昔のことで、長い間鮮明に覚えている気持ちがあった。
でも、その思い出もとても久しぶりに会ったその日に過去の記憶に変わってしまった。

色褪せたペンキを何度も何度も塗り重ねていて、
ある日突然その層となってしまったものが
何かの拍子に「ペリッ」という音を立てて剥がれてしまった。
たとえると、そんな感じだった。
しかし、ペンキの下に隠してあった古臭い思いを、私は私の中にみた。
どうすることも出来ないまま、私はそれを見て立ち尽くした。

でも、彼女はそれを知るよしもなく、懐かしい趣を残して、私の知らない顔で笑った。
左手の明かりに私は胸を痛めたけど、それは彼女の幸せの光であり、
いつかの私の闇を晴らす明かりでもあったことは確かだったから。
私は私なりにそれを受け入れて、
剥がれ落ちたペンキの欠片をいつか手に取り1人で眺めでもするんだろう。
それは私の孤独の証でもあるけれど、私の強さの証でもあるのだから。

青になった横断歩道を共に歩くけど、私らの道は遠い昔に離れていた。
たまたまその道が未来にもう一度交点を持っていた、そういうことのように今は思う。

ムギは、この人といれたら自分は生きやすいのかも知れない、と私が初めて思った人だった。
その気持ちはある人に言わせれば「恋」やら「愛」やら、
なんだかんだで納得出来るような言葉になるんだろうけど、
とくにそれと言った恋愛感情なんてものは高校時代、私の中にはなかった。

こじつけようとすればたしかに。
なんとかそういった言葉に当てはまるようにも思えたけど、
こじつけようとしなければ、そこには何もなかったし、
こじつけてしまうとそれは不自然以外のなにものでもなかった。
その中途半端さが私には心地よかったし、今までとは明らかに違っていた。

「結婚と恋愛は違う」とか「1番好きな人とは結ばれない」だとか、
そういった言われ方は昔は納得できなかったけど、最近はなるほど、と思う。

死ぬまでは、こうして自分が自分のままに生きていないといけないということがとても辛かった。
毎日毎日、毎年毎年同じことを繰り返して生き続けていることにとても恐怖を感じた。
他の人はいったい何を考えながらその繰り返しを続けているんだろう。
誰か、同じように感じている人に出会いたいと思うけど、
それと同時にそんなやつ誰もいなければいいのに、とも思った。
同じように感じる人がいなければ私は1人で孤独だけど、
特別なもののように自分のことを思えるかもしれない。
もう少し、生きることに対して必死になれるかもしれない。


でもそんな風に考えている以上、たとえ誰かに出会えたとしても私は1人で独りを貫いて、
その誰かに出会ったことにすら気づけないんだろう。
だから、こんな私でもムギと出会えて、ちっぽけなりに幸せを人並みに感じられたことは
こんな偏見と差別にまみれた世界で奇跡にちかいことだったんだな、としみじみ思う。

店に入ると、店内は思った以上に明るかった。
それほど混んでいるというわけでもなく、かといって人がいないというわけでもなかった。
店の奥の壁側の席に通された。
私が壁側に座り、ムギが窓を背にして座った。
彼女の後ろに流れていく街が見えた。
街に溢れてるありきたりな店なんだけど、彼女がいるだけで特別に思えた。
そういう風に物事を捉えることが、「人がそこにいる」ということならば
それはそれほど悪いものでも居心地の悪いものでもないように私は思った。

ムギはレモンティーを、私はコーヒーを頼んだ。
あの頃、彼女はレモンティーを飲めなかった。
私はコーヒーを飲む年齢ではなかった。
そんな風にしていったい、いまさら昔との違いを見せつけあってどうするんだろう。

その店で当たり障りのないはなしやら、
今までの互いの出来事やらを普通の友達のように話をした。
会話をとくにここに書き記すことをしないのは、
私がムギとのそれを特には重要だと思っていないからだ。

離している間も、いやむしろすでに今日彼女にであったときから
私はずっと頭の中を支配されていた。
いつ、それを切り出そうかと胸をやんでいた。
その行動の結末を想像すると、
ちょっと自分の中で切ないものが蒸発して、
その蒸発熱で凍えるようなそんな気分になったけど
それはそれで同時に存在する私の煮えたぎってしまうようなものを
冷静にさせてくれる役割を果たしていた。

3時間ほどそこで話をしてから店を出た。
あたりはまだ昼下がりで、必要以上に人がどっかからどっかへ足を運んでいた。

何をいうこともなく、私と彼女は店から左の道へと歩き出した。
こういう、彼女との以心伝心的なものが私は好きだったし、
それが今も顕在しているということがとても嬉しかった。

昔、大学の授業と授業の合間合間に2人でそうしていたように
私らはそのまま無言でのんびりと散歩をしはじめた。
うつろっていく雲を、自分たちのペースで見た。
落ちていく落ち葉の落ちる音を二人で聞いた。
昔はなかったところにコンビニが出来ていて驚いた。
前方から歩いてきた黒いノラ猫がかわいくムギにじゃれるのを
私は微笑んでみていた。

