澪はバイトを終え疲れた体で寮へ帰ると自室のパソコンの前に座り、昨夜から書いている小説の続きに取りかかった。
昨日はいいところで中断したので、剥けかかった皮を剥がすようなスムーズさで物語の世界に入り込むことができた。

書き出しの一文は「よう澪、元気か、と律が言った」。

澪は大学で軽音部と文芸研究会を兼部していた。
結果としては後悔していないが、高校では希望していた文芸部に入部できなかったので大学に入って晴れて望みが叶ったという訳だ。
これは研究会の会誌に載せてもらう小説の原稿である。この作は実験作で普段書かないものを書こうと決めている。

身近な人物のことを書いてみると良いとの先輩の助言に従って登場人物の名前にはすべて友人の名前をあてた。
内容はフィクションだが、他人のことを書くよりか自分自身の心情の方が理解が容易だろうとの考えから主人公には澪自身を選んだ。

小説は律が澪の家を訪ねるシーンから始まる。
律は親友を訪ねるときの常で了解も得ずに部屋に上がりこむが、その様子からは常ならぬ何かが漂っている。
澪はつとめて平静を装う風であり、その演技は律にも知れている。
律は片手を後ろに回して何かを隠しているらしいが澪からはそれが何であるかまではわからない。けれど予感はしている。

二人の会話は曖昧で、いかようにでも解釈できる言葉が交わされる。
特定のワードがいくつか頻繁に飛び交う。
ギター。唯。バンド。
唯の名前が飛び出すたびに澪は狼狽していく。
次第に読者には唯と澪の間になにか悪いこと、それも極端に悪いことがあったのだろうということがわかってくる。

澪は額の汗を拭く。
ペットボトルの水を飲み、今までタイプした文章を読み返して二三の誤字を修正する。

傾いた陽が部屋を朱に染める。
しばしの沈黙が場を支配する。
律は次に言うべき言葉を探しあぐねている。

ふと澪はある物を取り上げる。
それは律と澪との共通の思い出に関わる道具だ。
澪は過去を懐かしむ声音でその思い出を語り始める。

今や部屋はノスタルジックな雰囲気に捉われ、律も態度を軟化しかける。
ある時やわらいだ視線と視線がぶつかり、古い馴染みの友人との繋がりが言葉以上のところで確認される。
澪は自分の手管が十分に効果をあげたと知り、その最後の仕上げに取り掛かる。


だが、すべては水泡に帰す。
唯、と澪が口にした途端、律は思い出してしまう。
そして澪に籠絡される寸前だった自分を恥じ、その怒りを目の前の女にぶつける。ズボンの後ろに手をやり隠していたものを抜いてみせる。
澪は自分が失敗したことを、友人の叫びによってよりも、突きだされたナイフの輝きの中で知る。

読者は律の発言によって、それまでおぼろげに示されていた律と唯との特別な関係をはっきりと認める。
そして澪が唯に汚い手を出した事をも同時に了解する。

読者は次第に律に感情移入しはじめる。
その深い怒りにあてられて少しめまいを感じ、目の前の女にナイフを突き入れようと右腕はけいれんをする。
澪はもはや無意味とわかりつつ刃を逃れるすべを探して時間稼ぎの言い訳を口にし始める。
そのような態度はますます律の怒りを誘う。


部屋の扉を誰かがノックする。
澪は額の汗を拭きながら立ちあがり訪問者を迎え入れようとする。
扉は彼女がノブに手をかける前に開く。

そこには律が立っている。
いつもとは様子が違い何かを隠している。
点けたままのパソコンの排気音に澪は気付く。


よう澪、元気か、と律が言った。


end