その日、私はむし暑い部室棟の廊下を走り抜け、音楽室に向かっていた。
 長い長い階段を上り終える頃には、背中がじっとりと汗ばんでいた。暑い、あつい。

「お疲れ様です。すみません、掃除で遅れて――」

 こんな暑い日なのだから、先輩達はムギ先輩の冷たい麦茶でHTTを満喫しているか、暑さでグダグダになっているかのどちらかだと思っていた。
 ところが、実際にはそのどちらでもなかった。

「何してるんですか?」

 部室の隅。そこで、先輩達がしゃがみこんでいた。
 こんな暑い日にあんなに密着して……見てるこっちが暑くなりそう。
 ムッタンを肩から下して、近づいてみると、

「おっ、梓か。遅かったな」

「はい、すみません。ちょっと掃除が長引いて……主に純のせいですけど」

「佐藤さん、だっけ?」

「鈴木です。それより、先輩、そんなところで何してるんですか?」

 実はな、と律先輩が口を開いたところで、もっさりショートの頭がこちらを向いた。
 唯先輩。
 私を見るや否や、不穏なオーラをまき散らしてゆっくりと立ち上がる。
 すこぶる嫌な予感がする。っていうか、予感というよりこれはもう予定調和に近い。

「あーずーにゃーん!」

 なんでこの人は予備動作もなしに人に抱きつけるのだろうか。
 途端に、温かいと形容するには余りにも強烈な暑さが襲ってきた。制服越しにジワリと伝わるそれに、思わず顔をしかめる。

「暑いです、離れてください!」

「大丈夫! もうその心配はいらないからね!」

「は、はい? 何言ってるんですか、先輩。とうとう暑さで頭がおかしく――」

 と、唯先輩の肩越しに、さっきまで先輩達がしゃがみこんでいた位置が見えた。
 そこには、ちょうど椅子くらいの大きさの白い箱のような物があった。

 いや、白い箱なんて形容はよそう。単刀直入にあれは、

「冷蔵庫……ですか?」

「そうだよー。ムギちゃんがね、皆のために持ってきてくれたんだ!」

 皆のために? 一体、何のことだろう。

「これでもう放課後の暑さともお別れだね、あずにゃん」

「えっ?」

「だって、毎日アイスが食べられるんだから!」

 アイス、か。なるほど。
 ムギ先輩が皆に氷菓子をふるまう為にあの冷蔵庫を持ってきたわけか。
 見ると、冷蔵庫は二段に分かれていた。多分、下が冷蔵庫で、上が冷凍庫になっているのだろう。
 唯先輩を引きはがし、私も先輩の輪に入った。

「これ、わざわざ買ってきたんですか?」

「ううん、たまたま家で余っていたから、持ってきたの」

 冷蔵庫がたまたま余る家? 深く考えるのはやめた。ムギ先輩だし。
 それよりも、唯先輩の言っている事が本当だとすれば、それはある意味とても魅力的なことかもしれない。
 夏の暑さからくる気だるさも、集中力の散漫も、アイスが全て吹き飛ばしてくれるからだ。
 ダラダラとお茶を飲んでだべる事もなくなる。だって、どう考えてもアイスはお茶請けにならないし。
 すると……どうだろう。
 先輩たちも、放課後の練習に力が入るんじゃないかな。暑さにダレることなく、爽快に音楽を奏でながら。

「梓、顔がにやけてるぞ? 早速アイスの魔翌力にとりつかれたな」

「べ、別に、にやけてません!」

 心中を見透かされたようで、慌てて話題を逸らした。

「そ、それより、こんなもの勝手に部室に持ち込んで大丈夫なんですか?」

「その辺は大丈夫だ。これを見ろ」

 そう言って、律先輩が下の段を開けると、

『さわちゃん専用』

 と書かれた紙と一緒に、色鮮やかで高級感漂うゼリーの容器が並んでいた。
 教師をお菓子で買収する生徒も生徒だけど、それであっさり頷く教師もどうなんだろう。
 ニヒヒ、と悪戯っぽい笑みを浮かべている律先輩。
 アイスの一言を延々と連呼する唯先輩。
 元凶、ムギ先輩。
 アイスの魔翌力とやらに立ち向かう、一縷の望みをかけるとすれば澪先輩しかいない。
 だけど、私が眉をひそめる姿を見て、慌ててにやけた顔を取り繕う澪先輩は、多分、いや間違いなく敗者側なのだろう。

