中野梓が風船の割れたような音に見上げると、生温かく、鉄の匂いを帯びたぬめぬめとしたものが頬に付着した。
桜餅のように柔らかな弾力のある頬についたそれを、二つの指でそっと拭いとると、目についたのはどす黒い赤である。
何故、苺のジャムがこんな所に? 浮かべた疑問を絶叫がかき消した。発したのは秋山澪だった。

ライブの時でも聞かない音量の叫びだったので、思わず耳を塞ぎそうになった。
田井中律に肩を支えられている澪は、音楽準備室の入口を指さしている。ジャムが飛来してきた場所である。
改めて見直すと、真鍋和という、学園の生徒会長である女がやれやれと肩を竦めていた。

和「唯が悪いのよ。私は生徒会に戻るって言ってるのに、邪魔をするから」

和は目の前にある物体に話しかけていた。人の形によく似ているが、決して人ではない。
人であるとは認めてはならない。だって首から上が無いんだから。



梓の脳には、つい先刻までの記憶が、徐々に戻り始めていた。
まずノックの音がして、和が入室してきた。手にはファイルケースを携えている。
未提出の書類があったのを、律に提出するよう言いに来たらしい。
忘れてた、とおどけて誤魔化そうとした律の頭に、澪の拳が落された。見慣れた光景であった。

そして「じゃあまた後で来るから、その時にまでに用意しておいてね」と言って帰ろうとした和を、平沢唯が引きとめた。
「折角きたんだから、お茶をしていきなさいな」と言った。和は断った。生徒会室にやることが残されていた。

唯は眉をひそめ「少しくらいいいじゃないの」と罵った。「わがまま言わないの」と和はたしなめる。
まったく仲がいいことだなぁ、とほんのりとした嫉妬心を抱きながらも、梓は琴吹紬の入れたお茶に目を移した。
ティーカップの底に描かれた花が、お茶を入れたことで浮かび上がり、視界を華やかにする。
そんな時であった。風船の割れるような音が鳴り、ジャムが飛来してきたのは。

ようやく自体を把握し始めた梓の胃の奥底から、不快感が湧きあがった。
ここは夢か現か。あるいは幻であったらいいのに。



しかし現実は残酷である。今、和の目の前にあった物体は床に崩れおちた。
物体は、桜が丘高校の制服を着ていた。梓の着ているものと同じだった。

もう限界だった。これ以上は自分自身をごまかせない。
床に伏せ、ときおりびくんびくんと痙攣している物体は、梓が敬愛し、ついさっきまで笑顔を浮かべていた平沢唯の、
頭部のない死体であり、頬のこびりついたジャムは、弾け飛んだ頭の肉片なのだ。

不快感は胃から喉へ、そしてとうとう口から漏れだし、びしゃりびしゃりと机に零れ落ちた。
お茶の芳しい香りが消え去り、代わりに鼻の奥を酸味が支配した。

和「デコピン一発で弾け飛ぶなんて、唯の頭はお豆腐だったのかしら」

眼鏡の向こうの目を細め、くすりと笑う様は、いつも見ている和の姿だった。
和は残された放課後ティータイムのメンバーへと視線を移す。

和「律、よくもまぁいつもいつも私を困らせるものね。澪、その胸は私のコンプレックスを刺激しているのよ。
   梓、唯をたぶらかせるとはいい度胸ね。ムギ……は特に理由はないけど、まぁいいわ」

和は一人一人に優しい口調で言った。
母が子を見るときのようなその目に、言いたいことは山ほどあるのに閉口した。
赤いフレームの眼鏡を外し、紡ぐ。

和「我慢の限界なの。だから私、皆を殺すわね?」

問いかけられた言葉と笑顔に、固まったのは律、澪、紬の三名である。
刺々しい殺気に全身を焼かれ、指先一つも動けない金縛り状態に陥った。
和もこの殺気の中、動ける者がいるなど思いもしなかった。


