、その話にピリオドを打った。

少々ばつの悪い状況であったが、さわ子はそれを上手く流して、気まずい空気を払拭してくれた。

和は、彼女の気遣いに感謝した。二人っきりで、さっきの空気のままだと本当に居たたまれない。


和「…さわ子先生。これから、どうしましょうか。携帯、ありますか?」

そう言ってから、この状況で仮に携帯があってもどうしようもない事に気づく。

さわ子はそれに特に追求せず、首を横に振って「お手上げね」と言った。

どうせなら両手を上げてゼスチャーを交えたい所だったが、当然それもかなうべくもなく、二人揃って苦笑するしかなかった。


この状況から考えて、二人は精神状態は、過度に落ち着いていた。

内心はどうあれ、表面上はほぼ普段と同じ状態だったと言って良いだろう。

ひょっとすると、このまましばらく時間をつぶせば、誰かが助けに来てくれるんじゃないか。

その時点では、二人はそんな風に楽観的に考えていた。

お互いに頼りにしている、生徒と教師の関係。なんだかんだで、その二人がこうして同じ場にいる事に、少なからず安心感を覚えていた。

そして、さわ子と和は、クラスの担任と教え子の関係にあったが、思い返してみれば深い交流があった訳ではない。

お互いに、一定の信頼を置きながらも、親密な接触を意図的に避けて来た節がある。

コミュニケーションをとる、良い機会かもしれないと、お互いそんな風にぼんやりと思っていた。

和「先生。これ、なんなんでしょうか?ここ、学校でしょうか?」

さわ子「いやもう、さっぱり。それより、さっきから頭が痒いんだけど、どうすればいいのかしら?」

この状況にありながら、二人は軽口を叩きながら談笑する程の余裕があった。


そんなやりとりの中でも二人は、状況を把握するべく周囲を観察していた。

だいたい4畳くらいの、正方形の部屋で、真ん中に陣取った横長で背の低い机に、二人は向かい合って座っていた。

二人の状態は前述の通り。手足を椅子と机に固定され、重厚なそれらは身体を揺すってもびくともしない。

要するに、身体を完全に拘束され、全く身動きの取れない状態だった。

そして。下着を脱がされた状態で、透明な管がひょろっと股から伸び、それは机の上に置かれたビーカーに尿を排出していた。

…管が二本あったが、二人ともその時は特に気に留めなかった。その時は。

机の上には、ビーカーと、机に備え付けられた注射器の様な物と、あと真っ暗なディスプレイ。それに、電池の切れた液晶の時計が置いてある。

薄暗いため、細部はよく見えなかったが、他にはこれといった物は置かれていないようだった。

そして、手元に、ボタンがあった。

ベルトで両手をがっちりと固定した手すりには、何か、クイズ番組の様なボタンが備えてあり、それぞれの横に5個ずつランプが点っていた。

それぞれ、IN/OUTの表記があったが、何を意味するか分からなかった。それらのボタンに手を添えるように固定されており、押下可能な配置になっていた。

机の上に雑然と配置されたそれらに、二人はなんとなく不吉な、不気味な予感を感じざるを得なかったが、二人は努めて気にしないように、無意識的にしていた。




二人は、冷静に、取り乱す事無く、時間をつぶしていたが、しかしそれも二人の忍耐力の限界によって徐々にほころびつつあった。

少しずつ、口数が少なくなってゆく。表情に陰りが見え始める。

時間の感覚がなく、定かではないが、30分以上こうしていただろうか。しかし、全く何の進展もなかった。

やはり、このまま待っていても、助けなんて来ないんじゃないか?

何か行動を起こすべきなんじゃないか?

二人の意識は、徐々にそうベクトルを修正しつつあった。


さわ子「…」

…さわ子は、ひとつだけ、和に話していない重要な事項を隠し持っていた。

普通なら、真っ先に確認すべき事ではあったが…しかしさわ子は、躊躇っていた。

その話をすれば、流石の和であっても、動揺を抑えきれないだろうから。

不用意に、彼女を不安にさせるだけではないのか?

このまま不用意に不安を煽らず、談笑しながら助けを待つべきじゃないか?

そう考えると、この話を切り出すのは、酷く不適切に思え、なかなか切り出す勇気が持てなかった。

…しかし、とは言え。状況を進展させる為に、その確認は必要だった。他になんの情報もなく、自体が好転する気配が無い以上。

さわ子は、意を決して、その話を切り出した。

さわ子「…あのね、真鍋さん。その、ビーカーに棒が入ってると思うの。それ、見てくれるかしら?」

きょとん、と、首を傾げる和だったが、従順にその問いかけに答える。

和「はい、入ってますが…なんですか、これ」

さわ子「…あのね。真ん中の所に、丸いくぼみがあると思うんだけど。そこ、何か出てる?」

和「…?はい、横線が入ってますね。…あ、こっち?終了?に、丸がついてます」

それを聞いてさわ子は、ああやっぱりか、と思った。

自分と和は、全く同じ条件で、ここにこうして拘束されているのだ。

本来なら。

和は年端も行かない少女であり、この事を打ち明けない方が、多分事はスムーズに進むはずだった。

しかし…真鍋和は、とても利発で頭の良い生徒だった。

成績優秀で、生徒会長も勤め、教師からも生徒からも人望の厚い、まさに絵に描いたような優等生だった。

そして、歳不相応な落ち着きもあり…だからさわ子は、彼女ならきっと、冷静に現状を理解し、冷静に対処が出来ると考え…その事を、打ち明けた。

さわ子「あのね、それね、排卵検査薬なの」

和「…はあ。…え?排卵?」

きょとんと、問いかける様な視線をさわ子に向ける和。その視線を避けるように視線を伏せながら、さわ子は続けた。

さわ子「排卵日ってわかるわよね?私たち、その排卵日検査が、陽性なの」

和「え…。え…。それって、どういう事ですか…?」

その意味が、和の脳に浸透し…

はあ、はあ、と、和の呼吸が荒くなるのが分かる。

さわ子は、その様子を見て、しまった、と思った。

和「先生…それって、もしかして…」

さわ子「真鍋さん。落ち着いて」

目に見えて動揺する和を諫めながら、さわ子は後悔していた。

やはりこれは、打ち明けるべきではなかったのだ。別にこの事を知っていても知らなくても、きっと状況は変わらない。

不用意に、和の精神をかき乱しただけだった。



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