「わああぁぁぁ!!!」

 私は隣の憂を全力で抱きしめ、頭を胸に押さえつける形でそれを見せまいとした。当然、憂は戸惑って抵抗の意を見せたが気にしている場合じゃない。
 純に顎で指示を飛ばす。そのまま全速力で外に出て行った。

「あ、梓ちゃん!? なに、どうしたの、ちょっと、痛いよ!」

「ごめん、ちょっとだけ、ちょっとだけだから……!」

「わけが……わからないよ……! んぐぅっ……!?」

「ごめんね、すぐ終わるから、もう少しの辛抱だから大人しくしてて!」

「痛っ、痛いよ梓ちゃん……!」

 早くしろバカ純。
 釈然としない顔で窓越しの憂はこちらの様子を眺めている。
 ようやく、そこに純が加わって、腕を引いてそのまま視界の外まで消えた。

「……行った……のかな?」

「あ、あずさちゃん……もうやめて……」

 もう離してもいいだろうか。考えあぐねていると、ファミレスの店員がこちらにやってきた。

「あの、お連れのお客様は……?」

「えっと……用事を思い出したとかで、帰りました。あはは」

 ……。

 ……。
 ……。
 ……。

 西日が窓から差し込み、私は眩しさに目を細めた。
 電車はガタゴトガタゴト、一定の間隔で揺れている。周りには恋人風の男女やら、悲壮感に満ちたさえない中年連中が死んだように眠っている。

「ふぁぁ……ねむ」

 肩に、憂が当たった。グッタリと私に身をゆだねて、穏やかな表情で目を瞑っている。
 プニプニのほっぺたに手を伸ばすと、冷やりとしてて気持ちよかった。
 キョロキョロと周りを見渡し、こちらを誰も見ていないことを確認する。

「んっ……」

 そっと、素早く憂にキスをした。しっとした柔らかい唇。
 脳の奥が痺れる。比喩じゃなくて、本当に痺れた。
 ふと視線を上げると、気まずそうな顔をしたサラリーマン風のはげ頭がこちらをチラチラと覗き見していた。なんかムカつく。
 そんなにレズが珍しいのか。私の周りにはゴロゴロいるのに。まさか、百合やレズビアンまでもオカルトの類だんて言うんじゃないだろうな。

「……ムカつくんですけど」

 オカルトは、ただの空想などではない。自らの手で作り出すものだ。中野さんもそう思いませんか?
 ふと、オカルト研の人の言葉がよみがえった。あれ? 私、接点あったっけ?


『次は○○ー、次は○○です……』

 電車のアナウンスに我に返る。憂はまだ頭を垂れたまま私に寄りかかっている。
 ドアが開き、人が吐き出された。
 ここで私も降りようか。どうしようか、憂。

 ……。
 ……。
 ……。

 体力に自信がある方ではない私だが、なんと憂をおんぶして歩けたらしい。
 夕焼けに染まる空を背に、ひたすら歩く。
 普通、こういうシチュエーションって、腕っぷしの強い男がか弱い女の子にやるもんじゃないの?
 私は一人苦笑いを浮かべた。

「……重いなぁ……なんていったら怒る、かな」

 意外なことに、憂の体は全然重くなかった。こんなにも肉付きが良いのに、体重は軽いのだ。
 そういえば、唯先輩がいくら食べても太らないとか言ってたけど、妹の憂もそうなのかな。なんて羨ましい。いや、太らない事よりも、程よい肉付きが。
 なんかそれもオカルトみたいだな。

 唯先輩も太らない呪術みたいなのを、オカルト研の人からレクチャーしてもらったのかも。
 太らない呪術、死者を呼び出す呪術、恋愛成就に、ドッペルゲンガーを生み出す呪術。
 なんか、魔女みたいだなオカルト研。地味な部下なくせに、やることは度肝を抜いている。これがロックってやつかな。なんか違うか。

