憂「……梓ちゃん」

憂「お姉ちゃんはただの依存だっていうけど、」

憂「私、本当に好きなんだよ」

憂「梓ちゃんのこと……」

憂「……きらいになったり、しないから」

憂「だから、……お願い、離れないで」


 黒い手で首根っこを掴みあげられて子猫を捨てるようにして赤い部屋に放り込まれ、
 そのまま巨大なハサミで四肢をズタズタに刺されて息絶える寸前に目が覚めた。
 時計の音がかちかちとうるさい。自分の息がぜえぜえと耳障りだ。

 最近こんな夢ばかり見ている気がする。
 フロイトか何かに尋ねれば夢に意味でもでっちあげてくれるかと期待したけれど、
 お医者さんがくれたのは微量の睡眠導入剤とネットで拾えるような慰めだけだった。


憂「梓ちゃん……大丈夫?」

 また相当うなされてたんだろうか。電気を点けなくても、声で表情が伝わる。
 どうせ心配してくれてるんだ。自分のことなんか忘れるぐらいに。
 青あざをこの手で付けたのに、それでも私の方を向いている。
 ばかみたい。

梓「・・・・大丈夫」

 しねばいいのに、なんて言葉をどうにか口の中で噛み砕いた。
 言葉のナイフはまず憂の喉元を裂き、翻って私の耳を突き刺し、
 出血多量で二人は言葉と耳をそれぞれ失う。
 そんな、何度もやり過ごしてきたヴィジョンを浮かべて言葉をこらえる。

憂「……お水もってくるね」

 下着も付けずにベッドから掛け出そうとした憂を私は引き留めた。
 二小節ぐらい休符をおいて後悔の重低音が鳴り出す。
 この子は基本的に仕事に飢えてるんだ。なんでやらせてあげなかったんだろう。

憂「そっか。……ごめんね、変なこと言って」

梓「ううん。私の病気は憂のせいじゃないって、何度も言ってるじゃん」

 ごめんね、と憂はまた呟いた。
 投げつける傍から相手に届かぬうちに床に落ちて足を刺す言葉が痛い。
 ごまかすように熱帯夜の汗にまみれた憂の肉体を抱き寄せた。
 吸血鬼が血をすするようにして首筋に痕を付ける。
 憂ははじめ、戸惑いとしきたりとしての抵抗を吐息に交えた後、
 すぐに私に身を委ねた。

 身体をあくせくと動かし愛撫の行程を続けながら、頭の奥は冷めきっている。
 とりあえず、好きと言ってみる。愛してる。大好き。世界で、一番。
 いつだって憂は陳腐な言葉にあっけないほど騙されてくれる。
 もしかしたら、騙されたふりが私の心を癒すとでも思っているのだろうか。
 だとしたら逆効果なのに。どうせ言葉しか伝わらないって、かえって空しくなるから。
 ……そんなはずはないか。憂は私と違って、打算的なキャラじゃないから。

 あずさちゃん。
 あえぎ声の中で憂は私の名前を呼んだ。すがるように。
 私の下で身もだえ震える彼女の目は笑っちゃうぐらい真剣で、
 まるでキリストでも見上げるみたいな顔してる。あはは。

 憂の中に右手の指を差し込みながら、なぜか磔刑に処せられた自分の姿が浮かんだ。
 私は即席の十字架にくくり付けられ、経血のようにどろりとにじんだ汗に全身を濡らす。
 取り巻く群衆の熱気とソドムを焼き尽くすほどの灼熱の太陽が、この身体から僅かな水気すら奪う。
 すでに両手のひらには太い杭が貫かれ、処女の血に塗れた指は二度と使いものにならない。
 フレットを指先が走ることも、ピックを意のままに踊らせることもない。


 彼女の奥深くに指を滑らせ、膨らんだ果実に唇を寄せる。
 左腕で頭上に押さえつけた両手首を震わせながら、憂は腰をよじる。
 唇はそのまま髪に隠れた耳元へ向かい、即興の言葉と舌の感触を味わわせる。
 甲高い声を遠く聞きながらも、私の頭の中では処刑映画がクライマックスを迎える。

 かくして妄想の中で、白日の下に晒された罪人の私は聴衆の熱狂に包まれる。
 抑えても漏れてしまう、こんなうめき声に観衆はカタルシスを覚える。
 でも、大げさに身もだえたりはしない。わずかなプライドがそれを許さない。
 三文役者のように痛みを全身で表現して、大げさに苦しんでみせるのはバカらしい。

