憂が部屋を出たのを確認してから、携帯を再度取り出しアドレス帳を開く。
 平沢憂。唯先輩でなく、あえて憂の携帯にかけてみる事にした。数回のコールが鳴り響き、呼応するかのように私の胸も高鳴る。
 ……コールが止んだ。

『もしもし』

「あっ……えっ」

『梓ちゃん?』

 信じられなかった。
 またもや憂の声。そんな馬鹿な。いったいぜんたい、なにがどうなってるのよ。
 私は今度こそ言葉を失った。だって、こんなこと信じられない。オカルトだよ、こんなの!
 そりゃあ常識じゃ考えられない事なんて、ともすると本人の勘違いだったりするのが関の山。UFOがただの飛行機だったり、幽霊かと思ったらただ鏡に映った自身だったり。
 わかっている、そんなことは……でも。
 頭の中で二つの自分が戦いを始めた。オカルトを肯定する私と、それを是が非でも否定しようとする私。

「あ、急にごめんね。別に特に用事ってわけでもないんだけどさ」

『うん』

「その、急に憂の声が聞きたくなっちゃって」

『えっ? それってどういう意味……かな』

「深い意味は無いよ」

『そう、なんだ……』

 あっ。
 否定派の私が一つの仮説を思いついたみたいで、次には口を開いていた。

「ところで、唯先輩今何してるの?」

 否定する為の仮説。それは、今私が話している相手は憂ではなく、それを演じている唯先輩ではないかということ。
 以前、唯先輩が風邪で休んでいた時、憂が唯先輩に扮して部室にやってきた事があった。つまり今度のはその逆ということだ。

『お姉ちゃんなら、リビングでギターの練習してるよ』

「そうなの?」

『うん。代わろうか?』

 電話先で、かちゃかちゃと食器の音やら水道の音らしきものが聞こえた。
 直後、またしても背景音が私の混乱を誘う事になったのだった。
 ギターの音。憂の声の背後から、ギターの練習音が聞こえ始めたのだ。
 おそらくは唯先輩のもの。じゃあ、なんだ、仮説は成り立たなかったわけ? もうなんなの。

『もしもし、あずにゃん? どうしたの』

「あぅ……もう、なんでもないです! すいません、切ります!」

『えっ、ちょっとあずに――』

 電話を切って、床に捨てた。音に反応したのか、部屋の戸が開き憂が入ってきた。目を丸くして、カバーの外れた携帯と私を見比べている。
 もう知らない。わけわからないし。

「どうしたの、梓ちゃん? そんなことしたら、携帯壊れちゃうよ?」

「ああもういいや……寝ちゃおう寝ちゃおう寝ちゃおう……」

 目を瞑る。
 そうだ、これはきっと夢なんだ。だから理解できない現象もおきるし、矛盾だって起きる。それに一々本気で付き合っていたのでは、きりが無い。
 そうだ、寝るのが一番だ。夢の中だろうが、現実だろうが、きっと次目覚めた時には万事上手く収まってる。
 寝よう。

「ちょっと寝るね。なんか頭疲れちゃった」

「大丈夫?」

「そんな心配されるほどでもないよ……憂も一緒に寝る?」

「えっ? うーん、私はいいかな。さっきまでずっと眠ってたみたいだから、あんまり眠くないんだ」

「そっか」

「あっ、でも、一緒に横になってるだけならいいかも。梓ちゃんの寝顔見ていたい」

「えっ!? そ、それってどういう意味……?」

 何を言い出すのだろう、まどろみが一気に吹っ飛んじゃったじゃない。
 憂がふふっと妙に色っぽく笑って、そのまま横になった。眼前に、憂の顔。やばい、顔が火照ってきた。

「深い意味は無いよ。ただ、梓ちゃんの寝顔が見たいだけ」

「……恥ずかしいんだけど」

「私も恥ずかしいよ」

「ならどうして……?」

 憂は答えてくれない。ただ潤んだ瞳で私を見つめるだけだ。ヤバい、これは非常にやばいよ。
 スッと顔を近づければ唇が当たる距離を保ったまま、果て、私の理性はどこまで本能とやらを抑えておくことが出来るだろうか。
 あんなにゴチャゴチャしていた頭の中が、今は目の前の憂一色で染まってしまっている。これはB型の血の所業だろうか。どうでもいい。

「あ、あのさ……ちょっと顔近くない?」

「そうだね」

「そうだねって……」

 憂ってこんなに大胆な娘だっけ?

