0/
――誰かが、いる。

ぼんやりとした視界の中で、最初に思ったことだ。
普段、日常生活を送っているときは陥ることのない、この感覚。
そのせいか、この風景も、自分が見ているはずなのに、どこか他人事めいて見える。
けれど、少しずつ、少しずつ……。
池に投げられた石が波紋を呼び起こすように、視界が段々とはっきりとしてくる。
そして、その波紋が引いていくとともに――。
ようやく、その「誰か」が視界の中ではっきりと形をとった。

小さい子供、だった。
短く刈り上げられた髪、特撮ヒーローの姿が載っているTシャツ、紺色の短パン……という特徴を鑑みるに、どうやら男の子らしいということが分かる。
けれど、そんな活発そうな印象を与える服装とは裏腹に、男の子はとても悲しそうな表情を浮かべていた。
そして、視覚がはっきりとし、それに続くようにして聴覚が鮮明になったと同時に――

男の子が、大声で泣き始めた。

俯瞰しているだけのこっちですら悲しい気分にさせる、大きな泣き声だった。
遠くにいるはずなのに、近くにいるような……そんな倒錯した気分にさせられるほどの。

――手を、貸してあげよう。

全く、何の躊躇も衒いもなく、そう思った。
今、自分はこの男の子の近くになんておらず、遠くから見ているだけの存在なのだ、と
そう、漠然と認識しているのにも関わらず、だ。
最初にはあったはずの、他人事めいた感覚は、もはや完全にその姿を消していた。
その子に向かって、安心を与えるように、ゆっくりと手を差し伸べていき――

1/
「……」

 俺は何をしているんだろう。
 カーテンの隙間から差し込んでくる日の光から、今は朝だということは分かっている。その光につられるように、けたたましく鳴り響く目覚まし時計に引っ張られるように、俺の目が覚めたことも。
 けれど――

「なんで、腕が……?」

 いまだ横になりながら、訝しむように、首を捻る。
 自然にベッドに置かれている左腕とは対照的に、右腕が不自然に眼前へ突き出ている。
 そしてそれは、天井に向かって、まっすぐに伸びていた。

「……まあ、いいか」

 とりあえず、細かいことは気にしないでおこう。
 幸い、右腕も左腕も、痺れているということは無さそうだし。
 うーん、と置かれていた左腕と、すでに伸びていた右腕を組んで、大きく伸びをする。
 そして、のそのそとベッドから出て、部屋にある制服に着替えた。
 それが終わると、机の上にある鞄を抱え、ドアの前まで移動する。

「さてと、朝ごはん、朝ごはん」

 そう独りごちながら、廊下に出ようと、ドアのノブに手をかけて――

――手を、貸して……

「……?」

 気付くと俺は、ノブから手を離していた。
 別に、怖いわけじゃない。それに、辛いわけでもない。
 けれど――

(なーんか、モヤモヤすんだよなあ……)

 俺がノブに手をかけたり、離したりしていると――

「聡ー! とっとと、朝飯食わないと、遅刻するぞー!」

 階下から大声が響いてきた。
 そろそろおしとやかさというスキルを身に付けた方が良い年頃なのにも関わらず、こんな大声をあげてくる奴はこの家には一人しかいない。そんな声の主に――

「今行くー!!」

 俺も大声で返事をした。

「いただきます!」

 俺が食卓につくと同時に、朝食が始まった。
 今日は、久しぶりの家族4人での食事だ。
 目の前には、日本の朝食の見本とも言うべきラインナップ(焼き鮭、味噌汁、ご飯)が並んでいる。

(……うっ、やっぱり、旨いな)

 味噌汁を啜り、鮭を口に運び、ご飯をかきこみながら、俺は驚嘆する。
 毎度のことながら、母さんの料理はどれも天下一品だ。
 俺もそこそこ料理は頑張っているつもりだけど、なかなか母さんには追いつけない。

「母さんって、ホント料理が上手だよね」
「ふふっ、ありがと、聡。でも、聡のつくる料理も、おいしいわよ」
「いやいや、それでも、まだまだ母さんには追いつけないよ。特に、この味噌汁のダシときたら……」
「あら、嬉しいことを言ってくれるわね。今度、お小遣いあげようかしら」

 相変わらずの穏やかなのんびりとした言葉の中に、なにやら嬉しい単語が入っていたような……朝からついてるなあ。

 俺がしみじみと嬉しさを感じていると――

「な、なあ、母さん! この鮭すっごく美味しいぞ!!」
「あら、りっちゃんも? 具体的には、どんなところが?」
「そ、そうだな……こ、この焼き加減とか!」
「ふふっ、りっちゃんも嬉しいことを言ってくれるわね。じゃあ、りっちゃんにも……」