 ふと思う。
 私はこの子に救いでも与えているんだろうか。
 それとも、この人から救いを受け取っているんだろうか。
 どうでもいいけど。

 そうこうしているうちに憂が達していた。
 とりあえず抱きしめて、どこかのJポップにあったような愛の言葉を交わす。
 二人だけの感覚を味わいたいのに、どうして言葉はこうも陳腐なのだろう。
 彼女の身体の熱が冷めやる頃、私は床に転がしたペットボトルを拾い上げた。


 キャップを開けてミネラルウォーターを口の中に流し込む。
 ゼリーのようにぬるくなった液体に、冷たさが刺すような潤いはなかった。
 それでも、乱れたベッドの上で磔刑に処せられた私には冷たく染み込む。
 隣の喘ぐような吐息に意思の伴った声が混じる。

 ――いる?
        ――うん。

 ふいに、そんな電報じみたやりとりがいとおしく感じてしまう。
 身体を重ねながら交わしたいくつもの愛に似た言葉よりも、繋がりを感じてしまう。
 けれど、声が言葉になったとたんにこの感情も微分されてしまう。

 考えすぎる頭を一度放り投げて、なだらかに広がった胸の真ん中にペットボトルを持たせる。
 憂も手をやるけど、そのまま腕を持ち上げる気力も起きないようで、
 向こう側の様々な光のかけら――夜光塗料の塗られた時計や、携帯の充電ランプなんかを眺めていた。


 私はペットボトルを取り上げ、大さじ一杯分の水を口に含み、彼女の口へと流し込んだ。
 今度はそれほど舌を絡めないように、喉を詰まらせないようにゆっくりと。
 室温と同じぐらい、体温よりは低い液体が喉の奥へと流れ込む。
 ごくり、ごくりと喉のなる音が聞こえ、なんとなく乾いた指を絡めあわせてみる。
 私の胸が彼女の膨らんだ胸に重なると、心臓の音さえも聞こえる気がしたけど気のせいだった。
 部屋の奥で、時計の針がまた一つかちりと動く。
 その拍子に頭の中で数ヶ月前の記憶が散らばり出す。

 重ねた肌の感触は時々、私の記憶の部屋から勝手に引き出しを開けてしまうらしい。
 今も、初めて憂と関係を持った日、体温がひどくいとおしかった時のことを思い出してしまった。
 ひどく寒い春の日の夜、唯先輩が上京して数週間経ったころだ。

 いくつかのイメージが頭に浮かぶ。
 窓を濡らす雨、時計の音、ソファーに並んだ二人、がらんどうの部屋、重なる手、奇妙な重力。
 そうだ。あの日、私たちはあの部屋の重力に引きずり込まれるようにして関係を持った。
 懐かしい記憶。でも、記憶が眠り猫のようにいきなり爪を立てることも経験上わかっていた。
 私はイメージが繋がって物語を作ってしまわぬように、わざとらしく憂のほどいた髪を撫でる。

  『はじめての時みたいだね。』

 はっ、と顔を見てしまう。
 その穏やかな二つの目はあの時と変わらず、一瞬、時間の感覚が奪われる。
 記憶の中であらゆる瞬間に向けられてきた彼女の瞳が回送列車のように駆け抜ける。
 数ヶ月にも思えた一瞬が過ぎて初めて、自分の気持ちが驚きだったことに気づく。
 こんな風に私は頭が悪かった。

梓「そうだね・・・・って、なにが?」

憂「ううん、なんでもない」

 憂はそう言って私の身体に腕を絡ませた。
 目を閉じて、蝶が木の枝に止まるように、ふわりと。
 私はもの言わぬ樹木と化して、風に葉をそよがすように憂の髪を撫でる。
 少しだけ汗のにじんだ、けれども溶けるような感触の髪。
 その髪を縛り付けるものは、今はもう外れてしまった。

憂「……梓ちゃん」

梓「どうしたの、憂」

憂「きょうは、その……大丈夫?」

梓「……うん。憂がいるから、だよ」

憂「……えへ」

 はにかんで身を縮める憂の頬を指先でそっとなぞる。
 くすぐったがるようにますます身を縮め、私の小さな身体にその頭を寄せる。
 もういっそ、言葉をなくしてしまいたかった。
 この場の体温だけを信じて、永久にここに閉じこめられてしまいたい。

 そうだ。世界中の時計が止まってしまえばいい。
 そうすれば、私たちは朽ち果てることなく永遠に生き続ける。
 窓を閉じれば、ここは完璧な世界。
 テレビに映るミニチュアのような地球だけ眺めて、
 気が向いたらギターを爪弾いて、
 憂の作るものだけを身体に入れて、
 身体を動かしてはベッドから言葉を振り落とす。

