8月13日。


 身代金交渉が難航しているようです。
 私が軽音部の連絡網から電話番号をパパに教えたのですが、
 そもそも自宅に電話がかからないようで、
 パパはついに受話器を投げつけると諦めて不貞寝してしまいました。
 こんなに短気な姿を見るのは初めてです。

 ママに相談したところ、パパはもう精神的に滅入っているからということで、
 身代金交渉は私が努めることになりました。
 緊張しますが仕方ありません。
 生活費のためです。

 パパの関連会社、楽器部門の関係で開発したボイスチェンジャーをこの間入手したばかりでした。
 これを使えば問題ないでしょう。
 私は思い切って唯ちゃんの家に電話しました。
 耳に触れる受話器が震えているのがわかりました。

『もしもし、平沢です』

 快活な声が聞こえてきました。

紬「言うことを聴きなさい。さもないと、平沢唯の命はありません」

『へっ?』

紬「おたくの平沢唯さんを誘拐しました」

『ええーーーーっ! というかどなたですか?』

 それは普通教えないでしょう。

紬「返して欲しければ今すぐ五千万円を用意しなさい。
  警察、他者にこのことを告げたらただちに平沢唯を殺害します」

 カチャリという音がしましたが、受話器が置かれたわけではありませんでした。
 コップでも落としたのかもしれません。

『それで、その五千万円は……』

紬「明日、N駅東口のコインロッカー39番に入れなさい。扉を閉めて鍵を抜き取り、
  それを西口の11番に入れなさい。使用中であればその隣でも可とします。
  以上の動作を明日の午前中までに行うこと」

 しばらく受話器の向こうで沈黙が続きました。
 動揺しているのでしょう。
 頃合を見計らい、

紬「わかりましたか?」

 と尋ねました。すぐに返事がありました。

『あ、はい。五千万円ですね。了解しました~』

 すんなり理解してくれたようです。
 この反応だったら、もうちょっと高い金額を請求すればよかったかもしれませんが、
 それは追々考えましょう。

 静かに受話器を置きました。
 こちらの電話番号は向こうに通知されていないはずです。
 問題ないでしょう。



 終わると疲労感が一気に襲っていました。
 体調が優れません。
 重い足取りで部屋に戻ると、唯ちゃんは嬉々とした表情のまま床に転がっていました。

唯「あ、ムギちゃん! なんか、元気なさそうだよ、大丈夫?」

紬「ええ、なんともないですよ」

 そうは言うものの、私は唯ちゃんがやはり侮れない人だなと感じていました。
 自分が誘拐されたことはわからないのに、変なところでカンがいいのです。
 私が精神状態不安定なのも見抜いています。
 うかつなことはできません。

紬「それよりも退屈じゃないですか? ずっとそのままの格好で」

唯「うん、私ごろごろするのが大好きだから大丈夫!」

 監禁生活は案外、平沢家の日常と大差ないのかもしれません。
 私はまだ唯ちゃんに嫌われていないのだと納得し、ほっと胸をなで下ろしました。

唯「ゆーかいって気楽でいいね。この部屋はエアコンがなくても涼しいし。
  ほら、私ってエアコン苦手だからちょうどいいんだ」

紬「そうですね……」

 私は複雑な心境の間で揺れていました。
 自分はもっと罪の意識を持つべきなのかもしれません。
 しかしこの状態では、いつもの放課後ティータイムとさほど変わりません。
 まったりとした時間が流れていきます。

唯「でも、こうしてムギちゃんと二人っきりになるのは珍しいかも。普段はみんなと一緒だから」

紬「そうですね」

 今度は心を込めて言いました。

唯「せっかくだから楽しいことをしたいな」

紬「例えばどういうことですか?」

唯「ツイスターゲームとかどうかな?」

紬「ついすたー?」

唯「あ、でも私苦手なんだ。うちで憂とやるとね、いっつもバランス崩して憂の上に倒れちゃうの。
  それから、重なったままずっと憂を抱きしめてるの。
  結局ゲームはどうでもよくなって、二人でずっとごろごろしてる」

