春の夜空が心地よい風を室内に運ぶ。
眼下に流れる川のすぐ側には公園があって、そこのガス灯が川面にちらちら反射する。
煌めくパノラマは宝石箱を引っくり返したみたいで、先生が大人から守ってくれたのは、きっと私達にこれと同じものを見たからだと思った。

私は手すりに手をかけると、頭に頼りなく浮かぶ音符をかき集め始めた。
それを頭の中で五線譜に書きなぐり、口ずさんだ。

梓ちゃんはしゃがんで、グラスを口につけた。
赤い顔をして身体を前後にゆすりながら、私の声に耳を傾けてくれた。

川の対岸にある建物郡は、ひとつずつ明かりを消していった。
そのおかげで、星もよく見えた。
でも、星を見る必要はなかった。

目を閉じると、音の微粒子が私の容器に降り積もり、私はそれをひとつずつ掬い上げて、声に変える。
あます事なく、梓ちゃんと、それから眠っている唯ちゃん達に伝えるために。

この曲をみんなが演奏してくれたら、とっても素敵な音になりそう。

紬「ご清聴ありがとうございました」

梓「なんだか浮遊感のある曲ですね」

梓ちゃんのろれつは回っていない。

紬「やっぱりちょっとお酒入ってるからかな?」

梓「私も最近自分で作ったりしてるんれすけど、中々うまくいかなくて」

紬「……梓ちゃん大丈夫?ちょっと横になる?」

梓「だいじょうぶです。ムギ先輩は一年生の頃から曲書いてたんですよね」

紬「私も一年生の頃は四苦八苦したわ。三年生になってからかな、いっぱい書けるようになったのは」

梓「そうですか……。じゃあ私も」

そこで梓ちゃんは言葉を詰まらせた。
というより、喉に何か詰まらせたみたいだった。

梓ちゃんは口を両手で押さえ、涙目で私をじっと見詰めた。

紬「あ、梓ちゃん!?」

梓ちゃんは額に汗を滲ませながら、首を横に振った。

私は急いで梓ちゃんをトイレに連れていった。

梓「うっ、げほっ……おええ……」

私は梓ちゃんの背中を擦りながら謝った。

紬「ごめん梓ちゃん。飲ませ過ぎちゃったね」

梓「だい、じょう……お、おえっ……げほっ……えほっ……」

紬「吐けば楽になるから」

私は梓ちゃんの口に手を入れて舌の奥を刺激して、吐かせてあげた。
梓ちゃんは鼻をすすりながら言った。

梓「すみません……うっ、げほっ、ごほっ……」

梓ちゃんがあらかた吐き終わると、私は服の袖で梓ちゃんの口元を拭った。

梓「すみません、服汚しちゃって」

紬「いいの、気にしないで」

梓ちゃんは肩で息をしていた。
潤んだ瞳が弱々しく私を見詰める。

梓ちゃんが泣きそうだったから、私は気分が悪くなった。

こういう時はどうすればいいんだっけ。
こういう時は。

汗でおでこにくっついた梓ちゃんの前髪を引っ張り、私は梓ちゃんに唇を押し当てた。

梓「ん……っく……」

梓ちゃんが驚き、怯えている事はすぐにわかったけど、私はやめなかった。
唇を離すと、梓ちゃんは苦しそうに言った。

梓「酔ってるんですか……?」

紬「わかんない」

トイレの鍵を閉め、私は梓ちゃんの服を脱がせた。

梓「ムギ先輩。ダメですよ。やめましょう。ね?」

梓ちゃんは私の手を握り、子供を諭すような口調で言った。

私は梓ちゃんの口を押さえ、人差し指をその上から当てて、静かにするように促した。

瞳に諦めの色が浮かび、梓ちゃんはゆっくりと頷いた。

私は口を押さえていた手をそっと離した。

紬「声出しちゃダメだよ」

梓ちゃんはまた頷いた。



それからの数十分は、きっと梓ちゃんにとっては悪夢でしかなかったと思う。

私は梓ちゃんの中に指を入れて、かき回し、尊厳を踏みにじった。

梓ちゃんは他のみんなに聞こえないよう、歯を食いしばって声を殺した。

梓ちゃんが果てると、私は梓ちゃんの頭を掴んだ。

そして便器の中に頭を突っ込ませた。

溜まった水で梓ちゃんは呼吸できなくなり、それが限界になると私を引っ掻いた。

私は梓ちゃんの顔を上げさせて、その表情をしげしげと見た。
睫毛の一本一本、唇の皺、頬についた水滴、全部目に焼き付けた。

紬「泣いてないよね?」

梓ちゃんはずぶ濡れになりながら、真っ直ぐに私を見て答えた。

梓「泣いて、ません……」

私はまた梓ちゃんの顔を便器の中に入れた。
梓ちゃんは私を引っ掻き、私は顔を上げさせる。
それを何度も繰り返した。

それに飽きると、私は梓ちゃんを残してトイレを出て、ドアを締めた。

梓「いや……行かないで……」

紬「ちゃんとドアの前にいるわ」

梓「狭い所、恐いんです……」

紬「知ってるよ」

梓「お願いです……出してください……」

紬「それはダメ」

ドアの向こう側で、梓ちゃんは一度泣き出しそうになったけど、すぐにそれを我慢してくれた。

明け方になってから、私はみんなが起きる前に梓ちゃんを出してあげることにした。

ドアを開けると、梓ちゃんは小さい身体をさらに小さくして、トイレの中で目を見開いて震えていた。

紬「もう出ていいよ」

梓ちゃんは私に視線を移して、何か言おうと唇を動かしたけど、声になっていなかった。

紬「梓ちゃん、もう出ていいのよ」

梓ちゃんは震えたまま立ち上がらない。

私は携帯電話を持ってベランダに出て、梓ちゃんに電話をかけた。

梓ちゃんは電話に出てくれたけど、何も言わない。何も言えなかった。

紬「梓ちゃん、ごめんね……」

ベランダから川の対岸を見渡そうとしたけど、5月なのに朝靄がばかに濃かったから見えなかった。

私が何度も謝ると、梓ちゃんは消え入りそうな声で言った。

梓「は……い……大丈夫……です……」



部屋に戻ると、私は梓ちゃんの震えが止まるのを待ち、浴室に連れていった。
服を全部脱がせ、私はジーパンを膝まで上げてシャツの袖を捲り、梓ちゃんの身体を洗ってあげた。