「私、ちょっと混乱してるのかも」

「えっ」

「だって、いきなり梓ちゃん家にいて、しかもダンボールに入ってたんだよ?」

「まあ、そう、だね……私も混乱してるしね」

「うん。でもね、悪い気はしないよ。というより……嬉しい、かな」

 そりゃあ、私だって本心を言えば……憂がやってきたという事実だけを抽出するなら手放しで大喜びしたい。でも、状況が状況だ。
 ちょっと待って。
 この憂はこの後どうするつもりなんだろう。家に帰る? いやいや、唯先輩の家には今本物の憂がいるんだ、それはダメだろう。
 ……ダメ? ダメな理由ってなんだ。

「なんで嬉しいの?」

「えっ……あ、うん……えっとね……それはその」

 唯先輩なら例え憂が2人になったとしても、何となくオッケーの一言で済ませてしまいそうな気がする。
 でも憂はどうだろう。目の前に全く同じ人間が現れたとして、どうするのだろう。同じ人間が、目の前に。あれ?
 どこかで聞いたような話だ。

「……お、教えない」

「なにそれー。いいじゃん……教えてよ」

 顔を真っ赤にして俯く憂を、揺るんだ口元を隠しもせずにやんわりと攻めた。そうでもしないと、頭がおかしくなりそうだった。
 私も馬鹿じゃない。目の前の憂が私に対して好意を持ってくれてる事くらいすぐにわかった。正直、顔が茹るくらい嬉しい。
 でも、やっぱり私は馬鹿じゃないのだ。それを喜ぶ前に、危惧する事があるくらいわかった。
 自分と全く同じ存在……ドッペルゲンガー。典型的なオカルト。で、『ドッペルゲンガーに会うと死ぬ』らしい。
 涙が出た。

「えっ!? あ、梓ちゃん? どうしたの!?」

 軽音部に入るか外バンを組むべきかの瀬戸際でさえ、こんなにも悩む事はなかった。律先輩が澪先輩と喧嘩した時だって。あの時だって。色々あって精神的にきてた時だってそうだ。
 厄日、なのかな。そう考えてとりあえず現実逃避した方が楽かもしれない。

「ご、ごめんね、変な事言っちゃって、私が悪かったんだよね? ごめんね」

「……違うよ。憂のせいじゃない……とはやっぱり言い切れないかな、あはは」

「えっ……わ、わかっちゃった? その……私が梓ちゃんを好きってこと、やっぱりわかっちゃったかな?」

 憂は好意を向けられた私が戸惑って泣いているのだと勘違いしているらしい。
 可哀想だから、とりあえず誤解を解いてあげよう。逃避するのはそれからでも遅くないはず。

「バレバレだよ」

「そ、そっかぁ……変、だよね、やっぱり」

「まさか、全然。だって私も同じだもん」

「えっ」

「私も憂が好き。多分、憂が想っている以上に、私は憂が好きだよ」

 可愛いなぁ、憂。あらら、泣いちゃったよ。

「ほ……ホントに? 信じても、いいの?」

「当たり前じゃん、純ならまだしも、私はそんな質の悪い冗談は言わないよ」

「梓ちゃん……」

「両想いだね、私達」

「うん……うん!」

 そうだよ。ドッペルゲンガーなんて未だに信じられないけど、実際に憂が複数いたのだ。僅かな危険性も残しておくわけにはいかない。
 死、なんてものを憂の近くに置いておけるものか。ならば、その可能性である『ドッペルゲンガーに会うと死ぬ』なんて噂、こっちから先手を打てば良い話。
 現実逃避を考えたり、かと思えばオカルトなんてものに一生懸命対策を練ったり、自身が思っている以上に私はどっちつかずのAB型らしい。
 日和見したり、熱くなったり。だけど、ここで思うままに憂に襲い掛かったらダメなんだ。あの柔らかそうな唇をむさぼるのは、全ての懸念事項を回避した後でなくては。
 ああ、憂。

