もうすぐクリスマス。その先に少し距離をあけてお正月がある。二つの記念日を間近に控えて、田井中律は自
室の机の上で筆ペンを握っている。ひじをつき、ペンの尻をおでこにあてて唸っている。時刻はおよそ十時。学
生であれば、模範的なものは予習復習をし、そうでないものはそうでないなりの趣味や私事に走る時間帯。しか
し彼女は自分のためでも自分の成績のためでもないことに挑み続けている。
 ふと彼女は親友である秋山澪との最初の出会いを思い出す。衝撃的なことはなにもない。ただ小学校のクラス
別けで同じ組になり自己紹介をしたこと。もしかしたら入学式に少し話したりしていたかもしれないし、それ以
前にご近所同士のお付き合いで一緒に遊んだことがあるのかもしれない。しかし明確な記憶の再来はいつまでも
訪れない。気がつけば側にいるようになっていて、友達ということで今まで続いている。そのことを書こうかと
律は頭を悩ませるが、結局書こうというまでには至らない。筆ペンは相変わらず定位置であるでこの先にある。
 それからいくつかの記憶がシャボン玉のように浮かんでくる。ゆっくり考えれば大きな事柄で、すばやく考え
れば小さな事柄がたくさん浮かんでくる。その中に幼馴染みとしての軌跡を辿っていく。また律はそれらを書こ
うかどうか迷う。しかし意識は記憶を掘り起こすことが癖になってしまっている。一時的に、頭の中で、二人だ
けのアルバムが徐々に完成していく。二人が高校に入った辺りでやっと回顧作業は中断される。
 律は携帯を取り出してメールをする。手短かな要件と顔文字を一つつけて送信する。すぐに返信がくる。凡庸
的な応援メッセージにため息をつく。携帯を折りたたんだでベッドのほうに放ってしまう。また机の中心に視線
を固定する。書けそうな数行だけ試しに書いてみるより、真白な紙を中途半端に汚してしまうことに罪悪感を覚
える。こういったものは自分には向いていないようだと結論を出す。
 律はベッドに勢いよく倒れこむ。また携帯を開けてみる。そこにはまだ彼女宛てに送られてきたメールの本文
が残っている。メールの送り主である名前を示す文字列を睨む。依頼主の名前が本当にその人物であることを再
認し、なんだか気怠い気持ちに襲われる。

 夜中の執筆はまだ幾日か続く。とうとう第一筆は二日目の夜に決行される。そして当然のように数秒経って書
き直したい衝動に駆られる。試しにいらない紙切れに田んぼの田を書き、消しゴムでこすってみる。そこだけ堤
防が消滅した川のようになってしまう。また消しゴムのほうにも黒いインクがついてしまい、憂鬱な気分になる。
このまま次に使うと消しゴムが黒線伸ばしゴムになってしまうので、親指で強引に消しかすを出してやる。三回
擦ってから、今度は思い立ったようにでこに擦りつけてみる。一回で摩擦というものを体感する。やはり親指に
対処を任せたほうがよさそうだと思い改める。
 一度筆をおろすと、やけくそが手伝ってか効率は徐々に上がっていく。その分だけとりとめの無さは増える。
見直せば重複しているところを見つけることができただろう。しかし律はそれをしない。筆ペンで書いたものは
消せないのだし、本気で消去するつもりなら紙ごと捨てなければならない。努力が無駄に終わるというものを律
は好まない。だいたい一枚目を書き終えたのが三日目の夜で、二枚目もその日のうちに完成する。
 そうやって誰が特をするのか頭を悩ませるような作業が続く。しかし依頼主は確かに存在する。律がメールを
送るとだいたい十分以内に返信がある。逆にメールをしないと、さて寝ようとかという時に向こうから送られて
くる。一日一通。その正確さが捻じれる気配はない。監視されているみたいだと律は思い、全くその通りだと断
定したのが、だいたい五日目の夜になる。
 執筆ペースは尻上がりの逆放物線を唐突に逸脱する。こんなことをしてなにになるという自暴自棄に似たどう
でもよさが膨らんでくる。六日目の夜。いよいよ律はもう無理だとメールを打つ。依頼主は本当に無理なのかと
念を押して訊いてくる。律は正直に疲れたし飽きたんだと告白する。依頼主はしぶしぶといった感じで了承する。
六日目の夜、金曜日。


