「……ごめんね、憂。なんかちょっとイライラしてたみたい」

「私は平気だよ。それより、気分の方は大丈夫? まだちょっと鼻血が出てるよ」

「うん、もう平気。心配してくれてありがとね、憂。あはは、恥ずかしいとこ……見せちゃったね」

「ううん、全然気にして無いよ……その、ちょっと怖かったけど」

「ごめんね」

 ソファについた血の飛沫をティッシュで拭きながら、私は憂に謝罪した。必要以上に憂を怖がらせてしまったようだ。
 興奮して血を鼻から吸ってしまったせいか、正直、快調とは言えないけれど、大声を上げて喚いたおかげで気分は良い。
 今日に限って母が出かけてくれていた事が、御の字だ。あの呑気な母に気の触れたような娘の姿は、ちょっと刺激が強すぎる。

「ねえ、憂」

「うん、なあに梓ちゃん?」

「私のこと、軽蔑した?」

「えっ、まさか……するわけないよ、そんなこと。大事なお友達をそんな目で見るわけ無いもん」

「そっか……ありがとね。その言葉が聞けただけで、なんか肩の荷が下りたっていうか、ホッとしたよ」

 ティッシュが真っ赤になって、テーブルに山をなした。どんだけ興奮してたのよ私。

「でもね、怒った梓ちゃんの言ってる事はよく分からなかったけど、すごく怖かった。あんなに怒ったところ、初めて見たから」

「そりゃ、私だって怒ったら怖いよ。あずにゃん、なんて唯先輩には呼ばれてるけど、私も世間一般の女子高生ですから」

「あはは、そうだね。実は私も怒ると怖いんだよ?」

「あー、なんか唯先輩もそんなこと言ってたな。でも、憂が本気で怒ったところなんて想像付かないよ」

「えー、なんかちょっと馬鹿にしてるでしょ梓ちゃん」

「あ、わかった?」

「ええっ!? もう、怒るよ、梓ちゃん! もうぅ……」

「あはは」

 玄関からドアの開く音と母の声。
 私達は大量の赤いティッシュをまとめてゴミ袋に詰めると、それから何事もなかったかのように振舞うのだった。
 ゴミ袋に入る真っ赤な塊は、どことなく気持ちが悪い。っていうか少し怖くて冷や汗をかいた。

 ……。

 貧血気味だし、風呂に入るのは躊躇われたが、最後だし、憂と入る事にした。

「ホント、憂って胸大きいよね。羨ましい」

「もう、どこ見てるの梓ちゃん」

「えっ、胸。正確に言えばその先端」

「もうっ!」

 体を洗っている憂の横から見え隠れする、その存在感のある二つの乳房を眺めていた。ほんと、羨ましい。
 特別、対策を施している風にも見えないのに、その肉付きのいい体はどうやって維持されるのだろうか。平沢マジック?
 いや、あるいはオカルト的な何かだろうか。昼間あった憂も同じくらいいい体してたし。

「痛っ! ……くっ」

「大丈夫、憂?」

「へ、平気……ちょっと腕が当たっただけだから」

「ごめんね」

「いいよ……大丈夫。ほら、服着てれば見えない位置だし」

 右の胸の付け根辺りに、拳大の大きな青痣が出来ている。こんなきれいな体になんてことするのだろう。
 思わず、手近にあったカミソリで私の右腕を切り落としたくなった。でも、さすがに澪先輩のような真似はできない。世に言うリスカ? 血は得意じゃないし。

「……触ってもいい?」

「えっ」

「ちょっとだけ」

「……いいよ。あんまり痛くしないでね。その、ちょっと触っただけでも痛むから……」

「うん」

「……あ、あずさちゃん……もう、いい?」

「あともうちょっとだけ……うわぁ、ホント酷い怪我だね。謝ってすむことじゃないけど、本当にごめんなさい」

「だから、もういいてば、梓ちゃん……痛っ」

「あ、ごめん」

 可哀想だな憂。見ていて痛々しい。この痣がキスマークだったらどれほど良かった事か。

 ……。
 ……。
 ……。

 ベランダに出て、携帯を取り出す。夜風が温くて気持ち悪い。
 アドレス帳を一から順に辿っていくと、ア行の最後に見知らぬ登録を見つけた。

『オカルト研』

 見知らぬなんて、何を考えているのやら。私は間違いなくこの文字列を知っているし、幾度となく電話をかけた記憶もある。
 その記憶が現実のものだ気付いたのがつい最近というだけで、なんだ、思い出してみれば呆気無かった。

