きっかけなんて、ほんの少しのことだ。

練習したい気分の私の前で相手がいつものようにふざけていただけ。
そう、唯の態度はいつものことだった。
私はそんな光景、見慣れているはずだったのに。

「…いい加減にしろよ!」

気が付けば私の右手は唯の胸倉を掴んでいた。
驚きに見開かれた瞳にじわじわと浮かぶ涙を見る。

「お、おい…ちょっと落ち着けって」

「うるさい、律は黙ってろ!大体…こいつがいつまでたっても練習しないからお前らも動かないんだろ!」

律に怒声を浴びせながら掴んでいる胸倉を揺さぶった。
ほどなくして唯の嗚咽が目下から響き、私の正気を少しだけ呼び戻す。

「ごめん…澪ちゃん…、ぐすっ…、すぐ練習するから…っ、ごめんなさい…」

当の私はもう練習なんて気分になれなかった。

掴んでいた制服を乱暴に離し、呆然と私の行動を眺めていたであろうムギを一瞥する。

「私、何か間違ったこと言ってるか?」

今まで何度“練習しよう”と口にしてきただろう。
私は別にティータイムを批判しているわけじゃない。
ただ、オンとオフの切り替えを明確にしてほしいだけだ。

バツが悪そうに黙りこむムギを見ながら再び唯に視線を戻し、そして吐き捨てるように言った。

「…甘えすぎなんだよ」

後方から私を呼ぶ声を遮断するように強く扉を閉める。
一人、音楽室を後にした私の心拍数は異常なほど上昇していた。
こんなにも感情を露にしたのは生まれて初めてのことだった。


一度抱いた嫌悪感というものは中々消えるものではなかった。
相手が視界に入る度、それは顔を覗かせ再び新たな負の感情を作っていく。

この感情は今に始まったことではない。
思えば唯が入部して間もなくの頃から練習を怠ける兆候は顕著だった。
そしていつしか律やムギまでもが加担するという構図ができあがり、私の苛立ちは徐々に膨れ上がっていた。

それが、遂に爆発してしまったというわけだ。



私は部活に行くのを止めた。
練習という当たり前のことができない部活なんて意味がないからだ。

しかしながら、それを快く思わない奴もいる。

「澪さぁ…いい加減許してやれよ」

とある日の帰り道、まるで私が悪いというような口ぶりで律はそう零した。
まだ春先だからか、夕方の風はどことなく冬の冷たさを引き摺っている。
その冷たさはまるで自分の心の中と比例しているように感じた。

「…無理だ」

「マジかよ…」

「それに練習だけなら家でもできるからな」

発した言葉とは裏腹に私はあの日から一切ベースに触れていない。
心の中に蟠りを作ってしまった今、練習する気さえ起こらないのは当然であろう。

「…わかったよ」

「…」

「二人にも伝えとく」

静かにそう告げた律は「じゃあな」とだけ言い残し、いつもとは違う道に歩を向けていった。



それからというもの、日常は少しだけ変化を見せた。
嫌悪感の元凶である相手に会うことが少なくなったのだ。

ただでさえクラスは違うけれど、廊下で擦れ違うことも無くなっていた。
ましてや、朝や放課後に顔を合わせることもない。

初めは何とも思わなかった。
それどころか清々する気分だった。
何故ならば、私が相手を避ける必要が無くなったからだ。

あの唯のことだ。
こうでもしなければ真面目に練習したりしないだろう。
今の私は少々の改心くらいで唯を許せるくらいの度量を持ち合わせてはいない。

しかしながら、私と唯の変化に気付くのは周囲の人間の方が敏感だった。
律やムギに現状を訊ねられるのはまだしも、大して関わりのない人間に何故、逐一報告しなければならないというのだ。
馬鹿らしい、いい加減にしろと私は毎日心の中で悪態を吐いていた。



とある朝、私はいつもより少し早く登校した。

単に起床が早かっただけという理由で特に用事も無かった私はもうずっと足を運んでいなかった部室に向かう。
音楽室までの階段がやけに長く感じることに部活動を休んでいる日の長さを感じた。

