8月18日。

 とうとう受け渡しの日です。

 私は拘束されたまま寝ている唯ちゃんの頬にキスをし、例の変装をして街に繰り出しました。
 以前と同じ場所です。


 西口のコインロッカー11番を開けると、
 そこには東口コインロッカー39番の鍵が入っていました。
 これで間違いありません。
 サングラスを通して見た町並みは霞んで見えました。
 暗く淀んでいます。

 駅の連絡階段を降りていきました。
 壁には落書きがなされ、蛍光灯がチカチカと消えかかっている東西連絡通路です。
 私が最後の曲がり角を進み、東口に出る階段をあがっていると、真上から声をかけられました。


 どきりと胸が弾みました。
 目に入った光景が信じられなくて、サングラスを外して再び見ましたが、
 日光が強すぎてよくわかりません。

??「ほら、ムギちゃん!」

 平沢唯は階段の上から私に声をかけていました。
 私にはそれが救世主にしか見えませんでした。
 目を何度もこすります。

紬「唯ちゃん、どうしてここに……」

??「うふふ、待ってましたからね」

 いったいどういうことでしょう。
 さきほど山小屋でちゃんと両手両足が緊縛されているのを見てきたばかりなのに。
 笑顔はいつものまま、唯ちゃんは確かにそこに存在していました。

??「平沢唯を誘拐した犯人はあなたですね、琴吹紬さん!」


 階段の上の唯ちゃんはそう叫びました。
 私はすっかり混乱してしまいました。

??「あまり混乱させちゃってもしょうがないですね。こうすればわかります?」

 唯ちゃんはそう言うと、ポケットからゴムを取り出して自分の髪を縛りました。

 私は自分を恥じました。
 唯ちゃんとそうじゃない人の見分けがつかなかったなんて。

憂「妹の憂です。姉がお世話になってます。うちに電話をしてきたのはあなたですね?」

 そういえば以前、憂が唯ちゃんに変装して軽音部にやってきたのを思い出しました。
 まんまと引っかかってしまいました。

 けれども、納得いかないことが多々あります。

紬「ど、どうして……私が電話したってわかったのですか?」

憂「誘拐犯から電話があった後、大急ぎで音声サンプルを録音したのです。
  パソコンで音素を分析し、これが琴吹産業の最新ボイスチェンジャーで
  音声を編集したのだとわかりました。
  琴吹産業のホームページに変換サンプルが掲載されているのでわかります。

  けれども、これ発売が来週なんですよ。持っているのはきっと、
  琴吹産業の関係者しかいないと思って、怪しいなと思ったんです」

 なんという妹でしょう。
 姉とは大違いです。

紬「でも、証拠は……」

憂「琴吹さん。あなたは何気なく我が家に電話をしましたよね?」

紬「そうですけど……それがなにか?」

憂「通常、誘拐犯は人質から自宅の電話番号を聞き出して犯行電話を流します。

  けれども、お姉ちゃんは自宅の電話番号も覚えていない子なんです! 

 携帯電話も自宅に置きっぱましで、生徒証にも面倒臭がって電話番号書いていないんで、
 そもそもうちに電話が掛かってくること自体、
 お姉ちゃんの知り合いであるとしか考えられないんです。
 いくらお姉ちゃんを拷問しても自宅の電話番号なんて出てこないですから」


 私は名探偵平沢憂の推理に畏れをなしていました。自分が愚かでした。

憂「始めは何かの冗談だと思ったんです。

 多分お姉ちゃんの知り合いがいたずらしているんだろうなあって。

 けれども本当にお姉ちゃんが帰ってこなくなったので、

 とりあえず周りに心配をかけちゃいけないなと思って、

 私はお姉ちゃんの変装をして周囲に平沢唯の消失を感づかせないようにしました。

 それと同時並行で犯人を探っていったのです。そのとき琴吹産業が事実上の経営破綻に追い込まれ、

 社長が行方不明になったというニュースを聞いて、もしやと思ったんです。

 これは本当に大変なことになったのではないでしょうか、とね」


 平沢憂は再び髪留めを外すと、また唯ちゃんみたいになって話を続けました。

憂「でも、私はあなたを信用しました。きっと、お姉ちゃんのことは殺さないだろうって。
  きっと大事に保管してくれているんだろうって。違いますか?」

 私は何も言えませんでした。
 ただ、小刻みに震える私の様子から、少なくとも殺戮には至っていない
 ということは感づいてもらえたはずです。

憂「このことを私の父さん、母さんはおろか、警察、軽音部のみなさんもまだ知らないんです。

 私がお姉ちゃんのアリバイを作っておきましたから。

 だから、今からならやりなおせます。こんな犯罪なんてやめてください。

 琴吹さんはあくまでも清純なお嬢さんでいて欲しいんです。

 お金に関してはわからないですけど、軽音部のみんなで協力できると思います。

 さわちゃんにも相談しましょう。だから、お姉ちゃんを返して下さい」


 どうしてそこまで私に気を配ってくれるのかわかりませんでした。
 おせっかいにもほどがあります。
 ここまで、私は悪女になろうとしたのに。

 結局悪者にはなりきれないまま、平沢憂は私をふだんの
 ふわふわな現実へと簡単に引き戻そうとしていました。

 私は選択肢の上に立たされていました。
 このまま憂に甘えて、両親を説得すれば再び元の生活には戻れます。
 お金はないですけれども、憂の言うとおりなんとかなるかもしれません。

 しかし、私は唯ちゃんと一線を越えてしまっていたのです。
 憂が先ほど言った、お姉ちゃんを返して下さいという一言がいつまでも脳裏に引っかかっていました。



 唯ちゃんは私のものです。



 そして、私は目の前に立っているもう一人の唯ちゃんを凝視しました。
 唯ちゃんとそっくりで、聡明で、かわいい子です。
 憂がいれば、山小屋で孤独な唯ちゃんも退屈しないでしょう。
 いっそうのこと、三人で楽しめばいいのではないでしょうか。

 たった今思いついた名案に、私は震えるほどすがりつきたくなりました。



 私は憂ちゃんに声をかけました。

紬「それじゃあ、今からお姉ちゃんのところに案内しますね」

憂「うん!」

 憂ちゃんの無垢な表情を見て、私はこれからのことがとても楽しみになりました。




おしまい。