“記憶の中で ずっと二人は 生きて行ける”



――――― ――

「おっちゃん、ビール追加」
「はいよ」

少し洒落た音楽が流れる居酒屋のカウンターに、
大きなグラスに入ったビールが勢いよく置かれた。

「けどりっちゃん、今日はよく飲むねえ。何かあったのかい?」
「うん、まあね」
「それ、アルバムかい?随分綺麗な子が写ってるけど」
「そう。私の大切な、友達」

友達。親友。幼馴染。
私たちの関係には、色々な呼び名があった。
だけど私の想いは一体、なんと呼べばよかったのだろう。
少しだけ古びた写真を指で撫でながら考える。

窓の外では雨が降り始めていた。

「……今日、昔のバンド仲間から連絡があってさ。こいつ、事故で危篤だって」
「え!?良いのかい、病院に行かなくて!?」
「もう助かる見込み、ないらしいから」

私は笑った。笑うしかなかった。
笑いすぎて出た涙が、写真の澪を濡らした。

――――― ――



大学を卒業してもう二年経つ。
それぞれ就職先も違い、会わない日が続いた。
だけど頻繁に連絡を取り合っていたし、つい一昨日も澪は言っていた。

「もしかしたら結婚するかも知れないんだ」と。

その時勤め先で嫌なことがあり苛々していた私は素直に「おめでとう」とは
言えなかった。
妬みとはちょっと違う。他に何か伝えたい言葉があったのに、それを上手く
言い表すことが出来なくて、結局何も言えずじまいだった。

最後に澪と会ったのはいつだっただろう。
多分、先月。ちょうど一ヶ月前だったかも知れない。
都内の居酒屋で、お互い愚痴を言い合ってた。それでも澪は毎日が充実していて
幸せそうだった。

私は傘から透けて見える月を見上げて、白い息を吐いた。
そろそろ雪が降ってもおかしくない季節。

高校生の頃、私と澪の関係が少し変わり始めたのもこの季節だった。


.



「みーおーちゃーん!」
「うわっ、なんだよ律!?」
「へへっ、澪ちゃんの首はあったかいでしゅねー」

寒い季節は毎朝、私と澪はじゃれ合いながら登校した。
私が澪の首に手を当てると、「冷たいだろ!」と言って怒って私の手を振り払うけど、
それでもそんなやり取りだけでも、私の心は温かくなった。

大切な、友達だった。
大好きな、親友だった。

でもいつからだろうか。自分の気持ちが変化し始めたのは。
私の澪への気持ちが、他の仲間と違うんだと気付いたのは、高二の冬だった。

「なあ、澪」
「なに?」
「……何でもない」

あの頃の私は何度も澪の名前を呼び、けど何も言えずにそう言ってすぐに目を
逸らしていた。

自分の気持ちを確かめるのが怖かったのかも知れない。
澪に拒絶されるのがもっと怖かったのかも知れない。

澪はいつも「なんだよ」と言って笑っていた。
笑う澪の横顔を見れるだけで、私は満足だと思っていた。

 けど、そんなある日、学校で変な噂が流れた。
澪が他校の男と付き合ってると。
そんな噂、ただの噂だと信じていたかったのに、私は澪に聞いてしまっていた。

澪は何も答えなかった。
私が詰め寄ると、澪は「律には関係ないだろ!」と怒鳴ると私に背を向けた。

「本当、なのか?」
「……本当だったらなに?」

澪は言った。私は「べつに」と答えた。
その時も、私は澪に何も言えなかった。

その日から、何となく私と澪の距離は離れていった。
澪は和の傍に寄っていった。私は唯やムギといった軽音部の仲間と一緒に
いることがずっと多くなった。

そして、そのまま春が来て、私たちは高校最後の学年に進級した。
私と澪は、違うクラスだった。

澪は見るたびにどんどん綺麗になっていった。
けどその隣に居るのは自分じゃない、他の誰か。

私の居場所がなくなった気がして、胸が苦しくなった。
それでも私は、このまま時が経てばこんな気持ちなんて無くなってしまうと
思っていた。

この気持ちが、恋愛感情だなんて認めたくなかった。
だけど、澪と話せない日々が続き、それに比例するように私の想いも積もっていって
しまう。

ただ、部活の事務連絡やそんなことでしか話せなくても、澪と話せただけで、
私は舞い上がるほど嬉しくなった。



 高3になって、夏になった。
澪は毎年恒例だった夏合宿をやると言い出した。

私も、もちろん唯もムギも、梓も賛成した。

梓は夏フェスに行きたいと言っていたが、
澪が「一年の時に行った別荘がいい」と言って譲らなかった。
結局梓が根負けして、一昨年に行ったムギの別荘で合宿することになった。