 その後に続くであろう言葉に、姉ちゃんが期待しているのがよく分かった。
 ここまで思惑が分かりやすいことも、そうそう無い。
 やれやれ、相変わらず調子の良いことで……。

「……けど、やっぱりあげなーい」

 俺がため息をつくと同時に、母さんがそんなことを言った。
 俺も驚いたけど、一番分かりやすく反応したのは、当然のごとく姉ちゃんだった。

「ええー!! どうして!?」
「だって、りっちゃん、骨の取り方が綺麗じゃないんだもの。そんな食べ方じゃあ、いいお嫁さんになれないわよ?」
「くっ……い、いいじゃん、私、別に結婚する予定ないし!!」
「あら、そうなの? この前、りっちゃんの部屋をお掃除した時、何やら面白いマンガが……」
「そ、それとこれとは話が別ー!!」

 母さんの指摘に、姉ちゃんが顔を真っ赤にして、首をぶんぶんと振る。

 ……そのマンガが、とあるカップルが波乱の末(よくある、三角関係だったり、立場の違いだったり)遂に結婚に至り、ハッピーエンド! という話だったら、前に俺も読んだことがあるなあ。ついでに、顔を真っ赤にして、じっくりと読んでいる姉ちゃんの姿も、よく覚えている。
 そんなネタを思い出し、俺も母さんのからかいに続こうと、声を出そうとしたとき――

「おいおい、母さん。そこらへんにしといてあげなさい」

 声が、聞こえた。穏やかで、けれどどこか深みのある、そんな響き。
 説明するまでもなく、父さんのものだ。顔をそちらに向けると、人を安心させるようなほほ笑みを見せる、父さんがいた。

「……まあ、とりあえず、律の『結婚しない』発言には目を瞑るとして」

 姉ちゃんの方へ顔を向け、少しからかうような笑みを浮かべてみせる。
 姉ちゃんときたら、いまだに顔が赤い。
 ……そういえば、いつだったか、俺と映画を観に行った時もこんな感じだったっけ。
 結構、付き合いネタに弱いのかな? 

「けれど、律だって料理が出来るようになってきたんだろう?」

 表情に少しだけ含まれていたからかいを消し、穏やかさ100%のほほ笑みを姉ちゃんに向ける。

 それに対し、姉ちゃんは、恥ずかしそうなどこか誇らしそうな口調で、

「うん。ちょっと、だけど」
「だったら、今度僕たちにもつくってくれないかな? 律の手料理を食べたことがない」

 姉ちゃんにそう言うと、笑顔のまま母さんに顔を向け、

「母さんも律の手料理が美味しかったら、お小遣いを渡してあげたらどうだい? 審査員は、もちろん家族全員で」

 そんな提案をした。どこかいたずらっ子のような表情を浮かべながら、だ。

「……そうね、そうしましょうか」

 父さんの提案に、少し考える素振りを見せると、母さんがそう言った。
 俺も、母さんに賛成するように、頷いた。

「じゃあ、りっちゃん。そういうことで、いいかしら?」

 母さんが姉ちゃんに確認すると、

「うん! 最高の料理を作るからな!」

 満面の笑顔で、力強く頷いてみせた。
 そして、その表情のまま、父さんに、「ありがとう!」と言うと、父さんは満面の笑顔でそれに応えた。

(……やっぱ、すげえなあ)

 俺はしみじみとそう思う。なににって? 父さんと母さんの、懐の広さに、だ。
 惜しむらくは……

「なんで、姉ちゃんは母さんに似なかったんだろう?」
「なんで、聡は父さんに似なかったんだ?」

 お互いにそう言って、睨みあうこと数秒。そんな俺たちを、母さんと父さんは笑いながら見ていた。

「おいおい、律。それは負けられないじゃないか」

 登校の道すがら、笑いながら、澪姉が面白そうに言う。
 今朝の食卓での出来事を、姉ちゃんが澪姉に話したのだ。
 ちなみに、澪姉とはもはや家族ぐるみの関係と言っても何ら差し支えのない(お互いの両親、公認)関係なので、こういう、ある意味でプライベートな話もちょくちょくする。