「まったく……他の人に見つかって怒られても知りませんよ」

 まあ、私も同じなんだけどね。
 一女子高生の私には、この暑さに立ち向かう勇気もなければ、氷菓子の誘惑に勝てる精神力も無いのだから。
 あずきバーとかあったら嬉しいな。

「じゃ、梓も来たことだし、早速食べようぜ」

 ……。
 ……。
 ……。


 流石はムギ先輩といったところか、冷凍庫から出てきたのは全てハーゲンダッツだった。
 まあ予想通りではあったから別に驚かなかったけど。

「ちべたくておいしー!」

「生き返るなぁ……」

「うふふ。喜んでもらえて嬉しいわ」

「澪は何味?」

「私はチョコチップ」

「一口もーらいっ!」

「あ、こら、律ーっ! ば、ばか、食べるなら自分のスプーンを使えよ」

「うん? いいじゃん、別に。ほれ、私のも一口やるからさ。ほら、あーん」

「そんな恥ずかしい真似できるか! ……まったく」

「なんだよ、食べないのか? じゃあ、唯、ほれ、あーん」

「あっ……ま、待って、やっぱり食べる」

「恥ずかしいんじゃなかったのかよ」

「……こ、これはアレだ。私ばっかり一口とられて不公平だから、その」

「みみっちい奴だな」

「う、うるさい! と、とにかく……た、食べるから、一口ちょうだい」

「はいはい。ほれ、あーん」

 何やってんの、この先輩達。


 せっかくアイスで涼んでいるのに、ベタベタで見ているこっちが恥ずかしくなるようなやり取りを見せられて、少し気分が悪くなった。
 ムギ先輩を見ると、スプーンに掬ったアイスがポタポタと零れ落ちるのも気にせず、その光景に見入っていた。
 やれやれ。

 ……。

「あー、おいしかった」

「じゃあ、アイスも食べ終わった事だし、練習しましょう、練習」

「まあ待て、梓。もう少し、アイスを食べた後の余韻を味わってだな」

「そんな余韻いりませんから」

「えーっ。なんだよぉ、いいじゃん別に。ハーゲンダッツなんて滅多に食べられないんだからさ」

「普通のカップアイスと、たかだか100円くらいの差じゃないですか」

「わかってないなぁ梓。その100円の差が、一JKには死活問題なんだぞ!」

「そうだよあずにゃん!」

 面倒な人が話に混ざってきたので、なんだか言い返す気力すらなくなる。
 とは言え、私も久しぶりにおいしいアイスを食べることができて、あともう少しだけ練習を先延ばしにしても良い気がしていた。
 お茶がないからこそ、口中に甘い余韻が残っている。
 悪い気はしない。

「しょうがないですね、まったく……」

「そういえば、あずにゃんは何味食べてたの?」

「私ですか? 私は抹茶をいただきました。おいしいですよね、抹茶」

「抹茶かぁ……私、抹茶味食べた事ないや。おいしいの?」

「おいしいですよ。和、って感じがして、すごいさっぱりしてますし」

「おやおや梓さん、ずいぶんと洒落た言葉を使いますなぁ」

「そうだよあずにゃん! 和といえば、断然、ガリガリ君だよ!」

 またわけのわからないことを。
 いい加減、相手をするのが面倒になり、他2名の先輩に助けを求めた。
 が、

「ガリガリ君……? それ唯ちゃんのお友達?」

「違うよムギちゃん。ガリガリ君はアイスだよ」

「えっ、えっ?」

「ムギ、ひょっとしてガリガリ君知らないのか?」

「ごめんなさい、市販のアイスって言ったらハーゲンダッツしか知らなくて……」

 一瞬、場の空気が凍った。
 そんな気がしただけで、すぐに皆、苦笑いを浮かべて話を続けた。

「どんなアイスなの? その、ガリガリ君は」

「簡単に言うと、木の棒にソーダ味のアイスがくっついててな。当たりが出るともう一本もらえるんだよ」

「当たり……? どういうこと?」

「アイスを食べ終わった後に、棒に『当たり』が書いてあったら、買ったお店でガリガリ君と交換できるんだよ」

 律先輩の言葉に、ムギ先輩の瞳がキラキラと輝いていた。
 世間ではそれをムギの光と呼ぶ。
 ○○するの夢だったの~、と同じく、超がつく程のお嬢様が庶民へ抱く不当な憧れを表す。

