【平成23年 10月28日】

五限目の二外の講義が終わって教室を出ると、りっちゃんは早速提案した。

律「さて、金曜だし唯んちにでも行くか」

澪「昨日も行ったけどな。まぁいいけど」

りっちゃんは昨日唯ちゃんと喧嘩しちゃったから、私はちょっと心配だったけど、もう
平気みたい。

紬「私、唯ちゃんに電話するね」

私は携帯電話をバッグから取り出し、唯ちゃんに電話をかけた。
唯ちゃんはワンコール目が鳴り終わる前に出た。

唯「ムギちゃん、おはよ~」

紬「今日も大学お休み?」

唯「えへへー。ごめんごめん。今起きたー」

嘘だとすぐにわかった。

だって唯ちゃん、すぐに電話に出たじゃない。
電話がかかってくるのを待ってたか、携帯をいじってたかのどっちかでしょ?

だけど私は何も言わない。それを問い質すほど、私は意地悪じゃない。

律「ムギ、ちょっと代わってー」

私はりっちゃんに携帯を渡した。

律「もしもしー?ちゃんと大学来いよ」

律「和や憂ちゃんがいないとこれだもんなー」

律「今からみんなと唯んち行くけど、いいよな?」

律「なんか買ってくもんある?」

律「オッケー。そんじゃまた」

りっちゃんは通話を切って、私に携帯を返した。

律「お酒買ってきてーだってさ」



学部棟を出ると、ロータリーは学生でごったがえしていた。

この時間はいつもそう。
授業を終えると、バイトなりサークルなり他大学の彼氏とのデートなり、各々の
手帳に敷き詰めた予定を消化しようとする。

私達の予定はと言うと、アルバイトを辞めちゃったし、りっちゃんがこういう性格だから手帳のカレンダーには何も書いてない。
大学を卒業するまでみんなと一緒にいる。予定なんてそれだけで十分。

律「あーもー!カチューシャ飛ばされそうだ」

昨日の台風の名残みたいな風が吹き、私はワンピースの裾をぎゅっと握った。
10月末なのに今日は暖かくて、夕方の空気も優しい。
だけどわざとらしいくらいのその快適さは、なんだか私を子供扱いしているよう
で鼻についた。

キャンパスを出て駅の改札をくぐり、ホームに着くまでの間、私達は一言も言葉
を交わさなかった。

ホームには特急電車が停まっていたけど、唯ちゃんが部屋を借りたマンションの
最寄り駅にそれは止まらない。
私達はその後に来る各駅停車の電車を待つことにした。

『間もなく、電車が発車します。白線の内側までお下がりください』

私はホームと車両の間から線路が見えないかと思い、頭だけを前に出して覗き込
んだ。

澪「おいムギ」

澪ちゃんが私の服の裾を引っ張る。

澪「危ないよ」

紬「うん。ありがとう澪ちゃん」

電車は大きく息を吐くと、のろのろと動き出した。

私は車内に目をやった。
動き出した電車の中から、桜高の制服を着た女の子がじっとこっちを見ている。
私はその子に向かって手を振った。
でも、電車が加速してその子は私の視界から消えたから、それが届いたかどうか
はわからない。

律「ん?知り合いが乗ってたの?」

紬「ちょっと目が合ったから」

律「なんだそりゃ」

バッグを肩にかけ直しながら、澪ちゃんは言った。

澪「昨日の台風、凄かったな」

律「なー。あんなんなるくらいなら、唯んちに泊まってけばよかったな」

澪「律が怒って飛び出していくからだぞ」

律「だってさぁ……」

昨日も、私達は唯ちゃんの家に行っていた。
音楽室の代わりの溜まり場は、一人暮らしをしている唯ちゃんの家。
アンプもドラムセットもないけど、スタジオが近くにあったから練習に関して不
自由はなかった。
私達はそこでお酒を飲みながら、大学の話、音楽の話、それからたまに恋愛の話
をする。
酒の席は常にトピック過多だったけど、梓ちゃんの話だけはここ最近避けるよう
になっていた。