「そうなんだよ。だから、絶対もらう!」

 力を込めて言い放ち、姉ちゃんが空に向かって拳を突き出す。
 道行く人が何やら驚いてる様子だから、やめてくれって。

「というわけで、聡! 今日から料理の特訓だ!」

 ポーズを取り終わった後、今度は俺を指さし、力強く言う。
 一体なにが「というわけで」なのか、さらに言えばなんで俺が駆り出されなければならないのか、色々と言いたいことはあるものの、とりあえずその場は、適当に「はいはい」とあしらっておいた。どうせ、家に帰ったら忘れて、のほほんとしてる様子が目に浮かぶ。

「それじゃな、聡」
「授業中、寝るんじゃないぞ、聡!」
「ありがと、澪姉。ついでに、姉ちゃんが居眠りするだろうから、起こしてあげてね」
「私は『ついで』扱いかよ!? あと、なんで私が寝ること前提で――」
「はいはい、分かった分かった」

 あーだこーだ言う姉ちゃんが、澪姉に半強制的に引っ張られていく。
 長い付き合いで、こういう光景は何度も見てきたなあ。
 長い、付き合いで――

(……?)

 なんだろう、何か引っかかりを感じる。
 学校へ向けて歩を進めながら、俺は胸の中のもやもやを意識せざるをえない。
 けど、そこは別に違和感を覚える必要がないところじゃないのか?
 姉ちゃんと澪姉は、長い付き合いなんだし。
 澪姉と俺だって――

「おはよっ、田井中くん!」

 ぽん、と肩を叩かれた。考え事をしていて、油断しきっていた俺は、ぎょっとして振り返る。
 そこにいたのは――

「あ、ああ、なんだ。さくらか」
「朝の挨拶で、人に対して、『なんだ』って地味に酷いよね。田井中くんはそうやって、何の悪気もなく、人に傷を――」
「朝っぱらから酷いのはどっちだよ!?」

 なんで俺が悪人みたいに言われなければいけないんだ!

「冗談だって、じょーだん。元気が良くて、いいことでしょ?」
「それを自分で言うかあ……?」

 つい、首を捻ってしまう。しかし、やはり気だるくなりがちの朝という時間帯に、ここまで元気があるっていうのは、ある意味凄いことなのかもしれない。
 俺がなんとなく納得すると、またしても耳に響く快活な声。

「ねえねえ、田井中くん。ところでさ――」
「なに?」
「さっき、年上のお姉さんらしき人と一緒にいたよね。あれって、もしかして…………」
「なんでそこで、言葉を切るんだよ! 別に、そんなやましい関係じゃないよ!」
「あれ? てっきり、朝から修羅場かな、なんて思ってたんだけど」
「……俺の姉ちゃんだよ。それと、その友達の人」

 もう、いちいち突っ込んでられん……。
 一体、どう見たらあの雰囲気を「修羅場」だと思えるのか、そもそもお前、よく見てないんじゃないのか、なんて感じに色々と突っ込みたいことはあったけど、間違いなく俺の反応を見て、こいつは楽しんでいると感じたからだ。下手に材料を与える必要もあるまい。

「あー、やっぱ、お姉さん、なんだ……」

 予想が外れたことに対してか(にしても、いくらなんでもおかしすぎるものだったけど)さくらはため息をつく。

「そうだよ、当たり前だろ? まさか本当に彼女だとか思ったんじゃ……」

 途中から、言葉が尻すぼみになってしまう。
 その理由は、目の前のさくらの表情にあった。
 普段から浮かべている、笑顔。それは変わりない。けれど、その笑顔に、少し翳りがあるように感じたのだ。

「……どした?」
「……あっ、ごめんね、田井中くん! 何でもない、何でもないよ!」

 雰囲気がほんの少しばかり強張ったことを感じたからか、ぶんぶんと力強く手を振るさくら。

「そ、それよりさ、今日の授業だけど――」

 その後、半ば強引に、別の話題につなげた。
 目の前のクラスメイトのそんな様子に、ちょっと困惑したものの、学校に着くまでには、いつも通りの活発な女子生徒に戻っていたので、俺は別段心配はしなかった。

「ただいまー、って、あれ?」

 学校が終わり、家に帰ってきた俺は、俺たち一家のものではない靴の存在に気付いた。
 とはいえ、見知らぬ誰かというわけじゃなさそうだ。なぜって、それは――

「澪姉、来てるんだな」

 よく見慣れたものだったからに他ならない。
 階段を上がり、自室にカバンを置いてから、姉ちゃんの部屋に向かう。
 とりあえず、礼儀として、ノック。

「俺だけど、入っていいか?」
「おー、聡か! いいぞ、入れ入れ!」

 中から姉ちゃんの返事が聞こえた。口調から、随分と上機嫌らしいことが窺える。

「失礼しますよ……って、何やってんだ?」

 部屋に入った俺は、面食らってしまう。
 普段から汚れている姉ちゃんの部屋(本人は頑として認めようとしないけど)が今日はまた随分と汚れている。というのも――

「今な、アルバム見てんだよ」
「アルバムって……そりゃまた、なんで?」

 そこまで言った俺は、姉ちゃんとは対照的に、うつむいている澪姉の姿を見とめた。
 見とめたものの、なんでアルバムを見ながら、どこか悲しそうにしてるのかは、全く分からないけど。