 学校での依頼主の態度はまったく変わらない。ひょっとしたら頼んだ本人がそのことを忘れているのではない
かと思ってしまうほどだ。律一人だけが不毛な悩みを勝手に抱えているようにみえる。絶対に他言しないように
と頼まれていて、律は友達との約束をかたくなに守る。そのせいか体の芯が鈍くなっているような気がする。ス
トレスが徐々に溜まってきているのだろうか。七日目。昼休みを利用して例の人物を誰もいない音楽準備室に連
れ込む。
「あのさ」と律は言う。「昨日メールでも伝えたけど、これ以上は書けないと思う」
 彼女は少し黙っている。それから分かりやすく残念という顔をする。「そっかぁ。もう無理?」
「うん。もう無理だわ」
「どれくらいの量になった?」
「ルーズリーフ五枚くらいかな」
「以外と少ないね」と彼女は以外そうに言う。
「だって、こういうの書いたのはじめてだったし」
「ふーん」と彼女は言う。「私もまだ書いたことはないよ」
 律は、彼女が彼女の幼馴染みとの馴れ初めを書き綴っている姿を想像する。少なくとも自分よりは似合うので
はないかと思う。かなり早いペースで書き続けられるだろう。しかし文章は乱雑とした内容であることも予想で
きる。
「それで」と律は会話を再開させる。「なんでこんなの書いて欲しかったんだ?」
 彼女はまた少し黙る。「理由言ったほうがいい?」
「あ、いや別に」と律は思わず否定してしまう。
 時計の針が残された時間を削っていく。
「ちなみに、今日そのルーズリーフは持ってきてる?」と彼女が訊く。
「いんや。まだ家に置いたままだけど」と律は答える。
「じゃあじゃあ、明日土曜日だからうちに来ない?」
「あの紙を持ってか?」
「そう」
「うーん」と律は唸る。「でもクリスマスイブイブだし、迷惑にならないかな」
「そんなことないよ!」と彼女は迫真に主張する。「おいしいお昼ごはん作って待ってるから」
「それは翌日の、クリスマス会のために控えといてもいいと思うぞ」
「大丈夫。憂が色々と用意してくれるから」
 放課後の部活は、日曜日のクリスマス会への出席とプレゼント交換の確認に、茶と菓子を堪能するくらいしか
することがない。学祭は少し前に終わり、今日で二学期の授業が終わっている。律は土曜日に彼女の家に遊びに
いくという旨をここで話題に出そうか迷う。しかし結局話さないまま下校のチャイムが鳴ってしまう。

 土曜日。律は平沢家に暖かく出迎えられる。チャイムを押すと姉妹揃って玄関までやってくる。時刻は十二時
少し前。二階のリビングに上がると、既に食卓テーブルには三人分の食器が並んでいる。ちょうどお腹も減って
いたので、早速ご馳走になることにする。
 平沢家の食事は、なにか秘密にしている万能の旨み薬を使っているのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。ち
ょっとしたデパートの上階にあるレストラン街にそのまま店を構えてもおかしくはない。目の前には平沢姉妹が
並んで座っていて、おいしいおいしいと食べる律のほうを見ている。食事をする律の姿をつまみにものを食べて
いるといった感じを受ける。腹八分目となったあたりで、ようやく食への欲求が先細っていく。
「お父さんとお母さんは?」と律が訊く。
「いないよ」と平沢唯は答える。「うちの両親仲いいから、二人でドイツに行くって部室でも言ったよ。もうと
っくに向こうに着いてると思う」
 食事が済むと、手早く憂がテーブルの上を片していく。テーブルの空白が増えてどこか物足りなくなる。唯が
ふんすと鼻の穴を膨らませてなにかを待っているので、仕方なく例のルーズリーフを取り出してやる。きっと手
に取るなり夢中で読み始めるのだろうと思っていたら、本当にその通りになる。唯はうんうんと誰かに相づちを
打ちながら熱心に字を追っている。心を覗かれているみたいで羞恥がこみあげる。頭のしんがぼやけて広がって
いくのを感じる。まさか明日のクリスマス会で使おうと思ってるんじゃないだろうな、と問おうとしたけれど、
何故か呂律がまわらない。靄がかかっていく視界の端に、唯の満面の笑みがうつる。


 寒気と熱気に律は目を覚ます。まだ頭のしんのほうはうまく再構成されていない。なんとなくここが唯の部屋
