楽天的に見える人は、実はなかなか打たれ弱いものらしい。
いつも気持ちが上向きだと、それが下を向いた瞬間、一気に崩れおちるから、だそうだ。
もちろん、本当に楽天的で、いつだって挫折を知らない人だっているだろう。
けれど、その境地に至るまでに何度も何度も試行錯誤する必要は、ある。
そして、気を落とした時の立て直し方を体に沁み込ませ、少しずつそれを実践していくんだ。
こんな大げさなこと言ってるけど、今回の一件は、そんな大した問題じゃない。
「誰かがいじめられてる」とか「取り返しのつかない失敗をした」とかそんな重い話じゃ、決し てない。けど――
俺にとっては、やっぱり結構な心配事だった。
「どうしたの、姉ちゃん?」
いつもの朝の、いつもの食卓だった。
以前、姉ちゃんが俺に料理を振舞ってくれる、ということがあったけど、あれはあくまで特別な場合だ。普段は、母さんが俺たち姉弟に食事を用意してくれる。
味噌汁を啜り、何となく正面の姉ちゃんの手元を見てみると、姉ちゃんは箸を魚に付けたまま動きが止まっていた。
「……ん? どうかしたか?」
「いや、手、止まっちゃってるけど」
「あー……うん」
言われてから、のろのろとした動作で、箸を動かし始める。
そういえば、今日は姉ちゃんの食の進みが遅い。いつもだったら、俺が食べ終わらないうちにぺろりとたいらげているのに、今日はまだまだ残っていた。
「……ごちそうさま」
少し魚に手をつけると、姉ちゃんはそう言って、席を立とうとする。
「姉ちゃん、どうしたの……?」
咄嗟に、口からそんな言葉が出た。
姉ちゃんのところの料理が、ほぼ全部残ってる。
そんな目の前の光景は、「いつも」とは明らかに違う。
「……いやいや、何でもない」
そこで、少しばかり首を振ると――
「何でもないって!」
先ほどまでとは明らかに違う声音で、高らかに言い放った。
たしかに、声には張りがあるし、「さーて、顔洗おっと!」と洗面所へ
向かう足取りもぶれてない。
台所で俺たちのやり取りを聞いてた母さんも、初めは心配そうだったものの、姉ちゃんが大きな声を出したら、安心そうな表情を浮かべた(けど、料理が残されたのはちょっとショックっぽかった)。
けど、俺には――
(……無理に笑ってたな、絶対)
声を上げた瞬間の、姉ちゃんの微妙な表情がこびりついていた。
「それじゃ、行ってきます」
「……あ、ああ、行ってきます!」
母さんに見送られるまま、俺たちは外に出る。
玄関先には、澪姉が待っていて、「行ってきます」と母さんに手を振り返していた。
「なあ、澪ー、今日の宿題――」
「駄目だ」
「えー、私まだ何も言ってないじゃん!」
「どうせ『宿題見せてくれ!』だろ? 始業前に、自力で何とかしろ」
「いやいや、違うぞ、澪? 私は『宿題やってくれ!』って――」
澪姉が姉ちゃんに無言でチョップ。「ふぎゃっ!」と声を上げる姉ちゃん。
毎度の光景とは言え、何度見てもこの二人の掛け合いは面白い。
面白い、けど――
「……ん? どうした聡?」
澪姉が俺の視線に気づいたらしい(ちなみに、俺・姉ちゃん・澪姉の順)。
とはいえ、ここでは何も言えない。澪姉と俺、二人きりじゃないと意味が無い。
「ははーん? 澪ー、聡が私と澪に焼きもちやいてんぞー?」
「ば、馬鹿、律!」
結局、そんな風に姉ちゃんに茶化されてしまったものの、澪姉は気づいてくれた――と思う。
「そんじゃー、またな!」
「じゃあな、聡」
三人で他愛無いおしゃべりをしてるうちに(とはいえ、二人の会話に俺が時々まざる感じだけど)、分かれ道に来た。姉ちゃんたちと俺は、正反対の方向に進むことになる。
「うん、バイバイ。学校、頑張ってね」
姉ちゃんたちにそう返し、俺は歩いていく。
俺の通う学校(同時に、姉ちゃんと澪姉が通った学校)は、ここからそう遠くない。
分かれ道から姉ちゃんたちの高校までの距離より、ちょっと近いくらいだ。
学校に着き、上履きに履き替える。
澪姉がしっかり者で、学校には早くから向かうため、それにともなって俺たち姉弟の到着時間も早いものとなる。
だから基本的に、俺が一番乗りだ――
「おはよっ、聡くん」
けど、その日は違った。教室に着くと、同級生が一人座っていて、俺に気づくと挨拶してくれる。
「おっす、鈴木。今日は早いな」
