「琴吹紬の密かな挑戦」


こんにちは、琴吹紬と申します。
桜高軽音部所属、毎日楽しく暮らしています♪
わたしは、自宅から少し離れた学校へ通っています。
なので、軽音部では唯一の電車通学です。

両親は心配のようで、斉藤さんに送迎を言いつけましたが…。

出来るだけ色んなことをしてみたい。
自分の目で、体で、たくさんの経験を積みたい。
わたしは精一杯、両親に頭を下げました。
紬を電車通学させてください、と。

そんな苦労の甲斐もあり、晴れて電車通学の毎日です♪
しかし、わたしにはまだまだ達成していないことがあります。

そう、座席に座ることです。
通学も帰宅も満員とまでは言いませんが、たくさんの人が電車を利用します。

一度でいいから…座ってみたいのです。

そして、座りながらメールを打ってみたいのです。
はしたないことだとはわかっています。
両親がこんな姿を見れば…悲しむかもしれません。
でも、そんな思い出もあっていいと思いませんか?

わたしはこの楽しい高校生活に、悔いを残したくないのです。
気合いはあれど、なかなか実行出来ずにいました。

なので、どうすれば座席を確保出来るかを考えてみました。

まず、自宅又は学校の最寄り駅からの座席…絶望的です。
自宅の最寄りでは、既に空席なし。
だから、いつもドア付近の手すりにつかまって景色を眺める…

それがダメなのです!
ドア付近の手すりなんて…試合放棄もいいところです!
もし、ドアから一番近い座席…端が空いたなら、それは幸運。
ですが、もし座席の真ん中辺りが空いたら?
ドア付近に居れば、移動距離が長い。
その間に、空席は埋まってしまいます。

「端っこ」の人気は高いです。
もし「端っこ」が空いたとしても、そこを狙うライバルはたくさん居ます。
「空いた!」と思って座ろうとしても、それまで端から2番目に座っていた人が、端につめてしまう可能性が高いです。
そしてその隙に、端から2番目ですら、座席の真ん中辺りのつり革に掴まる人に取られてしまうのです…。

すると、どうなりますか?
座ろうと移動したにも関わらず、座れないわたし。
こんなの、澪ちゃんじゃなくても恥ずかしいです…。

ここで掴んだポイントが一つ。
思わぬ空席にも即座に対応出来る場所…。
それは、「座席の真ん中辺りのつり革に掴まる」ことです。

そこから全てが始まる、と言っても過言ではありません。

しかしこれもまた、ただの準備に過ぎないのです。
次のポイント…それは、「空く座席を予測する」です。
学生が多い朝の車内なら、制服で予測することも可能です。
しかしわたしが利用する線は桜高生が多く、他は桜高より遠い学校の生徒。
この「学生狙い」は通用しないと言うわけです。
服装とは別のことで予測をしなければなりません。
なのでわたしは、色んな人を観察しました。
座席を立つ前の行動…皆さんいくつかの共通点がありました。

それは、「定期や切符を用意する」です。
スムーズに改札を通るためでしょう。電車を降りる前に、定期や切符を予め用意する方が多いのです。
他には、開いていた本や携帯をしまうなど、そこにはたくさんの「前兆」がありました。
その行動を目にした場合…その座席は空くということ。

でも、気の早い人も居ます。
何も考えず、その行動に走る人だって居ます。
それらはただの、「前兆」にしか過ぎません。
行動には、決定打が必要なのです。

そして、決定的なものをわたしは見つけました。

電車が止まる瞬間、或いは止まった直後のことです。

座っている人が、つり革に目をやる場合があります。
そう…席を立つため、つり革に掴まる人が居るのです。
もちろん、全員が全員つり革を確認するわけではありません。

しかし、つり革を確認する人は、100%席を立つのです。
その行動を目にすれば、空席を事前に察知出来る!と言うわけです。

空席確保のポイント。
「座席の真ん中辺りのつり革に掴まる」
「空席の前兆を探す」
「つり革に目をやる人に全てを賭ける」

以上、この三つをわたしは導き出しました。



今日、わたしの密かな挑戦が始まります。
何だかんだ言いましたが、チャンスは帰りの電車に絞っていました。

だって、朝はたくさんのケーキやお菓子を持っています。
そのケーキやお菓子を、わたしの勝手な挑戦で崩してしまったら…。
楽しみにしていてくれる、皆に顔向け出来ません。

