全身から血の気が失せて、いつ倒れてもおかしくないと思った。
 けど、実際に血が抜けているわけでもない。体は気絶という逃げ道を許してはくれなかった。

「……」

 真っ暗な視界。
 憂と唯先輩の話があまりにもショッキングで、私は家に帰ってからも満足に食事を取らず、ただ自室のベッドでうつ伏せになっていた。

「……ヒクッ」

 お腹をさする。
 口の中にすっぱい嫌な味が思い出され、また吐き気がこみ上げてくる。気持ち悪い……からだが寒い。


『ゆ、唯先輩!? こんな早くに……練習はどうしたんですか?』

『あずにゃんもいないし、ってことで今日はお休みになったんだよ。それより、あずにゃん』

『は、はい』

『……具合だいじょぶ? りっちゃんから、今日は重いから休むって聞いたよ』

『えっ……あ、そ、そうなんですよ、あはは……』

『お薬飲む? 私のが、たしかまだ残ってたはずだから』

『け、結構です』

『そっかぁ……それで、どうしてうちにいるの?』

『私が誘ったんだよ、お姉ちゃん』

『憂?』

『梓ちゃんが具合悪いから一緒に帰ってたの。だけどね、あまりにも顔色が悪かったから、うちに寄って、休ませてあげてたの』

『そうなの?』

『あ、はい。実はそうなんですよ』

『ふーん……お薬は?』

『憂のをもらいました』

『そっかぁ。よかったね、あずにゃん』

『はい。ご心配かけてすみません』

『……ところで、それなあに?』

『あっ! い、いえ、これはなんでもありません!』

『へぇ、憂、まだそれ持ってたんだ。てっきり捨てちゃったのかと思ってたよ』

『……捨てないよ』

『あ、あの……唯先輩? どうしたんですか……ひょっとして、お、怒ってますか?』

『へ? まさか、どうして怒るのさ。むしろ、泣きそうだよあずにゃん~!』

『わわっ、ち、ちょっと――』

 私はトイレに駆けこんだ。

 ……。
 ……。
 ……。


 翌日、教室へ行く途中で律先輩に止められた。

「昨日、どうだった?」

「どうもこうも、途中で唯先輩が帰ってきて大変だったんですよ!? もう、どうして引き止めてくれなかったんですか?」

「わるいわるい。いやさあ、本当はムギがアイスティーとお菓子を用意して時間稼ぎするつもりだったんだけど」

 普通に練習をするという発想はなかったのか。
 ダメだ、この部長。

「お茶葉を切らしてたみたいでな。それで仕方なく、解散ということに」

「練習してくださいよ、練習! もうっ」

「まあ、そう怒るなって。その分、ちゃんとした収穫もあったんだから」

「収穫?」

 そうそう、収穫で思い出したけど、私の得た確信を先輩達にも伝えておかないといけないな。
 でもその前に、律先輩の話を聞いておこう。

「唯が帰った後、ほらこの前立てた作戦の段取りをしてたんだ」

「シミュレーションですか?」

「そ。梓がメインとは言え、こっちもしっかり打ち合わせしておこうと思ってさ。そしたら、偶然、ムギが……その、本格的にヤバいものを見つけた」

「何ですか?」

「……あー、なんだ。その、直接見てもらったほうが早いと思う。まだ朝のHRまで時間があるだろ? 一緒に部室に来てくれ」

 なんだろう。律先輩の表情がぎこちなくなって、そわそわと落ち着かなくなってきた。
 ぎゅっと胸を締め付けられるような、嫌な予感。一体、何度目になるかわからないけれど、またそれがやってきた。
 私は律先輩の言葉に従い、かばんを携えたまま、部室に向かった。


 部室は朝の静けさに包まれていた。
 それよりも、そのヤバいものとは一体どこにあるのだろうか。ヤバいものとは一体何なのか。
 律先輩が無言のまま、どんどん先へ進んでいく。

「あ、あの律先輩?」

 律先輩はちょうど皆の机の前で止まった。そして、手でツーっと机の縁をなぞりながら、反対側へと移る。
 そこは唯先輩の定位置。

「こっちこっち」

 早鐘を打つように心臓が脈打つ。そういえば……さっきから妙な違和感がある。何か大事なものを忘れているような、変な感じ。
 それが何なのかを理解する前に、私の思考は律先輩の言葉にによって中断された。

「ほら、これ」

 律先輩の方へ歩を進める。いやだいやだと思いつつも、気がつくと足が前に出ている。
 そして、私も唯先輩の席の前へやってきた。相変わらず、頭の中から違和感は消えない。
 それでも、律先輩は、ほら早くと私を急かす。
 律先輩の人差し指が、机の中を指していた。