「それはな、実は――」
「り、律! 私が、私から説明するから!」

 何か言おうとした姉ちゃんを、すんでのところで押しとどめる澪姉。
 その切迫した声音に、ただならぬものを感じた俺は、黙って話を聴く態勢を整え――

 ――る必要はなかったのかもしれないなあ。

「……澪姉のファンクラブ、まだあったんだ」

 話を聴き終った俺は、そう言って、嘆息する。
 2年前の文化祭での活躍によって、澪姉にファンクラブが出来たことは知っていたものの、それから全く話を聞かなかったので、正直な話、自然消滅したのかもしれないとすら思っていた。
 けど、話を聴けば聴くほど……

「前の代の生徒会長さんって、まあ、その……面白い人だね」
「聡……『変な人』って正直に言ってもいいんだぞ?」

 姉ちゃんはそう言うものの、俺はどうにもそう言いきる気にはなれなかった。
 きっと、面食らってるんだろう。
 そりゃあ、ファンクラブといえば、自分のことを好いてくれる人が立ちあげる団体だ。
 澪姉だって、きっと嫌な気分はしないだろう。けど……

「女子高で、ファンクラブ、って……」
「聡……追い打ちをかけないでくれ」

 澪姉が息も絶え絶えな様子で言葉を吐き出す。
この状況の説明による疲れと、今度催されるお茶会(っていうのもまた凄いな……)にたいする緊張感で、いっぱいいっぱいに違いない。

「で、今は澪姉の昔の写真を探してる、と?」

 会場で、スクリーンに映し出すのに使えそうな写真を選ぶ、という作業らしい。
 ちなみに、なんで澪姉のアルバムじゃなく、姉ちゃんのアルバム主体なのかというと、姉ちゃんと一緒に写ってる写真の方が圧倒的に多いからだそうな。

「ってこと。聡も見るか?」

 この状況を理解した俺を、姉ちゃんがそう誘ってくれる。

 澪姉に、「俺もいい?」と訊いたら、「……いいよ」と言ってくれたので(なんかもうどうにでもなれ、って感じだった)心おきなく参加させてもらうことにした。


「うわ、姉ちゃん、変な顔してんなー」
「ちょっと待て! それはふざけてるからだろ! ちゃんとした時の写真はもっと……」
「思ったんだけど、私の写真って、律に無理やり肩組まされたり、驚かされたりしてるようなのばっかりだな」
「ふふふ、澪くん? それが私のリーダーシップというものだよ」
「いや、ただただ、はた迷惑な変人なだけだろ、それ」
「聡はもっと姉に対する敬意を持ちなさい! ほれ、この写真の頃の聡は、純粋そうな笑顔を……」
「うん、口元は確かに笑ってるけど、目が全く笑ってないよね、これ」
「弟が反抗期だー!」

 ……こうなるわな、そりゃ。
 いつしか3人とも、使えそうな写真を見つけることそっちのけで、昔の写真を見てはコメントするような感じになっていた。
 ちなみに、このアルバムは俺と姉ちゃんのためのもので、その中には澪姉と一緒に撮った写真も含まれており、澪姉が俺たちと家族ぐるみの関係にあるという理由の一端が、ここにある。
 俺は、ちらりと時計を見て、現在時刻を確認した。
 まあ、まだ澪姉が帰る時間まで結構あるし、大丈夫だろう。

「うー、こうなったら、小学生の頃まで戻るぞ!」

 と、散々とやかく言われた姉ちゃんは、そう言うや否やページをめくり、随分と時間を遡っていった。
 最後に開かれたページは、どうやら小学1年生の頃のものらしい。
 「入学式」と書かれた立て看板が、そのことを示していた。

「へえ……」

 俺は、何となく嘆息する。
 というのも、こういう機会がない限り、あまりこういったページは開かないからだ。
 そして、そんな新鮮味からか、写真の中のまだまだ幼い2人組は、普通に可愛く見えた。