部活も終わり、一人ホームで電車を待っていました。

「まずは座席の真ん中辺り…よし!」

電車に乗り込むと、わたしは計画通りその場所を確保しました。

(これで準備万端ね~...ふふふ)

そのことで既に達成感を感じ、座席に目をやるのを忘れてしまっていました。

(…あっ!)

「端っこ」が空きました。
しかし、すかさず端から2番目の方がつめてしまいました。
空席になった端から2番目は、その前に立っていた方が座ってしまいました。

不覚です…。

空席はすぐ、埋まってしまいました。

(次の駅で挽回しなくては…)

つり革を強く握り直しました。

次の駅に停車前。
今度はわたしが立っている斜め前の方が「前兆」を示しました。

(携帯を閉じた…)
(鞄にしまって…定期を用意した…)

(くる…!)

その予感は的中です!
その方は、席を立ちました!

ですが…。

停車した電車に乗り込む老婦人が見えました。
お年寄りには、席を譲らねばなりません。
人として、琴吹家の人間として。
人を敬う気持ちを忘れてはなりません。

お年寄りや、妊娠中の方。
小さなお子さんや、体調の優れない方。
いくら席が空こうが、その人たちにはお譲りしなければなりません。

「…どうぞ♪」
「あら、ありがう。親切なお嬢さんね~。」
「そんなことありません♪」

当たり前のことをしたまでです。

その後チャンスは訪れることなく、電車を降りるときが来ました。

「ああ…今日はダメだった。でも明日があるもの!」



翌日。
部活を終え、いつも通り電車に乗り込みました。
立ち位置は完璧。乗客のチェックも怠らない。

何だか今日は成功しそうです!

ゆっくり止まる電車。
わたしの目の前に座るのは男子学生。

携帯をしまい、手すりを確認しました。

(いける…!)

三つがそろいました!
スロットで言うところの、BBです!

お父様、お母様、紬をここまで育ててくれてありがとう。
紬はまた一つ、夢を叶えることが出来そうです。

(…あれ?)

わたしは電車を降りました。



「待って下さい!忘れ物です!」
「え…?俺?」
「はい、この定期、電車にお忘れでした!」

男子学生が座席を立った後、そこには定期入れが残されていました。
それを見たわたしは、とっさに定期入れを持って彼を追いかけていました。

「あ、ありがとうございます。」
「いえいえ♪では♪」

せっかくのチャンスでした。
でも、この後困るであろう人を見過ごすわけにはいきません。

「結局、座れなかったな~…。」

そう思いながら、また次の電車を待ちました。

初めて降りる駅でした。見慣れない風景に、少しドキドキしました。
そして電車はすぐに来ました。

(あれ…空いてる?)

一人座れるほどのスペースが、そこにはありました。
ライバルが多い「端っこ」でした。

(座って…いいのよね?)

わたしは腰掛けました。
浅く、緊張したように。すると、自然に笑顔がこぼれました。

(あ…メール!)

鞄から携帯を取り出し、メールを打ちました。



帰り道

律「おっ!ムギからメールだ。」

澪「わたしもだ。」

平沢宅

唯「ムギちゃんからメールだ~。」

中野宅

梓「ムギ先輩からメール、珍しいな。」


紬「また一つ夢が叶いました!」


律澪唯梓「…どういうこと?」

こうしてわたしの挑戦は、成功を収めました。
せっかく編み出したポイントは、一つとして使われませんでしたが…。

でも今は、別の楽しみを見つけました。
定期を車内に忘れた彼です。

特に会話をするわけではありませんが、彼はわたしを見つけると、必ず軽く会釈をしてくれます。
その度、わたしは笑顔を返すのです。

座席ではなく、彼を探すのが今では習慣になりました。

毎日楽しい電車通学、わたしは幸せです♪



終わり。