「早く」

「はい」

 中を覗き込むと、

「……こ、これ」

 セミの死骸。
 そして、アイスの棒。

「き、聞いてください律先輩!!」

「なんだ」

「やっぱり唯先輩が犯人で間違いないです! 私、昨日、憂から唯先輩の思い出の話聞きました。やっぱりあの人、小さい頃から頭がおかしかったんです!」

「……」

「このセミとアイスの棒が何よりの証拠じゃないですか!? やっぱり、やっぱり……」

 そして、私は言うべき事がもう一つある。

「あ、あと……その、どうやら虫だけじゃなかったみたいなんです……唯先輩が小さい頃に、お墓を作ってたのは」

「えっ? それ、どういうことだ」

 虫だけじゃない。唯先輩が手をかけてお墓を作った生き物は、虫だけじゃない。


『悲しい思い出だよ。私ね、近所にいた動物のお墓も作ったことあるんだよ。それでね、お父さんとお母さんにすごく怒られちゃったんだ』


 息が詰まるような感覚に襲われる。遠くで律先輩の心配そうな声がするが、よく聞き取れない。
 ジワジワと聴覚が犯されるような気がする。
 唯先輩の告白は、その情景を想像するだけで吐き気がこみ上げそうだった。
 虫一匹殺さないような顔した先輩が、遊び感覚でそれらを大量に殺していた事実。
 けど、虫だけならまだ……と、心のどこかで甘く考えていたのだ、私は。

「動物も……あんなかわいい動物も……あ、あの先輩は……」

「お、おい梓、大丈夫か?」

 虫だけじゃなく近所の動物も手にかけていたという事が、私には信じられなかったし、それから何年も経った今、罪悪感どころか反省の色もない先輩がただ恐ろしかった。
 そう、恐ろしかった。あまりの怖さに私は嘔吐感さえ覚える。


『だからね、それからもう生き物を殺すのはやめたんだ。生きたモノのお墓を作るのは悪い事だって教えられたから』


 ソーダよりもバニラ、バニラよりもあずき。

「虫よりも動物……動物よりも……動物よりも」

「梓! しっかりしろ、大丈夫か!?」

「……りつ、せんぱい……わ、わたし……わたし……」

「だいじょうぶ、大丈夫だから。何も怖くないぞ、何も怖くない。よしよし」

「私……唯先輩が……怖いです……怖くて……怖くてたまらないです……」

 律先輩に抱きすくめられ、それから背中をさすられた。
 よしよし、大丈夫。大丈夫だから、と子供をあやすように律先輩は私を慰めてくれた。

 このまま誰かに慰めてもらったまま、できることなら全てを忘れたい。もう嫌な目にも遭いたくないし、嫌なものも見たくない。
 けど、物事ってそう思い通りはいかないらしい。
 背中をさする手が止まった。

「……なあ梓。実はさ、見せたいものってこれだけじゃないんだ」

 律先輩は私を一旦離すと、見たことも無い真剣な眼差しで私を見つめた。
 えっ? 何なの、まだ何かあるの?
 そう思っただけで私はまた感情の奔流に飲まれそうになる。

「落ち着いて……落ち着いて聞いてくれるか?」

「ひっぐ……えぐっ……せ、せんぱい……」

 憂のとびっきりの笑顔を想像する。
 少しだけ気持ちが安らぎ、どうにか律先輩の問いに頷く。
 私の肯定を受け取ると、律先輩はスッと立ち上がり、ポケットを探った。そして、

「ムギがさ、ティーセットの棚を整理してたら……こいつが出てきた」



『澪ちゃんの墓』



 律先輩の震える手の平に、アイスの棒がのっていた。
 嗚咽がぴたりと止んだ。

 律先輩の震える手の平に、アイスの棒がのっていた。
 嗚咽がぴたりと止んだ。

「な、なにかの冗談かと思ったんだぜ。さ、さすがに唯もこんなこと……こんな酷いことしないよなってさ」

「……ま、まさか……澪先輩は」

「安心してくれ。澪はまだピンピンしてるから……けど、これを見て卒倒したよ。正直、私も同じ気持ちだった」

「は……はは……良かった」

 何が良いのか。いいことなんて何一つ無い。
 それが証拠に、律先輩の顔色が真っ青になっていた。私の話を聞いて、墓を模したアイスの棒に急に現実味が帯び、途端に怖くなったのだろう。
 澪先輩が、唯先輩に殺されるんじゃないかって。

