澪「ただいま……」

    返事など返ってくることのない、薄暗い高級マンションの部屋。
   まだうら若き乙女である澪にとって、親元を離れての一人暮らしは当初様々な不安を伴ったものだったが、今となっては慣れ切ってしまっていた。
   それに、このマンションは高級なだけあって、セキュリティは無駄なくらいに厳重だ。

   澪「それに……今は一人暮らしの方が色々と都合がいいしね……」

   そんな独り言をつぶやきながら、澪は懐からマリファナ煙草を一本取り出すと慣れた手つきで火を点けた。
   確かに、親元でこんなに堂々と酩酊に逃避することなんてできない。

   澪「ヘロイン……今日ので最後だったんだっけ……。また、アイツに連絡しなきゃな」

   マリファナ程度の軽いトリップでは、この憂鬱は紛らわせそうになかった。
   眠る気にもなれず、手持無沙汰な澪はテレビのリモコンを手に取った。

   目の前に映し出されたのは、流行りの音楽のミュージッククリップを垂れ流すMTVの番組だった。
   猿回しのようなつまらないポップバンドのナヨナヨとしたサウンドや、
   盛りのついた雌犬のように腰をふる自称セクシー系女性シンガーの耳障りな歌唱が、澪の気分をさらに憂鬱にさせる。
   そして、次に流されたのは……
   『放課後ティータイム』のメジャーデビューシングル『ふわふわ時間』――シングルカットするために改めて録音しなおしたもの――であった。

   澪「何度見ても……酷い演奏だな」

   テレビの中のそのバンドには、かつてあったはずの輝くようなエネルギーは全くなかった。
   特に酷いのは……生気のない表情でリードボーカルを取る、バンド内で最も高い人気を誇る“秋山澪”という名のベーシスト――。

   澪「――――ッ!」

   思わず澪は画面から顔を背けていた。
   ――すると、視覚に頼らず、耳でのみその酷い演奏をよく聴くと……
   今の放課後ティータイムが失ったもう一つのパズルのピース――歌うようにメロディアスなリードギターのサウンドがそこにはあった。

   澪「そうか……この頃はまだ梓がいたんだっけ……」

   改めて画面を見れば、生気のない自分とはまるで対照的に、
   にこやかな表情でご自慢のツインテールを振り乱しながら、小さな身体にみなぎる躍動感をもって、
   フェンダー・ムスタングを掻き毟る梓の姿があった。
   そこで澪の憂鬱は限界を突破した。たまらず携帯電話を手に取る。

   澪「ああ……もしもし、私。久しぶりね……。用件は……わかってるでしょう?
     切れちゃったのよ、アレが……。うん……お金は大丈夫だから、なるべく早く……お願い」

   澪が足を踏み入れてしまったトンネルは、まだまだ長く険しい道のりだった。




   放課後ティータイムのメジャーデビューは、世間にこれ以上ないくらいの好リアクションで迎えられた。
   1stシングルとしてリリースした再録バージョンの『ふわふわ時間』はオリコン初登場4位を記録。
   その勢いのまま出演した初めてのテレビ番組――金曜8時のあの生放送音楽番組である――においては、
   全国の思春期の少年たちや大きなお兄さんたちがテレビに全裸で正座をして待機し、彼女達の演奏を食い入るように見つめた。


   律「あの頃からだよな……。澪の様子がマジでおかしくなってきたのは」

   唯「澪ちゃんの人気……ちょっと異常なくらいだったもんね……」

   紬「傍目から見ても戸惑っているって感じでしたよね……」


   この頃から、放課後ティータイム全体の人気から、澪の人気が独り歩きし始めるようになった。
   彼女が使用していたフェンダー・ジャズベースはあっという間に市場から消え、
   PVで使用していたという理由だけでヘッドフォンや携帯電話まで飛ぶように売れた。
   それだけではない。音楽雑誌では澪の人気を当て込み、他の4人を差し置いて彼女に単独インタビューを申し込むこともあった。
   酷いところでは、「水着グラビアを撮らせてほしい」という雑誌すらあった
   。最初こそ、バンドの宣伝になればと思い、律儀に対応していた澪だったが……。


   律「きっと私達のことを気にしたのかもしれないな……」

   紬「それでなくても澪ちゃん……繊細な子ですからね」

   唯「いつからか……取材を嫌がるようになっていったよね」


    そして満を持してのメジャー1stアルバムのレコーディング。
   この頃澪は既に自分達の手を離れて暴走し始めるバンドのパブリックイメージに戸惑いを感じ始めていた。

   ただ楽しく好きなバンドをやりたかっただけなのにどうしてこんなアイドルみたいな扱いを受けるのか。
   ただ信頼できる仲間と一緒にバンドをやりたかっただけなのにどうして自分だけがこんな扱いを受けるのか。
   どうして水着になどならければいけないのか。
   どうしてPVでヒラヒラの衣装を纏わねばならないのか。
   どうしてステージでは演奏よりパンモロを期待されるのか。

   澪の中に大きな葛藤が渦巻いていた。


   律「それで澪の奴……そんな状況をなんとか打破しようとしたんだろうな」

   紬「そうですね……アルバムのセッションの時には、山のように自作曲を書いて持ってきてくれましたしね」

   唯「きっと自分はアイドルなんかじゃなくてロックミュージシャンなんだって証明したかったんだよ」


    事実、アルバムのセッションに対する澪の入れ込みようには凄まじいものがあった。
   20以上の自作曲をスタジオに持ち込み、歌詞は勿論のこと、演奏のアレンジにまで積極的に意見を出した。が、しかし、


