それは、学園祭が終わったあとのことでした。

澪「ちょっ、どういうこと……?」

テーブルを囲みながら、いつも通りみんなでお茶をしていたとき。さわちゃん先生の口から衝撃の事実が伝えられました。

梓「そんな……え、だって」

律「おいムギ、ちゃんと説明しろよ!」

紬「……」

唯「ムギちゃん……転校しちゃうの?」

ムギちゃんはティーポットを傾けたまま、俯いていました。

紬「ごめんね、みんな……黙ってるつもりはなかったんだけど」

ムギちゃんがテーブルの一角にちらりと目をやります。カップに口をつけるさわちゃん先生にみんなの視線が集まります。

さ「今言った通りよ。ムギちゃんは今日から二週間後に、海外へ転校することになったの」

律「だって、突然すぎるだろ!」

澪「そんないきなり言われても、信じられないって!」

紬「待って! 先生は悪くないの」

激昂する二人に、ムギちゃんが顔を上げました。

紬「学園祭が終わるまで言わないでって、私が口止めしてたから……。本当はね、もうずっと前から決まっていたことなの。でもみんなには演奏に集中してほしくて、それで」

その台詞に、音楽室はしんと静まり返ってしまいます。みんな次に続ける言葉が見つからず、下を向いてしまいました。

梓「あの、向こうに行っている期間は……?」

あずにゃんの問いかけに、ムギちゃんは悲しげな声で返しました。

紬「たぶん、長くなると思う。家の関係だから具体的な期間は私にもわからないけど」

律「高校にいるあいだは戻ってこれないってことか?」

紬「……」

沈黙がはっきりとした答えになって、私たちの胸にのしかかります。それ以上の質問をできる人は、もう誰もいませんでした。

せっかくバンド名も決まって、色々あったけど学園祭も無事に終わって、さあこれからというときなのに。
ギターももっとうまくなって、あずにゃんの話す専門用語もわかるように勉強して。
たくさんたくさん演奏して、みんなと笑い合うつもりだったのに。

唯「やだ……」

気づけば、無意識に私はそう呟いていました。

唯「やだ、やだよ」

律「唯……」

唯「ムギちゃんがいなくなるなんて絶対にいやだ!」

自分でも驚くくらい大声で叫ぶと、テーブルの上に涙が一滴落ちました。それが私の涙だとわかるまで少しだけ時間がかかりました。

さわちゃん先生が慌てて遮ります。

さ「唯ちゃん、気持ちはわかるけど、でも」

私はムギちゃんのほうを向いて話を続けました。

唯「ねえムギちゃん、どうにかならないの? ほら、お父さんに言ってムギちゃんだけでも日本に残してもらうとかっ」

紬「それはね、お願いしたの。でも無理だったわ。理由は色々あるんだけど……」

唯「そんな……」

私は、再び涙がこみ上げてくるのを感じました。どうにも……どうにもならないの?

紬「みんな、ごめんね……」

沈黙を破るようにムギちゃんが声を発します。

紬「私のせいで、こんな暗い空気にさせちゃって……本当にごめんなさい」

澪「そんな、ムギが謝ることじゃないって」

梓「そうです。仕方のないことですし……」

律「少なくとも、ムギが悪いだなんて誰も思ってないよ」

澪ちゃんもりっちゃんもあずにゃんも、表情は辛そうだけど、落ち込むムギちゃんを励ましていました。泣いてしまったのは……どうやら私だけみたい。
みんな薄情とか、そういうことは思わなくて、私が子どもだったんだなっていう気持ちのほうが強くて。きっとムギちゃんが今一番辛いはずなんだ。だからせめて、私たちくらいは明るくならなくちゃ。そんなふうに思って。

唯「っ……」

涙を拭うと、私は無理やり笑ってみせました。

唯「えと、えと。ごめんね、私のほうこそ泣いたりしちゃって。えへ、えへへ」

律「ホントだよなー。泣き虫は澪の専売特許なのにさ!」

澪「ちょっ、……りーつー!」

一度みんなが笑顔になると部屋の空気も元通り。ムギちゃんも最初は目を見開いて驚いていたけど、すぐに笑ってくれました。

紬「ありがとう……みんな」

こそばゆいお礼の言葉が、でも今は素直に受け止められなくて、私たちは変な顔で笑いながら頷くのが精一杯でした。さわちゃん先生が肩に手を載せて微笑んでくれます。
そして、湿った雰囲気を吹き飛ばすために練習をはじめたわけなんだけど。

梓「なんか……演奏が合いませんね」

唯「うん……」

みんなの心に落ちた影はそう簡単に消えるはずもなく、結局その日は練習にならないまま帰りました。



憂「ええ!? 紬さんが?」

梓「うん。本当に突然で……唯先輩なんか泣き出しちゃってさ」

梓ちゃんから聞かされた話はとても衝撃的でした。あの紬さんがあと二週間で転校してしまうみたいなんです。

憂「だからお姉ちゃん、昨日は元気なかったんだ……」

昨日のお姉ちゃんはいつものほっこりした感じじゃなくて、どこか心ここにあらずというか、見ていて不安になるような印象を受けました。お姉ちゃんはすぐに眠ってしまって何も訊けなかったけど、そっか。そんなことが……。

憂「梓ちゃんは大丈夫なの?」

梓「わたし?」

梓ちゃんは考えるような間を置いてから、苦笑して言いました。

梓「唯先輩や澪先輩がすごく落ち込んでるから。わたしがしっかりしないと」

憂「梓ちゃん……」

無理しなくていいよ。そう告げようとしたとき、授業開始のチャイムがちょうど鳴り響きました。梓ちゃんが手を振って一足先に席へと戻っていきます。

梓「いたっ」

その途中、梓ちゃんは机の脚に膝をぶつけ、しゃがんだ拍子に今度は角におでこをぶつけ、大変なことになりながら席につくはめになりました。軽音部に突如訪れた悲しみは予想以上に大きいものみたいです。――あの梓ちゃんがここまで動揺するくらいに。



