日曜日。
『もしもし、梓? 今ちょっといい?』
「大丈夫だよ。なに?」
『実は……昨日の事で決心がついたからさ』
「決心? なにそれ」
『これから憂の家に来てもらえない?』
「ちょ、いきなり何よそれ。純? わけわからないよ、説明して」
『とにかくお願い……憂と二人で、来て』
純から呼び出しを受けて、私と憂は平沢邸にお邪魔する事になった。
理由は不明。相変わらず自分勝手に用件だけ伝えて、私の返答も待たずに一方的に切りやがった。頭にくる。
「ごめんね、憂。純の馬鹿が勝手で」
「……わ、私は大丈夫だよ」
「そっか。でも顔色悪いよ、憂」
昨日はえらく出血したせいか、貧血気味で少し視界の端が灰色に滲んでいて気持ち悪い。足取りも覚束ないし。
ギターケースを抱えるのも危うい。時折、体重がそっちの方に引っ張られてしまう。
家を出る時、母にとても心配されて引き止められたのだが、純の逼迫した声に私はただならぬ物を感じて制止を振り切った。
ああ、そうだ。
ふと昨日、オカルト研の先輩と会話した事を思い出した。全て上手く行くとかなんとか言ってたような、言ってなかったような。
床の無い地面を踏むような、矛盾した思考がとめどなく溢れてきた。
……。
「なんだろうね、純の用事って」
「……さ、さあ。なんだろうね、私も気になるよ」
「あまりいいことじゃなさそうだね!」
「そ、そうだね」
憂がおっかなびっくりに私の横を歩いては、それこそ一挙一投足にビクビクと反応する。
その様が異様に可愛くて、悪戯に私はどうでもいいことを口にするのだった。楽しい。
あーあ。私の恋が成就すれば、こういうやり取りも毎日自然に出来るんだろうな。待ち遠しいな。楽しみだな、すごく。
……。
程なくして、唯先輩の家についた。
直後、ポツポツと雨が降り出した。灰色の空を仰ぎ、チャイムを鳴らす。
「ごめんくださーい」
「……」
緩やかに降り始めると思った雨は、予想に反していきなり強くなった。
あっという間に、水飛沫が立つほどの激しい雨となった。
「ごめんくださーい」
「……」
「ほら、憂も。ただいまー、じゃないの?」
「えっ、あ……うん」
ここは憂の家でもあるわけで。
思い切って、扉を開けると、モップ頭が深刻そうな顔を覗かせた。勝手知ったるなんとやら、じゃないけど、その慣れた感じの雰囲気がムカついた。
それが私の表情に表れたのかどうかは知らないけど、純の顔が強張った。
「入りなよ」
「まるで自分の家みたいな言い草だね」
「……ほら、憂も」
見慣れないサイズのローファーが玄関に合った。それにすぐさま気付くなんて、私も純のことを言えたものではない。まるでストーカーみたいだ。
愛があれば許されるんだ! なんて今日び通用しない大義名分は胸のうちに仕舞い、大人しく純の後をついて行く。
居間に通されるのかと思いきや、純は階段を上っていった。果て、憂の部屋に行くのだろうか。
「入って」
予想したとおり、純は憂の部屋の前で止まり、中に入るよう私に促した。
憂は? と聞くと、
「梓だけで入って」
ムカついたけど、大人しく従うことにした。
ここでごねた所でどうにもならないし。第一、この先何が待っているのか、私にも大体想像は付いた。
「それじゃあ、行ってくるね憂」
「う、うん」
「……ほら、しないの?」
「えっ?」
「昨日はしたじゃない」
純が訝しげな顔をする。ざまーみろ。
でも、どうせこれで最後なんだろうし、私は憂に迫った。
「ほら、行ってきますの……キス」
「えっ……あ、えっと……その」
「純の前じゃ恥ずかしい? あはは」
「……そういうんじゃなくて」
「いいんじゃない、別に」
「純もそう言ってることだし。ねっ、いいでしょ?」
「えっ……う、うん……それじゃあ……」
軽く触れるか触れないかぐらいのキスだった。なんかとても味気ない。でもまあ、しょうがないか。
相変わらずキスの時は、憂は硬く目を瞑っていた。薄っすらと涙のようなものが見えた。そんなに嫌だったのだろうか。
はぁ。
……。
……。
……。
部屋に入ると、憂がいた。
ロングスカートにカーディガンという出で立ちの憂はベッドに腰掛けてこちらをシゲシゲと見つめている。
本当にびっくりする。どれくらい吃驚したかというと、ご飯茶碗一杯分ぐらいであるからして、大した驚きではないのかもしれない。
「えっ、梓ちゃん……?」
「今見ても信じられない」
「……もう一人の私がってこと?」
「……あ、うん」
今見ても信じられない。
これが唯先輩だなんて、まるで区別が付かない。
声も真似ているので、本当に唯先輩なのかすら覚束ないほどだ。
けど、会ってみて分かった。やっぱりこの人は唯先輩で間違いない。純が何を思って私に会わせたのか知らないけど。
「ねえ、梓ちゃん」
「なに?」
「抱きついてもいい?」
電光石火の如く唯先輩が襲い掛かってきた。私はそれを快く受け止め、なすがままにされた。朝セットした髪ももみくちゃにされた。
ムッタンがゴツゴツと背中にぶつかって痛かったのだけれど、まあ、唯先輩の好きにさせよう。
唯先輩。やっぱり憂の姉だけあって、その間近で見る顔はとても可愛らしい。
憂ほどではないのだけれど、ふわふわとした暖かさというか、いい匂いというか、なんていうかその。何ていうんだろう、すごくいい。
