……バタフライ効果。

わずかな“ずれ”が増幅され、まるで予想不可能な結末をもたらすこと。

北京で蝶が羽ばたいたために、ニューヨークで雨が降るといった具合に。

“ずれ”は常に細かいちりのように存在し、時に我々の日常を致命的なまでに破綻させる。

律の日常のように……。



つい数日前まで、田井中律は人気者だった。

持ち前の明るさとボーイッシュな性格のおかげで、学年中に友達がいた。

そして彼女は、軽音部の部長でもあった。

そんな彼女が、入学してすぐに桜高一年生の中心的ポジションを射止めたのは至極当然と言えるだろう。

休み時間の笑いの中心に、いつも彼女はいた。

だが、栄光というものはあてにならない。

それが思春期の未発達の少女の栄光なら、なおさらに。



きっかけは、軽音部の練習だった。

ベース担当で幼なじみの澪に、ドラムが走りすぎだと指摘されたのだ。

普段の律ならここで「ドラムは勢いだ」とでも言って場を盛り上げただろう。

だが、何故かその日の彼女にはそれができなかった。

それどころか口答えをしてしまった。それもきつい口調で。

たぶん、苛立っていたのだろう。わけもなく苛立つのは、思春期の少女にはありがちなことだ。

しかし、それは致命的な結果をもたらしてしまった。

喧嘩に発展するのはあっという間のことだった。

口答えは口論になり、口論はやがて罵りあいになる。川幅が下流になるにつれて広くなるように。

さらに悪いことに、律は唯や紬まで攻撃してしまった。

よほど頭に血がのぼっていたのだろう。
いったいどういった経緯で紬に罵詈雑言を浴びせ、唯を怒鳴りつけたのか彼女はまるで思い出せなかった。

罵りあいは下校時刻まで続いた。
散々汚い言葉をまき散らした挙げ句、さよならも言わずに部室を飛び出したのだった。


帰宅してようやく落ち着きを取り戻した彼女の頭をもたげてきたのは、激しい後悔だった。

あんな風に言うべきではなかった。唯たちを巻き込むべきではなかった。
今すぐにでも謝るべきだ。

彼女は何度も何度も自分にそう言い聞かせた。

だが、鞄の中の携帯電話を取り出そうとするたびに、体は言うことを聞かなくなり、決意は呆気なく折れた。


その晩は恐ろしく長かった。

夜遅くまで、携帯電話のバイブ音が何度も鳴った。
きっと携帯電話には、友人からのメールがぎっしり詰まっていただろう。

だが、律は電話を取ることができなかった。

そこに澪や唯や紬の名前があったら。そう思うと、冷や水のような恐怖が全身を駆け巡る。

その晩、律は夢を見た。

夢の中で、彼女はバスに乗っていた。バスの乗客は家族や友人、そして澪たち軽音部の仲間だ。

バス停に停車するたびに、乗客の数は減ってゆく。
しかし律だけは降りることができない。体がシートに貼りついているのだ。

律は叫ぼうとする。助けて、私を置いていかないで、と。

しかし望んだ言葉は出てこない。代わりに汚い罵りの言葉が濁流のように溢れ出てくる。

人々は軽蔑した目で彼女を一瞥し、そしてバスを降りてゆく。彼女の口はなおも罵り続ける……。

目が覚めたのは、早朝の四時だった。



そして翌日。

律はまるで喋らなくなった。殻を閉じた二枚貝のように。

失語症になったわけではない。英文も古文も音読できた。

しかし、誰かと話そうとした途端に足が震え、手のひらにじっとりと嫌な汗をかいてしまうのだ。

やがて彼女は、臆病のツケを払うはめになった。

友人たちが皆離れていったのだ。

かつて律を囲んでいた友人たちは、あっさりと新しい“中心人物”に乗り換えた。

代わりの人物など、いくらでもいるのだ。彼女はいわば消耗品だった。

歌を忘れたカナリアに用はない。そういうことだ。

澪たちに泣きつくという選択肢はなかった。プライドと恐怖が、彼女にそれを許さなかった。

そうして彼女は、一人ぼっちになった。


「He is a real nowhere man……か」



