その銃声は外に響き渡り、油断しきっていた指揮車の幹部たちは口にしていたペットボトル緑茶を軒並み吹き出すか気管に流し込んだ。
『2階東側にて制圧3にアタックあり!全班急行せよ!』
隊内通信系は大混乱に陥り、怒号が飛び交う。
西側階段前ホールに展開していた制圧第二班と第一班は中央階段と西側階段に分かれて救援に走る。
校内の美しく磨きあげられた廊下には出動靴の足音が響き渡り、白い足跡が増えていく。
硝煙の匂いが立ち込める中、中央階段下に到着した制圧第一班の班長は発砲を最低限などという悠長なことをしていれば確実に殺られると確信し、
セレクターを三点に切り替える。
踊り場まで前進し、一旦タイミングを伺おうと壁に張り付いて覗き込もうとした隊員は我が目を疑った。
廊下に倒れこむ制圧第三班。
『制圧3がやられてます!』
押し殺すように隊員がリップマイクに吹き込む。隊員はベストからフラッシュバンを取り出していた。
「何が何だかわからない」に陥れて混乱させ怯ませるという状況を利用するのはヤッテヤルデスだけではなかった。
ヤッテヤルデスがその外見と戦法で相手をそう翻弄するならば、警察は「フラッシュバン」などと呼称される閃光弾にその役割を求めた。
ヤッテヤルデスが振り返ったときには、ピンを抜かれたフラッシュバンが廊下の床に転がっていた。
間もなくその雷管が破裂してオレンジの凄まじい閃光と爆発音を立てて炸裂する。
視界が晴れた瞬間、そこに転がり込んだ4人は一斉にフルバーストモードに切り替えたMP5Jを構えた。
廊下の真ん中で驚愕したように立ち尽くしているであろうヤッテヤルデスを掃射すべく一斉に9ミリ弾を叩き込んだ。
連射音が響いてしっくい塗りの壁は砕け散り、磨きあげられた木の床は穴だらけになっていく。
弧を描いて空薬莢は宙を舞い、白い硝煙が立ち込める。
しかし硝煙が晴れてくると、弾痕だらけになった廊下の中心にはヤッテヤルデスが立っていた。
何発かは確実に命中しているはずの敵は健在であり、その事態に驚きは隠せず、隊員達に恐怖が湧き上がる。
「!?」
思わず後ずさる隊員達。
そこへ9ミリ弾を浴びせかけられたとは思えぬような軽快なステップでヤルデスは襲いかかり、
白い壁や窓ガラスに鮮血が飛び散っていった。
『制圧1が襲撃された!各班2階へ向かえ!』
無線機ががなり立てる中、控えとして待機していた制圧第四班が校舎内に突入し、
西側階段下の踊り場で支援態勢を整えていた第一班隊員達は大慌てで2階に駆け上がっていく。
しかしヤッテヤルデスはそれを西側階段の頭上の手すりで既に待ち受け、隊員達を真上から殲滅しはじめた。
― あずさとつむぎ!
息を潜め、じっと警察を待ち詫びる二人を驚かせたのはガラスの音だった。
日本警察が得意とするサイレントエントリーは梓と紬にその開始を悟らせなかった。
しかし、ヤッテヤルデスの襲撃でそれはあっさりと崩れた。
襲撃された隊員の怒号、そして紬達の鼓膜を揺さぶるように銃声が響き渡った。
すぐ近くでの銃声にさすがの二人も頭を抱えて床に伏せる。
やがて銃声が止み、ボソボソとした声が聞こえ始める。
「…た、助かるのかしら?」
「そ、そうみたいですね」
紬と梓が立ち上がり、廊下の方を伺おうと恐る恐るドアの方に向かった瞬間だった。
悲鳴と共に今度は激しい銃声が響き渡り、梓と紬は驚きのあまり今度は床に転げた。
― じゅうきたいさくぶたい!