「お、聡もどうやら、私の本当の姿に気づいたみたいだな!」

 俺がじっと写真を見ていることに自信を持ったのか、姉ちゃんが偉そうに、誇らしそうに言う。
 いや、小学1年生の頃の自分のことを本当の姿って……まあ、いいや、言いたいように言わせておこうっと。

「久々に見返すと、照れるな」

 なんやかんや言ってる姉ちゃんとは対照的に、澪姉はちょっと顔を赤らめ、微笑みを浮かべながら、愛おしそうにアルバムに目を通している。
 うちの姉ちゃんに、その奥ゆかしさをほんの少しでもいいから分けてやってほしい。

「……ん?」

 澪姉がアルバムをめくりながら、何か疑問を抱いたらしい。
 なんだろう? 俺は目の前の姉ちゃんの相手を、呆れながら務めていたので、澪姉が何を感じたのかさっぱり分からない。

「どうしたの、澪姉?」

 そんなこともあってか、俺の口調は澪姉のものよりも疑問の度合いが強かったように思う。姉ちゃんも、きょとんとした顔つきをしていた。

「いや、あのさ……私と聡っていつ頃から知り合ったんだっけ?」

 俺はそんな澪姉の疑問について考えを巡らせていると、予想外の質問が飛んできた。
 こりゃまた、唐突な。澪姉が覚えた違和感は、俺に関係しているらしい。

「どういうこと?」
「いや、アルバムを見てて気づいたんだけど……」

 澪姉に導かれるまま、俺もアルバムに向き直った。
 ページは、さっきよりちょっと進んで、どうやら小学3年生くらいの頃らしい。
 「なになに?」とやってきた姉ちゃんも含めて、3人でアルバムをじっくりと見ていく。
 3年生の頃から、少しずつ時間を遡っていって……。
 けど、特別おかしいところは見当たらない。それは、姉ちゃんも同じらしく、二人とも首をひねるばかり。

「一体、澪は何がおかしいと思ったんだ? 私にはさっぱり分からん」
「うん、俺にもさっぱりだよ。一体、何が――」

 言いかけた言葉を、途中で呑み込む。何となく、全体を俯瞰して気づいたことがあった。
 なるほど、澪姉が違和感を覚えるわけだ。

「――俺と、澪姉」
「へ? なんだよ、聡?」

 いまだわからないらしい姉ちゃんは、困惑している様子だ。
 とはいえ、無理もないかもしれない。何せ、この違和感に関係しているのは――

「俺と澪姉が2人とも写ってる写真が、一枚も見当たらないね。そういうことでしょ、澪姉?」
「聡も気づいたみたいだな」

 澪姉の反応を見て、俺は得心した。
 そう。3年生より以前に、俺と澪姉が一緒に写っている写真が見つからないのだ。

「けど、私と聡って、この頃もう知り合いだったはずじゃないのか?」
「そうだと思うよ」

 澪姉の疑問に、俺は即答する。なんといっても、澪姉と姉ちゃんが知り合ったのは幼稚園の頃で、それから今まで長い付き合いだからだ。
 そして、俺のおぼろげな記憶から、随分と早い段階で澪姉と俺は知り合っていたと思う。

「けど、やっぱりおかしいね……」

 言いながら、俺はアルバム内の時間を、今度は今に向けて進める。
 何とはなしに開いたページには、俺と姉ちゃんと澪姉の3人で写った写真が何枚かあった。どうやら、この頃の2人はもう中学生らしい。制服姿から、それが分かった。

「うーん、やっぱなんかおかしいような……」

 いくらなんでも、俺たちが一緒に写るのが遅すぎやしないか?
 もっと昔に撮られていたっていいはずなのに……。

「だったらさ、澪と聡が一緒に写ってる写真探してみようぜ! もっと、じっくり!」

 俺と澪姉の困惑を察知してか、姉ちゃんが明るい声を出した。

 そして、アルバムのページを再び少しずつ遡っていく。
 3人とも、アルバムを注視して、そして――

「あった!」

 見つけたのは、俺だった。
 写真は、どうやら夕暮れ時に撮られたものらしい。
 場所は……うちの前か、これ?
 けど、そういう状況より、遥かに気になったことがあった。それは――

「澪と聡のツーショットじゃないか!」

 姉ちゃんが、驚きの声を上げる。
 そう、写真の中の俺たちは、夕暮れ時に、笑顔でピースサインをしている。
 とはいえ、澪姉が満面の笑顔なのに対し、俺はどこか泣きっ面だ。
 ページから考えると……澪姉が小学5年生の時、か?