「あはは……はぁ。疲れた」

 目的地についた。静かに憂を下ろす。
 そんな熱い季節でもなく、もうすぐ日が沈むというのに、額からはとめどなく大粒の汗が流れ落ちた。
 リストバンドでそれを拭い、夕陽を見つめる。なんかいいな、この感覚。静かで、心地よい疲労感に満たされていて、隣には大好きな人がいる。
 私は人知れず笑顔になり、隣で横になっている憂を見やった。
 本当はいけないことだけど、ちょっとだけなら……私の劣情にすぐさま火がつく。

「ちょっとだけだから……」

 制服のスカートをツマミあげ、下着を確認した。なるほど、白か。やっぱり似合うね、憂。
 下着の端に手をかけ、一気に引き摺り下ろした。驚くべき事に、下着はぐっしょりと濡れていた。

「えっ……うわぁ……」

 おしっこだ。

 ……。
 ……。
 ……。

 ……。
 ……。
 ……。

 どこをどうほっつき歩き、どこで憂と別れたのかは定かではない。けれど、どうにか私は自宅まで帰ることが出来た。
 精神的にも肉体的にも疲労はピークに達しているみたいで、ちょっと歩くだけでゼエゼエと気味の悪い呼吸になる。
 足が重たい。肩首がガチガチに凝り固まっている気もする。足の裏から疲労物質が染み出るような錯覚さえある。

「つかれたぁ……ただいまぁ……」

「おかえり、梓ちゃん!」

「……あ、憂」

 いつもだったらどんな疲れもぶっ飛ぶような、憂の満面の笑みが、今は砂をかじるように無味乾燥として感じられる。
 日中の憂と重なって、また私はグッタリとしてしまう。

「どうしたの? なんか、すごく疲れてるみたいだけど……?」

「あはは……まあ、色々あってね」

「大丈夫?」

「そんな心配されるほどのことでも……おっと」

 靴を脱ごうと前のめりになって、床に盛大に鼻を打ちつけた。一瞬遅れて、鉄臭い血の匂いが鼻の奥に充満した。
 憂の悲鳴。私は無様に呻きながら、それでも靴を脱ごうとしていた。

「あ、梓ちゃん大丈夫!? 鼻血が出てるよ!」

「ひゃいひょーぶ、ひゃいひょーぶ」

「うわぁ、すごい血! 全然大丈夫じゃないよ……!」

「せいひ、みたいひゃね」

 憂がポケットからティッシュを取り出し、私の鼻に押し付ける。少し力が強くて痛かったのだけれど、贅沢も言ってられない。
 鼻の奥が熱い。
 視線を上に上げると、すぐ間近に心配そうに眉根を寄せる憂の顔があった。とても可愛くて、鼻血が止まらないと思えるほど。

「なんか変だよ梓ちゃん……今日、何があったの?」

「んんっ……べつに、なにもないよ」

「……ホントに? 私、心配だよ」

「だいじょうぶだって」

「う、うん……でも、心配だよ……」

「もうっ……たかが、鼻血でしょ。きにすること……ないってば。あはは」

 言えるわけも無い。私を想って心配してくれてる憂には申し訳ないけれど、それでも事実を口にするわけにはいかなかった。
 憂のため、憂のため。
 けど、いつまでこれを続けるのだろうか。昨日言ってはみたけれど、一週間も家に篭りっきりなんて余りにも酷ではないだろうか。
 第一、純のいい加減さが露呈した現在、私の憂だけを匿う事に、果て、意味はあるのだろうか。

「横になろっか?」

「うん」

 リビングに移動した。ソファの上で憂の膝枕。
 なんて甘美な時間! と以前の私なら涎を流しながら喜んだことだろう。けれど、今は違う。
 ボーッと滲む頭でこれからのことを考えるだけ。
 私の憂と純の憂と、そして本物の憂。それがこのまま互いに干渉せずに暮らしていけるかといえば、当然無理だろう。
 まあ、私の憂はこのまま匿い続けるとしても、純のトコのはいずれバレて何かとんでもないことになる。あの純には絶対無理。かけてもいい。
 だからといって、私がしゃしゃり出て、「お宅の憂を預かりに来ました」なんていえるわけも無いし、言うつもりも無い。

