「ムギ……先輩? 今、何て?」

『……ごめんね。でも、もう皆、我慢の限界だったの』

 そんな。
 目の前がチカチカと明滅した。もう何がショックなのかもわからず、口がパクパクと動いた。

「ど、どうして……そんな……」

『あれはもう仕方がなかったとしか言いようがないの……りっちゃんを責めないであげて』

 あんなにきちんと作戦を立てたのに。
 それを狂人唯先輩に? もう何をしでかすかわからないというのに、よりにもよって、私抜きで。

『唯ちゃん何も知らない感じで部活に来て……それで、トンちゃんはどうしたの?、ってりっちゃんに尋ねたの』

「……」

『そしたらりっちゃんが……キレたっていうのかしら、今まで見たことのない怒った表情で。唯ちゃんの頬を――』

 その役目をどうして私に譲ってくれなかったんですか。
 どうして私の役目を。律先輩、なんて身勝手なんですか。

『唯ちゃん、泣いちゃった。私と澪ちゃんはどうしていいかわからなくて、りっちゃんが唯ちゃんに全部話すのをただ見てることしかできなかった』

「……話したんですか」

『ええ。皆、最初から唯ちゃんが犯人だと疑っていたし、知っていたって。全部、話してたわ。りっちゃん、泣いてたわ』

 電話から聞こえるムギ先輩の声は震えていた。
 私もその光景を想像し、ぼんやりする頭で先輩達の心境を察しようと努めた。無理だったけど。

『……唯ちゃん、それっきり黙っちゃって……何も言わず、けれど、泣くのをピタリとやめて……すごく、怖かった』

「そうですか」

『皆、唯ちゃんの様子に怖くなって、それ以上責めるのをやめたわ……唯ちゃんも何も言わずに部室を出て行ったし。ねえ梓ちゃん』

「はい」

『これでよかったのかしら……? 私達、何か間違った事してないわよね……?』

 間違った事、か。
 そもそもにして、最初から何もかもが間違いだったと言えなくもない。
 ムギ先輩が冷蔵庫を部室に持ち込んだことも、唯先輩がガリガリ君の話をしたことも、そしてそれにムギ先輩が興味を持ったことも。
 アイスの棒。あれさえなければ、こんなことにはならなかったんじゃないの? また皆でダラダラしたHTTを過ごせたんじゃないの?
 ああ、本当に、何もかもが間違いなんだ。
 最初のセミの墓が立った時点で、軽音部の皆で唯先輩を泣かせてしまえばよかったのだ。関係が壊れるとか、そんな小さなこと気にしてないでさ。

「何が間違いで、何が正しいか、私にはわかりません。わかりませんが、先輩達は何も心配する事無いですよ」

『……えっ?』

 後は全て私の仕事ですから、とだけ言って電話を切った。
 先輩の不安はよくわかる。不安で不安で仕方がないのだと。
 追い詰められた唯先輩が次に何をするのか、そんなこと、深く考えるまでもなく自ずと想像がつくものだ。
 そして……先輩たちが私に何を期待しているのかも。結局、そういう嫌な役回りは最後の最後で私にやってくる。
 嫌な役回りなのかな? この手で唯先輩に復讐を……いやいや、きちんと唯先輩を懲らしめてやる事が。
 さっきまではあんなにもその役目を渇望していたのに、今ではどうでもいいとさえ思えるのはなぜなんだろう。

 憂、ごめんね。でも、こればかりは仕方が無いよ。

 ……。
 ……。
 ……。


 何日かが経った。
 相変わらず夏の日差しは容赦なく降り注ぎ、女子高生の勉学に勤しむ僅かなやる気すらをも奪っていく。
 天を仰げばどこまでも青い空と、綿菓子のような入道雲がゆったりと流れ、ひりつく肌とは対照的にどこかのんびりしていた。

「唯先輩、今日、一緒に帰りましょ!」

「あずにゃん~……暑いよぉ」

「もうだらしないですよ! しゃきっとしてください、しゃきっと!」

「うーん……あつい……」

 夏は暑い。
 しかし、あともう少しすれば待ちかねた夏休みに突入する。だらだらと汗を流して外を走る必要も、暑さでぼーっとする頭で授業を受ける必要もなくなるわけだ。
 待ち遠しいな。はやく来い、夏休みー。
 浮かれた気持ちを先輩達に気取られないように――だって、絶対にからかわれるもん――けれど、元気な声は忘れずに。
 私はスカートのポケットに入れたギターの弦の存在を、指先でそっと確認した。