それが決まった日の夜、久しぶりに澪から電話がきた。

「澪?」

私の声が不安そうだったのだろう、澪は電話越しで笑った。

『律、久しぶり。……でもないか』
「うん。一応毎日会ってるし」
『……最近、全然話せてなかったよな』
「そうだな」
『ごめんな、えっと……』
「いいよ、別に」

私は澪の言葉を遮るように言った。

「ていうか、何で澪が謝ることあるんだよ」

澪が謝る理由なんてない。
だけど澪はそういう奴だから。
自分が悪くも無いのに、私と何かある度にそう言って謝ってきた。
私が悪い時にだってそう。結局最後は澪が「ごめん」と言ってくる。

『……うん。なあ、律』
「なに?」
『律はさ、これからもずっと、私と友達でいてくれる?』
「何言い出すんだよ急に」

当たり前だろ、そんなの。
親友じゃん。

心に虚しさを抱えたまま、私はそう言った。
澪は『そうだよな』と笑った。

私たちは、その日いつもよりも長く電話で話した。
どうでもいいようなことばかり、ずっとずっと。

最近話してなかったのに、沈黙が訪れることはなかった。
それとも、訪れないようにお互い必死に話題を探していたのかも知れない。

夜中の二時を過ぎると、私たちはやっと電話を切った。

「それじゃ、また明日な」
『うん、また明日』

ただそれだけの会話なのに、今もまだ頭の中ではっきりと残っている。


夏が過ぎて、秋になった。
お互い話さない期間なんかなかったように、私たちは以前の様にずっと一緒に
いるようになっていた。

その頃にはさすがに高3とだけあって、大学や受験の話が出てくる。
私たちの間でもそれは例外ではなく、話題に挙がるのはそのことばかりになっていた。

「律はさ、大学どこに行くの?」

帰り道、澪は唐突に訊ねてきた。
その日が始めて、澪と大学のことを話した日だった。

思えば私たちは、肝心なことはずっと後回しにしていた。
中学の頃だってそうだった。

澪に高校どこに行くの、と訊ねようとして何度も失敗した。
結局、最後の進路調査のときに、いつものようにふざけた振りをして澪の
進路希望用紙を覗き見て、第一志望が同じだったことに胸を撫で下ろした。

何となく、気恥ずかしいような、怖いような、そんな色々な気持ちが、
私の言葉を喉の辺りで塞き止めてしまう。

「澪は?」

私は澪の質問には答えずに、逆に問い返した。澪は、「N女子大」と答えた。

「また女子校かよ?」
「共学って怖いし……」
「何言ってんだよ、澪、付き合って……」

私はそこまで言って止めた。別に澪が怒っていたわけでも、泣きそうな顔をして
いたわけでもない。自分の涙腺が緩みそうになってしまったから。
それに、仲直りをしてから一度もその話題は出していなかった。
せっかく戻れた関係を、これ以上崩したくはなかった。

「……私もそこに行こっかな」
「え?」
「N女子大」

澪は目を瞬かすと、「まだ進路決めてなかったのか?」と少し驚いたような、呆れたような、
そんな声音で言った。

「うん」
「……まったく」
「仕方ないだろー、わかんなかったんだし」
「でもそんな気軽に決めるもんじゃないだろ、大学」
「それはそうだ」
「別にいいけどさ、私は」

澪はやれやれ、と溜息を吐くと、マフラーに顔を埋めて言った。

「ほんとに?」
「うん……、ただ律が受かるだけの学力があれば、だけど」
「……澪が教えてくれればいい!」
「いや、無理だし。私だって相当頑張らなきゃいけないのに」

けど、と澪は続けた。
「本当に律が行きたいんなら教えてやってもいいけど」と。
私はもちろん!と頷いた。

宙ぶらりんだった私の足が、漸く地面に着いた気がした。

私はその年の冬、必死で勉強した。
今からじゃ遅いと言われたけど、それでも必死で。

そして私と、勿論澪も晴れてN女子大に受かった。
唯やムギも、同じ大学に受かって、また大学に入っても皆で音楽やろうなと話した。



けど同じ大学とは言っても学部も違い、中々四人で顔を合わすことも出来なく
なっていき、結局皆どのサークルにも入らないまま、私たちの組んでいたバンド、
放課後ティータイムは自然消滅といった形になってしまった。

それでもまだ交流はあったし、私と澪はよく二人で遊びに行ったりもしていた。
高校のときに感じていたような想いは、その頃にはうまく自分の心に閉じ込める術を
身に着けていて、心の奥底で眠らせていた。

そして、時が経つというのは早いもので、私たちは大学を卒業した。
軽音部の面々は、誰一人として留年にはならなかったが、唯は就職せずに、
大学で出会った男性と結婚した。ムギも親の会社を継いだらしい。

