(……!?)

 間違いなく、この感覚は、現実のものだ。
 今まで漠然と感じ、それとなく受け流していた時とは感覚の度合いが違う。
 居もしない誰かが、そこにいる。
 それをはっきりと感じとり、少し体がぐらついた。

「聡くん!?」

 鈴木が倒れかけた俺を助けるために、走ってきてくれるけど、その時には俺はもう――

――さ、行くぞ!

 全てを、思い出していた。
 あの日の出来事、あの時の言葉、あの頃の「誰か」――

「……ごめん、鈴木。大丈夫だよ」
「そ、そう……?」
「ああ」

 まだ不安そうな鈴木を鼓舞するために、思い出した自分を誇るために――

「もう、大丈夫だ」

 その後、家に着いた俺は、夕飯を食べ、風呂に入り、姉ちゃんと駄弁り(お茶会、まあまあ頑張って! って締めといた)自分の部屋で寝転がっていた。
 さっき思い出したことは、そこまで大それたことじゃない。だから、家に帰ってからは、普段通りに過ごしてこれた。
 けど、特別なことであることは間違いなくて――

――プルルルル

 ケータイが、鳴った。なんとなく、誰からか分かった。
 けど、一応確認。うん、やっぱり。

「はい、もしもし」
「……聡か?」

 予想通りの、トーンが低い不安そうな声。けど、何度も何度も聞いてきた声。

「うん、そうだよ。って、俺のケータイにかけてきてるんだから、俺しかいないよ」

 なんとなく、和ませようとそういうことを言ってみる。
 電話の向こうで、軽い笑い声が漏れるものの、やっぱりどこかぎこちない。

「で、どうしたの、澪姉?」

 何となく、わかっていた。このお茶会というイベントの前。そして、最近の出来事。
 そして――

「私は、聡の、なんなんだろう?」
「……それ、聞きようによっちゃ、凄く誤解を招く言い方だよ?」

 半ば笑い、半ば呆れながら、そう返す。
 俺がそう指摘すると、予想通りというべきか、澪姉が動揺する様子が分かった。

「ち、ちが、そういう意味じゃなくて――」
「だから、『聞きようによっちゃ』って言ったんだよ?」

 ああ、電話の向こうで、きっと顔をめちゃくちゃ赤らめてるんだろうな。
 だって、まだゴニョゴニョ言ってるし。

「あ、あの、つまりだな――」

 ようやく少し調子を取り戻した澪姉は、そう気を取り直して、言う。

「私は、今まで何度も聡に頼ってきた。やっぱり、今回だって不安なんだ、でも――」

 そこで、言葉を途切らせた。
 大体、言いたいことはわかる。
 今まで、澪姉はこういうイベントの前に、俺に電話をかけてくることが度々あった。
 たとえば、1年生の頃の学園祭。初めて大舞台で歌わなければならないという状況になって、澪姉は本当に緊張していた。今思い出しても、痛々しいほどに。
 結果的に、それは成功した(一つのハプニングを除いて、だけど)。
 なんで姉ちゃんじゃなくて俺に、なのかというと、姉ちゃんと話す時とは、また違った視点からものを言ってくれるからとかなんとか。
 とはいえ、理由はいらなかった。普段から、何かと一緒にいることが多い俺たちは、互いに助け合ってきたからだ。
 普段から、年上として威厳ある振る舞いをしたいと思っているらしい澪姉からすると、俺に相談するというのは相当抵抗があるんじゃないか、と俺は思う。けど、心構えとかそういった何もかもを放り出させるほどの緊張感を覚えてしまうんだろう。人前に出るのが苦手という澪姉にしてみれば、特に。

「でもそれは、普段から私も聡も互いに助け合ってるからいいんじゃないか、っていう甘えから来てたと思うんだ」

 そう、思ってたんだろう、今までは。
 あのアルバムの一件が、あるまでは。
 あの時、澪姉はなんとも気が晴れない表情をしていた。
 姉ちゃんとは違い、物事を良い意味でも悪い意味でも深く考える澪姉は、今回は悪い方向に自分を追い込んでしまったんだろう。