だから反応が一瞬遅れた。残る一人が、机の下を掻い潜り、接近していることに。



キィンともギィンともいえる甲高い金属音が響く。
赤いフレームの眼鏡と、ティーセットのスプーンが勢いよく衝突した音である。
つばぜり合いのような形になり、互いの顔が息のかかるところまで接近した。

和「よく動けたわね。ゴキブリみたいに素早い動きだったわ」

梓「よくも、よくも唯先輩を!」

梓は激昂していた。頭に血が上っているのが自分でも分かる。
しかし冷静でないからこそ、和の尋常ではない殺気を無視して動けた。

和「でも近付き過ぎよ。貴方と違って同性愛の趣味はないの」

和の足が梓の腹を蹴り上げる。ただの蹴りではない。
爪先を鳩尾にめり込ませる、重く鋭い、容赦のない蹴りだった。梓の小さな体は吹き飛ばされる。

嘔吐は済ませたばかりだというのに、込み上げる吐き気に体の自由も奪われた。
和が近付いていてきているのが分かるのに、どうすることも出来ない。
梓は死を覚悟した。天国で待っているであろう唯の元へ旅たてるというのなら、悪くはない。



すると梓の目に思いがけない光景が飛び込んだ。
瞬きの合い間に現れた茶色い物は、和の頭に激突し、その額から流血させるのに成功していた。

右手で患部を押さえながら「誰だ」と小さく呟く和。

律「私だよん!」

溌溂とした声が音楽準備室に響いた。
律は自分の座っていた椅子を投げ、そのまま駆け出し、和の懐まで飛び込んでいた。

和はまだダメージで動けない。畳みかけるチャンスである。
前傾姿勢になっているところの顔面に右アッパーを食らわし、和の背筋が跳ねあがって伸びきったところに、今度は左のボディブロー。
肝臓を穿つ拳を受ければ、体がくの字になるのは必然。ならばともう一度アッパーで体勢を無理やり跳ねあげる。これを繰り返した。
ガートはおろか、筋肉を硬直させてダメージを軽減させる隙さえ与えない連激だった。

その連撃は早く打てばいいという訳ではない。ダメージが完全に行き届いた刹那のタイミングを見極めなければならない。
つまりスピードやパワーだけでは補えないテクニックが必要となる。
テクニックという言葉とは律が一番縁がないように思えるが、それは誤った判断である。
彼女が放課後ティータイムというバンドで与えられている役割を考えれば、答えは自ずと導かれる。

梓「あれが……ドラマーの拳なんだ」

リズム良く拳を打ち込む律に見惚れながら、体勢を立て直し、梓は言った。

そう、ドラマーの命であるリズム感がトリックの種である。
律は筋肉の弛緩するタイミングや、ダメージが完全に行き渡ったタイミングがわかる訳ではない。
ただ自然に動く体に身を任せていただけ。テクニックと呼んでいいのかも分からない代物だった。

しかしテクニックが仮初だったとしても、刻まれるビートは紛れもない本物。


和というドラムから―――拳というスティックで生み出される―――打撃音という音楽。


最高のパフォーマンスは、梓の心に興奮と、和を倒せるんじゃないかという希望をもたらした。
恐怖に目を背けていた澪と紬でさえも、その目に光を蘇らせるほどだった。



第三者の想いとは裏腹に、律の胸には懸念の気持ちが湧いていた。
和ほどの女が、このまま黙ってやられてくれるのだろうか? 
そんな疑問が浮かんだところで、相手にそのまま尋ねる訳にもいかない。
律に出来ることは、このリズムを狂わさず、正確無比な連撃を途切れさせずに繰り出していくことしかない。

十四発目のアッパーが和の顔面を捉えた。ゴという音と共に、ぬちゃりという粘着音がした。
和の鼻はくだけ、吹きだした血は和の顔だけでなく、律の拳をも真っ赤に染め上げている。
とうぜんここまでの惨状を生み出した律の拳もタダで済んではいない。
律自身の知る所ではないが、ずきずきと痛み始めたその右手の甲からは、骨が飛び出していた。

律(もうちょいで、いける!)