「な、なんで私と聡だけで……?」

 澪姉が顔を赤らめ、困惑している。
 なぜかは、よくわかった。澪姉は、異性の人と2人きりで写真を撮ることを避けたがっているからだ(理由は、言わずもがな)。俺も、澪姉と2人きりでは、写真を撮ったことなんて、一度も無いと思う。
 いや、今となっては思ってた、と言うべきなのか。

「なんなんだろうね、これ……?」

 俺の口から、疑問の声が勝手に漏れた。同じような気持ちに、その場の誰もがなっていたと思う。
 けど、その日、結局答えは出なかった。
 考えても埒があかないと察した俺たちは、捜索を打ち切り、お茶会に使えそうな写真を探すことに専念することにしたからだ。
 使えそうな写真をピックアップし、澪姉がうちから出るときに浮かべた、どこか気が晴れないでいる表情が、印象に残った。

0.5/
初めて見るようでいて、どこかで見たことのある光景。
 「人の記憶なんてあてにならない」なんて詩人めいたことを言うような奴の気持ちが、こういうときに実感できる。
 目の前にいる人影は、最初の頃はかすかにしか認識できないけれど、少しずつ、雲が流れていくようにゆったりと分かっていくこの感覚も、初めてのようでいて、初めてじゃない。
 どうにも冗長めいた説明になってしまうのは、やっぱりここが現実じゃないと心のどこかで気づいているからだろうか。
 視覚がはっきりとするにつれ、聴覚も徐々に定着するというこの過程も、いつかどこかで――

 子供の、泣き声。

 それが聞こえた瞬間、どこか詩人めいていたさっきまでの自分は、はっとした。
 目の前には、男の子。いつか見たことのある服装で、いつか聞いたことのある声で泣いている。
 けど、不思議なことに、詳らかな声は聞き取れない。ただただ、泣いているということだけがはっきりとわかるだけだ。

 そしてまた、いつかのように手を差し伸べようとして――

「――!」

 どうやら、続きを見ることができるらしいことに気づく。
 誰かが、遠くに立っている。
 その誰かは、どうやら女の子らしい。顔は見えないものの、目の前にいる男の子より長い髪でそれが分かる。
 泣いている男の子がほっとけなくて、助けに来てくれたのか?

「―――。――、―――!」
 何か言いながら近づいてくる女の子(これもまた、何を言ってるのかわからない)に、目の前の男の子ははっきりと嬉しさを表すのかと思ったけれど、どうやらそれは違うらしい。困惑している様子が、なぜだろう、はっきりとわかってしまった。

「――、――――?」

けど、そんな男の子の様子を、別段意に介した風もなく――

「さ、行くぞ!」

1/
「……!」

 がばっと跳ね起きる。
 なぜかは知らないけど、誰かに誘われるまま、逸る気持ちに従うかのように。
 そして、少しばかり息をつき、ようやく落ち着きを取り戻す。

「……なんだ、これ?」

 俺はそっと胸を押さえる。
 逸る気持ち、といっても、気分が悪いだとか、追い詰められているだとか、そういう気持ちでは一切無い。むしろ、落ち着いた今となっては、温かく安心できるような、穏やかな気分になっていた。

「ま、いいや」

 こういう時に、いちいち気にしていても仕方がない。
 起きて、カーテンをシャッと広げる。」
 今日は、快晴。絶好の、買い物日和。
 またしても、姉ちゃんに大声を出されないうちに、とっとと着替えて階下に向かうことにしよう。

 あのアルバムの一件から、3日あまりが過ぎていた。
 それからも、別段普段の俺たちに変化は無かった。
 澪姉も、姉ちゃんも、もちろん俺も。
 気を遣っているわけじゃなくて、これが俺たちの素なのだ。

「……そういえば、買い物に行くっていっても、どこ行くの?」

 商店街を歩きながら、俺は前を横にいる2人に質問する。
 今日の2人の格好は、いつも通りのパンツルック。
 正直言って、この2人が制服以外でスカートをはいている様子を、俺はずっと見てないような気がする。
 まあ、俺も普通に何の変哲もないジーパンをはいているんだけどね。

「あれ、律、教えてないのか?」

 澪姉が俺の質問を、姉ちゃんへの疑問に代える。

「あー、そういや、忘れてたなあ」
「お前なあ……聡が付き合ってくれなかったら、どうするつもりだったんだよ?」
「無理やり連れてくるに決まってんだろ!」
「ちゃんと教えるって選択肢は無いのか!」」

 姉ちゃんの頭に、澪姉がチョップをかまし、「いてー!」という叫び声を姉ちゃんが上げる。
 姉ちゃんには悪いんだけど、俺はこの光景を見るたびに安心する。
 なぜかって、こういうやり取り一つ一つにお互いに親愛を込め合ってるような気がするから。