澪「あれ、ムギは?」

放課後、遅れて来た澪ちゃんがきょとんとした顔で音楽室を見回しました。

律「転校のことで先生たちと話があるんだって。ちゃんと来るから安心しなよ」

澪「そっか。ならいいんだけど」

呟いて、澪ちゃんはテーブルのほうに歩み寄ってきます。今日はまだお茶もお菓子もありません。でもそんなことは誰も気に留めていませんでした。
たぶんみんな、もちろん私も、澪ちゃんと同じ気持ちなんだと思います。ある日突然ムギちゃんが来なくなったらどうしよう……。ムギちゃんに限ってそんなことはないと思うけど、日に日に大きくなる不安はどうしても消えてはくれません。まだちゃんとお別れも言ってないのに。
ああ、でもそうかあ。お別れ、しなきゃだめなんだよね……。

澪「ムギがいなくなったらさ。私たち、どうしたらいいんだろうね」

律「そりゃあ」

りっちゃんが天井に視線を向けつつ、色のない声で言います。

律「代わりを探すしかないだろ。キーボードの」

梓「代わり、ですか?」

唯「りっちゃんの、」

テーブルを叩いて私は思わず声を荒らげました。

唯「りっちゃんの代わりはいないって、ムギちゃん言ってたのにっ!?」

律「え、なに。何の話……?」

澪「この前」

状況を掴めないりっちゃんに澪ちゃんが説明します。

澪「律が風邪で休んでたとき、今みたいな話になったんだ。律がもう来なかったらドラムどうしようかって」

梓「さわ子先生が代わりを探したらって言ったら、ムギ先輩が急に立ち上がって。『りっちゃんの代わりはいません!』って、そう言ったんです」

律「……そっか、ムギが」

りっちゃんの頬が赤く染まっているのが見えました。照れ隠しなのか天井から視線を外して、顔を背けてしまいます。「そっか、そっかあ」と何度も繰り返して頬をもじもじと掻いて。

律「ムギは……わりとそういうこと、何の気兼ねもなく言うからなあ。恥ずかしいったらありゃしないよ」

澪「だな。たまに私たちを見て変に浮かれてるときもあるし」

梓「でも、そういうところも素敵だと思いますよ、わたしは」

唯「私も! 私も、そう思う!」

四人がお互いの顔をそれぞれ見合わせます。そうしていると、不思議と心も通じ合っていく感じがして嬉しくなりました。
いつどんなときも、私たちが知らないところでムギちゃんは私たちのことを気遣ってくれていました。クリスマス会でボードゲームを選んだときみたいに、ムギちゃんはいつもみんなでいることを最優先していました。友達という存在をとても大事にする子なんです。

だからさ、と澪ちゃんが言いました。

澪「キーボードの代わりなんていらないよね」

みんな各々、笑顔で頷きます。

唯「私たちにはムギちゃんしかいないんだもん」

梓「ムギ先輩のキーボードが好きです」

律「これからも放課後ティータイムのキーボードは、ムギの専用スペースだ。誰にも渡すつもりなんてない。――それでいいんだよな、みんな?」

もちろん!
一斉にそう叫んで、私たちは入り口のほうを振り向きました。かすかに開いた扉の奥から、すすり泣く声が聞こえていました。



さ「ムギちゃん……」

両手で顔を覆いながら感極まって泣いていると、さわ子先生が後ろから肩を抱いてくれました。

さ「いい友達を持ったわね」

紬「……はいっ、……」

みんながこんなふうに思ってくれているなんて、正直考えもしませんでした。みんなずるいわ。普段は素直に気持ちを表せない人たちばかりなのに、こんなときに限って。お別れするまで泣かないって決めたのに、これじゃ全部台無しじゃない……。

さ「大丈夫? 中に入れそう?」

紬「……」

どう答えようか迷っていたそのとき。
バンッ――
向こう側から、扉が勢いよく開け放たれました。
澪ちゃん、りっちゃん、唯ちゃん、梓ちゃん。私の大切な友達たちがそっと手を差し伸べてくれます。

律「ムギー。何やってんだ、そんなところで」

澪「盗み聞きなんてよくないぞー」

紬「あの、えっと」

唯「あれー? もしかしてムギちゃん、泣いちゃってる? かーわいい。うふふふふ」

梓「そこ、唯先輩が笑うところじゃないです」

なんかすっかりいつもの空気に戻っていて、私は軽く拍子抜けしてしまいました。でも私を気遣ってくれているのは痛いほどよくわかりました。
先生に背中を押されて、私は音楽室に足を踏み入れます。少し恥ずかしくて強がりを言ってしまいます。

紬「い、言っておきますけど。私、泣いてなんかいませんからっ」

律「おーおー、無理しちゃって」

唯「ねームギちゃん、今日のお菓子はなにー?」

澪「この状況でお菓子の心配かよ!」

突っ込まれてぽわんとしている唯ちゃんに、私は手許の包みを掲げました。

紬「ふふ。今日はね、マドレーヌとクッキーよ」

唯「あ、それって、私がはじめて軽音部に来たときのお菓子だよね! うわーい!」

澪「食べ物のことはしっかり覚えてるのな」

梓「さすが唯先輩……尊敬はしませんけどすごいとは思います」

周囲の呆れた視線に、唯ちゃんは「えへへー」と照れた表情を浮かべていました。たぶん褒めてないと思うんだけど……。


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