 すべての言葉と睡眠剤が切れた時、私と憂の肌も癒着して、身体が溶けて一つになる。
 この家も、ギターも、細い指も、ミネラルウォーターも、
 流れる髪も、汚物も、時計も、アンプも、部屋も、全部一つになる。
 見えないシールドでつながれた私たちは夜となく昼となくメロディを奏で続けるだけのただの生き物になる。

 それは人間になる前の、猿ですらないただの生き物。魚にも鳥にも似た、名前のないただの生き物。
 かたくて、つめたくて、小さくて、ぶかっこうで、
 なまなましくて、しとやかで、広くて、暖かい、やわらかな生き物。
 それは言葉に縛られず、本能にのみ従って動く、美しいけだものだった。

 かちかちと無粋に鳴る時計の音がやかましかった。
 憂は気づくと腕の中ですうすうと寝息を立てている。
 そっと腕を動かし、腕が痺れないようにする。
 夢の中でこの子は誰と会っているんだろう。
 勝手に違和感がこみ上げてきて、喉の奥がぶり返してくる。
 ダメだ。
 ふとした弾みでむせぶ吐き気をいつもの調子でやり過ごす。
 よかった。トイレに行く必要はなかったみたいだ。

 突然の吐き気は憂と寝るしばらく前から続いていた。
 いつからその種を植え付けられたのかは分からないが、吐き気は着実に私の胃袋に根を張り、時々思い出したように針を刺す。
 大学で初めての梅雨を迎える頃には私も慣れたもので、抵抗なく洋式便器を抱え込むようになっていた。
 ひんやりした陶器の便器と、口からこみ上げる得体の知れない固まりの味。
 慣れればどちらがより汚いのかすら分からなくなってくると最近気づいた。


 はじめは身体の変化に怯えもした。
 自分の中からそういったものが噴き出してくることには今も無意識にこびりついた違和感がある。
 けれどそれは私の子宮から毎月流れ落ちる血液と似たようなもので、
 そういう仕組みだと思えば受け入れられてしまうらしい。
 かえって月経の方が身体に入れた覚えのないものが流れ出るから、未だにつかめない感じすらある。

 以前、唯先輩と飲み交わしている時にそれに襲われたことが何度かある。
 アルコールが苦手なことも、吐き気との向き合い方も、
 身体の使い方も、唯先輩に教わったようなものだった。
 あの人は予想外なほど冷静に背中をさすり、抑えてもむせび出るものをやさしく絞り出した。

 ――あずにゃん、ダメだよ。

 唯先輩はそうやって、右も左も分からぬ小学生に諭すような声を掛け、
 産婆が妊婦の腹から子供をこの世に引き出すような手でさすって、
 私の胃液と吐瀉物を居酒屋の油っぽい便器の底へと引き下ろした。


カルピスサワー、唐揚げ、軟骨、バターコーンなんかの入り交じる液体を一通り吐き出した。
 気が抜けたころ、自分の視界が潤んでることに気づく。
 ウミガメの産卵みたいだ――そんな発想が頭をかすめると、どうしようもなく笑いがこみあげた。
 唯先輩はそんな私と私が吐き出したものとを不思議そうに見比べる。

 ――あずにゃん、大丈夫?

 それが私の胃袋に向けた口先だけの慰めか、それとも私の精神に向けられたものかは今も分からない。
 ただ、彼女の好奇心に駆られた目だけは嘘をついていなかった。
 ぞっとする。
 あの人がそんな風に、子供が遊ぶブロックでも見るように私を眺めたのは一度や二度じゃなかった。

 背中を撫でながら吐瀉物とその生産者を見比べていた唯先輩はやがて洋式便器のレバーをひねった。
 遊び終わった人形を放り投げるように、いともたやすく。
 濁流に吸い込まれていく汚物に、どうしてか心の奥がひかれて仕方がなかった。


 記憶の濁流に引きずり込まれそうになるのを、抱いてる女の子の感触でまぎらわす。
 体温はいい。意識さえ保っていれば、私を今この場所に引き留めてくれるから。
 向こう側の時計のかちかちいう音にわざと耳をすます。
 規則的なリズムのせいで胃液がこみ上げる感覚がしたけれど、
 過去に引きずり込まれるぐらいならそれも都合がよかった。

 暗がりに慣れきった目で寝静まった憂の姿を眺める。
 うつむいた憂は横顔しか見えない。
 でも、いつか世界史で見たようなギリシャ世界の彫刻みたいに美しかった。
 憂は石のように、石膏がすっかり固まったみたいに深い深い眠りの底に落ちている。
 私の眠りは未だに固まらず、粘性の強い半固形物としてぎとぎとまとわりつく。