精神的な混乱は緊迫した現場で大きな影響を与える。
銃器対策部隊は制圧班を二班一気に喪った上に真上からの襲撃を受け、三個班を失いかけていた。
だが、制圧第二班が不意打ちの動揺で階段の踊り場までにも至れずに屠られ尽くされたところに、後衛の制圧第四班が班長の号令以下果敢に突っ込んで乱戦が始まった。
隊員達は校舎が壊れようと構うまいとM3913を乱射し、フラッシュバンを立て続けに炸裂させて閃光と轟音がホールに響き渡る。
続いて前回突入して壊滅した救出部隊の生き残りだった機動捜査隊員5人が復讐を果すべくP230と中盾片手になだれ込み、いよいよ正面衝突となった。
ヤッテヤルデスは左右から躊躇うことなくなだれ込み集結した警察官達の一斉射撃を受けて一気に階段まで押し込まれる。
しっくい壁は32.ACP弾や9ミリパラベラム弾を受けて粉々に砕け、床や手すり、ロッカーには弾痕ができ、ポスターはちぎれ飛んだ。
さすがに押されて後ずさっていくヤッテヤルデスは何発もの弾を顔面に一気に受けて、
その俊敏な動きを作り出す髪腕と髪足は何箇所も切り裂かれてヤッテヤルデスの膂力を蝕んだ。
警察官達は弾切れになるか、撤退を決め込んだヤッテヤルデスが階段をよじ登って視界から消えることになるまで誰かが撃ち続けた。
『制圧4からゲンポン!生物は二階へ逃走!』
制圧第四班の班長はリップマイクで報告しながら何人かの隊員がそのまま後を追いかけようとするのを制した。
今追撃すれば再びこちらは劣勢に転じる、そう踏んだのである。だが、班長は一階を完全に制圧したという感触を得ていた。
― むぎあず!
凄まじい銃撃音とガラスの音に怒号、しまいには爆発音。
あまりの騒ぎに紬と梓は床に張り付いたまま全く身動きが取れなかった。
だが、そんな二人の下に静寂は戻ってきた。
さらに再び投光器が一斉点灯し、廊下は白く照らし出された。
「あ…梓ちゃん…大丈夫?」
「は、はい…」
それをきっかけに恐る恐る顔を上げるて辺りを見回すが、教室の中には特に異変がなかった。
今度こそと中腰姿勢でドアを慎重に開ける。
見回した廊下は薄く硝煙の煙が残り、それは廊下にぼんやりとした白いフィルターを掛けて見せた。
「唯ちゃん…憂ちゃん…さよなら」
紬は名残惜しそうに振り返ると、そのままドアを閉めた。
窓の外からは慌ただしい怒号が聞こえてくる。
しかし廊下にいる二人にはそれがどこか遠くの音に聞こえた。
そして床には澪や律の亡骸もそのままに、更に人が倒れている。
そこに二人はゆっくりと近づいていく。
その時、二人はヤッテヤルデスへの恐怖心が薄れつつあるのを感じていた。
感覚が麻痺してきたのかと紬は一瞬考えたがすぐにやめた。
そこにはうつ伏せに警察官が倒れていた。
ヘルメットをかぶった物々しい姿に一瞬兵隊かと思ったものの、背中にあるPOLICEと書かれたワッペンで警察官と解った。
紬にはどういう理由でこの警察官が倒れているのかは簡単にわかった。そしてこの警察官はもう生きていないことも。
そばに転がった拳銃。警察官のものだろう。
ムギはそれを躊躇なく拾い上げた。
手のひらにはずっしりとした重みを感じ、うっすら機械油のような匂いが鼻をくすぐった気がした。
「…ムギ先輩?」
「梓ちゃん…。頼みがあるの」
ムギが梓に背を向けたまま言った。
「なんですか?」
「ここで別れましょう」
そこでようやくムギは梓は振り返った。
「い、嫌です!もう…もう…誰も…」