 自分は、友人の弟の、なんなのだ、と。

「……私ばっかり、聡に、甘えてる」

 ポツポツと、言葉を区切りながら、自分に確認するようにして、澪姉は言う。
 それはまるで、自分を責めているかのようにも聞こえる、どこか痛々しい響きを伴っていた。
 俺は、もう少し聴いて、その上で澪姉の言葉に応えようと思っていた。
 けど、もうそろそろ、我慢できない。

「あのさ、澪姉。ちょっといい?」

 俺は、出来る限りの優しい声で、澪姉に訊く。
 電話の向こうで、きっと悲しそうな表情をしてるであろう、澪姉を思い浮かべながら。

「まずさ、澪姉がいつも俺に甘えてるって言うけど……それは違うんじゃないかな」
「……え?」

 その言葉に、キョトン、とする澪姉。
 俺は、教師が生徒に教え諭すような、どこかゆったりとした口調を意識する。

「この前のこと、覚えてる?」
「この前、って……?」
「姉ちゃんが元気無かった時のこと」
「……ああ」

 俺が重ねて説明すると、澪姉は納得した様子だ。
 その様子に満足して、俺は一息に言う。

「あの時、澪姉は俺の相談に乗ってくれた。姉ちゃんがどうして落ち込んでいるのか、それに対して俺がどう接すればいいのか、いろんなことを教えてくれた。そんな澪姉に、俺は……甘えてたんだと思うよ?」
「で、でも!」

 俺が息継ぎをする間もなく、澪姉が疑問の声を上げる。

「それは、当然のことだ! 私は、律の友達で……聡の……」

 聡の、と言った後、黙り込んでしまう。
 きっと、この次に言うべき言葉を、思いつけなかったんだろう。
 でも、仕方のないことなんだろうと思う。それが分からないから、澪姉は俺に電話をしてきたわけで、それが分からないから――


「……俺たちが初めてちゃんと話した時のこと、覚えてる?」

 だから――俺は切り札を使う。
 きっと、通り一遍の慰め文句は、今の澪姉には通じないだろう。
 もしかしたら、余計に悩みを深める結果に終わりかねない。
 だったら――

「そ、それは……覚えて、ないな。だって、私には……あの写真がいつ撮られたのかすら」
「思い出したんだ」

 澪姉の疑念を払拭するために、俺は心持ち、声を大きくする。
 あの時のことをどう話せばいいか、頭の中で瞬時に思考。
 そして、言葉に乗せる――。

「あの日は晴れてたからさ。つい――」

 0.99…/

 燻ってたいた。
 言いたいことも満足に言えないで、いつもいつも甘えてばかりの自分に。
 誰かの背中に体を預けて、自分は何の主張もしないで、漫然と送るだけの毎日。
 そんな、日常に――。

「……あれ?」

 ふと、歩いてきた道を振り返る。
 おかしい。自分が知ってる建物が一つもない。
 再び、前を向く。
 これまた変だ。自分はどこに向かおうとしてるのか、全く分からない。

「……どうしよ」

 ボソッと口から漏れ出た言葉は、そのまま少年の本心だった。
 少年は、まだまだ小さい。家には、少年よりもよっぽど活発で、誰とでもすぐ打ち解けられるような性格の姉がいる。そんな姉と比べたら、自分なんて――。

「……」

 暗澹とした気分になりながら、少年はゆっくりと前に向かって歩いていく。
 どうにでもなれ、そんな投げやりな思いもあった。
 別に、誰からも、「お前は姉より、劣っている」なんて言葉を投げつけられたわけじゃない。
 少年の母は優しく、父は大らかな人で。
 姉は少年のことをとても可愛がってくれて――。

「……姉、ちゃん」

 姉のことを思い浮かべ、ふと声に出してみる。
 それにつれて、ようやく自分がどこに来たのかを知った。
 少年の前には、木製のベンチ。
 ここに来るまで、周りが見えてなかった。
 けど、来てみると、誰かに導かれるまま来たような……。