「ごめんね。昨日はまさか、梓ちゃんがもう一人の私を連れて来てるなんて知らなかったから」
「ファミレスでの話ですか? あはは、あれには私も驚きました。なんせ、まだあの時は信じてましたから」
「信じてる……? えっ、何の話?」
「だから、ドッペルゲンガーを憂と純と唯先輩が演じてるってことにですよ」
「ええっ!? ……ど、どうして知ってるの? もしかして純ちゃんからネタバレされた?」
「ええ」
「……そっかぁ、そうなんだぁ……てっきり、またあずにゃんのこと騙すのかと思ってた」
「多分、純はまだそのつもりだと思います」
「えっ?」
「いえ、何でもありません。っていうか、唯先輩、そろそろ離してください!」
えー、もうちょっとだけ、と唯先輩がいつもの調子で私にギュッと抱きつくのを止めない。
私は苦笑いを浮かべながら、心の中でも苦笑いを浮かべていた。こんな簡単なカマかけに引っかかるなんて、本当先輩らしいなぁ。
「唯先輩」
「ん? なあに、あずにゃん」
「今日、純には何て言われてたんですか? 何か指示があったんですよね?」
「うん、そうだよ。言われたのは昨日だけどね。緊急事態が起きたし、あずにゃんが勘付く前に計画を早めようって」
「純がそういったんですか?」
「うん。だから今日は憂の部屋で待機して、純ちゃんが来るまで大人しくしててくれって。あずにゃんが先に着ちゃったけどね」
何だろう、計画って。
教えてくれないかな、唯先輩。
「唯先輩……その、計画の内容、教えてもらってもいいですか?」
「いいよー。どうせバレちゃってるんだし、問題ないよね」
……。
唯先輩は単純でいいなぁ。
計画とやらの内容をあっさり知る事が出来た私は、嬉しさの余りムッタンを取り出そうとした。けれど、止めた。
なぜ止めたのかというと、ちょうど純がやってきたからだった。
「ちょっと来て、梓」
「今度は何?」
「あわせたい人がいるんだ」
「誰?」
純は何も言わず、そのまま階段を下りて居間に向かった。後ろで憂……じゃなかった、唯先輩が不思議そうにこちらを見ていた。
憂憂憂憂言ってるせいか、誰も彼もが憂に見えそうなる錯覚を覚えて、私は人知れず苦笑を浮かべた。
……。
居間に入る。
見知った顔があった。一瞬、憂に見えたが、そうではない。
「ほら、ドッペルゲンガーのことについて知りたいって言ってたじゃん? だから、助っ人を召喚したの」
オカルト研の先輩だった。なるほど、あのローファーはこの人の物か。
「こんにちは。中野梓さんですね?」
白々しい言い方に噴出しそうになるのを堪え、私は、はい、とだけ答えた。
純はこの人と私が顔見知りだという事を知らないのだ。
「じゃあ私、外に出てるね」
「私の憂は?」
「憂のお姉ちゃんに見つかると面倒だから、一緒に連れ出すよ」
「ふーん。わかった。お願いね……純」
踵を返すモップが揺れている。嬉しそうに。
もしかして今の私は鼻血を出していないだろうか。大丈夫かな、ちょっと心配。
純の最後の姿、それすらも憂に見えたような気がして心底ショックを受けた。あの純が憂に見えるなんて。なんか切ない。
泣きそうになった。切なさのあまり、黄昏時の寂しい山林のような情景が頭に浮かび、ああ切ないなぁと思ってしまう。
純は純。憂なんかとは比べ物にならない。
「……ファック。くそ純、死ね」
「中野さん? どうしたんですか、具合でも悪いんですか?」
「いえ、大丈夫です。それより、なんで先輩がここにいるんですか?」
「ええ、鈴木さんに頼まれまして」
「何を頼まれたんですか?」
「ドッペルゲンガーと本体は、ある日突然消える事もある。鈴木さんにそう言うように頼まれました」
「なぜ?」
「さあ、そこまでは。私は鈴木さんにオマジナイを教えてあげただけで、それ以上の接点はもうありませんから」
さっき唯先輩から聞いた計画を反芻して、吐きそうになった。
唯先輩の話してくれた真相はこうだ。
昨日ファミレスで分かれた後、唯先輩は純に、『純と純の憂は、相思相愛である』ということを私に見せ付けるようにと言われたらしい。
そして、明日、唯先輩は憂のフリを止めて普通に登校することになっている。
じゃあ、誰が純の憂の代わりを務めるのかというと、
「おえっ……うぅっ」
私の憂だそうだ。
当然、私は憂が居なくなった事に戸惑うだろう。けれど、そこで活躍するのがオカルト研のさっきの言葉。
『ドッペルゲンガーと本体は、ある日突然消える事もある』
私の憂と本物の憂が同時に消え、最終的に純の憂が残ったという形になる。
今回の商品憂の全てが、実は入念に仕組まれた事と知らないはずの私はそれを受け入れざるを得ない。
なぜなら、本物の憂が登校してきたのか、純の憂が登校してきたのかは私達2人以外誰も知らないのだから。
何を喚いたところで、どんな駄々をこねたところで、全てが無意味。訴えるだけ馬鹿にされる。
ただ、ラブラブな純と憂という事実だけがポンと現れて残るだけだ。
純の計画は、こんな感じらしい。
素直にすごいなぁと思った。純って悪戯には頭が回るタイプだとは思っていたけれど、まさかこれほどまでとは思わなかった。
最終更新:2011年11月21日 02:56