唯「パチンコの新台入れ替えでしょ~? あと競馬も競輪も競艇もどれも大穴っぽい選手が出るんだよねぇ~。新作ゲームも出るし、あ、タバコも値上げが近いって聞いたから買い溜めしとかないとね」

憂「ッ……! ふざけないで! 何も教えてくれないくせに、お金ばっかり求めないで!」

唯「お金以外求めてないよ? なるべく憂に迷惑かけないように家にも戻らないようにしてるのに」

憂「違うよ! お金せびってる時点で迷惑なんだから、いっそ全部教えてよ! 姉妹でしょ!? それともお姉ちゃん、私じゃ頼りにならない!?」

……こんな献身的な言葉を吐かれて、心揺らがない人がいるだろうか。
私とて揺らぐ。やはり、優しさには甘えていたくなる。だが、それでは駄目だ。
憂ももう社会人。私という荷物など忘れて、幸せになるべきなんだ。優しい妹だからこそ。

唯「……もういいよ、憂」

憂「…え?」

唯「もういいって言ったの。私の世話しなくても」

憂「……まさか、出ていくの?」

唯「うん。お金くれないなら、もう戻ってくる事も無いよ」

律「おい唯、そんな言い方――」

憂「いいよ、出て行けば」

澪「憂ちゃん!?」

唯「じゃあね、憂」

立ち上がり、背を向ける。憂も同じように背を向けて、台所のほうに引っ込んでしまった。
……これで一番厄介な縁も切れた。私を縛るものはもう、ほとんどない。


律「おい、待て二人とも、落ち着け! なぁ唯――」

唯「りっちゃんはさ、社会人やってて、辛い事や苦しい事ってないの?」

律「は? なんだよ急に…」

唯「憂がいなくなったから、聞いておきたいんだ。澪ちゃんも、どう?」

澪「そりゃ……ないわけないだろ。学生時代だってあったさ」

唯「じゃあ、楽しい事は?」

律「まぁ、あまりないな。けど社会人ってそういうもんだろ?」

そうだ、そういうものなのだ。
そういうものだ、と全てを諦めるのが、社会人の思考なのだ。

私は逃げた。恐れ、逃げ出した。

逃げる事と諦める事、どちらが優れ、どちらが劣っている?


唯「――ねぇ、みんなは今、幸せ?」

律「…別に幸せではないな。さっきも言ったろ?」

澪「まぁ、な」

唯「…私は、社会の苦しみから逃げた。大学での経験から、社会の苦しみを想像するだけで耐えられなかった」

紬「………」

唯「幸せでもないのに、私の耐えられなかった苦しみに耐えてるみんなは、素直にすごいと思うよ」

少なくとも私には出来ないことであるし。

唯「でもね、覚えておくといいよ」

そして、私には理解できないことでもある。

唯「これからもっともっと長い時間、いつもいつでも、その苦しみはみんなを蝕む。気づいた時には遅い。もう戻れない」


――それは、心を蝕む炎。例えるならば――


唯「――神火はいつでも、みんなの背中を焼いてるんだから」



※紬


ぐらり、と。

眩暈がした。


天が、地が、ひっくり返るような。



唯ちゃんが途中でやめた話。あの先を聞けば、きっと私は共感できる。


私は気づけた。それはまだ、かろうじて幸せだったのかもしれない。



――私も悩みがあった。ずっと悩んでいた。いつか、みんなに会えたら打ち明けようと思っていた。
そして今日、みんなに会えた。打ち明けるチャンスだった。

でもそれよりも、笑顔を失った唯ちゃんを助けてあげたかった。自分の事より、大切な仲間を助けたかった。
だから、私はりっちゃん達の側に立って、唯ちゃんの話を聞いていた。


でも違った。
断片的にだけど唯ちゃんの話を聞いて、確信した。

私は、唯ちゃんの側だ。

私は、唯ちゃんが受け入れたのと同じ悩みを今、抱えている。


律「――ムギ、どうした?」

紬「え? あ、いえ、それより、憂ちゃんは?」

律「今、澪がついてるはずだ。見に行くか」

何故、そこで憂ちゃんの名を呼んだのか。
それは、きっと私のこれから起こすかもしれない行動の結果を、似たような人で見てみたかったから。


澪「――憂ちゃん、本当に良かったのか?」

憂「……いいんです、あれくらい強く言わないとわからないんですよ。甘やかしすぎたんです、澪さん達の言うとおり」

澪「でも、唯はきっと本気だったぞ」

憂「お姉ちゃんの本気なんて、たかが知れてますよ。一人で生きていけるわけない、そのうち帰ってきますよ……」


――なんだ、結局は自分に言い聞かせているだけなのか。
私には、いや、きっとここにいるみんなはわかっているはずだ。唯ちゃんはもう、二度と戻らない。
唯ちゃん自身が、追い出される事を望んでいたから。私達との間に出来た溝は、もう埋められないと思ってしまったから。