「帰りにアイスでも食べていきましょうよ! 純が言ってたんですけど、駅前にジェラードの専門店が出来たみたいですよ」

「えっ、ホントに!?」

「はい。だから、一緒に帰りましょ」

「うん!」

 唯先輩は真っ白な歯を見せて笑った。本当にアイスが好きなんだなぁ。

「りっちゃん達も行く?」

「いや、私達は遠慮しておくよ。ほら……邪魔しちゃ悪いだろ」

「も、もう律先輩ってば……恥ずかしいです。別にそんな気を遣ってもわらなくても」

「うふふ……後で詳しく聞かせてね、梓ちゃん」

「もう、からわないでください! い、いきましょ、唯先輩!」

「あ、あずにゃん、そんな引っ張らないで……っとと」

 私は部室を後にした。

 ……。

「ねえあずにゃん、本当にこっちなの? 駅からどんどん離れていくみたいだけど」

「こっちです」

「でも、駅前に出来たってさっき――」

「こっちで合ってます。さっきのは、勘違いです」

「そうなんだぁ……」

 汗だくになった手で唯先輩の手をしっかりと握る。
 ギラギラとした陽光の下。
 私は唯先輩を連れて、自宅へと向かっている。


「ねえあずにゃん。どこ行くの?」

「……」

「ねえってば」

「いいところです。心配しないでください」

 不安そうな声で、けれど何かを期待した唯先輩の態度にゾクゾクとしている私がいた。どうしてかはわからない。
 ただ、心臓が早鐘を打っていた。
 程なくして、家に着いた。

「……あずにゃん」

「今、家に誰もいませんから……どうぞ」

「う、うん」

 そこでようやく、私は唯先輩の顔を見た。
 暑さからか、それとも別の何かからか、顔が真っ赤になっている。汗をたらたらと流し、息も上がっていた。
 唯先輩の期待は、とても単純で非常にわかりやすいものだった。
 私の言葉に反応したのを確認して、家に招き入れる。

 そして、抱きしめられた。

「あずにゃん、あずにゃん!!」

「……暑いです、唯先輩」

「あずにゃん! ……もう我慢できないよ」

「……そのままなんて、私、いやです。シャワー、浴びてください」

「えっ……あ、うん。そうだね、あはは」

「一緒に……浴びます?」

「大胆だね、あずにゃん~」

「……」

「……あ、その。な、なんか恥ずかしいね」

 そうですね、と俯き加減に答える。

「浴室は廊下を突き当たって右です。私、着替えとか用意するんで、唯先輩、先に入っててください」

「……わかった」

 ……。

 作戦実行時にその場にいなかった私に、唯先輩はまるで恋人にそうするかのように始終、べったりだった。
 居場所をなくした子犬のような目で、ただひたすら私の名前を呼ぶ。
 報復を恐れた先輩達の危惧とは裏腹に、唯先輩は目に見えて弱っていた。だから、私はとことん唯先輩を無害化して油断させようと思いついた。
 まず、唯先輩と付き合うことにした。無条件で、また今まで通りののHTTに戻れるという免罪符付きで。
 唯先輩は嬉しそうだった。
 本当はすぐにでも手にかけたいと思う私達の意図には気付かず、一丁前にビクビクと周りの目を気にしながら、けれど元気を忘れずに。
 私は付き合って初日に言ってあげたのだ。もう皆さん、唯先輩のことを怒ってないですよ、と。
 そうしたら、『ありがとう、あずにゃん!』だってさ。今ではその言葉を受け取った時の気持ちは思い出せない。
 兎にも角にも、私は見事、唯先輩を懐柔することに成功した。
 今では、時折、唇を重ねる仲にまでなった。私がちょっとわがままを言えば、すぐに唯先輩が応えてくれる。前の関係とは完全に逆転しているのだ。

「あずにゃーん……まーだー……?」

 言うまでも無いのだけれど、憂に事情は話していない。だから、キスをする度に私は心の中で憂に詫びている。
 頭の良い憂のことだ。きっと私達の仲には勘付いているに違いない。けど、それを気にしている様子は見せた事が無い。流石、憂だと思う。 
 唯先輩と付き合い始めて、憂を想って泣かない夜はなかった。毎日毎日、学校で顔を会わす度、胸が張り裂けそうだった。
 ごめんね、憂。本当にごめん……。

 しかし、今日で全てが終わるのかと思うと、自然と笑みが零れてしまう。
 口付けの度に舐めていた苦汁も、今日で最後。何て晴れ晴れとした気分なんだろう。

 ……。

 浴室の扉の前に立つと、シャワーの音が聞こえてきた。
 私も服を脱ぎ、それからスカートのポケットに手を入れる。指先に触れる冷たい感触があった。
 結局、家に戻ってくるなら別に持ち歩かなくてもよかったのかも。まあ、これはいわゆる気分ってやつかもしれない。
 あるいは……覚悟、かな。あはは。

「唯先輩、入りますよ」

「っ!? う、うん、はやくあずにゃんも入っておいで~……」

「あの」

「えっ? なにか言った、あずにゃん?」

「恥ずかしいので、ちょっと向こうを向いててもらえませんか? その……心の準備が出来たら言いますから」

「あずにゃん、照れ屋だね」

 すりガラスの向こうに、おぼろげな後姿を確認すると、私は二重にした軍手の上からゴム手袋をはめた。
 ごわごわする。手をニギニギして、しっかり弦をつかめるか確かめると、ゆっくりとドアを開けた。