「ふぅ……」

 スッと深呼吸して夜気を胸いっぱいに吸い込み、大きく深呼吸をした。記憶の整理をする前に、まずは落ち着こう。
 純の目に見えるほど、”最近あった色々なこと”は私に大きな負荷をかけるらしいから。
 またパニックになって憂を傷つけてしまわぬよう、細心の注意を払って心の準備をしよう。
 携帯のコールボタンを押し、記憶をゆっくりと紐解いていく。

 ちょうど3週間くらい前、律先輩が亡くなった。通り魔に刺されたと聞いている。
 そして、それから数日も経たぬ内に澪先輩がおかしくなった。俗にいう、キ○ガイってやつになったのだ。
 私を含め、けいおん部の皆は、律先輩がいなくなって澪先輩の心が折れてしまったのだろうと思った。
 か弱い澪先輩の事だし、まあ仕方の無いことなのだろう、と私は妙に割り切った気持ちでそれを見ていた気がする。
 ところが、今度はもっと不可解な事が起こった。
 先輩方が、律先輩が見えるというのだ。

 とうとう、澪先輩の狂気が伝染してしまった。私はそう考え、なるたけそのことに触れないようにして生活した。
 しかし、その狂気とやらはどうやら私にも感染してしまったらしく、ある日、部室に行くと律先輩がいた。驚いたなんてものではない。
 生前と変わらぬ姿で、すでに他界した人間が目の前に現れたら誰だって腰を抜かしてしまうだろう。まあ、流石に腰を抜かしたなんてのは比喩だけど。
 先輩方に促され、律先輩と会話をしてみると、どうやら自分がなぜ死んだのか、どころか、自分が死んでいるということにさえ気付いていないみたいだった。
 ああ、こういうことって本当にあるんだ。
 その瞬間から、私もオカルトというものを信じるようになった。どんなに理屈に合わなくても、実際に目に見え、耳に聞こえるのだから。
 狂ったわけでもない。

『もしもし』

「夜分遅くにすみません。軽音部の中野梓です」

 しばらくは死んだ律先輩を含めた奇妙な放課後ティータイムが続いた。
 いつも部室に行くと先に鎮座している律先輩の姿には、結局最後まで慣れなかったが、葬式ムードの暗い放課後の練習よりはよっぽど楽しかった。
 けれど、やがて、律先輩が事の真相に気付いて、召された。深夜、死人みたいな澪先輩からそのことを電話で知らされた。
 まあいつまでも続くとは思っていなかったし、別段、驚きは無かった。少しだけ残念だったけど。
 問題は、その日からパタッと狂った振る舞いをしなくなった澪先輩だった。
 普通どおりに登校して、普通どおりに放課後は軽音部の練習に参加する。明らかに不自然だった。

 理由を尋ねてみると、もう律もいないし気が触れたフリをする必要も無い、とのことだった。
 何を言っているのか、私も唯先輩もムギ先輩もさっぱりだったのだが、それ以上は何も答えてくれなかった。
 でもムギ先輩は引き下がらなかった。魂の抜けたような澪先輩をゆすぶり、しつこく問い続けたのだ。心底うざったいと思った。
 そのかいあってか、ようやく澪先輩の口から『オカルト研』の一言を聞き出すことには成功したが、見ていて良い気はしなかったと記憶している。

『中野……さん? どうしたんですか、こんな夜に』

「はい。ちょっと聞きたい事がありまして」

 私と唯先輩、ムギ先輩はさっそくオカルト研を訪ねた。
 中に入ると、妖しげな血の付いた大鎌や人の惨殺死体(の模型)、見たことの無い象形文字の羅列が敷き詰められた布きれ。
 兎にも角にも、部屋は触れるのも憚られるような薄気味悪い物で埋め尽くされていた。
 そんな中に、部員らしき二人の女性が肩から黒いローブをかけて佇んでいた。
 ムギ先輩が先陣を切って、澪先輩の事を訪ねた。すると、片方の丸っこい輪郭の野暮ったい顔をした女性が口を開いた。