梓は予想外のムギの発言に動揺し、途中からその声はかすれた。
「お願いします…置いてかないで…」
梓が涙を浮かべる中、立ち上がった紬は梓の肩に手を置くと、その目を見据える。
「梓ちゃん。私は必ず戻ってくる」
「ムギ先輩―」
梓が口を開きかけたとき、ムギと梓の目の前に再びヤッテヤルデスは現れた。
「梓ちゃん!」
紬は叫ぶやいなや、その銃口をヤッテヤルデスに向けていた。
それは全くもってヤッテヤルデスも想像だにしていない事態だった。
ヤッテヤルデスが最も今不得手とする武器を標的が手にしていたのである。
それは今まさにあの忌々しい武器でダメージを受けたヤッテヤルデスに躊躇いを覚えさせ、梓が逃げる隙を与えた。
梓はそのまま転がるように中央階段を駆け下りていった。
「あなたの相手は私!」
紬が今まで銃と無縁であったかといえば嘘であり、父親が射撃場で的を撃ち抜く姿を小学生の時に確かに目にしていた。
その時のおぼろげな記憶だけを頼りに見慣れた部室への階段を駆け上がった。
紬は部室に飛び込むやいなやドアの真横に張り付き、ヤッテヤルデスが飛び込んでくるのを待ち受ける。
目の前に広がる思い出のいっぱいつまった部室はもう見る影もなく荒らされぐちゃぐちゃになっていた。
砕け散った水槽のガラスは紬の下で踏み砕かれてジャリジャリと鳴る。
次の瞬間、ヤッテヤルデスが転がり込んでくる。そのまま器用に回転しつつムギの方に向きなおって立ち上がった。
安全装置の有無など全く考える余地もないまま、ムギは震える手で狙いをつける。
そんなムギを嘲笑うかのようにヤッテヤルデスは声を上げた。
「ウテナイヨ!」
ヤッテヤルデスが喋ったことで紬の集中力は一瞬で途切れそうになる。
しかしその驚きより紬の執念が優っていた。
「憂ちゃんの分」
小さく呟くとムギは引き金を引いた。
乾いた音が響き、硝煙の匂いが立ち込める。
「ギギ!」
紬は問題なく弾が出て命中したことにまず驚いた。
かたや完全に油断していたヤッテヤルデスも思わぬ反撃に目を剥いていた。
フラフラと髪腕を使ってトンちゃんの水槽が載っていた台によじ登る。
「澪ちゃんの分」
紬は再び引き金を引くが、今度は外れて後ろにあった窓ガラスを粉々にした。
ヤッテヤルデスは自分に迫る危険を感じ、机から割れた窓枠に飛び退く。
「…許さない」
再び引き金を引いて乾いた音が響き、漆喰の壁に穴を開ける。
足元では空薬莢が小さく金属の音を立てて落ちていた。
「りっちゃんを返せ」
その気迫はヤッテヤルデスにとっても鬼気迫るものであり、思わず気圧されてジリジリと後ずさった。
見たことはあっても銃の撃ち方を習ったわけではない。
だが、単純かつ徹底的に機能性を追求したものは恐ろしいことに一度見ただけのムギにも容易に取り扱うことが出来るシンプルさを持ち合わせていた。
「唯ちゃんを返して!」
狙いを定めた紬の声に続いて再びパンという乾いた音が響く。今度はヤッテヤルデスの白い額に黒い穴を空けた。
その一発はヤッテヤルデスの何かを壊してその視界を一気に狭め、ヤッテヤルデスに大きな痛手を与えた。
そして脆弱で弱い標的に己が不死身でないことも悟らされた。
己の全てを揺らがされたヤッテヤルデスはまるで何が起きたかわからない、驚愕した表情でムギを見つめていた。
しかし、ようやく事態に気づいたのか、背を向けるとそのまま割れた窓から飛び出した。
「…あ…お、終わった…」
ムギは銃を落とすと、そのまま脱力したように床にへたり込んだ。
― いっかい!
