人間には、これだけは譲れない、という時があると思うんだ。
大人になるにつれて、その対象には体面だったりプライドだったり、そういった余計なものが絡んでくる、と聞いたことがある。
けれど、今俺が「譲れない」と思っているものは、少なくともそんなものとは無縁だった。
「集中……集中だ」
自分に言い聞かせるように、噛み締めるように呟く。
画面に表示される記号に、思考とは裏腹に体が反応するのをひしひしと感じる。
すでに覚えこんでいるパターン。けれど、いつもそう決まっているかのように失敗してきた悔しさ。
そんな空しさとも、今日でおさらばだ。
「これで終わりだ……!」
すでに、曲は終盤を迎えている。リズムを刻むべく、指をコントローラーに這わせていく。
そして、遂に最後。慎重に、けれど激しく、ボタンを打ち込んでいき――
「聡―!」
何かがぶつかってくる感触とともに、コントローラーが落ちた。
「……」
俺は何も言うことが出来ず、画面を見つめるばかり。
今まで積み上げてきたコンボの表示が消えて、成績発表に移る。
「ノルマクリア成功!」と言われ、99%という達成率を見ても、挑発されているようにしか感じられなかった。
「聞いてくれよー……」
空っぽの頭に、聞き覚えのある声が虚ろに響いてくる。
色んな感情がない交ぜになる中、俺はやっとの思いで声を絞り出す。
「姉ちゃん……」
口に出した瞬間、空っぽの気分が熱を帯びていくのを感じた。
そうだ、なんでこのタイミングなんだ。あと3秒、いや2秒あれば、全て上手くいっていたのに。いや、それ以前の問題として、抱きついてこなければ――!
俺は、そんな不満を全てぶつけてやろうと振りむく――と。
「ど、どうしたの?」
憔悴しきった表情の姉ちゃんが、そこにいた。
とりあえずゲーム機の電源を切り、姉ちゃんが落ち着くのを待つ。
少し調子を取り戻した姉ちゃんは、鞄の中から封筒を取り出し、俺たちの間に置いた。結構な膨らみが見て取れる。
「これは?」
「いいから、開けてみてくれ……」
相変わらず元気のない声音で姉ちゃんが言う。俺も中身は気になっていたから、すぐに手を伸ばす。
それに触れるとどこか柔らかい感触がした。その口を開けると――
「……へ?」
間抜けな声が聞こえた。誰がこんな声を出したのか、考えるまでもない。
他でもない、俺だった。
中から出てきたのは、たくさんの諭吉さんだった。
一目見ただけでは数え切れないほどの量。
「とりあえず、数えてみてくれ……」
姉ちゃんに言われるままに、俺は一枚ずつ数え始める。
10枚数えた辺りで、「姉ちゃん、なんかバイトでも始めたのか?」と勘繰り、20枚数えた辺りで「まさかヤバいことをしでかしたのか?」と訝り、30枚から先は頭が真っ白で何も考えられなかった。
50枚数え終わり、やっとのことで俺が口に出せた言葉は――
「……えんこう?」
「なわけねーだろ!」
すかさず、姉ちゃんの突っ込みが入る。心なし顔が赤いように見えたので、どうやら信じてよさそうだ。
とりあえず、田井中家の終焉が来たわけじゃ無い、ということに俺は安堵する。
でも、だったらなおさら――
「じゃあ一体、この50万はなんなの?」
「そ、それはだな……」
姉ちゃんは「コホン」と一息つき、訥々と話し始めた。
姉ちゃんの要領をえない(まあ、無理もないけどさ)説明によると、こういうことらしい。
部室を掃除してたら、古いギターが見つかった。調べてみると、それは顧問の先生のものらしいことが判明した。
先生の許可を得て、軽音部の人たちはそれを売りに行った。すると――
「古いギターが、50万に化けた、と」
「そ、そういうことなんだよ」
姉ちゃんの声が、か細いものに戻ってしまった。説明しているうちに、再びその凄味を実感したんだろう。
まあ、無理もない話ではある。大人だったらまだしも、俺たちのようなごく普通の中高生にとって50万なんて、夢のまた夢の金額だ。そんなもん持たされたら、誰だって不調をきたしてしまうに決まってる。
と、ここまで考えて少し気になったことがある。
「姉ちゃん、こんな大金持ってたなら誰かに相談したんじゃないの?