「まだ見ちゃダメですよ」

「……うん」

「私……今、すごいドキドキしてます」

「わ、私もだよあずにゃん」

 きれいな背中だなぁ……思わず、そこに憂の姿を重ね、見とれてしまった。

「……唯先輩」

 左手でボディソープを掴み、床にぶちまける。
 そして、両の手に弦を巻きつけ、ピンと引っ張ってみた。よし、準備OK。
 あとはこれを唯先輩の首の前にかけて、力いっぱい引けば。

 終わる。


「あずにゃん……その……エ……エッチを、する前にさ、言っておきたいことがあるんだよ」

「何ですか? 何でも聞いてあげますよ」

 シャワーに流され、唯先輩の足元にボディーソープが流れ出す。
 これで唯先輩が抵抗して暴れても、足元が掬われて踏ん張りが利かない。

「私ね……前にりっちゃんに怒られて本当にショックだった」

 念の為に弦は二重にしてあるから、ちょっとやそっとじゃ切れないはず。
 まあ、切れたら切れたで、脱衣所に用意したドライバーを使えばいいわけだし。
 いずれにしても、これで終わる。

「すごい落ち込んだし、皆に嫌われちゃったんじゃないかって思うと、胸が苦しくなったよ」

「たしかに唯先輩、この世の終わりみたいな顔してましたね」

「うん。でもね……でも、あずにゃんが私をフォローしてくれたから……」

 腕を伸ばして私と唯先輩の背の高さを測る。
 何の問題も無い。あとはこれを振り落として……弦を引くだけ。

「あずにゃんが……私のこと好きって言ってくれたから、私、頑張れたんだよ」

「そうですか」

「だからね、あずにゃん。私、あずにゃんにだけは本当のこと言っておきたいんだ」

「……本当のこと?」

 最後の最後に、何を言うと言うのだろう。思わず、ぴんと伸ばした腕を一旦下ろす。

「うん……怒らないで聞いてね」

 そう言って後ろを向いたまま、唯先輩がシャワーを止めた。
 足元はすっかり泡塗れになり、どう転んでも、立ち上がれる余裕は無い。

「……セミー太の墓とボー太の墓を作ったの、私なんだ」

 もう作らないって決めたんだよ。でもね、昔の事思い出したら急に、我慢できなくなっちゃったんだ。
 唯先輩、何を言ってるですか。
 そんなこととっくにわかってますよ。
 だから、こうしてあなたを殺そうとしてるんじゃないんですか。

「知ってますよ、そんなこと」

「……そうだったんだ。じゃあ、ムギちゃんのことも、もう知ってるんだね」

「えっ?」

「だからさ、ムギちゃんもお墓作って遊んでたってこと、知ってるんだよね?」

 ――何を言ってるんだろう、この人は。

 なんでこのタイミングでムギ先輩の名前があがるの? 意味わかんないし。
 っていうか、どういうこと? ムギ先輩もお墓遊びをしていた?

 シュルシュル、と手袋から弦が外れて、床に落ちた。

 ……。
 ……。
 ……。

『……ただいま電話に出ることができません。発信音の後に――』

 律先輩、澪先輩、そしてムギ先輩。
 いずれのケータイにかけてもすぐに留守電になってしまった。
 陽射しが暑い。
 喉がカラカラに渇いている。髪を留めるのも忘れ、風に長い髪をなびかせて全速力でペダルをこぐ。
 後ろから唯先輩の情け無い声が追いかけてくるが、今は無視。
 とにかく、学校へ――部室へ戻らなければ。

「おねがい……全部、唯先輩の嘘でありますように……!」

 息も絶え絶えに、呪いの様に口から零れる言葉は一体誰の意思なんだろう。
 私は唯先輩の言葉を反芻しては、泣きそうになる気持ちを堪えていた。


『ムギちゃんもお墓遊びしてたんだよ。私は止めたんだよ、生き物を殺してお墓を作るのはいけないことだって』


 ムギ先輩がお墓遊び。考えもしなかった。
 というよりも、どうして今、唯先輩の言葉なんかを信じて馬鹿みたいに自転車を漕いでいるのだろう。
 どうして。


『私が最初の二つのお墓を作った事を内緒にしてくれる代わりに、ムギちゃんのことも内緒にしてって頼まれて……それで』

 もし唯先輩の言っていることが本当だとすれば、トンボ以降に作られた墓は皆、ムギ先輩の仕業という事になる。
 そして……トンちゃんを殺したのも。
 でも、そんなことってあり得るの? だってあのムギ先輩だよ? あの……何にでも興味を示すムギ先輩が。
 とにかく、私は一旦考えるのをやめ、学校へと急いだ。

 ……。


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最終更新:2011年06月16日 21:44