拳を打つことだけに集中していた律は、ここで初めて和の顔を視界に入れた。美人だった生徒会長の姿は消え去っていた。
目の周りは腫れあがり、砕けた鼻はひん曲がっている。もはや顔全体のバランスだとかを気にするのも馬鹿らしい。
これを化物と呼ばずしてなんと呼べばいいのか。顔に焼く前のハンバーグでも張りつけたみたいだと律は思った。

だが十四発目のボディブローを放った時、違和感が生じた。

なにか刺々しいものが突き刺さったような、鋭い痛みが、左の拳を巡り、腕から肩へと駆けのぼる。
そして左腕全体が重くなった。打ち続けなければならない拳に何が起きたのか。
律は右の拳でアッパーを放ちながら、左手の状態を確認した。



見たのを後悔するような画があった。律の左手は裂けていた。
中指と薬指の間からぱっくりと、手首の辺りにかけてまで、亀裂が走っていて、肉や神経がむき出しになっている。
この状態で拳を握れるのが不思議だった。いや、律が握れていると思っているだけで、実際は握れていないのだ。

脳内に満ち溢れたアドレナリンなどの脳内物質は、些細なことは無視するようにと指令を出している。
その中のひとつに、痛みを発する左手の感覚を遮断することも入っていた。

和「……その手で、まだ、殴れるのかしら?」

和は喋るのもやっとの状態だというのに憎まれ口を吐いた。
手にはメガネのガラスの破片が仕込まれている。
和はボディブローに合わせてガラスの破片を滑らせ、律の力を利用して、拳を切り裂いていた。

挑発するような和の視線に、律は笑顔をもって答えた。

律「殴れるよ。だって私は部長だからな」

律は裂けて感覚もない、半開きの拳を、憎き畜生の腹に叩きこんだ。
やや油断していたせいか、これには流石の和も、口内で出血していたものを全てぶちまけた。

梓が激昂していたように、律も憤怒の鬼と化していた。友を、愛すべき部員を殺された時、律は恐怖していた。
しかし梓が和に立ちむかった瞬間に、恐怖は消え去った。同時に恥じた。

後輩がああまでしているというのに、部長である自分が動かないでどうする?
普段はだらしない律であったが、自分は部長であり、部員を守るのは絶対の責務であるという想いを胸に秘めていた。
それをコケにされたのだ。怒りの湧かない道理はない。

殺す。漆黒の殺意を右手に込め、律は最後の一撃を振りかぶった。



しかし。

律(……停電?)

唐突に陥った暗闇に、律はブレーカーでも落ちたのかと思った。
そしてすぐ冷静に帰る。戦闘中に、そのような呑気な思考に陥るなど愚の極み。

では何故、何も見えないのか?
その答えを模索しようとした時、こめかみを万力で締め上げるような痛みが走った。
同時に和の声がする。

和「私もね、貴女が手を切り裂いたくらいで躊躇するような女だと思ってないわ」

その言葉を聞いてはっとした。連撃を打つことを忘れているではないか。
律は放たれようとしていた最後の一撃を、体現しようとした。
しかしそれは叶わない。上手く体が動かせない。

和「でもね、たった一瞬の迷いが生まれれば十分だったの。だって貴女のコンビネーションのリズムが狂うのだから」

律の体は今、宙に浮いていた。その状況を梓や澪といった第三者の視点から見ればまさに絶望だった。

和の手は律の顔面を掴み、持ち上げ、さらに込められた力は律に激痛を与えていた。いわゆるアイアンクローである。
本来この技は敵からギブアップを引き出させる技だ。しかし和の強大な力で行われるそれは、そのような生易しいものではないことを、
実際に技を受けている律は気付いていた。タップしたところで放してくれるはずがないということも。