 どういう趣旨のゲームかよくわかりませんが、私は唯ちゃんと
 抱きしめ合っている姿を想像して真っ赤になってしまいました。

唯「どうしたの、ムギちゃん顔赤いよ」

紬「ご、ごめんなさい! つ、つい……」

唯「つい?」

紬「つい……ツイスターは持ってないんです」

唯「残念だね……。家から持ってくるのも面倒だし、まあこうしておしゃべりしているのもいいかな?」

紬「そうですね」

 変な想像が邪魔をして、その後の会話はままなりませんでした。




 8月14日。


 いよいよ身代金受け取りの日です。
 パパやママはもう方々を駆け回ったので、精神的にも肉体的にも限界が来ていました。
 琴吹家の女として私がしっかりしないといけません。

 カツラを被り、サングラスをかけてすっかり変装しました。
 普段の軽音部の活動で変装すること自体は慣れていましたが、行動を伴うのは初めてのことでした。

 N駅の西口コインロッカーへ向かいます。
 気のせいでしょうけれども、誰かに尾行されている感覚が捨てられず、胸の鼓動が高鳴っていました。
 ついこの間までの生活では五千万円なんて大したことがなかったのに、今となっては大金です。
 女子高生一人には荷が重いのです。

 指定した11番のコインロッカーにはちゃんと鍵が入っていました。
 とりあえず第一関門は突破です。

 地下連絡通路から東口に周り、39番のロッカーを探します。
 普段から駅はあまり使わないので少し迷いましたが、なんとかたどり着くことができました。
 ガチャっと大きな音がして扉が開きました。
 中には黒いアタッシュケースが入っています。

 私はそれを引きずり出すと、大事に胸に抱えました。
 五千万円ってどんな重さなんだろうと心配になりましたが、
 いざ持ってみるとなんとか自分で運べる程度の重さでした。
 私は少しほっとしました。
 また斎藤を呼び出さなくてもなんとかなりそうです。

 見回したところ、周囲に警察はいないようです。
 そもそも駅前には人自体が少なく、このぶんでは覆面警察官もいないでしょう。

 私は大急ぎで山小屋まで戻りました。
 パパが久しぶりに笑顔を浮かべて待っていました。
 ママが頭をなでてくれました。
 二人が私の到着よりもお金の到着を待ち望んでいたのはわかっていましたが、
 私もそうだったので仕方ありません。


 夢が膨らみました。
 五千万円あれば、律ちゃんに教えてもらったゲームセンターや
 駄菓子屋でいつまでも遊ぶことができます。
 おにぎりだっていくらでも買えます。
 高級な食品など要りませんでした。
 私は早く、普通の生活が送りたくてたまらなかったのです。

 しかし、アタッシュケースを開けてみたら事態は急変しました。
 五千万円がこんなに軽いなんてと油断していた私が悪かったのです。

 一万円札の中央には福澤諭吉の代わりに山中さわ子の学生時代が描かれていました。
 傍らには「見本銀行券」と記されています。
 アタッシュケースの表面はすべて見本銀行券で、それ以外は単なる新聞紙の切り抜きでした。


 パパとママは私を激しく叱責しました。
 私は別に間違ったことはやっていない、平沢家の判断だったんだと力説しましたが、
 私の言うことを聞く耳など持っていませんでした。
 私は涙を流しながら大声を張り上げました。


紬父「どうすればいいんだ!」

紬「まさかこうなるとは思っていなかったんです……
  ちゃんとお金を入れてくれているとばかり思っていました……」

紬父「約束通りあの人質を殺すしかないだろう!」

紬「それだけはやめて下さい! お願いします!」

紬父「どうして人質を庇うんだ! 
   お金を稼ぐために俺はあいつを誘拐したんだぞ、わかってるのか?」

紬「殺したところでお金は手に入らないでしょう? もう一度脅迫するしかないです!」

紬父「今度はうまく行くのか?」

紬「保証はないですが……なんとかやってみます」

紬父「次、失敗したら人質は殺すぞ」

 頭がどうかしてしまったパパの表情を前に、私は涙も枯れて立ち尽くすしかありませんでした。
 私はひとりぼっちでした。


 どうしてこんなことになってしまったのでしょう。
 唯ちゃんを殺すわけにはいきません。
 かといって、このままの生活を続けていたのでは気が狂って死んでしまいます。
 もうすでに心のどこかがぽっかりと空いてしまったようでした。

 うまく動いてくれない足を引きずりながら二階の隠れ部屋に戻りました。
 唯ちゃんは私の怒声を耳にすることなく、安らかな表情を浮かべて眠っていました。
 唯ちゃんが天使のように見えました。
 そのとき、さきほど枯れたはずの涙が急激にこぼれてきたのです。



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