 秋山さん、田井中さんに会えたでしょ。良かったですね。

 気味の悪い喋り方だと思ったが、茶々を入れる気にもなれず、そのまま大人しく話を聞いていた。
 どうやら澪先輩が狂っていたのは、そういう風に装えばやがて律先輩に会える、と吹き込まれたかららしい。
 何を言ってるんだこいつらは、と思うものの、実際私は律先輩を目撃しているし、お話もした事実がある。
 自身の体験を根底から否定するわけにも行かず、固唾を呑む唯先輩とムギ先輩に習って、オカルト研の連中の話を信じることにした。
 そう、信じることにした。
 いや、信じるなんて控えめな言葉で表現するのは間違っている。
 私は、そのオカルトに魅了されたのだ。 

 当然、同時に嫌な予感もした。
 景気づけに皆で映画を見に行った、その晩、澪先輩が自宅で腕を切って浴槽に浸かっているところを発見された。
 ショックだったし、涙も流した。けど、私は既にオカルト研の魅力に取り付かれ、気がつくと部活の練習も手に付かなくなっていた。
 茫洋とした毎日。
 ある日、とうとう我慢できなくなった私はオカルト研の戸を叩いた。

「前に、先輩に相談を持ちかけたことありましたよね?」

『相談? ああ……はい、覚えていますよ。たしか、』

 同性で好きな子がいるんですが、その子を振り向かせたいんです。
 私はその時初めて、隠してきた気持ちを自分以外の人間に打ち明けた。唯先輩にも誰にも話したことの無い秘密。
 なのに、どうだ。
 蓋を開けてみれば、憂は純と仲良くしてばかりでちっとも私に靡かないじゃないか。
 電話を持つ手から、ギリギリと鈍い音が聞こえた。

『どうですか、上手くいきましたか?』

「全然。ちっとも。それどころか、私と同じく憂に気がある女と仲良くなる一方です」

 オカルト研に提示された、俗に言うマジナイは、ひたすら淫靡な妄想に耽る事だった。
 気が触れて現実と妄想が覚束なくなるくらい、いかがわしい事を想像する。たったそれだけ。
 半信半疑で始めてみたものの、意外にそれが心地よくてあっという間に虜になった。
 おかげで、やはりギターの練習も手につかなくなり、ボーッとしている時間が長くなった。

『私の言った事、実践していますか?』

「変態チックな妄想をすることですよね?」

『ええ、まあそうです』

「ええ、欠かさず毎日。今では、別段意識することなく、勝手に脳がピンク色になりますよ」

『そうですか』

「そのせいで、最近何か少し変なんです、私。私自身に自覚は無いんですけど」

 現実が覚束ない。なぜ思い通りに行かないんだろう。

『やはり、上手くいっているようですね』

「……はぁ? ちょ、何言っているんですか、私の話聞いてました?」

『ええ、もちろん。あともう少しですよ』

「何がですか? っていうか、何が上手く行ってるんですか?」

『心配しなくても大丈夫ですよ』

 電話の向こうから、無機質で意味不明な回答があった。

『中野さん。オカルトは、ただの空想ではありません。自らの手で作り出すものなのです』

「……」

『貴女さえしっかりしていれば、間違いなく貴女のオカルトは成就します。応援していますよ』

「……し、失礼します」

 電話を切った。
 筋金入りのオカルトマニアの末路を知ってしまったような、少し切ない気持ちになった。
 生ぬるい風が頬を撫でる。
 もう寝るか。

 ……。
 ……。
 ……。

『はぁ……ハァ……あ、あずさちゃん……きてぇ』

『わたしのここ、ほら、もうこんなに……』

『んああぁぁっっ!! は、はげしいよぉ、あずさちゃん……!』
 やっぱりその日も淫らな妄想にうなされた。

 ……。
 ……。
 ……。


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