「まあまあ、澪姉。姉ちゃんが頼りにならない、ってことはもう長年の付き合いで散々わかってることなんだし、澪姉に教えてほしいな」
「待て、聡! 私が何の役にも立ってないっていうのか!?」
「……頼りになるときは頼りになるけど、大抵適当なんだもんなあ」
「聡に同意だな」
「よってたかって、私をいじめやがってー!」

 言うや否や、商店街を走って、見えなくなってしまった。
 残された俺と澪姉は、顔を見合わせて、苦笑する。

「『頼りになるときは、頼りになる』だなんて、聡も言うようになったじゃないか」
「……一応、姉ちゃんだし」

 澪姉がからかい半分、感心半分といった口調で言ってきたので、俺もむやみに反発したりはしない。
 というのも、むやみに反発しても通用しない相手がいるということを、以前まざまざと実感させられたからだ。
 あの「出会い」は、視野を広くさせてくれたなあ……。

「……あれ?」
「どうした、聡?」
「いや、今……」

 消えた姉ちゃんを追って歩いていると、何かに気づく。
 それも、誰かの気配というものに。
 もちろん、見知らぬ人だったら、反応はしなかっただろう。
 見知った「誰か」が、足早に通り過ぎて行ったような気がしたのだ。
 それも――

「……いや、なんでもないや。行こ、澪姉」

 振り払うようにそう言って、澪姉を促す。
 どこか釈然としない気持ちを表情に滲ませながらも、澪姉も歩を進めてくれた。

「えっと、スティックだろ、それに――」

 姉ちゃんと澪姉がメモを片手に、店の中を検分していく。
 追いついた俺たち3人は、雑貨店のような場所に入った。
 そこで、今度のお茶会に必要なものを買い込む、という話だ(ちなみに、スティックには澪姉のプリクラを貼り付けるんだと)。
 ちなみに、おっとりお嬢様は、お菓子だったり紅茶だったりの用意、天然エースは、姉ちゃんと一緒に司会の担当、生意気後輩は、会場設営の責任、をそれぞれ宛がわれているそうな。最後の人だけ知り合いのような気もするけど、生意気だったんですね。

「――うん、こんなところだな!」
「そうだな、大体は揃ったんじゃないか? おーい、聡!」

 俺が手持ち無沙汰でいると(手伝おうにも、加わりにくいし)、どうやら買い物は終わったらしい。俺に声をかけた後、3人でレジに向かっていく。

(……せめて、これから手伝おうっと)

 やっぱり、なんかこの面子で1人は落ち着かないや。

「いやー、これで今日の仕事は終わりだな!」

 店を出た後、姉ちゃんが大きく伸びをする。
「聡、ありがとな」
「いいっていいって、これくらい!」

 両手にビニール袋を持ちながら、俺は笑顔を浮かべてみせる。
 店を出る前に、俺がすすんで持つことを2人に伝えたのだ。
 「手伝う」と決めたということも理由としてもちろんあるんだけど――

「普段から、姉ちゃんにもそこそこ、澪姉にはたくさんお世話になってるから――これくらいは」
「……聡」

 そう言うと、澪姉は笑みを浮かべてくれた。
 俺は嬉しくなる……も。
 その表情に、ほんの少しの――少しといっても――

(……澪姉?)

 哀しさを、見てしまったような気がした。

「こらー、聡! 私が澪より下って――」
「姉ちゃん、それは言葉の綾だよ」
「んなわけあるかー!」
 その後、予想できていた姉ちゃんとの軽口のたたき合いをしても、その表情は脳裏から消えてくれなかった。

「いいねー、あのゲーム!」
「だろー? 鈴木となら、楽しめるって思ったんだよ」
「うん、2人でも出来るし、難易度も選択できるしね」
「早く俺のレベルまで追いついてこい!」
「はは、頑張るよ」

 その翌日。
 俺は放課後、鈴木とゲームセンターに来た。そして、今はその帰りだ。
 俺も鈴木も、結構、ゲームが好きで、それが高じて、電車に乗ってこのゲーセンまで来ることがたまにあった。
 そして、今日は俺の好きなリズムゲームを鈴木と一緒に何度かやったわけだ。

