しかし何故か急停止する。なにかがおかしい。決意は確かに揺らいでいないし、これほど力を込めているとい
うのに。クレーンが鉄骨を吊るように、徐々に徐々に、両腕が意志に反して上昇していってしまう。手首に冷た
い鉄が食い込んでくる。やっと律は気づく。ストーブの熱気に隠れるように、背後に誰かが立っているのだ。そ
して手錠のチェーンを握り締めると上方にきりきりと締め上げている。認識した途端にその存在は強大なものに
変わる。目下の唯はなんくるないといった様子で作業に没頭している。律は、もはや逃れられないという運命を
認めはじめる。
 まさかとは思ったけれど、急所の入り口を広げられなくて心底安心する。そうこうしている間に、もう腕にま
で文字の侵略を許している。表面的に見れば半分以上の行程を終えている。律は、もうひと踏ん張りだという妥
協と、できるなら突っぱねたいという強がりに挟まれる。顔を逸らしても、目を閉じても、触感が否応なく反応
してしまう。
「こんなことしてなにになるんだ?」と律は言う。声が微妙に上ずっている。言った後で、久しぶりに意思疎通
を計ったことに気づく。
「私のためになる」と唯は言う。「りっちゃんには悪いと思ってるけど」
 彼女が罪悪感を持っていることに驚く。それから、彼女が罪悪感なんて捨てていると思っていた自分にも驚く
。これはもしかすると説得することができるかもしれない。かすかな希望が見えてくる。律は慎重に言葉を選ん
でいく。
「今こんなことになってるって知ったら、澪は悲しむと思う」
 唯の動きがまた一瞬止める。しかしすぐに続ける。「一方的な感情は誰だって持ってるよ。相思相愛だけが全
てじゃない」
「それでも、唯は澪が悲しんでる姿なんて見たくないだろう?」と律は優しく言う。
「悲しい思いをしても、後が楽しければたぶん問題ない」
「後が楽しい?」と律は声を大きくして聞き返す。「あいつの幼馴染みを十年近くやってきた私が言うけど、そ
れは絶対に有り得ない。自慢じゃないけど、たまにひどいことしてるけど、私がひどい目に合えば本気で心配し
てくれるような奴だから」
「だからさ」と唯も負けじと強く言う。「その後でなんとかすれば問題ないんだよ」
「どうやって?」
 唯は黙る。それから小さく言う。「教えない」
 説得は唐突に打ち切られる。短い言葉で呼びかけてみても、唯は反応しない。『合宿のときの澪ちゃんは』と
いう話に差しかかっている。人の体は使うくせに、声にはてんで興味を示さなくなる。このペースで書き続けて、
果たして残りのスペースで書ききれるのだろうかという疑問が湧いてくる。不意に唯のことが可哀想な子だと思
えてくる。なにをもってこんな行為をしているのか。おそらく常人の考え方でないことは確かだ。これが母性の
一種なのか、という考えた頭をもたげたところで、律はぶんぶんとその考えを振り払う。
 唯は律にうつ伏せになるように促す。カーペットだが、平らな冷たさが全身に伝わってくる。むしろ熱を奪い
取られているように感じる。前は冷気、後ろは熱気という異様な状態に長く置かれながら、それでも体は芯は火
照っているというのはなんとも不思議だ。
 刺すようだった痛みは、染み入る痛みに姿を変えてくる。火傷を負っているだろう部分でも、それこそ少しシ
ミてるけど問題ないといった調子で、唯は筆ペンの先を押し付ける。律はうつ伏せになって両腕を前に出してい
る。上から見れば体は一本の線のようになっているだろう。目を開けていると、否応にも二の腕から先の呪詛の
ような恋文を見ることになってしまう。そんなものを見続けていたいはずもない。律はやっかいな様々な現状か
ら逃れようと、なにか別のベクトルで考えていられればと思う。
 耳なし芳一という言葉が浮かんでくる。法師の芳一は悪霊から身を守るために全身に般若心経を書かされるが、
うっかり耳だけ書き忘れられてしまい、結局その悪霊に耳を持っていかれてしまうという話である。このお話し
に一体どんな教訓や開示が込められているのか、律にとってはそれこそどうでもいいことになる。ただ全身にお