「今、何て?」

「だから、私と一緒に暮らそうって言ったの。恋人なんだし」

 絶対に憂を自宅に帰らせない。その間に何らか対処を見つけ出す。実に合理的で素晴らしい! っていうのは何かのドラマの受け売りだったかな。

「ええっ!? で、でも……」

「話が早い? 大丈夫だって。これから一生ってわけじゃないし、そうだなぁ……とりあえず、一週間暮らしてみようよ」

「一週間? で、でも……お家の人に何て言うの?」

「たしかに、唯先輩を宥めるのはちょっと苦労しそうだなぁ」

「そっちじゃなくて! 梓ちゃんのお父さんとお母さん、きっとびっくりするだろうし、私迷惑だよ」

「大丈夫。お母さんは二つ返事で了承すると思うし、お父さんは……音楽性の追求だとか何とか言えばオッケーするよ」

「ええぇぇぇ……」

「着替えはどうしようかな。私が憂の家まで行って取ってきてあげようか」

「えっ、いいよわざわざ。私が取りに行くから」

「ダメっ!!」

 おっと。いけないいけない。

「梓……ちゃん?」

「あはは、ごめんごめん。ちょうど唯先輩を説得するタイミングにもなるしさ、私が行くよ。っていうか、もうすっかりノリ気だね」

「えっ……う、うん。正直言うとね、すごく嬉しいんだ。でも、素直に喜んで受け入れていいのかな……?」

「いいっていいって。それじゃあ、さっそくお母さんだけでも話つけてくるから、適当にくつろいでて」

「わ、私も行くよ! ……もし了承してもらえたら、お世話になるんだし」

「そう? じゃあ、二人で行こっか」

「うん! ……あっ、私達の関係は伏せといた方がいいのかな」

「いや……この際、両親公認の仲になっといた方がいいよ。どうせお父さんを説得する時、根掘り葉掘り聞かれそうだし」

「うーん……いいのかなぁ……」

 保安官を銃撃したり、アレをキメて男の子を嬲ったりするわけでもない。ただの同性愛を報告するのだから、何も問題ない。
 音楽家っていうのはそういうちょっと感性がズレてる人が多いし、ズレてる方が良しと信じて自負して人も多い。
 父は後者だ。母はそれ以前の問題だ。私はどうなんだろう。

「ほら、行こう?」

「う、うん」

 予想通り、母は二つ返事で認めてくれた。父は感慨深そうに、梓ももうそんな歳か、などとよく分からない感想とともに首を縦に振ってくれた。
 なんだ、うまくいきそうじゃん。

 ……。
 ……。
 ……。

『もしもし、あずにゃん?』

「夜分遅くにすみません。あと、さっきはいきなり電話を切ってすみませんでした」

『気にしてないよー。それで、どうしたの?』

「はい、実は唯先輩にお願いがありまして。その」

『なあに?』

「えっとですね、憂の下着と服を何着か用意して欲しいんです」

 電話の向こうで沈黙する先輩の姿が浮かぶ。恥を忍ぶというか、捨てたよ。全ては憂の為なのだからしょうがない。

『……あずにゃん? どうしたの、いきなり。まさか、あずにゃんまでムギちゃんみたいになっちゃったの?』

「違います。一緒にしないでください。私の想いはもっと純粋です」

『言ってる意味がわからないよ』

「だからですね、私は憂が好きなんです」

『えっ? 私も憂のことは好きだよ』

「先輩が言ってる好き、と私の言ってる好きは意味が違います。私のほうは、恋愛感情で言うところの、好き、です」

『……ホントなの? 冗談とかじゃなくて?』

「本気です」

『……そっか。じゃあ、あずにゃんには特別に憂の服セットを用意してあげよう』

 案外、というよりも逆に不安になるほどあっさりと了承してくれた唯先輩。まさか、ムギ先輩の影響で変なところに耐性が付いてしまったのだろうか、だとしたら許すまじ、眉毛先輩!
 まあ、でも、今回ばかりは感謝しておこう。

『何枚くらい欲しいの、憂のパンツ?』

「ちょ、パンツだけに限定して聞かないでください! 私が変態みたいじゃないですか」

『違うの?』

「違います!」

 やっぱり許すまじムギ先輩。布教するならとことんしておいて欲しいものです。
 私は、唯先輩にとりあえず1週間分あれば事足りる事を伝えた。


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