斉藤「お嬢様、朝食の準備ができました」

ムギ「斉藤、もう昼よ」

斉藤「おや? これはこれは……」

ムギ「……」

斉藤「お嬢様、お暇でしたら算数のお勉強を……」

ムギ「……」

斉藤「いや、ピアノのレッスンも……」

ムギ「斉藤……」

斉藤「おはようございますお嬢様、今日もいい天気ですね。朝食の準備が……」

ムギ「ちょっとでかけてくるわ……」


 斉藤はいつも私の側にいた。
 いつも仕事で家を空ける両親の代わりに私の面倒を見てくれたのは斉藤で、そんな彼は私の親そのもののような存在だった。

ムギ「……」

 斉藤は私が物心つくまえから琴吹家に仕え、私を見守ってきた。
 彼がいなかったら、今の私はいないかもしれない。


斉藤「お嬢様にミルクを」

斉藤「お嬢様のおしめを代えなければ」

斉藤「お嬢様、積木で遊びましょう」

斉藤「お嬢様、髪を引っ張ってはいけません」

斉藤「お嬢様、外出なさるなら一声かけていただかないと……」

斉藤「お嬢様、朝食の用意ができました」

斉藤「お嬢様、眠れませんか。ならば桃太郎を……」

紬父「斉藤……」

斉藤「おや、お嬢様のお友達ですか?」

紬父「いや……ああ、そうだ」

斉藤「お嬢様は今、おでかけになっておられます、戻るまでどうかこちらに」

紬父「ありがとう」

――――――――――

 認知症の兆候はあったのかもしれない。
 でも、それが本当に脳や体の衰退からくる認識のずれだと思いたくなくて、真剣に考えようとはしなかった。

ムギ「斉藤……ごめんなさい……」


 斉藤はすでに60の半ばを過ぎている。
 もう引退してもおかしくはないが、あの状態で、これからどうするのだろう。
 斉藤の妻は彼が若いころに病気で他界したと、父から聞いたことがある。
 子供の有無や、その他の親類については詳しく知らない。彼が自分の家庭のことについて語ることはなかったし、私も家族同然になっている彼のことを訊くこともなかった。
 斉藤は己の家庭よりも、琴吹の家と当主に人生を捧げていた。

ムギ「斉藤はつらくなかったのかしら……」


―――――――――

唯「ねえねえ憂ーー」

憂「なあに、お姉ちゃん」

 お姉ちゃんはリビングに寝転がってテレビを見ていた。
 ごろごろしている様がとてもかわいい。

唯「にんちしょうってなに?」

憂「認知症?」

 テレビに映っていたのは、認知症の老人と、それを支える家族のドキュメンタリーだった。
 わめく老人、家族はそれをなだめ、食事の世話をし、おむつをかえる。

憂「んとね、認知症っていうのは、簡単に言えばボケだよ。痴呆とも言うね。まあこれは多少侮蔑的な意味合いもあるから、近年は認知症って言い方になってるんだ。主に高齢化による脳の機能の低下、心因性のものもあるよ」

唯「ふむふむ」

憂「そもそも人間だって動物だからね、年を取れば脳も衰弱するよ」

唯「そっか……じゃあ私が認知症になったらどうしよう」

憂「大丈夫だよ、お姉ちゃんには私がついてるもん」

唯「えへへ……憂……」

憂「あ、だめだよ……ご飯の準備が……んっ……」

―――――――――


ムギ「……」

車の鍵の場所。
仕事の予定。
琴吹に仕える者の顔。
私のこと。
自分自身の記憶。

次第に抜け落ちていく過去。どうでもいいこと、どうでもよくないこと。
斉藤はいつまで斉藤で、いつから斉藤ではなくなったのか。

気づいた時にはすでに、斉藤は以前の斉藤ではなかった。


ムギ「そういえば私、斉藤のこと全然知らない……」

 誕生日と血液型くらいは知っているが、好きな食べ物や好きな音楽、趣味のことも知らない。
 もっとも、彼なら趣味は琴吹の家の掃除だとか答えるかもしれないが、今はもう聞けないだろう。