「うん、今日は日直だからね。ほら、朝早く来て色々とやんないといけなかったから。やっと今、終わったとこ」
「あ、そっか。お疲れさん」
「ありがと」
俺の席は、鈴木の隣だ。ちなみに、俺と鈴木は中1からの友達だ(小学校は別々だった)。
もちろん、気が合ったり趣味が結構かぶったりしてることが仲良くなれた理由なんだろう。
けど多分、一番の理由は――
「……聡くん、もしかして元気ない?」
席に着き、少し考え込んでると、鈴木がそんなことを訊いてきた。
俺はそれを聞いて、ちょっと苦笑する。
「やっぱ、分かるか?」
「うん。聡くん、そういうの表情に出やすいから。で、どうしたの?」
「それが――」
「なるほどね……」
俺の話を聞き終えて、鈴木が最初に漏らしたのはこんな言葉だった。
「聡くんのお姉さんの様子がおかしい、と」
「まあ……そうなんだ」
ふむふむ、と手を組みながら、鈴木が真剣な表情になった。
そう、俺がこいつと親しい一番の理由は、俺の相談に本気で乗ってくれるからだ。
こういう話をしても、軽くあしらわれてしまう(もちろん、その本人に自覚は無いんだろうけど)ことが多い中、俺は鈴木のこういうところが大好きだった。
「……僕の姉さんにも時々あるなあ」
考えながら、鈴木が言う。
「後で理由が分かると、『憧れの人にちょっと遠い』だとか『最近、部員まとめるのが大変』だとか、そんな大した理由じゃなかったりすることが多いけどね。けど、悩んでる時の姉さん見てると――やっぱ、心配だよ」
鈴木にも姉さんがいる、ということは知っている。それに、鈴木の家に遊びに行った時、何度か会ったこともある。鈴木はよく姉さんに苦労をかけられている、らしい。けど、そんなお姉さんのことを話すときの鈴木は、どこか嬉しそうだ。
「僕から聡くんに言えることがあるとしたら――やっぱり、理由をはっきりさせること、かなあ」
「理由を、はっきり……」
「うん。でも、『何かあったの?』とか直接訊くのはなるべくやめた方がいいかも。あっちから話すのを待つのも一つの手だと思う」
実際、僕も姉さんから相談されたし、と鈴木は続ける。
(……理由、か)
姉ちゃんの様子がちょっとおかしいことへの心当たりは、無いと言っていい。
直接訊くのはNG。相手が話すのを待つことも一つの手。
けど、俺は――
キーンコーン――
チャイムの音がして、授業の終わりを告げる。
その後、すぐに帰りのHRが始まり、担任の先生に挨拶して、今日の学校が終わった。
(……さてと)
昇降口で靴に履き替えて、カバンからケータイを取り出す(うちの学校は、ケータイOK)。
新着メールが一件、あった。
(……)
「聡くん、帰ろ?」
鈴木がそう言ってくれる。けど――
「悪い、鈴木。今日ちょっと寄るとこがあって」
「そっかー、分かった。じゃ、また明日!」
バイバイと言ってくれる鈴木と別れ、俺は目的地へと歩き始める。
目的地は、近所の商店街の中にあるカフェだった。
到着してから店内を見回し、カウンター席にその姿を発見した。
その隣に座ってから、
「……おっ、聡か」
その人――澪姉は、俺に気づいた。
制服にカバンと、ギターケース。朝会った時の格好のままだ。
「メールしてくれて、ありがと。あと、学校帰りにごめんね」
さっきのメール内容は、「学校帰りに、いつもの場所で会わないか?」
というものだった。俺の視線作戦は、功を奏したらしい(とはいえ、澪姉
のその鋭さに俺は毎度驚かされる)。
「いや、いいよ。今日はちょっと都合が合わなくて、部活が無かったから」
あんまりそんなこと無いんだけどな、と澪姉は続ける。
澪姉がコーヒーを頼んでいたから、俺も同じのを注文した。
運ばれてきてから、ふと思ったことがあった。
「やっぱり、今日もカウンター席なんだ。普通の席、たくさん空いてるよ。移動しない?」
俺がそう言うと、澪姉はいきなり顔を赤らめる。
「普通の席じゃ、まるで、カ、カップルみたいじゃないか! そ、それは駄目だ!」
「……それなら最初からカフェを待ち合わせ場所にしなきゃいいのに」
「外じゃ話しにくいだろ! それに外で歩きながら、なんてなおさら――!」
澪姉があたふたする(ちなみに店内なので、声は抑えてる)のを見ながら
俺は、「やれやれ」と思った。ホント、男に免疫が無いんだなあ。
相手が俺だからこそ会話が成立するものの、他の男の人とだったらどうなるんだ?