紬「次、顔ね。目を閉じて」

梓ちゃんは言われるがままに目を閉じた。
私は手でシャワーが熱すぎない事を確認すると、そっと梓ちゃんの顔にかけた。

汚れを落とすと、梓ちゃんの肌は水を弾いた。
私がシャワーを止めても、梓ちゃんは目を閉じたままだった。

シャワーヘッドから滴り落ちる水の音が浴室に響く。

紬「目、開けていいよ」

私はそう言ったけど、開けて欲しくなかった。
どんな眼で私を見るのか知りたくなかった。



律「あれ?誰か入ってんの?」

磨りガラスの向こう側から、りっちゃんの声がした。

今度は私の身体が震え始めた。

梓「私が吐いて汚れちゃったから……」

律「ん?梓か」

梓「ムギ先輩に洗ってもらってるんです」

梓ちゃんは目を閉じたまま言った。

律「わかったー。ムギも面倒見いいな。じゃあ私はもーちょっと寝るから」

それからりっちゃんの足音は遠ざかっていった。



私は言葉を詰まらせ、浴室に時間が彷徨った。

紬「梓……ちゃん、もう目開けていいよ」

やっとの思いで声を発すると、

梓「はい」

と言って梓ちゃんは目を開けようとした。

私は膝をついて梓ちゃんの濡れた身体を抱き締め、顔を見ないようにした。

紬「ごめんね……本当にごめんね……」

私は嗚咽を漏らしながら、さらにきつく梓ちゃんを抱き締めた。

お願いだから、泣かないで。
お願いだから、あっちへ行けって言って。
私の鼻をへし折って、もう二度と会わないで。

紬「やだ……そんなのやだ……梓ちゃん、嫌わないで……」

梓「……はい」

紬「お願い……」

梓「ムギ先輩……服濡れちゃいますよ……」

私が泣き続けていると、梓ちゃんは濡れた手で私の頭を撫でてくれた。



【平成23年 5月9日】

次の月曜日、私は澪ちゃんにアルバイトを代わってもらい、桜高の音楽室に向かった。

憂「梓ちゃんですか?今日は掃除当番だからまだ教室にいると思いますけど……」

紬「ありがとう。あ、良かったらこれ、みんなで食べてね」

憂「いいんですか?ありがとうございます!」

私は憂ちゃんにお菓子の入った箱を渡すと、音楽室を出た。

階段を降りる途中で梓ちゃんと鉢合わせになった。

梓「こんにちは」

梓ちゃんは表情を変えずに行った。

紬「梓ちゃん、お出掛けしようよ」

梓ちゃんは少し黙った後に、

梓「はい」

と言った。

私は梓ちゃんを学校のトイレに連れていき、唯ちゃんの部屋でしたのと同じ事をして、梓ちゃんを汚した。

六月の終わりまで、私は暇を作ってはこれを繰り返した。
梓ちゃんは抵抗しなかったし、もう泣くこともなかった。
私が帰宅してから電話をかけると、必ず許してくれた。

夏休みになると、私は毎日のように梓ちゃんを呼び出し、桜高の音楽準備室に連れて行った。
梓ちゃんは必ず私より先に部室に来ていて、トンちゃんに何か話しかけていた。
きっと梓ちゃんにとって、トンちゃんだけが全てを話せる相手だったんだと思う。

だから、私は水槽ごとトンちゃんを私の家に移す事にした。

拠り所を失ったはずなのに、梓ちゃんは私に会ってくれた。



【平成23年 9月9日】