経を書かれるのはいい気持ちでなかったろうなということだけだ。想像上のお話しに共感者を求めるのは、なん
とも滑稽である。染みるような痛みは消えかかっている。後は腰と上尻と、顔さえ許せば終わるのだといった安
心がこみ上げてくる。


 唯は無言でいる。律も無言でいる。うつ伏せから起き上がる時に背後を盗み見たが、他には誰もいない。さき
ほどの殺意にも似た存在感はどこかに消えてしまっている。作業効率は滞りなく一定を保ち続ける。一体こいつ
は疲れを知らないのだろうか、という疑問はとうに出尽くしている。はじめのほうは、唯がどの思い出を書き写
しているのかちらちらち確認していたが、今はさっぱりそんな気持ちは無くなっている。しばらくは文字という
文字を見ないで数日を過ごしたいと思うようになっている。日本語でなくても、英語しかり中国語しかりアラビ
ア語しかり。
「りっちゃん目え閉じて」といきなり唯が言う。律はどきりとしてその通りにする。
 まぶたの上にもなにかが書かれていくのを感じる。律は一つのシーンを思い出す。新入生の中野梓が入部した
日のこと。せっかくだから記念撮影をと五人で撮った写真がある。それはちょっとしたお遊びを含むものだ。梓
を除く四人が瞼を閉じ、マジックで書いた第三の目を出して写るという趣向のもの。誰が言い出したのかは定か
ではないが、確かに律の瞼の上に目を書き入れたのは唯だ。あの時も、今みたいに気軽に話しかけられてのこと
だ。だが、状況とはまるで違っている。確かに一つの共通点があるが、それは全く別物であると信じたい律がい
る。つまり今の唯とあの時の唯は別人である。それほどまでに律は固く目を閉じ、今この時を否定したい衝動に
駆られる。
「埋まったー!」と唯は明るく言う。
 律はゆっくりと瞼を上げる。「終わった、のか?」
「そうだよりっちゃん。これはかなりの傑作だよ」
「そうか」と律は言う。全身が弛緩していく。妙な達成感が沸いてきて、たまらなく嫌な気持ちになる。
 唯が背後からなにかを運んでくる。気を利かせてストーブを前にしてくれるのだろうか。いや、違う。それは
勘違いだと次の瞬間知ることになる。全身すっぽり映るだろう立ち鏡が律の目の前に置かれようとしている。お
まけに角度を調整できるタイプのものだ。律は反射的に顔を逸らしたが、最悪の光景を数瞬目にしてしまう。
 まるでゴキブリにたかられているみたいだ。まるで無数の黒い粒が律の動きに合わせて進軍してきているよう
だ。顔を逸らした先にはギターがあったが、そんなものはまるで目に止まらない。頭の中で、ほんの数分の一秒
だけ見えてしまったものが、絶え間なく誇張を続けている。律は嗚咽を覚えて両手を口で塞いでしまう。胃がお
かしな方向に暴れようとする。唾液が隙間から垂れて手錠にまで付着する。吐いてしまいたい気持ちを必死に抑
えつける。素直に吐けばいいじゃないかと誰かが耳打ちする。しかしどうにか堪える。それは一言でいえば自尊
心なのかもしれないが、本当のところは律自身にも分からない。ただ体も思考もぐちゃぐちゃにされつつあると
いう不快感が止まらない。
 唯が今度は手鏡を持って迫ってくる。そして俯いたままの律に上から被さると、生え際の辺りを確認してなに
やら「んー」と唸っている。律は薄目をあけて鏡越しに唯の顔をちらちら見ている。十分根元まで書けきってい
るじゃないかと、視線に訴えを込める。それと同時に、梓はいつもこんな風に抱きしめられているのかと、ふと
思ってしまう。でこに書かれている文字が目に入ってしまう。『学園祭のときの澪ちゃんは』という辺りで文字
が切れている。
「でも」と唯が言う。「まだまだ全然書き足りないなぁ」
 律の全身に怖気が走る。記された文字たちが意志を持って動き出そうとする錯覚に陥る。唯の手が律の後頭部
に添えられる。全ての動作がスローモーションのように感じられる中で、思考だけが回転速度をあげているのが
分かる。これからなにをされるのか。思いついていくものは悲しい結末ばかりだ。