「ところで、澪姉――」
けど、今は澪姉の心配より優先すべきことがある。
澪姉も、そんな俺の様子に気づいたんだろう、動揺するのをやめて、真剣な顔つきになった。一息つくと、
「――律のことだろ?」
澪姉は、そう言った。
最初から確信しているかのような、はっきりとした声音だった。
「……うん、そうだよ。やっぱ、分かる?」
「分かるよ。聡は表情に出やすいからな」
「……それ、友達にも言われた」
「ははっ、そうか」
澪姉が軽く笑い、再び真剣な表情に戻る。
「……聡は、律が何に悩んでるんだと思う?」
「やっぱり、何か悩んでたんだ。……けど、全然、心当たりない」
言いながら、少し悲しくなった。
俺は姉ちゃんのちょっとした異変にすぐに気づいてしまう。
それこそ、隣にいる長い付き合いの幼馴染すら気づけないようなことですら。
けど――気づいた後で、どうすればいいのか分からなくなる。
今言ったように、その理由さえ分からないし、行動しようにも、身動きが取れない。
そんなもどかしさの中にいると、淋しささえ覚える。
「……初めから、気づかなきゃ良かったのかな?」
「それは違うぞ」
俺が漏らした弱音に、澪姉ははっきりと応える。
そのことに、俺は少し驚いた。なんでそんな確信を持って言えるんだ?
「律は聡のことを、私にはもちろん、他の子にもよく話してる。聡の話をするときの律、凄く優しそうな顔してるんだ。その表情は、聡がいつも律のことを――心配してあげてるからなんだぞ? だから、そんな風に考えちゃダメだ」
少し早口に、けれど力強く澪姉が言った。
その言葉が俺の体に沁み渡っていくにつれて、どこか気分が明るくなっていくのを感じる。
(姉ちゃんが俺のことを……)
そう考えて、顔の緩みを感じると、急に恥ずかしくなった。
たしかに俺は、姉ちゃんのことを考えてる。けど、それは――
「別に俺は姉ちゃんを心配してるわけじゃ……で、でも、姉ちゃんがいつも通りじゃなかったら俺もなんとなく、そう、なんとなく嫌なだけで……だから、俺は別に――」
「聡、全部口に出してるぞ?」
はっと口を噤むと、澪姉はからかうような優しいような表情を俺に向けていた。
……駄目だ、言葉もない。
「まあ、聡もまだまだ子供だということはいいとして」
「ちょっと待って。少なくとも、4つも年下の男と話すだけで顔を赤らめる澪姉にだけは言われなくないよ?」
「律の悩みはな――」
俺の言葉を完全に無視して、澪姉は話し始める――
「――まあ、こんなところだ」
聞き終わると、なんとも呆気ないものだった。
まあ、当事者じゃないから偉そうなことは言いたくないけど……こんなことで?
自分の担当する楽器が少し嫌になった――それだけで?
「……でもな、私には律の気持ちも何となくわかるんだ」
俺がどこか釈然としない気持ちでいると、澪姉が言った。
「楽器やってるとな、他の楽器に目移りしちゃったり、自分のポジションを妙に気にしちゃったり――それでも最後には『やっぱ私にはベースだ!』って思うんだけどな」
ギターを弾くなんてやっぱり無理だ、と澪姉は少しおどけて、笑ってみせる。
「律も私も、もう楽器初めて5年近く経つから、私が言うまでもなくあいつは分かってると思う。だから、ほっといてもなおる……とは思うけど」
そこで俺と視線を合わせ、顔を綻ばせて、
「聡は、律が『いつも通り』じゃなかったら嫌なんだろ?」
「うっ……」
ひ、卑怯だ……さっきの恥ずかしい台詞を引っ張り出してくるなんて……。
しかも明らかに、その部分を強調してたぞ?