「……」

 無言で、ベンチに座り込み、体を預ける。
 何とはなしに、園内を見渡してみるものの、やっぱり自分がどこにいるのかは全く分からない。
 けど、何となく安心していた。まだ、明るいからだ。
 少年は幼く、まだまだ臆病で、真っ暗闇では怖くて泣きべそをかいてしまい、姉にとびついてしまう。
 けど、まだまだ明るいし――

 ――おねえちゃーん、待ってー!
 ――あ、ごめーん!
 ――おねえちゃん、速いよー
 ――えへへ、ごめんごめん。そーだ、おわびにアイスを……
 ――ホント!?
 ――うん、だって、おねえちゃんだもん!
 ――うわー、ありがとう! おねえちゃん、大好き!

「……」

 少年がベンチから外を眺めていると、2人の少女が公園の脇を通り過ぎていくのが見える。
 2人ともとても仲が良さそうだった。口ぶりからすると、おそらく姉妹だろう。
 お互いに、笑顔で。とても、楽しそうで。
 そんな2人の姿は、少年に、姉とその友達の姿を想起させた。

「うう……」

 今の自分には、眩しくて届きそうもない、そんな雰囲気。
 自然、そんな少年の口から、呻き声のような、言葉にならない気持ちが漏れる。
 分かってる。こんな、コンプレックスを持っていたってなんにもならないことくらい。
 もちろん、少年はまだまだ幼く、「コンプレックス」なんて言葉は知らない。
 けれど、何となく姉に対して、「自分はああはなれない」と諦めにも似た気持ちを抱いていた。
 だって、自分から動くことなんて、考えることすら恐ろしい。
 だから、いつも受け身で生きていく。それで、いいんだ。
 いいんだ――


――カーンカーン
 鐘の音が鳴り響く。
 少年は、まだ時計の読み方を知らない。だから、母の、「この鐘が鳴ったら、帰りなさい」という言葉だけが頼りだった。
 けれど、少年は動けない。帰りたくないし、帰れない。
 気づくと、周りは徐々に暗くなっていく。
 春の終わりのこの時期は、夏に比べたら陽が落ちるのがめっぽう早い。
 辺りが暗くなっていくにつれ、少年の心にも暗雲が立ち込めていった。

「うええ……」

 少年の呻き声が、次第に泣き声に近いものとなっていく。
 取り返しがつかない――そんな気がした。
 夕日が顔を出し、道も分からない。
 自分には何にも分からない……。

「うえええええ」

 次第に、嗚咽が大きなものとなっていく。
 分からない。道も分からない。自分のこれからも分からない。
 もう――なにも。


「見つけた!」


 少年が頭を下げて泣きじゃくっていると、声が聞こえた。
 聞き覚えのある、凛とした声。
 顔を上げると、そこにいたのは――

「良かったー。ほら、帰ろう!」

 その人は、快活に少年に声をかける。
 けれど、少年は困惑しきっていた。
 なんで、この人がここに? そして、なんで自分に話しかける?
 きっと、怯えてもいたんだろう。次に、少年が口にした言葉は――

「ど、どうして?」

 自分にとっても、多分相手にとっても、難しいものだった。
 何が「どうして?」なのか。
 どうして、この人は自分の居場所が分かったのか?
 どうして、この人が自分を迎えに来てくれたのか?
 きっと、言葉に出来ないけれど、そういうことだった。

 その人は、少年の言葉を別段意に介した風もなく、にっこりと笑いながら

「さ、行くぞ!」

 何の躊躇いも、衒いもなく、少年に手を差し伸べた。

「みんな、心配したんだぞ」

 帰り道、心配半分、からかい半分といった声音で、その人は言った。
 少年はとぼとぼと、その人はてくてくと、対照的な足取りで家路を進む。
 無言の少年を気遣うように、少女はたくさん話しかけてきた。
 少年のこと、少年の姉のこと、そして自分のこと……。