紬「でも、台風のおかげで今日はよく晴れてるよね」

私はそう言って天を仰いだ。

電線越しの空に、吹き飛ばされそこねた丸い雲が二つ、寄り添うように浮かんでいた。



構内アナウンスの後、ホームに電車が着いた。

今日も座席は埋まっていて、私達はつり革に掴まる。
背の低いりっちゃんはちょっと辛そうな顔。

学生と定時上がりのサラリーマンですし詰めになった車内で、けばけばしい中吊
り広告を眺めながら澪ちゃんが言った。

澪「ここですらこの時間はこんなに混むんだから、東京はもっとすごいんだろう
な」

律「そうだぞ~。澪なんて痴漢にもみくちゃにされちゃうかも!」

澪ちゃんはりっちゃんを睨んだけど、必死に手を伸ばしてつり革に掴まるりっち
ゃんを不憫に思ったのか、何も言わなかった。

もしここに梓ちゃんがいたら、りっちゃんより小さいんだからきっともっと大変
ね。

それを思うと、私の左耳は疼いた。

澪「って、ムギまで笑うなよ。怖いんだぞ、痴漢は」

紬「あ、ごめんなさい。澪ちゃんは痴漢に遭ったことあるの?」

澪「ないけど……」

律「ははは。澪が痴漢に遭ったらもう一生電車に乗らなくなっちゃいそうだな」

澪「ムギは?」

紬「私は高校も電車通学だったから、何回か……」

澪「や……やっぱり怖いのか?」

確かに怖い。
驚きと恐怖と気持ち悪さで、声が出なくなる。
抵抗出来なくなるし、助けを呼ぶ事もできない。
周りに人はいっぱいいるのに、孤立無援になる。
濡れた服のように重くまとわりつく絶望感。
騒ぎを起こすのも嫌だし、我慢しておけばそれで済むと自分に言い聞かせて、更
に惨めになる。

私はそれを澪ちゃんに、なるべく怖がらせないように伝えようと言葉を探した。
でも、隣に立っていたサラリーマンが私達の話を聞いていたのか、片手で掴まっ
ていた吊革に両手をかけるのを見て、私はばつが悪くなって話題を変えた。

紬「そう言えば明日、何の日か知ってる?」

律「明日?」

紬「うん、明日」

澪「なんかあったっけ?」

律「レポートの提出日は再来週だよな」

澪「それは来週の月曜だぞ」

律「え!私まだなんも手をつけてないんたけど!……あのー秋山さん、折り入ってお願いが」

澪「自業自得。諦めなさい」

律「えー?なんでだよー!ちょっとくらいいいだろ」

紬「りっちゃん、私が写させてあげるから……」

律「おおお……!ありがとうございます琴吹サマー!」

澪「ムギがそうやって甘やかすから……。で、なんだっけ?明日何かあるのか?」

紬「あ、うん。もういいの。大丈夫」

知らないならいいの。
知っても楽しくないから。
誰も楽しくならないから。
私にはその実感なんてなかったけど。

私は車窓を過ぎる風景に目をやった。
山の稜線はぼやけていて、外は薄暗い。
遠くの空に浮かんでいた雲は、いつの間にかひとつだけになっていた。
さっきは優しかったのに、随分寂しい風景。
陽が完全に落ちていれば諦めもつくけど、夕闇は中途半端な希望を残していて、無責任に思えた。
こんな中に独りで放り出されたらどんなに不安だろう。

