― しょくいんしつ!


和が2階から飛び降りた同じ頃、桜高の職員室では動く者は誰もいなくなった。

自分の机で女性教諭は110番した受話器を握ったまま事切れ、床には竹刀を片手の男性教諭と緑のリボンの1年生が転がっていた。

いずれもその視線の先は不安定にあさっての方向を向いている。

そしてその中心には顔に血糊をつけたヤッテヤルデスが立っていた。


三人を一瞥すると教頭のデスクによじ登り、散乱した書類やファイルを踏みながら、完全に手中へと収めた職員室を改めて見回した。

そして勝どきのように鳴き始めた。

その声は力強く、そして美しかった。人気のなくなった廊下にもそのソプラノが響き渡っていった。


ヤッテヤルデスはあとに控える標的はムギ、澪、梓の三人だと把握し、既に己の勝利を確信し始めるところに差し掛かっていた。

教員や生徒達を屠った結果、人間は思うほど強くはなく、脆弱で愚かな存在であるということを感じ始めていた。

ひとしきり声を出して気が済んだヤッテヤルデスは今度は三人をどうやって殺害するかを考え始めた。

そして1つのプランを思いつくと軽やかに廊下へと消えていった。


― いっかいのろうか!


紬は1年2組の掃除用具入れの中にいた。歌声ははっきりと紬の耳にも届いてそれは恐怖を倍増させる。

あのヤッテヤルデスに怯え暗く埃臭い掃除用具入れにずっと立てこもった所で、自分にも他のみんなにもなんの利益もないというのは

紬も重々承知ではあった。しかしそれ以上に困るのは出たはいいが自分が餌食になってしまうことである。

しかし最初は勇敢にヤッテヤルデスと対峙していた紬自身もじわじわと迫って来る死への恐怖をはっきりと感じ始めていた。

もし私が死んでしまったら誰を助けられなくなってしまう、改めて自己弁護のように紬は自分に言い聞かせた。

そんな所で歌声が止んだ。恐る恐る掃除用具入れのドアに耳を当てるが、特段何の音も気配も感じられない。

慎重に掃除用具入れのドアの取っ手を回すと、片手で押さえながら細く開ける。

ガラス窓には反射して廊下側の窓が映り込んでいるが、そこには誰もいない廊下が映っている。

しかし、次の瞬間紬が耳にしたのは明らかにドアが開閉する音であった。

その躊躇いのないドアの音は明らかに追い込まれた者達のものとは考えられず紬は再び掃除用具入れを閉ざして脱出するタイミングを伺い直すことにした。

律の死に最初は気丈に振舞おうとした澪だったが、

自分の判断によって律が死んだという事実はじわじわと梓の気づかぬ所で澪の精神を蝕みつつあった。


― にかい!


