【平成23年 10月28日】
唯ちゃんの部屋は、実家のそれと似た雰囲気だった。
家具も小物も実家から持ってきたものばかりだから当たり前だけど。
違うとすれば、ふかふかのクッションが置かれたソファーと、お洒落な座椅子がある事くらい。
それから窓の形。大きくて、朝には日の光がたくさん射し込んでくる。
ベランダからはマンションの前を流れる川を対岸まで眺める事ができて、私はそれが好きだった。
唯ちゃんとりっちゃんがベッドに座り、部屋の真ん中に置かれたテーブルを挟んで澪ちゃんが勉強机の椅子に、私は床の座椅子に足を伸ばして座った。
これがそれぞれの定位置。
特にそうと決めたわけじゃないけど、音楽室の席と同じで、みんななんとなくそれぞれしっくりくる場所があった。
ちょっと前までは私の向かい側のソファーに、梓ちゃんがクッションを抱きながら座っていた。
私服の私達に対し、梓ちゃんは制服だったから、唯ちゃんとりっちゃんが梓ちゃんを見て「初々しい」「若々しい」と言っていた。
梓ちゃんはその時、「一歳しか違わないじゃないですか」と返した。
唯「ねえねえ何買ってきたの?」
律「秋山セレクションですぜ」
唯「ほほう、そいつは楽しみですなぁ」
澪ちゃんはちょっとだけ得意げな顔をした。
私は手に持った袋の中身をひとつずつ取り出した。
紬「えっと、スクリュードライバー、オレンジブロッサム、カシスオレンジ、テキーラサンライズ……がそれぞれ3本」
律「まぁ!柑橘系大好き!わたくし最近酸っぱいのが好きなのー……ってなんでオレンジ縛りなんだよ!」
澪「え?だって、可愛いかなって……。でも他のお酒もちゃんと買ってきたぞ」
律「はー、わかってないなぁ。もっとこう、渋いのが大人だぜ?ウイスキーの一本くらい買ってこなくてどうする」
澪「ウイスキー飲んで泣きながら吐いたヤツが何を言ってるんだ」
唯「私は好きだよ、オレンジ!ありがとう澪ちゃん」
私は袋の中の最後の二本を取り出した。
紬「あ、他にもあったわ。えっと、ビールが一本とカルアミルク」
りっちゃんはわざとらしく肩を落とした。
唯「いくらだったー?」
唯ちゃんは財布を取り出した。
律「二万くらいかなー」
唯「うっ……今月破産確定……」
澪「はいはい、嘘だよ。ほら、レシート。全部で5,500円」
唯「じゃあ、えーと……1100円だね」
澪ちゃんとりっちゃんが視線を落とした。
澪「いいよ、払わなくて。部屋使わせてもらってるんだし」
唯「ええ?悪いよー」
紬「いいのよ」
澪「律はちゃんと払えよ」
律「へいへい」
唯「……えへへ、ありがとう、みんな」
私達が初めてお酒を飲んだのは、大学に入ったばかりの頃。
他大学と合同の軽音サークルの新入生歓迎コンパの席でだった。
みんなおそるおそるお酒を口にして、それを見た上級生は気を良くして、ことさら私達に飲ませた。
澪ちゃんは外見で目立っていたから、特に標的にされた。
勝手にご機嫌になる唯ちゃんとりっちゃんの横で、一向に酔えない私はずっと先輩と世間話をしていた。
しばらくして澪ちゃんの姿が見当たらない事に気づき、私はすぐにトイレに向かった。
澪ちゃんは息も絶え絶えに吐いていて、その背中を先輩がさすっていた。
私は介抱役を先輩と代わり、澪ちゃんの背中をさすり続けた。
胃の中が空っぽになってからも、澪ちゃんは何度か胃液だけを吐いた。
それから泣きながら、「もうこんなの嫌だ」と言って、澪ちゃんは訴えるような目で私を見た。
私はハンカチで澪ちゃんの涙と口のまわりを拭い、「じゃあ私達でサークル作っちゃおうか」と言った。
澪ちゃんは涙目になりながらも、安心したようにうんうんと頷き、また便器に向かって吐いた。
その飲み会の後も、唯ちゃんとりっちゃんは他のサークルのコンパに顔を出し続けていたから、私と澪ちゃんは不安になったけど、結局二人はタダでご飯を食べたかっただけらしく、晴れて四人でサークルを立ち上げる事になった。
お酒を開ける前にお菓子の封を開け、しばらく適当に会話をしていると、唯ちゃんがテレビをつけた。
生放送の音楽番組が液晶テレビの画面に映し出された。
唯「私の好きなバンドが出るんだ~」
セットの階段を降りてくるアーティスト。
唯「あっ、この人達だよ~」
唯ちゃんがテレビの画面を指差した。
律「ってお前、それ唯の好きなバンドじゃなくて梓の好きなバンドじゃん」
その言葉で訪れる沈黙に、私達は飲まれた。
やたら明るい司会者の声だけが間抜けに響く。
りっちゃんは自分を責めるように頭をがしがしと掻いた。
唯ちゃんはそんなのお構い無しに、テレビの画面を食い入るように見ている。