「きみのお姉ちゃんは、凄い人だよ」

 色々な話をした後、その人はどこか誇らしげに、少年の姉について話し出した。

「私、ちょっと前に、みんなの前で発表することがあったんだ。その時、すっごく緊張して……そんなとき、きみのお姉ちゃんが――」

 少年がきょとんとする中、その人は面白そうに、懐かしむように話す。
 自分の練習に親身になってくれたこと、どうすれば緊張しないようになるかアドバイスをしてくれたこと……。

「だから、私はきみのお姉ちゃんが好きだ。そして――」

 そこで、少年の目をじっと見つめ――

「きみのことも、大事に思ってる」

 それは、とても愛おしそうな表情だった。
 少年は、その表情を見ながら、とくんと胸が脈打つのを感じた。

「あ、そろそろ見えてきたぞ」

 その後、歩いていると、その人はそう言った。
 少年が顔を上げると、なるほど、もうそこは見慣れた風景だ。
 自分の家までは、もうそんなに無いだろう。
 歩いていく中で、家の前に、自分の姉と母親がいるのが見える。


「ああ、良かった……」

 母親は、静かに少年を抱きしめた。
 少年が家に着くや否や、彼女はすぐさまその前に来たのだ。
 そんな2人を、笑いながら見守る、姉とその友人。

「ありがとな。本当に、助かったよ」
「いやいや。無事で、良かった……」

 少年の姉がお礼を言うと、友人は照れくさそうに笑みを深くした。
 そんな姉の友人を、少年は抱きしめられながら見る。
 以前とは全く違った感情を、今、自分は抱いている。

「一応、カメラ持って行ったんだけど、使うことが無かったな」

 その人は、ポケットからカメラを出して、苦笑する。
 カメラといっても、インスタントのものだ。
 小学生なりに、もしもの時のことを考えていたのである。

「もしもって言っても、どういう時に使うんだよ?」
「いや……もし、行方不明になってたりした時、証拠を撮るために」
「……ドラマの見すぎだ!」

 お互い、笑いながら、ボケと突っ込みをしている。
 といっても、姉の突っ込みに対し、その人は本気でボケてはいなさそうだけど。

「……あ、そうだ!」

 名案を思いついたとばかりに、姉が言う。
 その時にはもう、少年は母親の腕の中から出てきていた。

「せっかくカメラがあるんだし、記念撮影しようぜ!」

 名案とは、つまり撮影のことらしい。
 何が、「記念」なのかはよく分からない。けど、何となく「めでたい」んだろう。

「そうだな、そうしようか」

 その人も、どこか乗り気だった。
 母親も、どこか楽しそうにそれを眺めている。

「じゃあ、3人で撮ろうか! 母さん、よろしく――って、あれ?」

 姉が母親に頼もうとして、きょとんとする。
 というのも、さっきまで母親の近くにいた弟がその姿を消していたからだ。
 どこに行ったのか、またどこかへ行ってしまったのか。
 ちょっと、焦燥に駆られた。一体、どこに――

「――が、いい」

 しかし、その心配は杞憂に終わった。なぜなら、近くから、弟の声が聞こえてきたからだ。
 けれど、なんて言ったのかは分からない。また、正確にはどこにいるのか、分からない。
 弟の方へ顔を向けると――

 そこには、意外な光景があった。

 「あの」弟が、姉の友人に、自分から近寄っている。
 仲良くしたいと思いながら、自分から近づくことはできなかったはずの、弟が。
 友人も、母親もどこか驚いた様子を隠せていない。
 そんな友人の近くで、弟は――

「澪姉ちゃんと一緒が、いい」

 自分の気持ちを、はっきりと伝えた。

 その人は、聡と目線をしっかりと合わせる。
 そして、満面の笑顔で、少年と向き合って――


「いいよ、2人で一緒に撮ろう、聡くん」

1/

「――わ、私がそんなことを?」

 話し終えると、澪姉は分かりやすいほどに動揺していた。
 疑問に思っているらしいけど、全部本当のことだ。
 1度思い出した記憶は、意外と当たっているものだし。
 それも、自分が温かくなった思い出なら、特に。