「……ねえ、聡くん?」

 帰りがけ、電車に乗るために切符を買おうとする俺に、鈴木が声をかけてきた。

「ん、どした?」
「今日は、歩いて帰らない?」
「え、そりゃまた、なんで?」
「んーと、なんとなく」

 鈴木からの突然の提案に、俺はちょっと驚いた。
 けど、すぐさま、「ああ、そっか」と納得した。
 鈴木は、結構、活動的なのだ。外見は男らしいとは言えないような気がするけど(バカにしてるわけじゃない)、なぜなのかは大体予想がつく。あの人が近くにいたら、そりゃ積極的に外に出たくもなるというものだろう。

「わかった、行こうぜ」
「ありがと、聡くん」

 鈴木と談笑しながら、歩いて帰っていく。
 話す内容は、大体、学校生活のことで、時たまきょうだいの話題が出てくる。
 基本的に、俺は鈴木と話すとき以外は、姉ちゃんのことはあんまり口に出さない。
 やっぱ、ちょっと照れくさいからな。

「……聡くん?」

 俺が最近の姉ちゃんのこと(もうすぐ学校でお茶会が開かれるらしいこととか)を話してると、鈴木が口を挟んできた。
 いつもは、こういうとき人の話を切るようなことはしない。
 となると、ちょっとした異常事態が起こったということ。

「何かあったのか?」
「あのさ……ついさっき、さくらちゃんを見たような気がして」
「さくら……」

 一瞬、何のことかわからなかった。けど、少し考えて、「ああ」と合点する。

「うちのクラスの」
「うん、その子。さっき、近くをすれ違ったような気がして」
「え、俺気づかなかったぞ?」
「普段、制服姿だから見慣れなかったんじゃないかな?」

 それにさっきは僕の方寄りだったし、と鈴木は付け加える。

「それだけじゃなくて、なんか随分と足早だったような……」
「そりゃまた、なんで?」

 正直言って、普段のあいつの態度から考えると、道端で偶然会っても、「あー!」とかなんとか言って挨拶してきそうなものなのに。今日も学校で会ったけど、随分と元気そうだったぞ?

「うーん……よくわからないけど」
「……そういえばさ」

 鈴木が答えに窮するところに追い打ちをかけるようで少し後ろめたかったけれど、俺は何となく気になっていたことを質すことにした。
 こういう機会じゃないと、聞き出そうと思えそうにない。

「なんであいつ、自分のことを『名前』で呼んでもらいたがるんだ?」
「……そういえば、そうだね」

 どうやら鈴木も気になっていたらしい。俺も、あいつ以外の女子は、基本的に名字で呼んでいる。けど、あいつは名字で呼ばれるのを好いていないらしい。

「なんとなくだけど、名字が長いからじゃないかな?」
「……考えてみたら、そうだな」

 鈴木の回答に、俺は何となく納得した。それに、かなり珍しい名字だ。
 そういうこと、なのかな……?
 やっぱりどこか釈然としなかったものの、あんまり突っ込むべきじゃなさそうだ。
 俺はとりあえず、さくらのことを話題に出すのを止めた。

「あ、聡くん、こんなところに公園があったんだね」

 それからも歩いていると、右手に公園が見えた。
 どこにでもありそうな、何の変哲もない公園だ。
 ベンチ、ブランコ、砂場……公園にあるべき、基本的な遊具は揃っているらしい。

「ちょっと、入ってみようよ」

 言うや否や、中に入っていく鈴木。
 俺はそんな友人の姿に、ちょっと驚く。

「時間、大丈夫なのか?」
「特に予定も無いしー!」

 そう言って、はしゃぎながら園内に入っていく鈴木に、俺は「やれやれ」と思いながらも付いていく。鈴木は妙なところで子供っぽい。少なからず、あの人の人柄を受け継いでるってことなのかな。

 とはいえ、俺も鈴木も、もう中二男子。さすがにこの時間から、遊具で遊んだりする気にはお互いなれない。
 というわけで、何となくベンチに座ってぼんやり過ごしてみたり。

(……気分がいいなあ)

 なぜかは知らないけど、ここは凄く落ち着く。
 なんか、誰かに撫でられてるような、心地よささえ覚える。

「……そろそろ、行こっか」

 そんな気分に浸っていると、鈴木が俺に声をかけて、帰りを促す。
 なるほど、もうそろそろ夕暮れ時。帰らないと、宿題だったり、いろんなことが出来なくなってしまうかもしれない。

(姉ちゃんも帰ってくるだろうし)

 お茶会のために、ということで最近軽音部は放課後に長く残っている。
 そして、明日はいよいよ、お茶会本番らしい。

「じゃ、行こう、聡くん」

 そういってベンチから立ち上がる鈴木を見て、俺も立ち上がり――

 強烈な、既視感。

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