そうだ、今度はそうしてあげよう。
梓ちゃんはどんな顔をするかな。
梓ちゃんは何て言うかな。
もっと私の事を嫌いになっちゃうのかな。

澪「それにしても、私達飲んでばっかりだな」

律「澪、今日は吐くなよー?」

澪「吐きません。私がいつも吐いてるみたいに言うな!」

唯ちゃんの家まで二駅。
会話を続けるりっちゃんと澪ちゃんの隣で、私の心は高校生みたいに弾んだ。

私は左耳に開けたピアスを指先で弄った。

そう言えば、高校のクラスメイトにピアスの似合いそうな子がいたっけ。



【平成22年 11月23日】

姫子「あっ、ごめん!大丈夫?」

教室を出ようとした時、私は姫子ちゃんとぶつかった。

紬「うん、大丈夫だよ。姫子ちゃんこそケガしてない?」

姫子「私は大丈夫だけど、それ」

姫子ちゃんが床に落ちた箱を指差した。

姫子「それ、お菓子が入ってるんでしょ?中身大丈夫?」

私は箱を拾って答えた。

紬「大丈夫よ。気にしないで」

姫子「いや、でも……弁償しようか?」

紬「そんな、悪いよ。これ貰い物が余ってるだけだから。本当に気にしなくていいの」

姫子ちゃんは申し訳なさそうな顔をしながら、

姫子「ごめん。唯、それ楽しみにしてたんだろうなぁ……」

と言った。

紬「今日は唯ちゃんも、それから澪ちゃんとりっちゃんもお家で勉強するって言ってたから平気だよ」

姫子「そう?じゃあ大丈夫かな……」

紬「うん、じゃあね姫子ちゃん。また明日」

姫子ちゃんと別れると、私は音楽準備室に向かった。

階段を上ってドアを開けると、ソファーに座って一人でギターを弾く梓ちゃんの姿が見えた。

梓「あ、ムギ先輩こんにちは」

梓ちゃんは練習を中断して私に顔を向けた。

紬「続けていいよ」

梓ちゃんは、はい、と返事をしてから、ギターを弾き始めた。

私は椅子に座ると、鞄から参考書を取り出した。
ルーズリーフを何枚か取り、早速英語から解き始める。

梓「あの、やっぱり勉強の邪魔になりませんか?」

演奏を中断して、梓ちゃんがこっちに顔を向けた。

紬「大丈夫よ。私のBGMだから、梓ちゃんのギター」

梓ちゃんはちょっと照れ臭そうに笑って、またギターを弾き始めた。

軽快に響く乾いた音。

アンプに繋いでもいいのにと思いながら、私は問題を解き続けた。



部活を引退した後も、私達三年生は部室に通い続けた。
元々ダラダラするのはみんな好きだったし、部室の居心地の良さは手放せなかった。
梓ちゃんをひとりぼっちにしたくないという気持ちもあった。
帰っても勉強するだけだし、それなら部室でみんな一緒にやったほうがいい。

とは言え、やっぱり本腰を入れて勉強するなら一人のほうが捗った。
一緒にいるとどうしても喋っちゃうし、楽器もいじりたくなる。
みんなそれに気付いていたけど、口には出さなかった。
その代わり、本当に勉強しなきゃいけない時は、誰からともなく「今日は帰る」という意思表示を暗にした。