そうしているうちにひっそりとした公園にたどり着いた。

行動はするにしても言葉にはしてはいけないだろう、と私は考えていた。
言葉という形のない、でも決定的なものを私はムギに与えてはならない。

そう、たとえていうなら、私はある事件の犯人なのだ。
ダメだとわかっていても、一応完全犯罪を目指さなくてはならない。
自分の足を引っ張るような証拠を微塵も彼女の中に残してはいけないのだ。

私が言葉にさえしなければ、出来事は彼女が言葉にするしかない。
誰かに話そうにも、ムギが出来事を言葉にしなければならない。
そういう風にムギを仲介役にしてしまえば、その言葉には一切、私の感情が入ることはない。
万が一彼女が話しをした誰かに私の中身を推測をされたとして、
その推測が的確だったとしても、それは推測の域を出ることはない。
彼女の主観だらけで私が立ち入る隙間はない。
本当の私の気持ちはそこになんかいない。
秘密を抱いたまま私は容疑者死亡というシナリオを演じるのだ。

ただ、それはあくまでも私の卓上の空論であって、
事実になり得るのかどうかは、別の問題だった。


公園は誰もいなかった。
廃れているわけではないだろうけど、中央にある噴水は水が止まっていた。
どこか別世界に入りこんだように、音がなかった。
ただ、私とムギが踏んづける落ち葉の音だけが、キシキシと響いていた。


「ムギ」と、
私はその日はじめて落ち葉の音にまみれた沈黙の中で彼女の名を呼んだ。
実にそれは何年ぶりのことだったんだろう。
私は少し、その名前を再び本人に向かって言う自分自身が照れくさかったし、
こころなしか少し前を歩いていたムギもハッとした顔をして、私を見た。
いや、私の方が背が低いのだから、ここは「見下ろした」と言ったほうが正しいのか。

「どうしたの?急に・・・」
そう言って、ムギは優しく微笑んで歩みを止めて身体ごと私のほうを向いた。

「いや・・・なんでもないんだけどさ、ちょっと呼びたくなったんだよ」

私は上着のポケットに手を突っ込んだまま少し身体を横に向けた。
これからのことを考えると、ムギとまともに向き合えそうに私はない。

「なんでもないことないんでしょ?
 りっちゃんが私の名前を呼ぶときはいつもちゃんと意味があったよ」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

「そうか、よくそんなこと覚えているね」

「うん、何でだろうね。昔のことってさ、結構どうでもいいことばかり覚えてるの。
 大切にしたかったものとか、結構忘れてしまっているのに」

ムギは少し遠くを見るような顔をして、考え込んだ。
私の気に入っている、ムギの癖のひとつだ。
何も変わってない。
泣きたくなるほどに彼女は何も変わっちゃいない。

私のことをこの人はわかってくれているのに
一体、私はどこで道を間違えてしまったんだろう。
そもそも、私は間違えたんだろうか。
もとからこうなると決まっていたということはないだろうか。
だとしたら、今、この瞬間の2人は間違いじゃないことになる。
当の本人が納得していないのに、間違いじゃないということはあるんだろうか。
とても疑問だ。

だとしても、もし、私たち2人が間違いじゃないとしても、
2人の間にはなにものにも替えることのできない現実がただその身を横たえているばかりだった。

「落ち葉が満開に咲いてきれいだね」と私は何か話をしたくてムギに言った。
これを言うとムギが笑うことを私は知っている。


「まだ桜のことを落ち葉と言っているの?」
そう言って、ほら、ムギはクスクスと笑う。

これは私とムギの中でだけ通じる冗談で、
もちろん私にだって、桜が落ち葉じゃないってことは
とうの昔に理解しきっているし、他の誰かの前でこんなことは言わない。
こんなことを言ったら私は変人だろう。それくらいの常識は自分にあるつもりだ。
大体この冗談だって、ムギの名前と同じくらいの年月ほどに私の口から出たことはなかった。

「だって、そうだろう?落ちたあとの桜の花びらなんて、
秋の枯れ葉と同じ立ち位置だよ。雨が降ったあとのなんて、とくに」

私はそう言って足元に散らばる桜の花びらを靴の裏でなでた。
かすかに泥で汚れて、威厳をなくしたそれらを。

私が足でそこらへんの花びらを一箇所に集めていると、
ムギが同じように自分の足元の花びらを一箇所に集めはじめた。
私はただ、ムギが私のまねをふざけてしているだけだろう、と思ったけど
どうやらそうではないらしかった。
しばらく二人でせっせと互い互いに花びらを集めていたけど、
その桜の花びらの山がある程度の大きさになったところで
ムギはふっとしゃがんでその花びらを両手に持ち上げた。