そして澪と私も、それぞれ違う道を進んだ。

大学の卒業の日、私は今まで持ち続けていた想いの名前を確かめることもせず、
澪と別れた。




今でも、あの時私は澪に何を伝えればよかったのかなんてわからない。
伝えなくてよかったんじゃないかと思う。

けど、どうして今、私はこんなに後悔しているんだろう。
今更後悔したって遅いのに。

コートのポケットが、微かに震えた。
悴んだ手でポケットの中を探り携帯を取り出した。
唯からの着信だった。
私は電話に出なかった。

さっき居酒屋から出た時には土砂降りだった雨も、今はだいぶ小降りになっている。
私はカバンから、一冊のアルバムを取り出した。

高校生の頃、初めて自分のカメラを持った日から、私の写すものは全部澪だった。
澪しか見えてなかったのか、それともただたんに澪がカメラから逃げ回るのが
面白かっただけなのか。それとも、少しでも澪を記憶に留めておきたかったのか。
自分でも呆れる程、このアルバムには澪の写真しか詰っていない。

「なあ、澪」

私は呟いた。
会いたいよ、って。

会って話したい。笑いたい。何でもいいから、澪と一緒にいたい。
写真の中の澪は、笑っていたり、怒っていたり、泣いていたり。
ちゃんと残ってるのに、私の頭の中の澪は段々霞んでいってしまう。

なあ、澪――

その時、またポケットの中で携帯が震えた。
今度の着信はムギだった。無視しようとしたけど、それを許さないというように
携帯は震え続けた。

私は携帯と同じく震える指で、通話ボタンを押した。
聞きたくないことを聞かされるんじゃないかと思って。

『りっちゃん?澪ちゃんがね』

「いい、何も言わなくて!」

唐突に切り出したムギの次の言葉がわかった気がして、私は電話を切ろうとした。
けどムギが『りっちゃん!』と少し強い声で私の名前を呼んだ。
それで私は思わず動きを止めた。

『りっちゃん、ちゃんと聞いて』
「……うん」
『澪ちゃんがね、今目を覚ましてりっちゃんに伝えて欲しいって言ったの』
「え……?」

『音楽プレイヤーにね、澪ちゃんがりっちゃんへ送った曲が入ってるんですって。
それを聴いて欲しいって』

どういうこと?
私が聞こうとすると、『りっちゃん、早く病院に来てね』と強引に電話が切られた。

「なんだよ、それ……」

私は呟くと、携帯を乱暴に閉じてポケットに仕舞うとカバンの中から必死に
音楽プレイヤーを探し出した。
電源は入ったままだった。

私は何の曲なのかもわからないまま、音楽プレイヤーを操作して、その曲を探した。
そういえば、前に澪に会った時、澪に音楽プレイヤーを貸してと言われて貸した覚えがある。
返ってきても何をされたのかなんて確かめもせず、そのままカバンの中に入れていた。

ずっと下のほうにスクロールしていくと、見覚えのないファイルがあった。
そのファイル名は、『りつへ』となっていた。

私は急いでイヤホンを耳につけると、再生ボタンを押した。



聴いた事のあるイントロが流れる。
心地良いリズムが、こんなときであるにも関わらず、私の身体を動かしてしまう。

澪の声が、歌を紡いでいく。
優しい優しい声が、私の周りを包んでいく。

 “記憶の中で ずっと二人は 生きて行ける”
 君の声が 今も胸に響くよ それは愛が彷徨う影

 僕は この手伸ばして 空に進み 風を受けて
 生きて行こう どこかでまためぐるよ 遠い昔からある場所

私は傘を投げ出してその場に蹲った。
涙が、止まらなかった。
そんな私を、雨が慰めるように優しく濡らしていった。

伝えたい想いを、伝えたい言葉を、今更思い出した。



私の心の中で溢れてくる言葉と重なるように、澪の声が、曲の最後の演奏に乗って
私の伝えたい言葉と同じ言葉を囁く。

「みおっ……」

いつだってそうだ。
やっぱり私は変わってない。変われていない。いつまでも餓鬼のままだった。
肝心なことは結局何も伝えられないまま。最後は澪に言わせてしまう。

曲が終わってしまった。
もう、何も聞こえない。澪の息遣いさえ。

私はもう一度再生しようとした手を止めて、立ち上がった。
落ちていた傘も拾わず、私は走り始めた。



――――― ――
電車に乗っている時間ももどかしかった。
頭の中で、澪に言いたい言葉を頭に並べていく。
どれもこれも、ありきたりなものばかりで自分の頭が嫌になった。