「な、なあ梓、あの作戦、早いとこ実行に移った方がいいんじゃないか? このまま唯を放っておいたらシャレにならないぞ」

「わかってます。わかってますよ」

「もう証拠は十分あるんだしさ、早いとこ唯を懲らしめないと。じゃないと……」

「わかってますってば! ……あ……すみません」

「……私こそ、ごめん」

 どうしたらいいんだろう。
 今日にでも作戦を決行するか? いや、でも、果たして効果はあるのだろうか。
 作戦を考えていた時は、あの人の異常さを甘く見みていた。だから、ひょっとするともう少し作戦を練らないといけないのかもしれない。
 それとも、私達だけでどうこうしようというのが、そもそもの間違いなのかも。

「ああもう……どうしたらいいのよ」

 いっそ先生方にお願いした方が……と、馬鹿げた考えが浮かぶ。
 私も律先輩も無言。
 窓の外から、運動部の朝練の声が聞こえている。もうすぐHRが始まるというのに、熱心なことだ。

「……また墓の発見者が出るんでしょうか」

「えっ?」

「ほら、今まで見つけたのって全部、外じゃないですか。必然的に、外の部活の子が見つけやすいっていうか」

「あー……そうだな」

 律先輩が気の無い声を出しながら、何気なく窓の方へと近づいていく。
 私は途方に暮れ、何気なくそれを目で追った。
 ……あれ?

「り、律先輩?」

「ん? どうした、梓」

「あ、あの……その……えっ、うそ……うそ、でしょ……?」

 私はようやく、さっきまで抱いていた違和感の正体に気がついた。
 窓の横――空っぽの水槽。

「どうした?」

「……トンちゃんが」

「えっ?」

 ……。
 ……。
 ……。


 その日、私は早退した。
 こみ上げる嘔吐感も、目から零れ落ちる涙も、全てどうでもいい。世界が灰色に見えるって感覚、本当にあったんだ。
 お客さん、つきましたよ。
 タクシーの運転手に何枚かのお札を投げつけ、そのまま外へ這い出る。瞬間、地面に吐いた。

「……トンちゃん……トンちゃん……」

 脳裏に浮かぶのは、地面に突き刺さる無数の棒。『スッポンモドキの墓』と書かれたアイスの棒。
 胃液にむせ、その場で咳き込んだがタクシーは私を無視し、無情なエンジン音を響かせて去っていった。

「……トンちゃん……ぐすっ……トンちゃんトンちゃん……!」

 涙で滲む視界。
 吐瀉物の中に、バラバラになったトンちゃんの一部が見えたような気がして、思わず絶叫した。
 ガラガラと気味の悪い音が喉から漏れ、それを聞きつけた母が慌てて家から出てきた。
 よく覚えていないが、気がつくと自室だった。
 気だるい感覚がじわじわと体を侵している。何もする気力がわかない。
 どうしてこんなことになったんだろう。どうして私がこんな辛い思いをしなくちゃいけないんだろう。
 どうして……。

「どうして……どうしてよ!!」

 どこから湧いてくるのか、まだ涙は尽きない。
 早くこの悲しい気持ちが怒りに変わればいいのに。そうだ。そうだよ。
 結局、私も律先輩もムギ先輩も澪先輩も、アクションを起こすのが遅すぎたのだ。
 だからトンちゃんは殺された。あの真性のイカれ女に。
 唯先輩。あなたは今どんな顔をしているのですか?

 電話が鳴った。外を見ると、もう黄昏時になっていた。

「もしもし」

『……梓ちゃん、大丈夫?』

「ムギ先輩。何かご用ですか?」

『あ……うん、その、トンちゃんのことなんだけど』

「……」

『梓ちゃん?』

 吐き気を堪えて、電話口の声に集中する。

「大丈夫です……続けてください」

『う、うん……トンちゃんは皆でちゃんと別のところに埋めてあげたから』

「そうですか」

『用務員の方にお願いして花壇の端のスペースを借りて、そこに。さっき、りっちゃんと一緒にお線香も買って供えてあげたの』

「……そうですか。ありがとうございます」

『……梓ちゃんには、ショックだったわよね。皆、トンちゃんを可愛がってたけど、特に梓ちゃんは……ね』

 気が触れそうだったけど、私は迷わず疑問を口にした。

「唯先輩は?」

『へっ?』

「唯先輩はどうしてるんですか?」

 まさかとは思うけど、その場に居合わせたわけではあるまい。殺した本人が供養だなんて、そんな馬鹿げたこと。
 私の中で、ようやく灰色の気持ちが赤く色づき始めた。
 唯先輩の奇妙な笑みが浮かぶ。トンちゃんを殺している様、トンちゃんを埋めている様、そして、お墓を立てている様。
 ふと油断したら絶叫になって口から出そうになる。

『いないわよ。もう帰ったわ』

「……そうですか。よかった」

『梓ちゃん、あのね……怒らないで聞いてね。実はね……あの作戦、実行しちゃったのよ』

 えっ。
 ムギ先輩は今、何て言ったのだろう。


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