桜高の夏休みが終わっても、私は部室に行った。

この日、梓ちゃんは一人だった。
私が他の部員を帰らせるように言っておいたからだった。

私は鋏をバッグに入れて家を出た。
お辞儀をして見送る執事が、やたら頭の悪い人間に思えた。

私がギターを壊すと、梓ちゃんは久しぶりに泣いた。

紬「泣かないでって言ったでしょ?」

私が梓ちゃんをぶつと、梓ちゃんは唇を噛みしめながら目を閉じた。
零れる涙を止めたくてそうしたんだろうけど、涙は梓ちゃんの意思とは無関係に溢れた。

私は梓ちゃんの髪の毛を引っ張った。

梓ちゃんの小さい頭がぐいと私の方に引き寄せられた。

梓ちゃんはなにも言わなかった。
ただ目を閉じて、私の癇癪が収まるのを待った。

でも私のこれは癇癪じゃない。
なんなのか自分でもわかってない。
だからいつまで待っても収まらないの。

紬「これ、いらないよね」

私は梓ちゃんに向かって言った。

梓ちゃんは目を開き、何の事かわからないといった表情を見せた。

私は右手で梓ちゃんの髪を掴んだまま、左手でバッグの中をまさぐり、鋏を取り出した。

途端に梓ちゃんは暴れだした。

梓「い……やっ!やめて!やめてください!」

私が右手を上に挙げると、梓ちゃんの身体は髪と一緒に引っ張られて、爪先立ちになった。

梓ちゃんは泣き叫び、懇願した。

梓「お願いします!やめてください!ムギ先輩やめて!」

何よ。
今まで抵抗しなかったくせに、何で今更。

紬「だから泣かないでってずっと言ってるよね」

梓「お腹ならいくら殴ってもいいですから!我慢しますから!」

紬「泣かないで」

梓「他の先輩達に知られますからっ!見えないところなら何してもいいからっ、怒らないし泣かないからやめてください!!」

紬「知られたら梓ちゃんは困るんだ」

梓ちゃんの目から大粒の涙がこぼれた。

私は梓ちゃんの髪の毛に鋏を入れた。

黒くて長い綺麗な髪の毛が、ばさっと床に落ちた。

それから鋏の柄で、私は梓ちゃんの顔を叩いた。

梓「やめて……やめてください……」

梓ちゃんの言葉を潰すように、私は梓ちゃんを何度も叩いた。

がちっという音がして、梓ちゃんの前歯が欠けた。

梓ちゃんの顔は腫れ上がり、本当に可哀想で、私は悲しくなった。



紬「梓ちゃん、帰ろっか」

梓ちゃんは答えてくれなかった。

紬「梓ちゃん、一緒に帰ろう?」

梓ちゃんは泣きながら床に座り込んだまま。
私はまた悲しくなった。

結局、私は梓ちゃんを無理矢理立たせて、手を繋いで帰った。

駅に着いても、梓ちゃんは私の顔を見てくれなかった。
私は、早く家に帰って電話しなきゃ、と思った。

きっと私の手は、もう暖かくない。
私が感じているのは、梓ちゃんの方の熱。

紬「じゃあね梓ちゃん」

私が手を離すと、梓ちゃんは顔を上げた。

腫れた顔で笑顔を作って見せ、

梓「はい」

と言った。

それから手まで振って、私を見送ってくれた。

左右に揺れる梓ちゃんの手に合わせて、踏切の警報機の音が聞こえた。


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