めきり。脳の奥から聞こえて来るような不快な音を律は聞いていた。
和の手によって塞がれた奥で、目玉が今にも飛び出てきそうなくらいに盛り上がる。
こめかみから食いこんできた指が押し出そうとしているのだろう。否応なしに悪寒が走る。

和「やっぱりおでこは隠した方が可愛いわよ」

和が言った。律は次に発するのが自分の最期の言葉となるであろうことを理解した。

何を言えばいいのだろう。部長として、部員の仇をとれなかったのを謝罪するか。
あるいは残された者達にメッセージでも送ろうか。今までありがとう、楽しかったよ、なんて。

走馬灯が放課後ティータイムのメンバーを映し出した。
視界は塞がれているのに、澪や紬や梓の顔が見える。先に死んだはずの唯もそこにいる。
自然と笑みが浮かんだ。言い残す言葉なんてない。だって私が皆の気持ちが分かるように、皆も私の気持ちは分かってくれているんだ。

律「おかしーし」

律は、軽音部の部長や放課後ティータイムのリーダーではなく、田井中律として死ぬことを選んだ。

貴女らしいわ、と追悼の言葉を捧げ、和は最大の握力をもってして律の顔面を握り潰した。
支えを失くし、律だった物体は糸の切れたように崩れ落ちる。
前頭が破裂し、西瓜の皮を割ったように中身が溢れ出た。ころりころりと二つの眼球が床を転がった。



さぁ次の獲物は誰にしようか。和が振り返ろうとすると、右足が阻害した。
ミルクティーのような髪色をした少女がしゃがみこみ、和の右足に絡みついていた。

紬「和ちゃん。もう止めて。もうこれ以上は……」

紬は泣いていた。親しい友人を二人も目の前で殺されたことに、純真無垢な少女の魂は精神は耐えられなかった。
涙は拭っても拭っても瞳から溢れ出る。律のような力を持たない紬には、こうして泣き喚くことしか出来ない。
もしかしたらそのまま殺されるかもしれない。それでも、奇跡が起きてくれることを願わずにはいられない……。

和「優しい子ね、ムギは」

……え? 紬の口からは驚嘆が零れていた。
和は紬の体を振り払おうとはせず、優しく抱きしめ返していた。
温かい体温を感じ、紬は和の背中に手をまわし、何度も何度も和の名前を呼んだ。

和「こんなに酷い目にあっているにも関わらず、貴女は私を責めたりしないのね。本当に優しい子」

紬「いいのよ。罪は償えるものだから……」

殺し合いをしていた時の和とは、心を通わせる気は全くしなかったが、こうして肌を重ねて体温を感じれば、
二人の心は通じあるえるのだと紬は嬉しく思った。
涙も悲しみを溶かしたような冷たいものではなく、温もりを頬に与える液体に変わっていた。

その時、和は、貴方の台詞を盗るようで悪いのだけれど、と呟いた。
耳元で囁かれたというのに、聞き取れない小さな声だった。
紬が聞きとれなかった言葉に体を離そうとすると、和はそれを許さず、一層強い力を込めて紬の体を抱きしめた。

和「私、人を上げてから絶望に叩き落とすのが夢だったの」

和の腕は、今までの二倍に近いくらいに膨らみ、女子高生とは思えない、太く逞しいプロレスラーのように変貌していた。
その腕が、容赦なく紬のことを締めあげる。紬の体は華奢という程ではないが、一般的な少女の範囲を超えないものだ。
すぐに呼吸が出来なくなった。

和「……むぎゅう」

力は留まる所を知らなかった。バンプアップされていく筋肉が、更に紬の体を圧迫する。
紬の骨が軋み始め、限界区域に達していることを察した脳が、激痛を走らせることで、体を解放させるよう働けと命じる。

しかし当の紬自身に抵抗する気はなかった。抵抗しても無駄だと割り切っていた、とするのが正しいかもしれない。
ただ、ここまでされても和を恨むような気持ちにはなれなかった。

紬(だって友達だもの)