……実際、私も溝を感じている。
でもそれは唯ちゃんにではなく、りっちゃんと澪ちゃんに。
二人とも、唯ちゃんの最後の言葉に、何も感じなかったのだろうか? 私はあんなに衝撃を受けたのに。ずっと仲間だと思っていた二人との、心の距離はこんなにも遠かったのか。
唯ちゃんが出て行ってなお、あんな自己暗示を続けている憂ちゃんは問題外だ。

律「……やっぱり、追いかけよう。唯は、きっと――」

紬「私が行くわ」

律「ムギ?」

紬「私が行くから、みんなは待ってて」

澪「あ、ああ……頼む」

ほら、やっぱりね。
りっちゃんも澪ちゃんも、心配しているのは表面だけ。
……あるいは、私のことを信頼してくれてるのかもしれないけど、そうだとしても、私の表情に宿る決意に気づいてくれないのなら同じ事。私の事も、表面しか見ていない。

……そう思い知った時、私は、迷子になった。

紬「――唯ちゃん!!!」

唯「……ムギちゃん?」

唯ちゃんは悠々と歩いていた。誰も追いかけてこない事を悟っていたのだろう。今なら私にもわかる。
わかってしまった私は、きっと唯ちゃんと同じように、6割くらいの笑顔でしか笑えない。
……そんなの今更か。就職とは名ばかりの父親のコネで入社した時から、ずっとそうだ。

唯「どうしたの? 引き止めにでも来たの?」

唯ちゃんはすごく底意地の悪い笑顔を見せる。まさに、最初っから期待なんてしていない顔。
そんな顔も出来たんだね。それとも、私の知らない間に手に入れたの?

紬「唯ちゃん、パチンコやるの? 教えて欲しいんだけど」

唯「なんで?」

紬「私、友達とパチンコやるのが夢だったのよ」

唯「……気づいてるんでしょ?」

紬「まぁ、ね。どこまでが嘘だったの?」

唯「ほぼ全部かな。ゲーム以外」

紬「…私も一緒に行っていい? ゲーム教えて?」

唯「……嬉しいけどダメだよ。ムギちゃんには未来があるよ」

紬「辞表くらい何枚でも書くから、待っててくれる?」

唯「…ダメだよ。待たないし、一緒に行かない」

紬「私がいいところのお嬢様で、約束された未来があるから?」

唯「そうだね、私が言ったことを纏めるとそうなるね」

紬「それじゃあ……これならどう?」

持ってきた手提げカバンをどこか遠くに放り投げる。うーん、我ながらよく飛ぶわぁ。

唯「ちょっ、何してんのムギちゃん!?」

紬「あとは……電話と財布かしら?」

二つは適当に放り投げたらどこかで水没したらしき音がした。好都合。
……唯ちゃんが財布ではなく携帯電話のほうを目で追いかけていたのを見て、少し嬉しくなったのは内緒。

紬「さて、ここで唯ちゃんに問題です。私は誰でしょう?」

唯「……琴吹 紬ちゃん」

紬「それを証明する物は?」

唯「何も無いね」

紬「むしろお金も無いわ。本当に何も無い。唯ちゃんにとってはただのお荷物だけど、連れて行ってくれる?」

唯「はぁ…もう、何やってんの。完全に社長令嬢失踪事件だよ、どうするの?」

紬「あとで10円だけ貸してくれる? 一言電話だけ入れとくから」

唯「連れて行くとは言ってないんだけど」

目を逸らしながら言う唯ちゃん。
それは拒絶ではなく、どちらかといえば照れ隠しの仕草に近い。
私の知る唯ちゃんはそういう子だ。私は変わってしまったと言ったが、根本はそんなに変わってなかったようで。

紬「じゃあついて行く」

唯「…いつか絶対後悔するよ」

紬「じゃあ、まず唯ちゃんに何があったのか聞かせて?」

唯「どうして」

紬「私も、きっと同じ悩みを抱えてるの。だから聞きたい」

唯「ムギちゃんが? まさかぁ。ムギちゃん何でも出来るしその上家柄もいいんだから」

紬「違うの。家柄がいいから……いろいろ見えちゃうの」

唯「……そっか。ごめんね。知りもしないで勝手な事言った」

唯ちゃんはずいぶんと聡明になったと思う。
高校の時から、誰もが気づかないようなところにこそ気づく子ではあったけれど。さわ子先生のメイクとか。

紬「謝るより、聞かせて欲しいな」


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