ほら、例えば澪姉とか」
「い、いや、それは……」
姉ちゃんの口調が歯切れの悪いものになる。おそらく誰が聞いても、「ああ、相談しなかったんだな」と思うだろう。でも、長い付き合いの俺は、その裏にある詳しい事情まで想像出来てしまう。
姉ちゃんのことだ。軽音部の皆さんの前じゃ(澪姉も含め)、調子に乗ってたに違いない。
「50万あったら、なんでもできるぞー!」なんて風に強がってる姿まで容易に想像がつく。
姉ちゃんの悪い癖で、少し気分が高揚すると、徹底的に調子づくのだ。
そしてその後で、ようやくことの重大さに気づき、怯えることになる。
10年以上の付き合いで、こんな姉ちゃんの姿を俺は何度目にしたことか。
「姉ちゃん……こういうの何度目だよ?」
「だ、だってさあ」
……まあ、呆れながらも、こんな風に頼られると嫌な気はしない。
俺だって姉ちゃんの世話になることが多々ある。
そういうとき、他の人の世話になることはあまり考えないことが多い。
要するに――恥ずかしい言葉になるけど――お互いに、信頼しきってるんだと思う。
あの澪姉にすら姉ちゃんには相談できないことがあって、それを俺にだけは伝えてくれる。
そう考えると、どこか小さな優越感に浸っている自分に気が付いた。
目の前で、どこか恥ずかしそうな表情を浮かべてる姉ちゃんに、呆れ半分優しさ半分の気分で、俺は諭す。
「姉ちゃん、どうしたらいいか分かってるでしょ?」
「ま、まあな」
「いつも悪ぶってるけど、結局いつも落ち着くべきところに落ち着くもんね」
「わ、悪ぶってる……?」
姉ちゃんがきょとんとした表情を浮かべたけど、無視して続ける。
「姉ちゃんはちゃんと返すでしょ。そういうところで選択ミスって、後で取り返しのつかないことになる姉ちゃんって、なんからしくないし。それにさ――」
そこで一息ついて――
「姉ちゃん、いい人だし」
これで言いたいことは全部言えたと思う。
同時に、妙にしっくりきた。そうだ、俺の姉ちゃんは、「いい人」なんだ。というより、そうでなきゃいけないんだとすら思う。
だって、そうでなきゃ――俺はこんな優しい気分になれやしないんだから。
「そっか……」
言い終わり、ちょっとすると、姉ちゃんは妙にしみじみとした口調になっていた。
心なし、さっきより表情も明るくなったような気がする。うん、いつもの姉ちゃんだ。
「まあ、私らしく何とかするよ。ありがとな、聡」
「役立てたなら良かったけど……姉ちゃんさ」
「うん?」という表情を浮かべる姉ちゃんに俺は――
「もう、見栄張るのやめなって」
その後の話。後日談ってやつか。
姉ちゃんは50万を顧問の先生に「きっちりと」返したらしい。
姉ちゃん自身がそう言ったものの(ちなみに、ドヤ顔で)後に澪姉がその時の状況を説明してくれたところによると、到底「きっちりと」したものじゃなかったことが判明した(姉ちゃんときたら、顔真っ赤だった)。
というわけで、その箇所を「曲がりなりにも」という言葉に俺の脳内で訂正し、今回の事件(?)は終わった。
あ、そうそう。50万のうちいくらかを使わせてもらって、姉ちゃんたちは後輩の人にペットをプレゼントしたらしい。こういうところで、自分じゃなく他の人を思いやれる姉ちゃんは、やっぱりなんか「いい人」だ。
兎にも角にも、このことから推察するに、姉ちゃんは「お金に弱い」のかもしれない。いや、「だらしない」とでも言うべきか。
まあ、これに懲りて、姉ちゃんがお金について少しでも慎重になってくれることを、弟として願うばかりだ。
「おーい聡ー、買いたい物があるから、ちょっとお金貸してくれー」
「思ったそばからこれかよ!?」
第2話「大金!」おしまい――
最終更新:2011年10月10日 15:50