「うん、ホントだよ。澪姉」
「で、でも! 私が聡に、そんな――」

 その後、ゴニョゴニョと口ごもる。
 多分、自分がそんなに積極的に、話しかけたのだろうか、という疑問だと思う。
 けど、俺には、何となく分かっていた。

「きっと、澪姉は、責任みたいなものがあったんじゃないかな? 昔から、責任感、なんだかんだで強かったでしょ? だから、きっと――」

 自分の友人の弟を、守ってあげないと、と。
 そう、思ってくれたんじゃないか。
 だとしたら――

「今の俺がいるのは、澪姉のおかげなんだよ」

 だとしたら、なんて嬉しいだろう。
 あの日から、俺は多分ちょっとずつ、けれど確実に変わっていった。
 姉ちゃんを見習って、自分から動いていこう、と思うようになっていったのだ。
 その後押しをしてくれたのは、やっぱり、今電話の向こうで話を聴いてくれてる人で。
 俺は、その人への感謝を、ありったけ込めて、言葉に乗せる。

「ありがとう、澪姉ちゃん」

「は、ははは」

 俺が言うと、澪姉は笑いだした。
 それも、自嘲めいたものじゃない。ちゃんとした、快活な笑い声だった。
 その声は、しばらくの間、途切れることは無かった。
 俺は、それを心地よく聴く。

「……審査」
「えっ?」

 笑い声が途切れると、澪姉が何か言った。俺はわからず、訊き返す。

「ほら、律の料理審査。私も参加して、いいかな?」
「俺はいいんだけど、いいの? 家族みんないると思うけど……」
「いいんだ」

 澪姉は、とても楽しそうに――


「聡と律と、一緒にいたいんだ」

 ここから、後日談。
 お茶会は成功を収めたらしく、姉ちゃんも澪姉も上機嫌が続いている。
 俺はというと、そんな毎日を楽しんで過ごしている。
 あの日のことを思い出してからというもの、澪姉や姉ちゃんと一緒にいられる時間が楽しくて仕方が無いのだ。
 毎日の登校が楽しくて、時々うちに来る澪姉と話すのが面白くて――

「……聡ー! 澪ちゃんが来てくれたわよー!」

 俺が2階で漫画を読んでいると、下から母さんが呼んでくれた。
 「はーい!」と返事をして、漫画を片づけ、部屋のドアを開ける。
 今日は、姉ちゃんの料理審査日。お小遣いがかかっているということもあってか、姉ちゃんは真剣だった。
 俺は、姉ちゃんにアドバイスだけはしてあげた。後は、姉ちゃんに任せた。
 というのも、自分自身の力で、俺たちをあっと言わせてほしいから。
 そんな姉ちゃんで、あってほしいから。

 俺は、ドアを開け、階段を降りながら、考える。
 最初は「0」から始まった俺たち。
 けど、それは一つ一つの積み重ねで、「1」になった。
 自分の力もあったはず、なんだろうけど――

「よっ、聡!」
「おっす、澪姉!」

 きっと、それは、姉ちゃんとこの人のおかげ。
 目の前にいるかけがえのないもう1人の姉を、俺は満面の笑顔で出迎えた。


 第5話「思い出!」おしまい――

……………
………

?/
「……」

 何とはなしに引っ張り出してきた、アルバム。
 それを眺めながら、どこか物悲しい思いを抱いていた。
 写真の中の私は、うん、ちゃんと笑っている。
 このときも、このときも……つい、最近も。
 対して――

「……」

 なんで、こんな表情なのか。
 昔は、こうじゃなかったはずだ。見直してみても、笑顔の写真が目に入ってくるのに。
 このときだって、このときだって……けど、最近は?

「どうして……?」

 自然、口から漏れ出る言葉。悲しいというより、どこか寂しい響き。
 いったい、どうして――


――ガチャッ!

 ドアが開く音が、聞こえた。
 マンション住まいだと、聞きたくない音まで聞こえてしまう。
 今、私は、アルバムを見なおして、過去に浸りたかった。
 けど、それは逃げなのか――?