「す、すごいわ、アイスなのにクジになっているのね!? そ、それはどこに行けば買えるの?」

「別にどこでも買えるよ。コンビニにも売ってるし」

 鼻息を荒げて興奮するムギ先輩。
 多分、明日は冷凍庫がガリガリ君で埋め尽くされてるんだろうなぁ。


 ……。
 ……。
 ……。


 案の定、次の日のティータイムはガリガリ君オンリーとなった。

「は、はやく食べましょう! ねっ!」

「そんな急いで食べるとお腹壊すぞ。こら、唯も真似しないの」

 しかし、なんだ。
 放課後、音楽室で一心不乱にガリガリ君をペロペロと舐めている女子高生っていうのも奇妙な図だ。
 主催が本気モードだから、皆、何か喋るにもネタがない。
 そんなに当たりが見たいのかな。相変わらず、唯先輩に負けず劣らず変なものに興味を抱く人だ。

「んぐんぐっ……はぁ……はぁ……な、なんて大きなアイスなの。おまけに、すごく固いわ」

「それがガリガリ君の魅力だよ。外はカチカチ、中はシャリシャリ。んー、おいしい」

「アゴが痛くなりそうだわ……ペロペロしてたらいつまで経っても食べ終わりそうにもないし」

「そんな頑張って食べる必要はないだろ。落ち着いて食べなよ」

 ようやくムギ先輩がガリガリ君を食べ終わる頃には、結構な時間が経っていた。
 ああ、貴重な練習時間がまた減っていく。

「あら? 何も書いて無いわ」

「残念。ムギちゃん、それはハズレだよ」

「そうなの? ……そうなのね。はぁ……残念だわ……」

 本当に残念そうな表情で、太い眉毛で八の字を描く先輩は見ていて少しかわいそうだった。
 何でもすぐに本気になる人だからなぁ。
 まあ、だからといって、もう一本チャレンジしたらどうですか? とフォローするつもりもないけど。

「あっ」

「どうした澪?」

「私、当たった。ほら」

 澪先輩の手に、テラテラと光るアイスの棒。その表面には茶色で『当たり』の文字が確かに書かれていた。

「み、見せて! ……すごい、本当に当たりって書いてあるわ」

「やったね澪ちゃん! これでもう一本もらえるよ」

「いや、別に私はいいよ……それに」

 澪先輩がそう言って冷凍庫のほうに視線を投げた。
 そう。まだあの白い箱の中にはガリガリ君がびっしりと詰まっているのだ。当たりも何も関係ない。
 ああ、もう。
 唯先輩が余計な事を教えなければ、毎日ハーゲンダッツを食べられたのに。
 正直、ガリガリ君はそれほど好きではない。ソーダよりもバニラ、バニラよりもあずき。