 唯先輩は一通り私という人形で遊び尽くすと、あっけないぐらいに離れてしまった。
 今は誰で遊んでいるのかは分からない。知る必要もなかった。
 行き場を失った執着心を、私は唯先輩の妹に向けた。

 あとの流れは簡単だった。
 できの悪い映画の筋立てにあるような、ローソンで買える程度のちゃちな“運命”に二人はころっと酔いつぶれた。

 結局、磁石が急速に引き合うようにして抱き合ったまま道を転がり落ちている。
 彼女も一人では生きていられず、必要とされることに飢えていたのだろう。
 自分の存在を常に担保してくれる存在というのは、麻薬だ。
 梓ちゃんが笑顔になってくれるなら。梓ちゃんが元気になるまでなら。
 そんな言い訳を自分に許したとたん、憂は私から離れられなくなった。

 私は憂に愛の言葉と承認を与える。
 憂は私に体温と依存心を差し出す。
 そういう契約のつもりだった。
 刷り込むように身体を重ね、毎晩契約を更新する。
 私は憂のことを本当に好きなのかも、そもそも“好き”という感情が何なのかもわからない。
 ただ、憂が私の言葉や腕に溺れていてさえくれれば平和だったのだ。
 究極の自己完結。
 他には何もいらない。

 だからもう帰ってください、唯先輩。
 ここはもう私たちの部屋なんです。


唯「・・・・」


梓「・・・いるのは分かってるんです。隠れてないで入ってきたらどうですか」

 憂を起こさない、けれどもドアの向こうに響くぐらいの声を私は飛ばした。
 数秒経ってドアノブがかちゃりと開く。
 その音は時計の針がかちりと鳴るみたいに耳をつんと刺した。

唯「……」

梓「覗き見は人としてよくないですよ。ていうか、合鍵捨ててくださいって言ったじゃないですか」

唯「……それは、ごめん」

 唯先輩の顔は暗がりに邪魔されてうまく見えなかった。
 けれどもどうせまた、子供のように無邪気に観察しているに決まってる。

 そうなんだ。
 ここは私の一人暮らしのマンション。
 桜高時代の友人たちは誰もこの場所を知らない、今や私と憂だけの隠れ家。
 桃色のカーテンと赤茶色のフローリング、薄汚れたベッド、その全てが身体によくなじんだ。
 まるでそこが元から帰る場所だったみたいに、肌によくなじむ部屋だった。

唯「ってか、あずにゃんってさ。なんか自分に酔ってるとこあるよね」

梓「……」

唯「一人だけ苦しんでる、みたいな。そういうのよくないよ」

梓「……帰ってください」

唯「憂がどうするかも憂の勝手だけどさ、」

 子どものいたずらに呆れた保母さんみたいな口調で喋りながら、
 唯先輩はジーパンのポケットから携帯を取り出した。
 やば、もう四時じゃん。夜が明けちゃうよ。
 そう、嫌味のようにつぶやくのが聞こえた。

 唯先輩。もう私はあなたをこの部屋に招く気はありません。
 もう私たち二人でこの部屋は定員オーバーなんです。
 私と憂は精神的な意味で自給自足してるんです。
 だからお願い、もう関わらないで。

唯「……」

 携帯の光のせいで唯先輩の顔が見えてしまった。
 それは動物園に連れてこられた異国のけだものを見るような、
 もの珍しさと不快感と興味と見下しの入り混じったような、観客の顔だ。
 たぶん唯先輩は、私が磔刑に処せられてもこんな顔をして見に来るのだろう。
 ――痛がってなんか、やるもんか。

 そう、ここは完璧な世界。
 私と憂は二人だけの国を作って、その国に対してだけ愛国心と忠誠心を向ける。
 憂に銃は持たせないけれど、私はいくらでも武装してやる。
 誰もこの国に入れるものか。

梓「警察呼びますよ。いい加減出てってください」

 深海魚でも見るような目を向けて楽しいですか。
 そうです私たち、傍目からは奇怪な形状をしていることでしょう。
 ですけど唯先輩。
 私から見たら、あなたの方が幼形成熟したみたいで、見るに耐えないんですよ。

唯「・・・・ちぇ」

 ようやく唯先輩は携帯を閉じて、出口へと向き直った。
 暗がりがまた訪れる。
 ただし、夜明けはもうすぐそばのようだけど。聞きたくもなかった。

 薄桃色に染まりだした闇がふわりと私たちの部屋におりる。
 憂を起こさないように、それとなく耳をふさぐ。
 ドアを閉じる寸前、見世物小屋から出て行く間際、唯先輩がぽつりとつぶやいた。


唯「あずにゃん、きもっ」


おわり。