「まあ、聡が思ってたほど、律の問題はたいしたものじゃないわけだ。
だから、聡がなるべく早く律に元通りになってほしいんなら……なにかしてあげたらいいんじゃないかな?」
最後の言葉には、さっき乗せられていたからかいの響きは消えて、優しさだけがあった。
「ただいまー」
澪姉と別れて(また奢られてしまった……これもまた恥ずかしい)、俺は家に帰ってきた。
下駄箱を確認すると、もう帰ってきてることが分かり、リビングの明かりが点いていたので、そこに移動する。
「おー、おかえりー」
予想通り、姉ちゃんはそこにいた。姉ちゃんは家に帰ってくると、自分の部屋に行ってカバンを置いた後、ここで雑誌を読むという習慣がある。
その声の響きには、やはり普段ほどの覇気は無い。
(……さて)
俺はカフェから出たあと、考えていた。
楽器をやったことがない俺が姉ちゃんにできること。
ずっと一緒に過ごしてきた俺が姉ちゃんにできること。
弟が姉に、できること。
「……姉ちゃん!」
俺は雑誌を読んでる姉に声をかけた。
興奮しすぎてたせいだろう、少し声が大きくなってしまい、姉ちゃんを驚かせてしまった。
けど、そのことを気にはしていられない――
「ゲーム、やろう!」
「どうだ! 私の勝ちだ!」
「くそー、またかよ!!」
数分後、俺たちはテレビの前でコントローラーを構えていた。
今、俺たちがやってるのは、いつぞや姉ちゃんに途中で邪魔されたあのリズムゲームだ。
スコアは、姉ちゃんが圧倒的に上……。
「……姉ちゃん、やっぱ強いね。俺だって、やりこんでんのに」
「いやー、さすがに弟には負けられないよ。それに――」
姉ちゃんの声が、そこで少し小さくなる。
ゲームを始めてテンションが上がったせいか、少しずつ熱を帯び始めたその声が、少し冷えたように感じた。
「私は……ドラム担当だからな」
「……」
テレビ画面の陽気な音とは対照的に、俺たちの雰囲気は少し沈んでしまった。
けど、大したことじゃない。
俺たちはこんな雰囲気、二人で何度も経験してきたから。
だから、俺は――
「ドラムって、いいよね」
沈黙を破ったのは、俺の方だった。
姉ちゃんは、少し面食らったようだ。
それに構わず、俺は続ける。
「だって、姉ちゃん、5年くらい前にドラムセット買ってから、毎日凄く楽しそうだったもん。いや、それまでも楽しそうだったけど、輪をかけてっつーかさ。
それに、姉ちゃんとドラムって相性いいよ、絶対。だって俺、姉ちゃんがギター弾いたりしてんの、正直似合わないと思うから」
言葉にして、一気にまくし立てると、やけにすっきりした。
そうだ、言葉にしてみないと分からない。俺は心の中で、もやもやしすぎたんだ。
人の気持ちなんて言葉にしない限り、大事なところまでは決して伝わらない。
「以心伝心」という言葉は、その通りだと思う。けど、それでも――
言葉には、絶対的な力がある。
「だから、姉ちゃん、俺は――」
「姉ちゃんのドラム、また聴きたいんだ」
ドラムを買ってから、初めて姉ちゃんが俺に聴かせてくれた時は、確かにまだまだ拙かったと思う。
素人にだってわかったんだから、姉ちゃんにはもっとよくわかっただろう。
けど、それでも――
俺と姉ちゃんは、凄く楽しかった。
「――聡」
俺が言いたいことを全部言いきってすっきりすると、姉ちゃんは
どこか放心しているように見えた。
けど、それは虚ろな表情では決してない。
むしろ、どこか嬉しそうな、どこか楽しそうな。
そんな、充足感を漂わせていた。
その後、どこか照れくさくなって俺はゲーム機の電源を消し(姉ちゃんは何も言わなかった)、自分の部屋に戻って、ベッドに寝転んだ。
そして、少しの間ゴロゴロ転がって、熱を逃がした。
その後、姉ちゃんが自分の部屋へ入っていく音を聞いた。
その頃には俺も、寝転がるのはやめていた。
けど、どこか落ち着かないから、そのままぼうっとしていた。
そんなもどかしさに浸っていると――
――タン、タン
音が、聞こえてきた。最初は小さかったその音は、段々と強い響きと速いリズムを帯びて、俺の耳にしっかりと入ってきた。
音が俺の体の中で、ゆっくりと温かくなっていくのを感じる。
――あったかすぎて、体が熱い
だから、俺は姉ちゃんにこう言った。
「姉ちゃん、うっさい!」
その声は、どこか裏返っていなかったか、どこか恥ずかしい響きじゃなかったか、後から俺は考え込むわけだけど、それはまあ、別の話。
「上向きの人は、下を向いた時、崩れ落ちやすい」
最初、こんなことを考えたっけ。
この言葉が正しいのかどうかは、やっぱり人によって考えが違うと思うけど、
俺は正しいと思う。
だから、人は試行錯誤して、幸福感を得ようとするんだ、とも。
でも――1人じゃ動こうと思えない人だって、いるかもしれない。
その時、その「1人」を支えて「崩落」を防ぎたい、と思うから――
「やっぱり私は、ドラムが好きだ!」
「……そうだよね、やっぱり」
第3話「姉への気持ち!」おしまい
最終更新:2011年10月10日 15:54