梓が階段を駆け下りたとき一階中央階段では管区機動隊員達がヤッテヤルデスを封じ込めるべく、
ジュラルミン製大盾と移動式の防弾盾を並べて階段にバリケードを構築しようとしていた。
「助けてください!」
その甲高い声で機動隊員達は一斉に見上げる。
そこには階段の踊り場から今まさにこちらへ向かってくる少女。
警戒中の機動隊員達が防弾盾を片手に、まるでサインを求めるファンのごとく一斉にその少女目がけて集まった。
― こうしゃしょうめん!
梓を防弾盾で囲い込んだ機動隊員達が外に飛び出したとき、いきなり銃声が響き渡った。
機動隊員達は大慌てで梓の上にも防弾盾を掲げてストップする。
「なんだ!?」
機動隊員や警察官達が右往左往する中、梓は防弾盾で見えない校舎の方を振り返った。
「…ムギ先輩」
立て続けに響いた銃声が止む。
警察官たちはハッとしたように揃って校舎を見上げた。
視線が集まる中、校舎の窓ガラスを破って破片と共に何かが飛び出して地面に転がり、
並んだ探索灯とキセノンランプは一斉にそれを照らし出した。
ヤッテヤルデスだった。
「至急至急!防護7からゲンポン!外!出現!出現!」
その横でマイクをひっ掴み絶叫する警察官。
『撃て!止めろ!』
ラウドスピーカーの怒号で制服警察官がホルスターから一斉にけん銃を抜いて前進し、梓を追って向かってくるヤッテヤルデスに引き金を引いた。
続いて後列の警察官はパトカーを盾代わりに一斉に発砲し立て続けに銃声が響き渡り、白々とした硝煙が立ち込め始める。
続いてヘルメットを被った制服警察官達が両脇から挟みこむ形で防弾盾片手に一斉射撃を始める。
ヤッテヤルデスはその警官隊に跳びかかり、警察官のひとりがヤッテヤルデスの前に倒れた。
しかし倒れた警察官は特段負傷したわけでもなく再び立ち上がり、逆に進んでいくヤッテヤルデスの後頭部に至近距離で発砲した。
もうヤッテヤルデスからは既に最初の敏捷さはもう感じられなくなっていた。
だが、黙々と歩むことを止めず、クセノン投光器の白い光りに照らされた凄惨な容姿からは更に鬼気迫るものが立ち込めていた。
幹部満載の多重通信指揮車は大慌てで校舎から離れ、入れ替わりに滑り込んだ防弾警備車の三つの銃眼からは
停車するやいなやMP5A5の銃口が突き出されて火を噴いた。
スムージングされた常駐警備車は後退を始めて校舎外への脱出阻止線を構築し始める。
ヤッテヤルデスは校舎内での戦いで既に30発近くの弾を受けたこともあり、既に己に限界を感じていた。
梓はもう近くだとは感じていたが、人間の抵抗は激しさを増していく。ヤッテヤルデスはもはや梓まで辿りつくことは叶わぬと察した。
そこに機動隊員が立ち塞がって、ヤッテヤルデスに向け一斉にガス筒発射器という名のグレネードランチャーを真正面から水平射撃した。
弾頭はガス弾とはいえ、過去に重大傷害を与えるとして直接照準を禁じられたその装備はヤッテヤルデスに直撃し、炸裂したガス弾が確実にダメージを与えた。
その光景を梓は機動隊員たちの構える防弾盾の隙間から目にした。
ヤッテヤルデスはガス弾の直撃を受け、仰向けに倒れこんだ。
投光器は全てそこへ向けられ、真っ白い光の中警察官達は盾を先頭に、ヤッテヤルデスを囲み始める。
それをきっかけに屈強な管区機動隊員達が梓を大事に取り囲む壁も崩れた。
その瞬間を見逃さなかった梓はそこを縫ってヤッテヤルデスに向かって走った。
足がもつれ、敷かれたタイルには何度も躓きそうになりつつも走っていく。
「おい!」
「駄目だ!行くな!」
警察官の絶叫が響き、一斉に機動隊員たちは自殺を始めんばかりの梓を抑えようと動き出す。
仰向けに転がったヤッテヤルデスは梓の接近にフラフラと立ち上がる。
一斉に警察官達が銃口をヤッテヤルデスに向けた音の後、月明かりに照らされた静寂が広がった。
目の前に立ちはだかった梓。それはヤッテヤルデスにとって狩りの対象であった。
目の前で立ち上がったヤッテヤルデス。それは梓にとって憎むべき敵であった。
ヤッテヤルデスは光のない眼で梓を見つめていたが、やがてその血で染まる黒く小さな手を梓に向けて伸ばした。
梓はその光景を他人事のように見ながら考えていた。
この生き物は何故現れたのだろう。私の大事な人達を奪っていった。
すごく憎い…憎くて仕方ない。
なぜ…。なぜ私たちを…?