言葉には出来なかった。それでも、和は私の大好きな友達だという気持ちの一粒でも通じればいいな、と願う。
紬は和を抱きしめ返した。残酷に締め上げるようなものではなく、聖母のような優しい抱擁だった。
和はその優しさを感じていた。それでも尚、腕に込めた力を解こうとはしなかった。



澪はその光景をただ黙って見ていた。そして聞く。厚い木材を叩き割ったような音を。
紬の体が力を失い、だらりと和にもたれかかった。死んだことは一目瞭然だった。
思う所があるのか、和は紬の死体を乱暴には扱わず、床に横たわらせる。眠っているかのような安らかな顔をしていた。

和「次は澪の番かしら」

澪「そうみたいだな」

澪は立ち上がり、ぐいと一歩踏み出した。
その勇ましい様子に、いつもと違うのを感じ、和は腫れあがった目蓋の下の目を丸くした。

和「なんだか別人みたいじゃない」

澪「自分でもビックリしてる。不思議と落ち着いているんだ」

澪は三つ転がった死体と、横で震えている梓を順番に一瞥した。
そして深呼吸する。今の自分から、戦闘態勢の自分へとギアを入れ替えるように。

澪「よくも殺してくれたな。私の大事な人たちを」

澪の後ろに闘気が立ち上ったように見えた。和が目を凝らすと、それは湯気であった。
どちらにしても異常であることには変わりない。人間が発せられる熱の限界を遠く超えている。
その新たなる力には澪自身も震えがっていた。恐怖ではなく、武者ぶるいという形で。
そしてこの青く静かに燃え上がる炎は、クールさと臆病さという、相反する二つの顔が混じりあった結果なのだと理解した。



澪「復讐をします」

澪は言い終えると共に消え去った。次の瞬間には爆音が響き、和が音楽室準備室の壁に体をめり込ませていた。
澪は、ピッチャーが投球を終えたような体勢で姿を現した。元いた場所は、床板が踏み抜かれ、焦げ付いていた。

和は想像以上のダメージに体の自由を奪われていた。まるで腹にボウリングの球でも撃ち込まれたようだ。
この一撃を生み出したのが秋山澪だというのが信じられない。
だが目の前にいる女の、黒く美しい髪が、少し吊り上がった目が、女こそが秋山澪であると示している。

澪「―――No way」

言いながら、澪は体を捩じらせた。野球でいうトルネード投法のフォームによく似ている。
ただし放たれるボールは、硬く握られた拳である。

澪「―――Go way」

凄まじい熱気が澪の体から放たれていた。室内の温度が十は上昇している。
燃える火の玉と化した澪。その拳はさながらマグマのように滾る岩石。
矢を放つ直前の弓が張り詰められるように、限界まで体を捩じらせ、生み出すエネルギーを膨らませていく。
その緊張は、とうとう最大限まで達した。

澪「―――キュゥウウウウウウンンッッ!!」

轟音。建物が倒壊するのではないかという衝撃が走る。
澪の拳は和の顔面を砕き、勢いはそれで収まる訳もなく、音楽準備室の壁の一面に亀裂を入れた。
一撃必殺の手応えを感じた澪は、深くめり込んだ拳を引き抜いた。
肉体を潰したせいか、沼地に突っ込んだ手を引き抜いたような音がした。