病院に着くと、私は急いで窓口へと走った。
けど、窓口で澪がどこにいるかを聞く前に、私は知ってしまった。

澪の乗ったベッドが、沢山の人に囲まれてどこかへ運ばれていくのが見えた。
誰の顔も青ざめていた。
その中に、唯やムギ、そして梓の姿も見つけた。

私は震える足を叱り、追いかけた。
何度も転びそうになりながら、絡まる足を酷使して、澪を追いかけた。
澪の眠るベッドは、集中治療室と掲げられた部屋に入っていってしまった。

「澪っ!」

名前を呼んだ。何度も呼んだ。
だけど、集中治療室のドアが開かれることはなかった。

「りっちゃん!」

唯やムギ、梓が駆け寄ってくる。
暫く見なかったうちに、唯は随分とお母さんっぽくなっている。
そういえば今、唯のお腹に子どもがいるんだっけ。
ムギは高校や大学のときと何ひとつ変わらないように見えたけど、
仕事の出来そうなめがねを掛けている。
梓は髪を下ろして大人っぽい。身長はあまり変わって無いのに。
なんだっけ、梓は確か、楽器店で仕事をしてた気がする。

どこか冷静な頭で、かつての仲間の今の生活のことについて思い出す。
誰から聞いたんだっけ、この情報。あぁ、澪か――

「りっちゃん!」

身体を強く強くゆすられた。
それで私はハッと目の焦点を唯たちに戻した。

「律先輩、大丈夫ですから!」
「澪ちゃん、今は一時的に危険みたいだけど、これを乗り越えたらもう大丈夫
だってお医者さんが……」

梓と唯が、言ってくれた。
ムギが私の震えている手を握ってくれた。

バカだな、私は。こんなふうになることを覚悟してたはずなのに。
実際、こんなとこを見てしまったら動揺してしまっている。

「澪……っ」

私はムギの手を振り払うと集中治療室の窓に駆け寄った。
駆け寄って、澪の姿を少しでも見ようと目を凝らした。
澪は、信じられないくらい包帯を巻かれて浅い息を繰り返していた。

「なあ、澪っ!私はまだ……!」
「りっちゃん!落ち着いて!」



窓を叩いても、何をしても、澪は目を開けてくれなかった。
やがて、部屋の中から無機質な音が響いてきた。

「……みお」

私はその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
私を支えてくれていたムギも、同じように泣き崩れる。

唯も、梓も、静かに泣いていた。
混乱して来たときには気付かなかった澪のご両親も、よく知らない誰かも、
皆泣いていた。

もうだめなんだと悟った。
いくら澪の名前を呼んでも、何かを伝えようとしても、もう返事は返ってこない、
何も伝えられないんだと。

もう、動く元気なんて残っていなかった。
私は泣くことも出来ずに、呆然と澪がどこかへ運ばれていくのを見送るしかなかった。

座り込んだ拍子に勝手に再生ボタンが押されたのか、イヤホンから澪の歌声が
鳴り響いていた。

私の一番大好きな、心地良い居場所が、なくなってしまった。
何も伝えられないまま。






お葬式が終わり、そろそろ一周忌になる。
私は、ある一枚のCDを持って澪の眠るお墓に足を運んだ。

唯たちは着いてきてくれると言った。
けど私は、良いと断った。

一人で、澪にお別れしなければいけないと思ったから。


「……先に逝くなんてさ、酷いよ澪は」

お墓に着くと、私はしゃみ込んで呟いた。
勿論、答えは返ってこない。
もしここに澪がいたらなんて言うだろう、と今でも考えてしまう自分に、
自嘲じみた笑顔を浮かべた。

私はお葬式のときにちゃんと手を合わせられなかった分まで、きちんと手を合わせると
カバンから持ってきたCDを取り出して、お墓に供えた。

CDには、私の字で『みおへ』と書いてある。
つい昨日、録ったばかりの曲が一曲だけ、入っている。

唯たちに頼んで手伝ってもらった。
放課後ティータイムから、そして私から澪への想い、沢山詰め込んだ。
これで本当に、放課後ティータイムは最後になる。
そのことも含めて、私たちは心を込めて演奏した。

“Hello, Again ~昔からある場所~”


私はずっと、澪の隣にいることが好きだった。
ずっとずっと、澪のことが好きだった。

けど、澪はもういない。
でも。

 “記憶の中で ずっと二人は 生きて行ける”

 生きて行こう どこかでまためぐるよ 遠い昔からある場所

ここ最近、ずっと降り続いていた雨はやっと止んだ。
私の心の雨も、やっと。

いつかまた、今度は澪と一緒に歌いたい。
その時にまた、今度こそ伝えたいことを伝えてやる。

だからそれまでは――



終わり。