どうして?
その問いは喉元まで出かけた。
だが、それより先に梓はヤッテヤルデスの指先に触れていた。
県警機動隊第一中隊特殊銃班の狙撃手は向かいに建つ民家のベランダからヤッテヤルデスを特殊銃Ⅰ型の高性能スコープに捉える。
狙撃手にとって梓は身を挺して敵を誘き出した勇敢な女子高生であった。
最初で最後かも知れぬこの制圧のチャンスを逃すまいと狙撃手はリップマイクに叫ぶ。
『捉えました!』
「やれ!」
多重通信車の中で県警警備部長が顔を紅潮させてマイクに怒鳴った。
隊員は特殊銃Ⅰ型とは名ばかりなボルトアクション式ライフル、豊和ゴールデンベアの引き金を引いた。
「アズサ。ヤッテヤルデスハ―」
梓の目の前でヤッテヤルデスの頭部は半分程吹き飛び、梓にその破片と飛沫が吹きかかった。
― いっかげつご…!
久々の高気圧が日本列島を覆い、青空に蓋をするように蔓延っていた鉛色の雲が消えた日、
県庁所在都市の中心部を走る幹線である県庁通りに建つ煉瓦色の市民会館、
その周囲の道路には朝から物々しい機動隊の姿があちこちに目についた。
黒い喪服姿や見慣れた制服姿でごった返す市民会館の入口には
「桜が丘女子高等学校爆破事件犠牲者合同追悼式」という長ったらしい看板が掲げられていた。
その市民会館が有する1500席の大ホールの客席の中では合同追悼式が執り行なわれ、
満席となった参列席の中には梓、紬、和の三人の姿もあった。
57名の遺影はステージいっぱいに組み上げられた祭壇に白菊とともに並べられ、観客席を見つめている。
「犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します―」
それを背に、時の内閣総理大臣は2分25秒、文字換算にして780字の式辞を述べた。
果たしてこの57人をあの忌まわしき生物と勇敢に戦い散っていった人々だとこの中の何人が知っているのだろうか。
その真実はテロリズムの犠牲者というベールに覆われ、時間という埃に覆い隠され、やがてその存在すら忘れられて行くに違いない。
1時間20分の追悼式が終わると、多くの参列者の流れと共に帰り道につく。
その人垣の向こうではマスコミの放列をSPが蹴散らし、白バイが甲高いサイレンを響かせて黒塗りの車列が発進していた。
警笛が遠ざかる中、三人は無言で顔を見合わせた。
律、澪、唯、憂、さわ子はもういない。
あの日が残していったものは「無力」という目の反らしようもない事実だけであった。
結果的に紬と梓は大いに忌々しい生物の制圧に貢献していた。
だが、それが逆に自分たちの見通しが大いに甘く、そして純粋無垢で愚かな女子高生であることを思い知らせた。
彼女たちは自分から死という恐ろしい敵に無意味に立ち向かい、そして返り討ちにあったのである。
すっかり葉の落ちた並木を三人は歩いていく。ほっと吐いた息は白く、頬をひんやりと刺す寒さは冬をはっきりと感じさせた。
「寒いですね」
頬を赤くした梓が無言を破った
「うん…」
「寒いわね」
それに応じて和と紬も口を開く。
「ご飯食べに行かない?」
和が思いついたように言い出した時、梓達の前に流動警戒中の警察官が現れる。
警察官達は和達を気に止める様子もなく、そのまま生垣を確認しながらすれ違っていく。
しかしその姿は三人にあの忌ま忌ましい記憶の影を呼び覚まそうとした。