高校一年生の女子など、中学生に毛が生えた程度でしかない。卑猥な意味でなく。

だから誰かといっしょにトイレに行くのが当たり前で、昼食すら一人で食べられない。

昼休み、彼女たちはグループに別れる。運動部員系に文学系、オタク系といったグループに。

そして律が所属できるグループなど、どこにもなかった。

はぐれ狼を受け入れる余裕など、少女たちにはないのだ。

だから彼女は、一人で昼食を食べる。

ある時は空き教室で、またある時は講堂の裏で。


放課後も一人きりだ。

律は部室の代わりにゲームセンターに入り浸るようになった。

紅茶の香りの代わりに煙草の臭い。ドラムの代わりにプラスチックのボタン。

軽音部に顔を出さなくなって三週間。もう手遅れだろう。

彼女のそばに立つ者は一人もいなくなり、失われるべきでなかったものを失ってしまった。

時々、英語の歌詞を呟く。中学の英語の授業で習った歌詞だ。

「……He is a real nowhere man……」



軽音部に顔を出さなくなって三十日目。

律は一人の少女に話しかけられた。
少女は赤い縁の眼鏡をかけ、髪をショートカットにしている。

「お久しぶり、かしらね」

「誰だっけ?」

「あら、ごあいさつね。以前会ったことがあるでしょう?」

律はまじまじと少女の顔を見つめる。それでやっと思い出した。

「……ああ、唯の幼なじみの」

「そう。真鍋和。もう忘れないで」

「何の用だよ?急いでんだけど」

もちろん、これは嘘だ。放課後はゲームセンター以外に行き場所なんかない。

「澪からあなたに伝言。話したいことがあるから、部室に来てほしいって」

「なんだ、退部命令か?新しいドラマーは見つかったのかな」

律は口の端を吊り上げて笑ってみせる。彼女には似つかわしくない、皮肉っぽい笑い方だ。

「さあね、自分で確かめなさい。私は知らないわよ」


「それにしても、なんで今さら呼び出すんだ?あいつら私のこと避けてたくせに」

「そうかしら?以前唯が、あなたにいつも避けられるってぼやいてたわよ」

「私が?馬鹿言え。私のこと避けてたのはあいつらだよ」

和が苦笑いしてみせる。おかしさをこらえているようだった。

「まったく、あなたたちってつくづく不器用なのね。
いい、律?これが最後のチャンスかもしれないわよ。私が言いたいことはわかるわね?必ず顔を出すのよ」



一カ月ぶりに登る部室へ通じる階段は、長くも短くも感じられた。

喉元で脈打つ心臓をなだめながら、律は部室の戸をノックする。返事は返ってこなかった。

恐る恐る戸を開けると、何とも懐かしい、甘く優しい香りが鼻を撫でた。

紬の紅茶の香りだ。

しかし、紅茶を淹れたはずの紬の姿はどこにもない。澪や唯の姿も見えなかった。

にも関わらず、机にはティータイムの用意がされている。

よく見ると、かつて律が座った椅子の前にあからさまに大きなケーキが置かれていた。

そして、におい。紅茶とは別の香り。

「……なんだ、こりゃ?」

律は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

何のつもりか、彼女のドラムセットの周りに、たくさんの花が飾られていた。

根に土が残っているタンポポ。

よく手入れされたチューリップ。

高級そうなバラ。

そして、それらの花の中に、一枚のカードが添えられていた。

カードのメッセージはこうだ。




りっちゃん隊員、お帰りなさいませ! Byゆい

私、りっちゃんが帰ってくるのを夢に見たの~ By紬

これからは、欠かさず練習に出ろよ By澪



終わり



終わりです
和のあたりから睡魔にやられて失敗しました
元ネタは某バンドの某ドラマーのエピソードです
今回、初めて書きためというものをしたけど、あまり役に立ちませんでした
規制に巻き込まれる前に一作書けてよかったです
>>1とこんな時間まで支援してくれた人ありがとう