自分でも何故そうしたのかはわからなかったが、ただ早朝なら他の誰にも会わないだろうと思ったのが安易な考えだった。

辿り着いた音楽室に私は一つ違和を感じて立ち止まる。
扉越しに聴こえる楽器の音色。

(まさか…な)

僅かに扉を開けて中の人の様子を窺う。
それは私の中にある少々の後ろめたさがその人に声を掛けることを躊躇ったからだ。

唯は扉に背を向けて懸命にギターを弾いていた。

まるで周りのことなど見えてないとでも言うようにひたすら腕を動かしている。
練習するぞ、私が幾度となくそう言っていた曲のコードを何度も何度も繰り返し弾いていた。

ただ、一つだけ気になったのは以前にはあったはずの何かが今の唯にはないことだった。

「…あ」

途中、唯は小さく声を上げた。
それは意識を集中して聞いていなければ分からないくらいほんの些細なミスだった。
そんな僅かなミスにも唯は過剰に反応する。

――こんなの、以前の唯なら有り得なかったことだ。

暫くの静寂の後、唯は静かにギターを置いた。
窓から差し込む朝日がその身体を照らしている。
その背中が少し、華奢になったように思うのは気のせいだろうか。



「ゆ…」

私は掛けようとした言葉をはっと呑み込んだ。
今の唯との距離。
それがあまりにも遠すぎて唇を噛み締める。

「…、っ…」

耳に届く小さな嗚咽に気付きたくなかった。
今の唯は私が声を掛けられる人物じゃないことを改めて知る。

目の前の背中は小さく震えていた。



私は現状を理解したくなくて、静かに扉を閉めた後、部室を後にした。

――こんなことなら部室に行くんじゃなかった

ついさっき上った階段を下りながら、私は込み上げてくるものを必死で堪える。
唯はきっとあの日から時間の許す限り必死で練習していたのだ。
私が部室に顔を出さない日も、私が練習を怠っている間もずっと。

――私が唯をここまで追い込んだ

その事実に気が付いた時にはもう、唯は壊れかかっていた。



唯の異変に気付いてから数日後、私はようやく部室に向かう決心が着いた。
部室に向かうと言っても、その目的は練習ではない。
あの光景を自分だけの胸に仕舞っていられるほど私は強い人間じゃなかったから。

「あら、澪ちゃん」

扉を開くとムギがお茶を淹れていた。
途端、姿を見せた私に動じることもなく慣れた手つきでティータイムの準備を進めるムギに疑問が湧く。

「何も聞かないのか」

「ええ。だって、澪ちゃんがここに来たのはそれなりの理由があるからでしょう?」

ムギらしく寛容で優しさに満ちた応答に私は少し肩の荷が下りたような気分だった。

テーブルの上には何故か、しっかりと四人分のティーセットが用意されている。
私がここに来ることは誰にも言ってなかったはずだけれど。

「ああ、これね。唯ちゃんが『澪ちゃんの分も』っていつもきかないの」

不思議そうな表情を浮かべる私を察してかムギはそう応えて微笑を浮かべた。
何処か遠い眼差しと哀しげな笑みを携えたムギを見ていると、私が生んだ軽音部の亀裂の深さを改めて知る。


同時に意外だったのは、あれほど唯を避けていたにも関わらず、こんな私を今だ気に掛けてくれている唯のことだった。

そう言えば、唯はそんな奴だった。
何も考えてなさそうな癖に、意外なところは鋭かったり、それに――繊細だったりする。

「…、くそっ…」

間違っているのは私だったのだろうか――。
私は初めて自身の言動を省みた。
あれほどまでに乱暴を働いた上、無視を決め込んだ私を唯は今でも“部員の一人”として捉えてくれている。

「澪ちゃん」

「…」

「今日、唯ちゃん来ないわ。家で練習するって、さっき連絡があったの」

「…そうか」

「正しくは…今日も、かな」

私の予想は当たっていた。
放課後、唯は授業が終わると直ぐに帰宅していたようだ。
あんなに放課後のティータイムを楽しみにしていた唯が。

「悪い、ムギ。帰るよ」

私が向かわなければいけない場所はもう決まっていた。



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