 料理を初めて習ったのも斉藤。
 砕けた芋、つながったこんにゃく、かたいままの肉。
 失敗だと落ち込んだ、おいしくないにくじゃがを、斉藤は躊躇なくたいら、言った。

斉藤「少々難点はございますが、料理とはひとつの道なのです。これからたくさん練習すれば、きっと上手になります」

 たくさん練習して、両親に料理をふるまったときのことは今でも憶えている。
 父が、こう言ったのだ。

紬父「これは斉藤の味だな」

 両親よりも斉藤と接する時間のほうが長い。
 私は母の味を覚えていないのだ。

 母は料理をつくる立場にない。
 私が受け継いだのは両親の姿だけで、私をつくったのはまさに斉藤だった。

 だからといって両親を悪くいうつもりはないのだ。
 ただ、少し寂しいというだけで。

――――――――――

紬父「斉藤……さん。お茶をいただけますか」

斉藤「は、ただいまお持ちいたします」

紬父「……」

 数分後、斉藤が持ってきたのは如雨露だった。
 たぷたぷと音がする。
 それを小さなコップにそそぐ。

斉藤「ダージリンです」

 あふれる。
 こぼれる。

 カーペットが液体を吸っていく。

 それは農園用の、液体肥料が混ざった水だった。
 薬っぽいにおいが応接間に充満する。

 差し出されたコップを手元に置き、斉藤を見る。

 うつろう瞳。
 ふけのわいた頭。
 深く刻まれた皺は、人生の垢を溜め、黒ずんでいた。
 口はパクパクと、幻影になにかを語っている。

 紬は、こんなふうになった斉藤を――――親よりも長い時間そばにいた彼のことを、どう思っているのだろう。

 執事服には汚れも目立つ。
 食事をこぼしたのか、襟元にも食べかすがついていた。
 もう何日も風呂に入っていないのかもしれない、汗のかわいたにおいも漂ってくる。

 これが、あの斉藤なのか。 
 冷静に物事を考え、的確な判断を下し、侍従連に指示し、紬の面倒を見る。

 執事の一人から連絡を受けて、まさかあの斉藤が、と思った。
 しかし、老いは誰にも訪れるのだ。
 分け隔てなく緩慢に。
 突然に思えるそれも、周りからはそう見えるだけで、本人は自覚していたのかもしれない。

 琴吹の家の執事長ともなれば、給金も待遇も良い。
 それにともなって責任も発生するし、仕事も難しい。だから斉藤のような忠実で賢い者にこそふさわしい仕事だったのだが、斉藤ほどの男は滅多にいないのだ。
 滅私奉公といえば聞こえはいい。だがだれもそんなことはしたくないし、責任だって負いたくない。

 仕事を、一人の男に任せ過ぎた。斉藤が仕事をできないだけで、混乱が家を支配している。
 それぞれの持ち場にいる者はいいが、今まで指示を出してもらって動いていた若い者などは私の顔を見て俯いてしまった。


 次の執事長をだれにするのか。 
 斉藤の今後はどうするか。
 紬は、現実を受け入れられるだろうか。  

 こうしている間にも、仕事は山のように溜まっていく。

 斉藤「紅茶が、冷めてしまいます」

 新しい茶が注がれる。
 ふるえる手。
 「斉藤の紅茶」は、じわじわと、カーペットに吸い込まれていった。



――――

紬「最近斎藤の認知症が進行してしまって私の顔も覚えていないの」

唯「なんでムギちゃんは認知症の斎藤さんをまだ雇ってるの?ムギちゃんの顔も覚えて無いんでしょ?」

紬「私はまだ斎藤の事を覚えているのよ」ウフフ



――――

ムギ「ただいま」

 父が帰ってきていることを執事から聞き、応接間に向かう。
 廊下が濡れていた。
 扉を開ける。

紬父「……おかえり」

 やつれた父の顔がそこにある。
 目の下には濃い隈。ほとんど寝ていないのだろう。

ムギ「私は、大丈夫」

 それだけ言った。父は頷き、携帯を取り出し、どこかへ連絡し始めた。

――――――――――

唯「ねえ、今日アイス食べて帰ろう!」

澪「いいな、最近行ってなかったし」

ムギ「ごめんね、私は今日用事あるからみんなで行ってきて」

律「あれ、今日バイトだったっけ?」

ムギ「ううん、今日は……」

――――――――――




斉藤「申し訳ございません、ありがとうございます」

 斉藤はとあるホームに入居している。
 私は紅茶を淹れてやり、季節の花を飾る。

斉藤「綺麗な花ですね。貴女のようだ」

ムギ「ふふ。うれしいわ。ねえ、先生にお願いして、ごはんをつくらせてもらったの」

斉藤「その料理は、知っています。にくじゃがですね。ああ、とてもおいしい。ありがとうございます。ありがとう、ありがとう」

 彼のなかの彼が泣いているのか。
 私も泣く。
 悲しみではなく、お互いの道を見つけた、別離と、感謝への涙だった。


                   おわり