『純ちゃんの家にね、お泊りしちゃった』

 汚い。
 もう純の憂は汚くなってしまった。清廉潔白とは言い難い、純の色にそまった平沢憂。
 やな子だな私。でも、心の底から思ってしまうのだから仕方ないじゃない。そうだよ、汚いよあの憂。
 私が商品の憂に手を出したからって、純もそうしたとは限らない? いや、した。絶対に。
 なぜなら、純もまた憂に好意を抱いている一人なんだから。私が知らないとでも思ってるのだろうか、おめでたい奴。

「梓ちゃん。どう、落ち着いた?」

 私は知っている。純が憂を好きだという事実を。誰に聞いたわけでもないが、何となく雰囲気と態度でわかる。
 中学も一緒で高校も一緒。同じ部活ってわけでも無いのに、お昼も一緒。同じクラスという事以外接点も無いのに、休日まで一緒。
 ずるい。
 私はそんな純を前からずるいと思っていた。いや、そんな生易しい表現は似合わない。いつまで猫被ってんのよ、私。
 はっきり言って、純には心底嫉妬していた。憂と仲良くしている姿を見るだけで、爪先から脳天までを不快感が駆け上るくらい。

「鼻血は……止まったみたいだけど、一応ティッシュ交換するね」

 なんで忘れてたんだろう。ネットショッピングがどうとか、何の理由があるにせよ、純を家に招くなんて反吐が出そうなのに。
 土曜日まで純の面を拝むなんて、絶対に勘弁して欲しかったのに。

 最近色々あったことで、実際、私は相当な影響を受けていたのかもしれない。癪だが、あの純に心配されるほど、そうとう私はキていたのかも。
 なんか、やだな。
 頭がおかしい人みたいで嫌だ。なにより純と憂にそれを心配されるのが、嫌だ。
 きっと二人して、私を見下すように「最近、梓ちゃん変だよね。大丈夫かな」なんて言ってさ。
 それで、純は「じゃあ、二人で梓を元気付けてあげよっか」とか調子のいいこと言うんだ。
 憂も妙に乗り気になって、どうやってひねくれた猫みたいな私を元気付けるか考えるのだ。普通のやり方じゃダメだよ、なんていいながら。
 私の知らないところで、そうやって二人だけの世界に入って。
 なんか、本当にやだな。

「梓ちゃん?」

「……やだな。ムカつくよ、すごく」

「えっ? どうしたの、いきなり?」

「だからさ、ムカつくって言ってんの。二人してイチャイチャしてさ。私に余裕見せ付けるみたいに……!」

「えっ、えっ?」

「今回のことだってそうだ。何がネットショッピングだ、何が商品の憂だ! ふざけないでよね!」

「ちょっと落ち着いて、梓ちゃん……あっ、また鼻血が!」

「鼻血? 鼻血がどうしたっていうの。別にこんなもの、全然大した事無いよ」

「あ、梓ちゃん……」

「なに」

「……怖いよ」

「バカにしないでよね!! 何が怖い、だ。本当は純と一緒にいたかったんでしょ? そうなんでしょ!?」

「意味がわからないよ、落ちついて……」

「触るなっ!!」

 目の前に慌てふためく憂がいた。ひどく怯えて可哀想なのだけれど、私を見る目がひどく気に入らなかった。
 優しくて可愛いな、憂は。頬もプニプニしてて、触っているだけで幸せになれる。
 胸だって唯先輩よりもかなり大きくて、触ったらきっとすごく柔らかいんだろうな。ぷにぷに~ってやつ。
 それだけに、尚更、純が許せない。あの汚いモップの手で、憂の大きな胸を揉みしだいている様がありありと浮かぶ。
 部屋に二人っきりで、それはそれは甘ったるい雰囲気と照明に彩られながら乳繰り合って。
 きゃあきゃあ言いつつも、そのうちお互いに黙っちゃって、そして行為に及ぶ。怒りの余り、涙が出そうになった。
 目の前には憂が一人、けれど私の視界にはピンクで染め上げられたおぞましい純と憂の世界が広がって、どうすることもできない。
 ああ、やだやだ。気持ち悪い。