「なにを」

私がそう聞くやいなや、ムギはそれを私たちの真上にばっと放り投げた。
たくさんの花びらが、2人に降り注いだ。

それは自然に舞い散る桜の花びらの量とは比べ物にならないほど少なくて、
少し異常な光景で、一瞬に終わってしまうもので、だけど
とてもきれいで、永遠に続くように思われた。

舞う花びらの中で、その日はじめてムギと眼があった。




しばらく眼が離せなかった。その光景は私にはきれいすぎた。

ムギはムギで、私の目をまっすぐに見たまま
ムギは、りっちゃんとはこうしてどんどんあうのが難しくなるのね、と言った。

桜の花びらはとうの昔に落ち葉になっていた。

ムギがどうしてそれを言ったのか、
私にまたいつか会う気があるとでもいうのか、とか
そんなことはわからない。
ただ、その言葉は、あの時に吐き出されたその言葉は間違いじゃないのだということは
少なくともその時、私にも理解できた。

手に入らないのなら、いっそ粉々にしようと思ってた。
だけど、もうそんな気持ちはなかった。
私の中の何かが萎えてく。一体このときをどれほど待ったんだろう。

「私はさ、ムギ・・・」

桜はもう地面に落ちていた。
ムギは一度視線をはずしてからまた私を見た。私はずっとムギから眼をそらさなかった。
その瞳に私はまだ友達として写っているだろうか。
このことを言っていいのかわからない。言い切っていいのかすらわからない。
自己満足だ、と思う。だけど、その自己満足をこなさなきゃ、
私はもうずっと何年も同じところにたちっぱなしだから。それはいやだから。
私だって、誰か好きな人とずっと一緒に居たいし、幸せになりたいから。
こんなに心臓がドキドキするなんてこと、一生にあと何回あるだろうか。
もうこんな思いはしたくないな、と思う。
でも、それと同時にそれでも誰かと出会いたいな、とも思う。
深呼吸をした。

せめて笑って言いたかったな。唇が震える。

「・・・ムギが好きだ。本当に好き・・・だった」

とっさに過去形を使ったのは、ムギへの気遣いでもなく、ただの私の弱さだった。
ムギは下を向いて、何も言わなかった。それでも私は続けた。
さっきの言葉よりもこれはしっかりとムギに届くように、強く言った。

「でも、ムギがいなくても私は生きていける。そうわかったんだ」


うん、とだけムギはうなずいた。

そして、ありがとうごめんね、と言った。
それでいい、と思った。

私はようやく微笑めた。いいよ、と言った。
そして、ありがとう、って言った。

ムギはもう帰らなければいけない時間だった。
公園からそのまま無言で駅まで歩いた。
少しだけ、どちらかともなく手をつなぐ。
右手にあたる硬いものが、私の心の表面をまた少しざらつかせる。

高校3年生の夏、ムギの手をこういう風にひっぱって
幼い私は、町中をムギと歩きまわった。

横断歩道の赤信号で立ち止まる。
2人の間に会話はなく、私はムギのほうをふと見てみた。
ムギの頭にさっきの落ち葉が1枚ついていた。
とってやろうとして、やめた。
そんな風に気軽く触れることもなんでだかもうためらわれるくらいだった。

あの時たしかに、私の世界はムギの世界とつながっていて。
なんの疑いもなく、私がムギの笑顔を作ることができていて。
私がムギを幸せにしているんだろうか、とちょっとうぬぼれて。
そういうことがとてつもなく貴重なことだなんてこれっぽっちもわかっていなかった私は
あまりにも時間にものごとを任せすぎて今日まで来てしまった。

「ムギ・・・」

「・・・なに?りっちゃん」

その結果がこれである。

「結婚・・・おめでとう」

「・・・うん」




青になった横断歩道を共に歩くけど、私らの道は遠い昔に離れていた。
たまたまその道が未来にもう一度交点を持っていた、そういうことのように今は思う。

駅は遠くて、でもすぐに着いた。
ムギの手が自然と私の手とほどけた。
そのぬくもりをいつまでも、この手の中に抱き続けていたかった。
私が男だったら、ムギをこの場から連れ去ってたんだろうか。
あの頃のように、ムギの横で水あめでもこねて、2人じゃれて笑い合えたんだろうか。

ふと、そんなことが頭をよぎった。
一瞬でもそんなことを考えてしまった自分がとたんに恥ずかしくなった。
たとえ私が男に生まれていたとしても、
私のこんな性格じゃムギを他のやつから奪うなんてできないだろう。
私は、ダスティンホフマンのようにはなれない。

はは、っと笑いがこぼれた。
ムギがどうしたの?と聞いてきた。

「いや、なんでもないよ、ムギ。もう・・・なんでもないんだ」

そう、と言ってムギは私を見てくしゃっと笑った。
もう、ムギのその笑顔だけで十分だった。

ムギはのぼりの電車の、私はくだりの電車の切符を買う。
もう、こういう風に私とムギと2人で会うことはないのだろう。

「ムギ、またな」

「えぇ・・・またね、りっちゃん」


改札口で、ムギと、さよならをした。


おわり