手にこびりついた薄汚い血と肉を、ハンカチで拭い去り、澪は振り返る。
梓が呆気にとられた顔で見ていたので、微笑みを浮かべて言った。


澪「爪が割れちゃったよ。グルーで補修しないとな」


澪先輩はやっぱり格好いいです!
梓はそう言おうとした。事実、言葉の先端はわずかに覗いていた。

しかし口を詰まらせた要因になったのは他でもない、奴だ。
澪の後ろで、壁にめり込んだ和の指先が、ぴくりと動いたのを確かに見た。

梓「澪先輩! 奴はまだ生きてます!」

梓の叫びに、澪は鬼気せまるものを感じ、咄嗟に跳んだ。



聞けるはずのない空気の切れる音が鳴った。
手刀である。死んだと思われた和が、澪のいた場所に向かって必殺の一刀を振りおろしていた。

しぶとい奴めと澪は下唇を噛みしめる。
しかし、目に飛びこんで来たショッキングな映像に、思わず立ち竦んだ。

和「あら、ワタシのカオになにかついテるかしラ?」

くすくすと笑う和。声のトーンで笑っているとは分かるのだが、それが笑顔であるとは到底思えなかった。

和の頭部からは顔面が消え去っていた。度重なる殴打に、歯は抜け落ちて目蓋は腫れあがり、鼻はひしゃげ、
ありとあらゆる箇所の出血や、骨の屈折と粉砕により、顔のあった場所には乱暴に張り付けた肉があるだけだった。
律が連撃の際に同じように例えたが、あの時はまだ人間の顔であるという判別は出来た。今はそれが完全に不可能になっている。

澪の心に、超越していたはずの恐怖心が蘇り始めていた。
和の顔を直視するだけで、精神的なダメージを負わされるようだ。

和「フタつのアイハンするココロをゴウセイしたチカラ。ミゴトだったワ」

和は聞き取りにくい声で言った。賞賛しながら拍手を送る。

和「でもネ、それくらいワタシがデキないとでもオモっタ?」

和の体から湯気が立ち上る。澪は戦慄した。
怒りを凝縮に凝縮を重ねた末に、ようやく手に入れた力を、和は元から持っていたというのか。
拍手の音が徐々に大きくなる。風船の割れるような音から、銃声のような音から、例えるもののない耳を劈く破壊音へと。

澪はあまりに強烈な音に耳を塞がざるを得なかった。それでも尚、鼓膜は痛いほどに揺らされている。
和はなにかを口にしていた。その動きを見て、和の言っていることを澪は把握する。

澪(優しい幼馴染。厳しい生徒会長……)

そして、と紡いだように見えた。

澪(……残酷な、モンスター?)

その瞬間、和の体が大きく膨らんだ。着ていた制服が膨張する体を収められず、裂け破れる。
本来、乳房があるべき場所には強大な大胸筋が鎮座していた。二個のコンクリートブロックを思わせる存在感だ。
いくつにも割れた腹筋は、恐らくナイフの刃くらいではものともしないだろう。日本刀でようやくかすり傷を負わせられるというところか。

澪は自然と見上げる形になっていた。和は今や二メートルはある巨大な体躯を誇っている。
唯一下腹部に残されたボクサーパンツだけが和の急所を隠していたが、もはや必要とはしないだろう。
これは女どころか人間でもなく、ただの筋肉の化物だ……。澪の背中を、冷やかな、べたついた汗が流れた。



和「全く。ここまで私を追い詰めるなんて、さすが放課後ティータイムといったところかしらね」

和ははっきりとした発音が出来るようになっていた。変身を遂げた際に、歯は生え変わっていた。
その代りに、本来の和の声というものを失った。
ハスキーの、性別に関係なく惚れぼれとさせる声は、重低音の、聞く者を震えがらせるような声に変わった。

和「でもお遊びはもうお終い。そろそろ私、生徒会に行かなくちゃ」

澪「う、うるさい黙れ! お前はここで……」

澪のうろたえる様を、和が遮った。

和「うるさい? そんなこと言わないでよ」

気付くと、和の拳が澪の腹に触れていた。
まるで元からそこにあったかのように存在する拳に、澪はとてつもない違和感を覚えた。
まず、いつの間に触れたのかが分からない。そして何故、攻撃のために握られたはずの拳が、ただそこに位置しているだけなのか。

圧倒的な速度。動いたことを相手に知覚させないような、言うなれば時を越えた速度。
それほどの速度をもってして打撃を放ったとするならば、一体どうなるのか?

置き去りにするのである。音を、気配を、時間を―――その衝撃さえも。



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