「やめろ! もうやめてくれ!」と律は叫ぶ。
 律は力の限り抱擁から脱する。いもむしみたいなほふく前進で、できるだけ唯から遠いところに行ってしまい
たいと切に願う。カーペットとの摩擦をじかに感じる。ベッドをなんとか這い上がる。すぐに部屋の角にぶつか
ってしまう。勢いで平沢チキンを人質にとってその場にうずくまる。もう何も考えられず、ひたすら平沢チキン
を顔に押し当てて涙がでないようにする。


 少しの沈黙。ガチャとドアが開く音がする。今度は気配を殺す必要はないらしい。唯が「よろしくね」と言うと、
おそらく唯ではないもう一人が律に無遠慮にのしかかる。大切なカチューシャを外される。首筋に片手が添えられ、
もう片方の手がいちょう色の髪の毛をぶぢぶぢと引き抜いていく。律はひたすら痛みに耐え続ける。何も考えず
、何も憂いず、ただ被害者としての役割を真っ当に引き受ける。涙が出ているのかいないのか、それすら分から
ないくらいになっている。いつしか平地になった頭皮に冷たい文字が走っていく。
 次の瞬間、律は股間に蛇が這ってくるような感覚に苛まれる。その蛇は残されたままの陰毛にかぶりつき、飲
み込んでしまおうと引き千切る。律は陰核を噛まれたみたいに叫ぶ。これは生理現象みたいなものだ。一束ちぎ
られるたびに一叫する。股関節から深腹筋が正常に機能しなくなっていくのを感じる。
 律の体が優しく横に倒される。仰向けになる。もう目を閉じ続けていく気力がない。唯はなんの気概もなさそ
うに、律の膣に筆を進める。それからメインディッシュといったように黄色いカチューシャを手にとる。
 あれには澪との大切な思い出があるのだと、言おうとしたが言葉にはなってくれない。はじめて律のことをポ
ジティブに言ってくれたのがカチューシャのことだ。それ以来ほとんど毎日つけ続けている。そんな、律と澪を
繋ぐ最後の砦まで毒されようとしている。唯はつるつるしたプラスティックの表面に挑むが、早々にこれは無理
だと断念してしまう。助かったと律は思った。しかし甘かった。唯は半ばやけくそになったように黄色い部分を
黒で塗りつぶしはじめる。ぼやけてきた視界の中で、真っ黒になったカチューシャの出来栄えに唯がにこりと笑う。
もう駄目だ。もう自分には澪に合わせる顔がない。体もない。心もない。全ては唯のどす黒い願望で上書きされ
てしまっている。



 軽音部クリスマスパーティーは予定通り決行される。三人プラス平沢姉妹が、平沢家のリビングに集合している。
そこに田井中律の姿はない。昨晩彼女は平沢家に泊まったのだと他のメンバーは聞かされている。しかし全員が
集合したにも関わらずまだ姿を見せていない。おそらくなにかドッキリを仕掛けるつもりなのだろうと、メンバ
ーは思っているはずだ。
 特に何も起こらないままプレゼント交換をしようと唯は言い出す。澪はもう一度律のことを尋ねるが、唯は自
身満々に問題ないと言う。おそらくドッキリというのはプレゼント交換の時に仕掛けられるものらしい。それぞ
れのプレゼントがテーブルの上に乗せられていくなか、唯はソファーの裏から特大の箱を引きずりだす。そして
澪の前まで持っていく。皆だいたいの見当をつける。全く、といった調子で澪は、丁寧にリボンを解き包装紙を
はがす。息を呑んで上部の蓋を開ける。
 そこには全身を黒いチェーンのようななにかで縛られた律がいる。まるで死んでいるようにピクリとも動かない。
澪は絶句する。他の二人がなんだなんだと興味津々な表情で澪の後ろから覗きこむ。またたく間に血の気が引い
たような顔になる。
「私からのプレゼント交換」と唯が言う。「それからかくし芸もあるよ」とどこに隠していたのかギー太を取り
出して演奏をはじめる。ふでペン~ボールペン~。そんな唯を、非現実なものみたいに眺めている残された三人。
 唯は言う。「交換だからちゃんと返してね。澪ちゃんの愛で。大丈夫。ちょーきょーっていうのは一晩で覚え
たから」
 箱の中からメロディーに合わせた鼻歌が聞こえる。とても愉快に、とても楽しそうに。