であるということが分かる。それから今日はクリスマスイブイブで平沢家でお邪魔になっていたことを思い出す。
招かれてすぐに昼食をとり、そのまま眠ってしまっていたのだ。熱気の正体はストーブ。異様に近い距離にある。
体の全面だけぬるいバーナーであぶられ続けたように肌がちりちりする。寒気の正体は、丸裸になっていること
からきている。
 律はのっそりと起き上がり周囲を見渡す。間違いなくここは唯の部屋だ。なにせ部屋主が、ベッドの上からこ
ちらを見下ろしているのだから。律は直感で狂気を悟る。筆ペンを片手に控えた唯は、爛々と目を輝かせてこち
らを凝視している。
「なあ。これは……」と律は言い続けたかったが、途中で断念される。体を唯のほうに向けながら言ったのだが、
その途中でみっともなく床に転がってしまう。足の自由がきかないからか? いや、手の自由もきいていない。
冷たい拘束を感じることができる。
「りっちゃんはこれっぽっちしか澪ちゃんのことについて書けないの?」と唯が言う。右手に筆ペンを持ち、左
手に一組の幼馴染みの軌跡がある。「こんなんじゃダメダメだね」と唯はその紙に大きくバツ印を上書きする。
 律はなにか言うべきか迷ったが、浮かんでくるどんな言葉もこの場には不適切であるような気分になる。喉が
詰まり、反対に顎は震えてきている。裸であることも影響しているのかもしれない。今までに見てきた彼女のど
んなイメージにも当てはまらない姿を目の当たりにしている。これは夢なんじゃないかと考えていたら、くしゃ
みにそれを否定されてしまう
「ねえ。私は、なにを書いてきて欲しいってお願いしたんだっけ」と唯は言う。
 律はどうにか声帯を広げてから答える。「澪との思い出に、その時の感情とかそういう感じの」
「それがたったのルーズリーフ五枚? ふざけてるの? 小学校の時からの付き合いなんでしょ? もっと他に
も色々書くこと書けることなかったの?」
 質問のマシンガンが続く。その全てが律を、薄情者と罵る意味合いを含んでいるように聞こえる。黙って聞い
ているうちに、ふつふつと心の奥から熱い感情が沸きたってくる。例えば自分が、もっと澪を大切にしている気
持ちがあるにしても、それを全て現実にさらけ出すのは間違っているはずだ。
「んなもん人の勝手だろ!」と律は大雑把にひとまとめに言う。
 唯は大声に驚いて一瞬だけ黙る。「私ならもっともっと書けるよ。りっちゃんの肌全てを下地にしてもまだ足
りないくらい」
 唯が筆ペンの先を向け身を乗り出してきている。こいつは、人の体を紙替わりに同じことをやろうとしている。
律は咄嗟に、思い出したように胸と股を隠す。きつい体育座りをしながら神様にお祈りしている風になる。体躯
としてそう大差ないはずの唯が、とてつもない巨人となってのしかかってくるのを感じる。
 唯が一筆目を脛からはじめる。律は反射的に目を瞑ってしまう。くすぐったくはないが、掻いてしまいたくな
る。縦に二行目が書かれようというとき、律はゆっくりと目を開ける。逆文字になっていて読みづらいが『はじ
めて澪ちゃんを見たのは入学式のとき』と書かれている。それからすぐ横に『大きな吸い込まれそうな瞳だった』
と続けられるのを目で追う。また横に、また横に、彼女が抱いた秋山澪という人間の身体的特徴を一つづつ丁寧
に書き込んでいく。筆先が踊っている。唯の目はスイーツを前にするより輝いている。彼女の狂気が黒いインク
から血液に染み、全身に行き渡っていくような錯覚に陥ってしまう。
 唯が太ももの裏に筆を進めようと、足首を掴んで引っ張ってくる。律はたまらず力を入れて振り払う。くるぶ
しに鉄環が擦れてひりひりする。しかし唯は臆さない。もう一度律の足首を掴みにかかってくる。
「いい加減に!」と律は振り払う。「しろって!」と唯の右肩めがけて両足で蹴りを入れる。反動で背中がスト
ーブにぶつかりそうになるが、なんとか堪える。
 ベッドの手前までよろよろと飛んだ唯はどこか呆然としている。それから時間をかけてゆっくりと立ち上がる。
表情のなかに固いものが含まれるようになる。大股一歩で律の目前に立塞がると、無造作に右足を振り上げる。


