わたしが平沢家に着いた時には時計はすでに午後5時を回っていた

帰りの電車は23時30分、時間的にはまだまだゆっくりできる

まだ明るいとは言え、窓も、ドアも、門も締め切った平沢家からは言いようのない雰囲気が漂っていた

重苦しいような、冷たいような……

そんな、道路から見ているだけでも鳥肌が立つような雰囲気に圧倒されてしまう

わたしが予定を早めに切り上げ、逃げ出すように背を向けたとき


―――誰かがわたしを呼んでいる―――


そんな気がした


―――振り向いてはいけない―――


そんなわたしの意志とは関係なく、まるで何かに操られるようにわたしの首は徐々に後ろにスライドしていく


”何か”を視界の端にとらえた気がした―――


ん……ゃん……


―――誰かがわたしを呼んでいる―――


ちゃん……っちゃん……


最初は朧げだったその声はどんどんわたしに近づいてくる


りっちゃん!……りっちゃん!!




耳元で名前を叫ばれたような感覚に、わたしは驚いて飛び起きた

文字通り飛んでしまったのか、体に落下したような衝撃が走る

あたりはすでに真っ暗で、街灯の光で道路は明るく照らされている

目が覚めたばかりの時は、あまり事態を把握できなかったが、少し落ち着くと自分がいかに異常な状況におかれているかすぐに理解できた

最後の記憶は、たしか道路で、閉め切られた平沢家を眺めていたはずだ

今、わたしは平沢家の敷地内に立っている


「……っかしーなー、いつの間にこんなところに……」

待て……何かがおかしい……何かが……なにかが、ナニカガオカシイ

「っ!!」

ある事に気づき、とてつもない恐怖にかられた私は、私を迎えるかのように開いたままの扉に背を向け、開け放たれた門から転がるように敷地外へと飛び出る

そして、そのまま駅を目指して全力疾走する

何度も呼ばれた気がしたけど、決して振り向かずに最高速で駆け抜ける

そして、駅で発車ギリギリの電車に飛び乗る

わたしが飛び乗った瞬間にドアがしまり、発車のアナウンスが流れる

はぁっ、はぁっと荒い息を整えつつ、わたしは自分の指定席を探して、腰をおろす




―――あの時、目が覚めなかったらどうなっていたんだろうか―――

あの時、わたしを呼んだ声

誰の声かははっきりしないけど、わたしの頭にはあの時最後に話した内容と、わたしの事をりっちゃんと呼ぶ”友人”達の顔が浮かぶ



――「なあ、みんなはこういう有名な話、聞いたことあるか?

引っ越してきたら壁に穴があいてて、覗きこんだら真赤だったみたいな話」

「あ、私それ聞いたことあります。大家さんに隣にはどんな人が住んでいるのか尋ねたら病気で目が真っ赤な人が住んでますよ、って言われたみたいな話ですよね。」

「そうそう。覗く場所は壁だったり、鍵穴だったり、バリエーションはいくつかあるけど、どれにも当てはまる事が一つだけあるよな?」

「確かに、相手もこっちを覗いている、ってオチは一緒ですよね」

「大正解。んで、もう一つこんな言葉を知ってるか?」

―――怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ―――

「?何ですかそれ?」

「りっちゃんって物知りなのね。ニーチェの「善悪の彼岸」の一節でしょ?それ」

「これまた正解。最も、言葉の本当の意味なんてわたしはよくわからないし、わたしなりの解釈しかしてないけどな」

「えーと、どういう意味かしら?」

「さっきの赤い眼の話を思い出してくれ。こっちが覗き込んだ時見えた景色は既に赤かった。相手はいつから覗いてたんだ?」

「こっちが覗く前、かしら……」

「ま、そういうことになるわな。わたしはこの話は怖い話じゃなくて、一種の警告なんじゃないかと思ってる。

人間が怖いもの見たさや興味本位で、人外の領域を覗き込んだ時に、相手も同様に興味を持って見てるんだ。

いや、こっちが見たくなくても相手は常に興味を持ってこっちを覗いているって言った方が正しいかな。

例え興味本位とかそんな気持ちは無くても、無意識にでも足を踏み入れてしまったら相手が興味を持っている以上、引き摺り込まれてしまうんじゃないか?」

「つまり、唯ちゃんは怪物になってしまった……って事?」

「あー、そんな意味じゃなくて、要するに自分が異常だと感じたものには半端な気持ちで近づくなって事。

この話も、覗いただけで終わってるだろ?異常だってわかってるのに、わざわざ必要以上に接近するのはやめようって話だよ。

わたしは……今の唯は異常だと思ってる。今まで通り、部活なんかでは一緒に演奏したりするけど、これ以上深い仲になろうとは……正直怖いし、はっきり言って思わない。

冷たいやつだと思われるかもしれないけど……」―――



結局、唯に憂ちゃんについて質問するのは禁止などのルールを決め、一定の距離をとる事で話は決着して、その日は解散になった

今考えると、わたしはあの時、平沢家に上がり込んだ時点で既に”赤い眼の女”と接触していたのではないだろうか

覗くだけではなく、家に上がりこんで、世間話をして、一緒にお茶を飲んだのではないだろうか

その時は運良くこちら側に帰ってこれたものの、”赤い眼の女”はその時からわたしに興味を持ち、今なお引きずり込もうとしているのではないか


……そもそも、唯と憂として生まれてきた”もとの存在”は、既に、わたし達と出会うより前に消えてしまっていたのではないだろうか

わたし達が付き合っていた2人は、深淵からやって来て唯と憂と名乗っていた”何か”ではないだろうか

唯と憂、2人は何らかの方法で深淵をのぞいてしまったのでは?

いや、入れ替わり、倒錯していくうちに、自ら深淵に足を踏み入れたのかもしれない

自ら足を踏み入れ、自覚のないままに深淵に住む怪物と化してしまったのかもしれない


2人がああなってしまった詳しい経緯は、今のわたしにはわからない

当の本人達も、自分がもはや人ならざるものになってしまったという自覚はないのではないだろうか

わたしを家に呼んだ時も、自分達は普通に生活を送っていたつもりなのではないだろうか――




物思いに耽るわたしの脳裏に漠然と

――”何か”はわたしについてきていて、今も隣にいるのではないか――

そんな不安がこみ上げてくる

わたしは、その不安から少しでも逃れたくて、大学の友人に電話をかけようと携帯を開く

画面の左下に着信が6件入っている、という表示がされていた

着信は、琴吹紬、秋山澪、中野梓から1件ずつ、そして大学の友人から3件

どれも似たような時間、わたしの記憶にない空白の時間にかかってきている



わたしがその履歴の中から大学の友人にかけ直そうとした時―――

携帯が、電話がかかってきた事を告げるために、小刻みに震えだす

わたしはその着信番号を見て、携帯を鞄の中に投げ入れる

先程まで感じていた不安は一気に解消され、目的地に着くまでゆっくり睡眠をとろうと思う余裕さえ生まれていた




きっと、わたしがこの街を訪れる事は二度とないだろう

キラキラと輝き、いつまでも色褪せない宝物が詰まった箱

色恋沙汰なんて何も無かったけど、確かに青春の一ページに刻まれた場所

あの二人は、その中で気が済むまで、役者が二人、そして観客は一人しかいない劇を続けていくのだろう

安堵と、少しの寂しさを覚えつつ、わたしは眠りに落ちていく

わたしを呼ぶ声は、もう聞こえなくなっていた