「うっ……うえぇっ」

「あ、あずさちゃん!? ちょっと、本当に大丈夫?」

「ううぅっ……きもちわるいよぉ……あぁ」

「横になってた方がいいよ、私、洗面器持って来るね」

 私がギターの練習に勤しんでいる休日なんか、どうせ純と二人でイチャイチャしているのだ。
 だから今回だって――

『ねえねえ、憂、こういうのどう? 憂が梓の恋人になるの』

『ええっ!? ど、どうして……?』

『だって、梓、憂のこと好きだよ絶対』

『そ、それは……でもたしかに、梓ちゃんの態度……私といる時、そわそわしてるっていうか、なんだかその……』

『でしょ? あはは、バレバレだね。そこでさ、憂が梓の恋人になってあげるんだよ』

『えっ、どうしてそこに?がるの!?』

『どうしてって、ほら最近、梓元気ないでしょ? やっぱり先輩達のことが堪えてるんだよ』

『うん……そうだね』

『だから、憂に梓の恋人になってもらって、喜ばせてあげようよ』

『ええっ……そ、そんなことできないよ』

『どうして?』

『どうしてって……純ちゃんは平気なの? その……私と梓ちゃんが付き合っても』

『そんなわけないじゃん。ぜーったい、許さない!』

『えええぇ……意味わかんないよ、純ちゃん』

『だからさ、本当に憂が梓の恋人になるんじゃなくてさ』

 せまっくるしくて、真っ暗なところで私はそれを聞いていた。
 どこだっけ、ここ? そうだ、トイレだ。部室棟のトイレ。普段使わない、軽音部の部室である音楽室とはちょっと離れたトイレ。
 ちょうど、ジャズ研から最寄のトイレだ。

『どうするの、純ちゃん?』

『……さあ、私がそんな妙案浮かぶわけ無いじゃん』

『ええっ!? もう、怒るよ、純ちゃん! もうぅ……』

『あはは、ごめんごめん。でもね、実は良い話がありましてですね』

『うん? いい話って?』

『オカルト研の話。知らない? 根暗なオカルト研の先輩が、迷える子羊に妖しげなアドバイスしてるって話』

『えっ、知らないよ。なあに、それ?』

 あ、私それ知ってた。
 忘れるわけも無い。大好きだった先輩が縋ったやつだ。懐かしいな。
 奥歯が砕けそうなくらい私は歯を噛み締めていたらしく、唇から血が垂れた。

『恋占いとか、そういう甘ったるいのじゃなくて……相手を呪い殺す方法とか、そういうの』

『うわぁ……なんか怖いよ。まさか、そんな人に相談するの?』

『うん。そうだよ』

『やめようよ、そんなの。それにこう言うのもなんだけど……なんか、胡散臭いよ』

 たしかにオカルトなんて胡散臭い。
 けど、律先輩が亡くなった後、結局、あのか弱い先輩はそんな信憑性の薄いものに縋ったんだ。
 そして、私も。
 何相談したんだっけ? っていうか、いつの話だっけ、これ? そもそも現実に起きたことなのか、私の妄想なのかそれすら分からない。


『大丈夫大丈夫。きっとうまくいくよ』

『そうかなぁ……?』

『そうだよ。それに……梓の奴、なんか私達の関係に気付いてるっぽい気もするし。ここら辺でなにかしら対策を――』

 違うな、現実じゃない。
 これはいつもの、私のいやらしい妄想の一部だ。気持ちわるいなぁ。
 でもホントかな。わかんないや。

 ……。
 ……。
 ……。


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