「あ、いいですね!私、この前テレビでやってたイタリアンのお店に行きたいんですが―」
喋りながら斜めを振り返った梓はそのまま道路を挟んで向かい側、雑居ビルの間に消えていく何かを見て釘付けになった。
「どうしたの?」
「…梓ちゃん?」
突然固まった梓に和と紬も怪訝そうにその視線の先を振り返った。
視線の先には薄暗い路地を蠢く影があった。
雑居ビルの間の細い路地、その片隅にあるゴミバケツとハイゼットの横には黒い塊がいた。
それはあの忌まわしき日の記憶を梓にフラッシュバックさせた。
梓は生垣を飛び越えて、車の途切れた道路を渡りだす。
それに気づいた塊は慌てて駆け出し、紬と和も信号と共に現れた短い車群をやり過ごしてから慌てて走った。
「猫…」
路地に飛び込んだ梓は拍子抜けして立ち尽くした。
太った黒猫はその鈍重そうな見かけに相反して俊敏に花壇へ飛び上がり、枯れ枝が目立つ植え込みの中に消えていった。
「よかった…猫ね…」
「あんな太ってても俊敏なものなんだ…」
響いた足音とともに背後からは和と紬の声がした。
遅い昼食を終えた三人は駅に向かって歩いていた。
幹線道路と幹線道路が交わる交差点。
三人が人の流れと共に横断歩道へまで差し掛かったとき、歩行者信号が点滅を始める。
「あっ、信号変わっちゃいますよ」
紬を引っ張るようにして駆け込むが、和はそれをためらって立ち止まる。
点滅を終えた歩行者信号は赤に変わって和だけをそこに遮った。
「あー!和センパイ!」
「和ちゃんエラいわぁ。渡らなかったのね」
向こう岸では紬と梓が残念そうに振り向いていた。
そんな二人に和が視線の焦点を合わせようとしたその時、横断歩道の向こう岸で
こちらを見つめる顔の中に和は頭1つ抜きん出てこちらを見る自分の顔を見た気がした。
「…え?」
小さくつぶやきが漏れたときには無意識の瞬きが視界をリセットし、次に戻った時にはスタートした車が一斉に流れこんでいた。
やがて、歩行者信号が青になると和の周りの人々が一斉に横断歩道へ流れ込み始める。
和がその中をいくら見回しても、そこにはもう土曜日の午後の街の姿しか残されてはいなかった。
「和ちゃん!」
雑踏の中から梓の呼ぶ声が聞こえてくる。
まさかね…。
そう思いながら和は梓達に追い付くべく、まばらになり始めた雑踏を駆け出した。
澪「恐怖、ヤッテヤルデス」 ― おわり!
543:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/18(土) 22:09:37.03 ID:2S5Kj6jC0
結局ヤッテヤルデスってなんだったの?
伏線らしきもの散りばめられてるから
※解答なし
544:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/18(土) 22:10:43.18 ID:f54SoLwH0
和先輩じゃなくて和ちゃんと呼ぶという事はつまり・・・ごくり
545:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/09/18(土) 22:13:07.45 ID:IdI6YxMp0
>>544
やめろ、そこには触れるな…
消されるぞ…>>1に
最終更新:2011年05月01日 01:01