 ただいま。おかえり、部活お疲れ様。うん、ありがとう。ご飯、どうする?後で、食べる。そう、分かった。
 耳を、言葉が素通りしていく。自分の部屋は、玄関から近い方にある。
 今日も私は、「何か」を求める。けれど、それは、足早に進んで消えていく足音に掻き消された。

「……はあ」

 いつものことだ。もう、慣れきっている。
 あっちからこっちに向けて、何か求めてくれたことは、最近一度でもあっただろうか?
 けど、いつまでも沈んでいるわけにはいかない。私は、いつも通り立ち上がり、部屋を出て――

「おかえり、お姉ちゃん!」

 声をかける。ちなみに、部屋に入ってしまう前、というタイミングが重要だ。

「……ただいま」

 一拍置いて、私の方に顔を向けて、挨拶を返す。
 いつも通りの、無機質な声。決して冷たいわけじゃないけど、温かくもない声。
 それに構わず、私は話す。

「あのさ、今日、宿題出されたんだけど、ちょっと分かんないところがあって! できれば、お姉ちゃんに教えてもらいたいかなー、なんて――」
「ごめん、さくら」

 私が話し終えるタイミングを見計らって、お姉ちゃんが掻き消すように言う。
 これまた、決して荒ぶった声じゃない。けれど、優しいというわけでもない。
 淡々と、無表情に、言葉を続ける。

「今日、私、やらなきゃいけないことがあって。最近、部活が忙しいから、ちょっと……」
「あ、そうなんだ……うん、分かった! お姉ちゃん、ガンバ!」

 私は、内心の落胆を悟られないように、自分を奮い立たせるように、声を出す。
 そして、自分の部屋へと引っ込んだ。

「……今日も駄目だったかあ」

 ボスン、とベッドにダイブする。
 分かっていた。なんとなく予感めいたものがあった。
「今日も駄目だろうなあ」と。
 けれど、縋りたかった。あるのかないのか分からない可能性に、賭けたかった。

「……田井中くん、かあ」

 自分の口からなんとなく出た、1人のクラスメイトの名前。
 ここ最近、学校外で彼を何度か見かけた。
 一回は、商店街で。彼は、黒髪の美人さんと一緒に、買い物に来ているようだった。
 私は、彼の近くを通って、軽くからかってやろうと思った。けれど――

―― 一応、姉ちゃんだし。

 この言葉を聞いて、とても悲しくなってしまったのだ。
 私は、かけようとした言葉を飲み込んで、彼のそばを足早に通り過ぎた。
 また一回は、街中で。
 彼は、友達の、同時に私のクラスメイトの鈴木くんと一緒に歩いていた。
 私は、今度は二人一緒にからかってやろうと、声をかけようとした。
 けれど、その時の話題は、またしてもお姉さんのものだった。
 いたたまれなくなって、これまた足早にその場から逃げた。

「……何してんだろう、私」

 ゴロン、と寝がえりを打つ。
 自分は、こんなにも脆くなっていたのか。
 私だって、昔は――少なくとも、心の底から笑顔でいられたあの頃は――

 名字で呼ばれたくない理由が、一つだけある。
 私は、私だ。もう、誰かに寄りすがって生きていたいとは思ってなくて――
 独り立ちしたい、という子供っぽい欲があるからだ。
 もう大丈夫だ。お姉ちゃんに頼らなくたって、生きていける。だから、もう――


 寝転んでいると、机上の写真立ての中にある写真が見えた。
 ぼんやりと見て、じんわりと胸に沁みる。
 2人とも、掛け値なしの笑顔をしていて、私は――

「さくらー、お風呂入りなさーい!」

 お母さんが私を呼ぶ声がする。
 私は、少し出そうになった涙を振り切って、「はーい!」と大きな声で返事をする。
 ベッドから起きて、部屋を出る。
 頭の中で、写真の下にある文字を読みながら、ドアを開ける――


 いちご(小5)進級、さくら入学記念


「もう一つの思い出」おしまい――