澪「他になんかやってないの?私、このアナウンサー苦手なんだ」
澪ちゃんがとってつけたような理由を添えて、チャンネルを変えようとした。
唯「だめだよー。これ見ようよ」
唯ちゃんが澪ちゃんを制した。
澪「唯」
澪ちゃんはなおも食い下がる。
唯「だーめ」
唯ちゃんは笑いながら頑なに拒んだ。
律「まぁいいじゃん。見ようぜ」
りっちゃんが諦めたように言った。
私はテーブルの上の小さい時計に目をやった。
午後八時。
日付が変わるまで、あと四時間。
梓ちゃんの四十九日まで、あと四時間。
【平成22年 11月26日】
この日、唯ちゃん達は音楽室に来なかった。
斎藤に渡されたチョコレートケーキは安全に食べられるものだった。
でも、それじゃダメだった。
だから、私はまた梓ちゃんの目の前でそれを落とした。
今度はわざとだとわかるように、これ見よがしに落として、爪先で踏んだ。
梓「ちょ、ちょっと何してるんですか」
梓ちゃんは慌ててしゃがんで箱を開けた。
梓「あぁ、これもう食べられないじゃないですか」
紬「梓ちゃん」
梓「はい?」
紬「昨日チョコレートがいいって言ってたから持ってきたの」
梓「それはわかりますけど、でもこれじゃ……」
紬「食べたくないの?」
しゃがんで私を見上げる梓ちゃんの目に、少しずつ怯えの色が広がる。
梓「……言ってる意味がわかりません」
紬「私、お茶淹れるね」
私は梓ちゃんを放って、お茶の用意を始めた。
机の上にティーカップを並べて、梓ちゃんからケーキの入った箱をパッと取ると、私は箱ごと梓ちゃんの席の前に置いた。
紬「座って。お茶にしよう?」
梓ちゃんは愛想笑いを浮かべながら言った。
梓「ええと、すいません、どうつっこんだらいいんですか?」
私は笑い返した。
紬「ふざけてないよ」
梓「って言われても」
紬「ねえ、早く食べようよ」
梓ちゃんは渋々席につき、お茶を啜った。
紬「ケーキは食べないの?」
梓「……はい」
紬「どうして?」
梓「ムギ先輩が落としたから……」
梓ちゃんは伏し目で答えた。
紬「いらないの?」
梓「……いりません」
紬「食べてよ」
梓ちゃんは顔を上げた。
そこに不安が水彩絵の具みたいに滲む。
梓ちゃんは、自分が悪意を向けられている事に気付き始めたみたい。
梓「なんで……」
梓ちゃんからしてみれば、それは突然で、不可解だったはず。
私には突然ではなかったけど、不可解なのは同じだった。
梓「ムギ先輩、私、何か失礼なことしました?だったら謝りますから……」
紬「怒ってないよ」
梓「怒ってるじゃないですか」
紬「怒ってないわ」
梓「怒ってるじゃないですか!」
梓ちゃんは声を荒げた。
それから目に涙を溜めながら言った。
梓「何かあるならはっきり言ってください。じゃないと私、わからないです……」
何を言えばいいの?
私は梓ちゃんを大切な後輩だと思っているし、怒る理由なんて何もないのに。
紬「梓ちゃん落ち着いて。怒ってないよ」
梓「でも」
紬「ほら、早くケーキ食べないと」
梓ちゃんは箱をじっと睨んだ。
それから観念したように、箱の中に飛び散ったチョコレートケーキを指先で摘み、口に運んだ。
そうすれば、私の怒りが収まると思ったのかな。
でも何度も言ったように、私は怒ってないんだよ。
こんな事をさせる理由も、自分でよくわかってないの。
梓ちゃんはケーキを飲み込むと、私の方を見た。
私は何も言わずに手の平を見せて、全部食べるように促した。
梓ちゃんはケーキを手でかき集めて口に入れ、それを飲み込むと、口の周りをチョコレートで汚したまま鼻をすすった。
私はその一挙一動を、両手で机の上に頬杖をつきながら、しげしげと眺めた。
梓「……食べましたよ。これでいいんですか」
私は笑顔でそれに答えると、梓ちゃんから視線を外して、参考書を開いた。
梓ちゃんは啜り泣きながら、流し台で手を洗った。
それからギターをケースにしまい、バッグを肩にかけて、
梓「お疲れ様でした。失礼します」
と言って、部室から出ようとした。
紬「梓ちゃん待って。一緒に帰ろう?」
梓ちゃんは立ち止まったけど、私の方を見ようとしなかった。
私は帰る準備をして、ハンカチを用意した。
紬「お待たせ~。じゃ、帰りましょう」
私は梓ちゃんの涙を拭いながら言った。
梓「ごめんなさい……」
いくら拭っても、梓ちゃんの瞳は涙を運んだ。
紬「泣かないで梓ちゃん」
梓「ごめんなさい……」
梓ちゃんはしゃくりあげながら、何度も私に謝った。
私は梓ちゃんの手を取り、音楽室を出た。
帰り道、私達は言葉を交わさなかった。
最終更新:2011年05月05日 18:31