 律は後方へ足蹴にされる。ダン、ジュッという音が耳に飛び込んでくる。同時に、肩甲骨から首にかけて刺す
ような痛みを感じる。律は短く「あ゛!」と叫び、転がるようにその場を脱しようとする。右に体を捻ったとき、
右頬が一瞬熱棒に触れてしまう。どうにか熱源から離れることに成功する。しかし体は別の熱いものを手に入れ
たように滾って強ばっている。どうして最新式のものを使わないんだ、などと律は、相応しくないところに文句
をつけたくなる。
 唯はストーブを起こしてから律の体を抱き起こす。「りっちゃんのためを思って置いといたのに」と耳打ちさ
れる。それは裸にしたことへの対処だろうか。懲罰としての戯具だろうか。判別をつける前に、考えはどこかに
消え去ってしまう。
 律はすっかり弱気になる。両肩の間が、今も燃え続けているように思える。耳をすませばジクジクと膿んでい
く音が聞こえるかもしれない。反面それ以外の皮膚は、細胞が活動をやめてしまったように固くなっている。筆
先を甘んじて受け止め続ける。
 片足がほとんど文字で埋め尽くされるまでそう時間はかからない。唯は疲れというものを知らないように書き
続けている。踵をあげられ、足の裏が地面から離れる。唯は親指の先から小指の先まで丹念に文章を繋げ続ける。
足の裏は律にとってくすぐったさが最も露呈する場所である。にも関わらず、身を捩ったり暴れたり高い声をあ
げたくはならない。それはどこか自分の倫理的な面が打ち壊されつつある不安に変換される。犯されている、と
いう言葉がはじめて脳裏を掠める。
 両足の白と黒の比が一対一になる頃、唯は満足して顔を上げる。そして次の満足を満たそうと上半身へ迫って
くる。律ははじめ嫌がるが、肩を掴まれ少しづつ押されていく中でしぶしぶ承諾する。足を伸ばしてバンザイの
状態になり、前面の全てを唯の前に提供する。救いがあるとすれば、彼女は友達の女性としてのシンボルにさし
て興味を示さないことだ。右の肩から左の肩へ、流れるように筆先を滑らせていく。
 ふと律は一つのチャンスに気がつく。唯は相変わらず一つのことしか頭にないようで、律自身の動作について
は無関心である。およそ字にならないほどの震えでなければ許容するといった感じだ。今彼女は律の胴体に夢中
になっていて、上方に意識を向けているようには見えない。この金属の手錠を彼女めがけて振り下ろしたらどう
なるだろう。律の手首は悲鳴をあげるはずだが、頭で受け止める痛さには遠く及ばないだろう。突然の痛みに彼
女の頭は混乱するに違いない。そこで思い切り張り倒し、仰向けにさせ、のしかかってマウントポジションを取
る。それから手錠の鎖を彼女の首筋にあてがって降参させる。記憶のどこかで似たような映画のワンシーンが上
映される。
 しかし想起したタイミングが悪ことに気づく。筆先はもう律の胸の上にまで迫ってきている。左から右へ、二
つの丘を昇り降りしはじめている。これでは力が入らない。仕方なくやり過ごしてしまうしかない。文字列の起
伏の差がどんどん広まっていく、が早々に山頂を迎えてしまう。律は息を止めてぐっと目を瞑る。胸先だけの感
覚が、ぴりぴりと体の芯に伝っていくのを感じる。呼吸器全般が結束して圧力をかけてきている。はあと思い切
り息を吐けたら、どんなに楽になれるだろうと思う。それが二回続く。我慢に我慢した律の顔は酸欠で赤くなっ
ている。ひあ、と擦れた空気をついに吐き出してしまう。唯の手が一瞬だけ止まる。しかしすぐに続きに集中す
る。
 律はとうとう覚悟を決める。彼女の頭部を見据えて何度かシミュレーションをする。友達に暴力を振るうのは
良心が痛むけれど、元はと言えば向こうから仕掛けてきたのだ。躊躇する必要はない、と何度か言い聞かせる。
唯はへその辺りで『部室での普段の澪ちゃんは』というくだりに差しかかっている。鼓動が高まり、アドレナリ
ンが放出する。感づかれないようにひっそりと決意を固める。こんなことは間違っている。正直言って気持ち悪
い。吐き気がする。ありたっけの負の感情と共に、律は正義の鉄拳を振り下ろす。


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