そして、そのたび私は一人になる。
澪ちゃんはりっちゃんと、唯ちゃんは和ちゃんと、それぞれで勉強をする。
そんな時に私は音楽室に行って梓ちゃんに甘えた。

紬「ふぅ……」

私は長文を二つ解いたところで、ペンを置いた。

ふと、BGMが止まっている事に気づいた。

梓ちゃんのほうを向くと、私と梓ちゃんの目が合った。
目を泳がせる梓ちゃんを見て、私は言った。

紬「お茶にしよっか」

梓「……はい」

梓ちゃんは恥ずかしそうにソファーの影に身を屈めて口元を隠しながら答えた。

紬「何にする?」

梓「えっと、ミルクティーで」

私はすぐにお茶を淹れて、席に着いた。

梓「いただきます」

紬「どうぞ」

梓ちゃんはゆっくりとカップに口をつけた。
火傷しないようにそっと啜り、唇を離す。

梓「おいしいです」

紬「ありがとう」

綻んだ梓ちゃんの顔を見て、私は嬉しくなった。
お茶を飲まなくても身体が暖かくなった気がした。

梓「そうだ。ムギ先輩に聞きたい事があるんですけど」

梓ちゃんはカップを置いて訊ねてきた。

紬「なあに?」

梓「いつもどうやって作曲してるんですか?」

紬「え?」

梓「私、ギターは弾けますけど、ムギ先輩みたいに曲は書けないんです。でも来年は私も書かないと……」

紬「あ……」

梓「だからムギ先輩のやり方を参考にできたらと思って」

私は少し考えてから答えた。

紬「うーん……あんまり難しい事はしてないかな。なんとなく頭に浮かんだフレーズを少しずつ広げていって……あ、みんなが演奏してるところを想像したり。そんな感じだよ」

梓「どういう時にそのフレーズは浮かぶんですか?」

紬「今みたいな時とか」

梓「え?今?」

紬「楽しかったり、ほっとしたり、嬉しかったりした時」

梓ちゃんは感心したように私の顔を見て言った。

梓「へぇー。だからムギ先輩の曲は楽しい感じのが多いんですね」

梓ちゃんがあまりにも真っ直ぐな眼で私を見て称賛するものだから、私は照れ臭くなった。

梓「じゃあ、今も何か浮かんでるんですか?」

紬「えっ?そうね……今だったら……」

私は椅子から立ち上がると、キーボードの前に立った。

紬「こんな感じかな」

そう言って私は鍵盤に指を滑らせて、思い付くままのフレーズを奏でた。

私がキーボードを弾いている間、梓ちゃんは目を閉じてその音に耳を済ませてくれた。

紬「……はい。こんな感じ!」

梓ちゃんは拍手をしながら言った。

梓「綺麗な曲ですね」

紬「ご清聴ありがとうございました」

私は小さく笑いながら言った。

梓「私にはそんな風にはできないなぁ……」

紬「今のは即興だから曲と言えるかどうかわからないけど……。梓ちゃんはジャズの経験もあるみたいだし、即興ならお手のものなんじゃない?」

梓「ええ……?私が即興なんてやったらきっとメチャクチャですよ」

紬「そうかなぁ。そんな事ないと思うよ?」

梓「ちょっと自信ないです……。それで……えっと、もしご迷惑じゃなかったら……」

梓ちゃんの言わんとしている事はすぐにわかった。
もちろん私は笑顔で快諾する。

紬「うん。いいよ。私で良かったら作曲のやり方教えてあげるね。私も梓ちゃんにはたまにギター教えてもらってるし」

梓ちゃんは目を輝かせた。

梓「ありがとうございます!えへへ……」

紬「じゃあお茶の続きしよっか」

梓「そうですね。それも作曲の大事な過程ですし」

梓ちゃんはそう言って笑顔を見せた。

紬「そう言えばまだケーキ食べてなかったね。今用意するから」

梓「はい、ありがとうございます」

ケーキの入った箱を開けて、私ははっとした。

梓「どうしたんですか?」

さっき落とした時だ。
あの時、箱の中身はぐちゃぐちゃになっちゃったんだ。

紬「え、えっと……ごめんなさい!」

梓「えっ?」

私はおそるおそる白状した。

紬「さっき落としちゃったの……。だからケーキも全部崩れちゃって……」

それを聞いて、一瞬、ほんの一瞬だけ、梓ちゃんの表情が曇った。
視線を落とし、下唇を丸め、それから愛想笑い。
失望や落胆と言える程大袈裟ではなかったけど、確実に梓ちゃんの顔は暗い感情
を表した。

それが私に刺さった。
浅い傷口に、その痛みは何かのトゲのように埋まり、抜けなくなった。

梓「だ、大丈夫ですよ。気にしないで下さい」

気にするよ。
梓ちゃんガッカリしてたもん。

紬「ごめんなさい……」

梓「そんな顔しないでください。私はケーキがなくても平気ですから……」

紬「梓ちゃん……」

梓「それより、えーと……ほら、ムギ先輩は受験生なんですから勉強を……」

梓ちゃんはそう言って話題を逸らしたけど、私には逆効果だった。

促されるまま私はペンを握った。
けど、英文は全く頭に入ってこない。

そんな私を見兼ねたのか、

梓「あの……今日はもう帰りましょうか?」

と梓ちゃんは言った。
私が返事をしないままでいると、梓ちゃんはさっさとアンプの電源を切って、ギターを仕舞い、バッグを肩に掛けた。

梓「ほら、いきましょうムギ先輩」

私は小さく頷くと、参考書をバッグに入れた。
それから梓ちゃんと一緒にティーセットを片付けて、私達は音楽室を出た。


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