   律「結局澪の曲はプロデューサーの判断で数曲しかアルバムには入らなかったんだよな」

   紬「その入った数曲も……澪ちゃんではなくプロデューサー主導のアレンジになっていましたし」

   唯「それ以外の残りの曲は全部、外の作曲家が作った曲を演奏することになったしね……」


   結局、澪の「ロックミュージシャン」としての自立心は顧みられることがなかったのだ。
   多くの敏腕サウンドスタッフや敏腕プロデューサーによって「作られた」1stアルバム。
   そのサンプル音源を5人で始めて聴いた時の澪の複雑な表情は、三人の脳裏を今も離れることがない。
   そしてそうやって製作され、リリースされた放課後ティータイムのメジャー1stアルバム『うんたん♪マインド』は皮肉にも売れに売れた。


   律「あの時はオリコンチャート1位を取ったけど……」

   紬「素直に喜べなかったですよね」

   唯「あんな悲しそうな澪ちゃんの様子を見せられちゃ……ね」


   そして、決定的な出来事が起こったのはアルバムがオリコンチャートで1位を獲得して程ない頃。
   放課後ティータイムが遂に夢にまで見た武道館のステージに初めて立とうとしていた時であった。




    テレビに映るミュージッククリップ垂れ流しの番組は、相変わらずくだらなくて辟易することこの上ない。
   それでもなぜか消さないでいるのは、消したら最後、何の音も光も温もりも、
   自分が逃避することのできる何かがなくなってしまうことがどうしようもなく怖いから――。

   澪「寂しい……」

   そう呟いた時、部屋のインターホンがけたたましく鳴らされた。それも無遠慮に、何回も連続で。
   こんな子供じみた真似をする人間は、少なくとも澪の知る限り律と、あともう一人しか居ない。

   男「やぁ、プリンセス。ご機嫌はいかがかな?」

   ズカズカと部屋に上がりこんできたその男は、澪が懇意にしていたドラッグの売人だった。
   もっとも、世間的には、その不良じみたアティチュードで人気を博すとあるロックバンドのメンバーといった方が、通りがよかったが。

   澪「さっき電話したばかりなのに、ずいぶんと早いのね……」

   男「そりゃあね。何たってあの天下の秋山澪に物寂しげな声色で『早く来て……』なんて囁かれて、のんびりしてられる男なんて世界中捜したってそうはいない」

   澪「そ、そういう意味で呼んだんじゃ……!」

   男「わかってるよ。ほら約束のブツ、このアタッシュケースの中だ」

   アタッシュケースと束ねられた札束の交換を終えると、男は部屋のソファーに腰を下ろした。

   澪「ちょ、ちょっと……。用件は終わったんだから早く帰ってよ……」

   男「別にいいじゃねえか。早速一緒にキメて、ゆっくりしていこうぜ」

   澪「そういうわけにはいかないjんだ。それでなくても最近、このマンションの周りを写真週刊誌の連中がうろうろしてるのに……」

   男「成る程な。あの秋山澪が、人気バンドのメンバーと夜の密会なんて洒落にならないもんな。しかもその男がヤクの売人だっていうんだから尚更だ」

   澪「わかったのならさっさと……」

   男「大丈夫だって。俺だってこの道のプロだ。下手はこいたりしない」

    ――と、テレビの中から突如響き渡る雷鳴のような激しいギターリフ。
   簡単なコードの組み合わせではあるが、逆にキャッチーで効果的なそのリフに思わず澪は耳を奪われた。
   そして画面に映しだされたとあるバンドのPVに、思わず目を見開いた。

   澪「梓……」

   男「ん? ああ、このバンド、『ギャルズ・アンド・ローゼズ』だっけ。
    最近MTVでも良く流れるよな……って、そういえばこのバンドのギタリスト、一時期『放課後ティータイム』にいたんだよな』

   画面の中で最高の笑顔でギターを弾く少女、中野梓。彼女が在籍していたのは一時期どころの話ではない。
   放課後ティータイムがまだ高校の軽音部で活動していた頃からのメンバーで、澪にとっては可愛い後輩だったのだ。

   澪「気分がわるい……。テレビ、消して」

   男「おいおい、せっかく昔の仲間が頑張ってる姿が流れてるんだから見てやれよ」

   澪「いいの。この子はもう……仲間じゃないから」

   男「随分薄情な話だなぁ」

   澪「それより注射器貸して。早くトビたくて仕方がないの」




   望む形ではない「作られた」1stアルバムがリリースされ、これまた望む形でない大ヒットを記録していた頃、
   放課後ティータイムは念願の武道館での初めてのステージに立った。
   だが、この時すでに澪の精神状態は限界に近づいていたのだ。

   澪「ライヴ……出たくない……」

   出番前の楽屋で、突如そんなことを言い出した澪に、他の四人は目を?いた。

   律「な……澪! お前、今日は私達が夢にまで見た武道館ライヴだぞ……!?」

   紬「もしかして体調でも悪いの?」

   澪「そうじゃないんだ……。でも……」

   唯「澪ちゃん……もしかして……」

   実は皆、薄々気付いてはいたのだ。今の成功が、自分達が望んだものでないことには。

   あんなに楽しかったはずの5人でのバンド練習は、新曲のレコーディングのプレッシャーと常に隣り合わせ。
   あんなに達成感に満ち溢れていたはずのステージは、まるでアイドルを見に来たかのような勘違いしたファンに占拠され、作り笑いで喜ばせる。
   あんなに頑張った曲作りも、出来あがった曲は全て『敏腕プロデューサー』のおかげで台無しに。

   そんな不満と葛藤を抱えていたのは、何も澪だけというわけではなかったのだ。

   しかし、ただ一人だけは違っていた。


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