「あ、あの、澪ちゃん?」

「えっ、なに?」

「もし、もしもよ……ガリガリ君を好きなだけ食べていいって言ったら……澪ちゃんの、あ、当たり棒を……」

「これ?」

「うん……そのぉ……譲ってもらえたりしないかなぁ、って」

「えっ? あ、うん。いいよ、別に。はい」

「ほ、ホント!? 本当にいいの!?」

「お、大げさなやつだなぁ……そもそも、ガリガリ君買ってきたのムギだし、何も遠慮することないじゃないか」

「ありがとう澪ちゃん!!」

「どういたしまして……って、私の台詞これであってるのか?」

 当たり一本でここまで喜べるなんて、ホント変わった人。

 手を取り合って喜び合う(?)二人を横に、律先輩が何やら悪戯っぽい表情で自分の棒に何かしていた。
 いつ取り出したのか、手には油性ペン。
 あ、まさか。

「おい、ムギ。もう一本、当たり棒あげよっか?」

「えっ? りっちゃんも当たったの?」

「うん。ほら、これ」

 そう言って差し出した律先輩の棒には、


『1等 りっちゃんの熱いベーゼ』


 と書かれていた。よれよれの、しかも滲んだ字で。
 まさに今書きましたと言わんばかりの出来だった。

「なんだこれ!? 律、お前、これ自分で書いただろ!」

「あっ、バレた?」

「普通、こんなのすぐにわかるだろ! まったく、ホントくだらない事するんだから」

「あはは。いやぁ、なんか澪ばっかり当たるもんだから、ちょっとね」

「ザ・暇人ですね」

「うるさいよ」

「ねえ、りっちゃん?」

「うん? どうした、ムギ。あっ、ひょっとして……怒った?」


「ううん、そうじゃないわ。けど……いいの? これ、私がもらっても」

「えっ?」

「これと引き換えに、りっちゃんがキス、してくれるのよね?」

「あ、え、いや……ほら、これはちょっとした冗談というか」

「すごいわぁ……こんな棒切れ一本で、りっちゃんからキスしてもらえるなんて」

「あのぉ……ムギさん……?」

 何やら今度はムギ先輩の顔に悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
 まさかの事態に律先輩の顔に珍しく焦りの色が見えた。

「ねえ澪ちゃん、これ私が使ってもいいかしら?」

「へっ!? な、なんで私に聞くんだ?」

「一応、澪ちゃんに断っておかないといけないと思って」

「な、何言ってるんだよムギ。それを聞くなら……律にだろ? なっ?」

 気のせいだろうか。
 澪先輩がいつも以上に目を吊り上げて律先輩を見つめていた。っていうか、完全に睨んでるし。
 普段、人をからかって遊んでいる律先輩が、逆に普段大人しい先輩2人に迫られて慌てている光景は、なんとも見ていて気持ちが良かった。
 まあ、自業自得ってやつだ。たまにはいいと思う、そういうの。

「どうなんだ、律? こんな当たりをムギにあげるってことは、そういうつもりなんだろ?」

「な、なに怒ってるんだよ」

「別に怒ってなんかない。ただ、聞いてるだけだ。お前はムギとキスがしたいんだろって」

「そ、そんなわけないだろ」

「あら、りっちゃん、そうなの? こんなもの渡すから、私てっきり、そうだとばかり思っていたのだけれど」

「……」

「何黙ってるんだよ」

「……ち、違うってば」

「何が違うんだ?」

「だ、だから……ムギとキスしたかったわけじゃないって」

「ふーん、そうなんだ。残念だわ、りっちゃん。うふふ」

「あんまりいじめないでくれよ」

「ごめんなさい。あ、でも、りっちゃんのその言い方、まるで私以外の人とはキスしたかったみたいに聞こえるわね」

「なっ……そ、そんなわけないし」

「そうかしら? ねえ、りっちゃん。この当たり棒、澪ちゃんに渡せばいいのかしら?」

「は、はあ!? ムギ、ちょっとふざけ過ぎだぞ。その、私もこんな悪戯して悪かったけどさ、そろそろ」

「私はふざけてないわ」

「み、澪も何とか言ってくれよぉ」


「ねえ澪ぉ……」

「……そ、そんなに私にもらって欲しいのか?」

「……はい?」

「そうねぇ~。澪ちゃんには本物のガリガリ君の当たり棒をもらっているわけだし、やっぱりこっちの当たり棒は澪ちゃんに渡すべきよね」

「澪しゃん? ムギ?」

「ムギの言う事も一理あるよな、やっぱり……うん、これは私がもらうべきだよな」

「うふふ」

「……な、何考えてるんだよ澪。お、お前、冗談で言ってるんだよな? あはは、やだなぁもう、たまにノってきたかと思ったら悪ノリかよ」

「……」

「……」

「お、おい……なに顔赤くしてるんだよ?」

「元はといえば、律が悪いんだからな……こ、こんな形で言うつもりはなかったけど……でも」

 何やってるんだろうこの人達。

「律!」

「は、はいっ! な、なんでしょうか……」

「い、一度しか言わないからな、よく聞けよ」

「えっ、だから一体なんだって言うんだよ……?」

「当たりと交換する前に、言っておきたい事があるんだ。ううん、これを言わないと……一応、ケジメっていうか」

「ケジメ? 一体何の話なんだ……ムギ、何笑ってるんだよ」

「うふふ」

「ゴホン……え、えっとな、その……わ、私はその……律のことが……」

「……おい、ちょっと」

「り、律の事が……すk――」

 耳まで顔を真っ赤にしている澪先輩を確認したところで、ようやく私は我に返った。
 何やってるだろう、ここは部室なんですけど。っていうか、私達の存在、完全に忘れてませんか?
 はぁ、と溜息が自然に零れる。
 そして、私と同様で、さっきから全然会話に参加していない唯先輩に気がついた。

「唯先輩?」


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