紬が一階で掃除用具入れから脱出できなくなっていた頃、澪と梓は、階段で別れて未だ二階にいると思われる唯達との合流を目指して東側階段を登っていた。

梓が角に張り付いてに廊下の状況を確認すると、二人は角にぶら下がる消火器を取ってゆっくりと前進していく。

今や床板はギシギシと音を立てて軋み、どこからともなく冷たい風が吹き抜ける廊下は真昼にも関わらず二人の恐怖心を掻き立て、

見慣れた廊下はまるでお化け屋敷の迷路のごとく非常に不気味に感じられる。

しかし次の瞬間にはヤッテヤルデスがぶら下げていたものに二人共視線が釘付けとなる。

その髪腕の片側にはお土産と言わんばかりに髪の毛を掴まれた形の律をぶら下げていた。

「あ…り、律…」

逃げる態勢にすぐさま移った梓に対して澪はそのまま消火器を力なく落としてそこに立ち尽くす。

ぶら下がっている律の頭部を片手にヤッテヤルデスはこちらへ向かってゆっくりと近づいてくる。

「逃げましょう!」

しかし澪が梓の声を聞いている様子はまるでない。

「澪先輩!早く!」

梓は力いっぱい澪の手を引っ張るが、澪はそれを振り払った。

思わぬ行動に面食らいバランスを崩した梓はそのまま尻餅を付いた。

「いたい…」

梓が顔を上げると、澪がゆっくりとヤッテヤルデスに近づいていくところだった。

「澪先輩!行っちゃダメです!行かないで!澪先輩!」

梓の叫びも虚しく、澪はどんどん歩いていく。

そしてヤッテヤルデスはその無表情さを保ったまま、片手のそれをどういう訳か床に置くとそのままこちらに背を向けて廊下の奥へと走り去って行った。

澪は残された律の頭をそっと抱き上げると梓の方を向く。

「梓…ちょっと先に行っててくれ…」

振り返った澪の顔はまるで眠る赤子を見つめる母のように穏やかに微笑んでいた。

その微笑みで梓は澪の精神が崩壊したのだと悟った。

これで私達に完全に勝ち目は無くなった。いや、律先輩が殺された時点でもうだめだったのかも知れない。

梓は一瞬そんな事を考えたが、まだ他の先輩たちや憂の安否も何も分かっていないことを思い出す。

澪がそのまま廊下に座り込もうとするのをなんとか制して「隠れてて下さい」と言い残すと、梓は助けを求めるべくその場を後にした。


― にかい!


時を同じくしてようやく掃除用具入れから脱出した紬が恐る恐る中央階段を上がっていた。

見慣れた階段はまるでいつ猛獣が飛び出してきてもおかしくはない熱帯雨林に感じられ、

全神経を集中させて辺りを警戒しつつ一段一段を踏みしめる。

「律…起きてくれよ…」

そこへ階段をまだ全部上がりきらぬうちに響いた声。

あまりの驚きにムギは全身が総毛立って心臓が口から飛び出しそうになったように感じられた。

恐る恐る階段から廊下を覗き込むと澪が何かを抱えて廊下の隅に座っているのが目に入った。

しかしその様子はあまりにもおかしかった。

ムギは恐る恐る近づいていくとそれはボールのように見える。

「み、澪ちゃん…?」

「あ、ムギ…律が目を覚まさないんだ…」

澪はムギの声で顔を上げると、まるでぬいぐるみでも見せるかのようにムギに抱えるそれを見せた。

ムギはそれを見て思わず目を逸らした。

りっちゃんだ。りっちゃんの頭…。

目の前に大事な友人の変わり果てた姿を突きつけられたムギは一瞬そのまま意識が遠くなったが何とか踏ん張った。

「りっちゃんは…」

ムギは一瞬躊躇った。例え事実を告げた所で澪に変化はないだろう。

「律は?」

「まだ寝てるのだね…お寝坊さんなんだ…」

ムギはまるで幼稚園児にでも答えるような口調で答えを濁すと再び歩き出す。

「律?なぁ…あっ、涎なんか垂らしたらダメだぞ」

澪はブラウスの袖で律の唇を拭う。涎というそれは明らかに違うものであった。

その光景に耐えられなくなったムギは歩き出す。

背後から澪の声が聞こえてくる。その声は穏やかで、まるで赤ちゃんをあやす母親のようだった。

「―律、大好きだよ」

一歩一歩進む紬の目からはとめどもなく涙が溢れ始めていた。


― せいもんまえ!


パトカーの電子サイレンアンプから発音される4秒周期のサイレンはそれぞれの50Wスピーカーからごちゃごちゃと鳴り響いて

緊迫感と混乱に拍車をかけ、そこら中に緊急事態の発生を告げて回る。

わらわらとやってきたパトカーの1台は和の前で停車し、助手席から飛び出してきた警察官が傷だらけの和に駆け寄って助け起こした。

白黒パトカーはそのまま学校の前の通りに並ぶものと、そのままタイヤを鳴らしながら一路正門から昇降口前まで突っ込むものに別れる。

紺色の合服の下に対刃防護衣を着込んだ警察官達はパトカーのトランクから慌ただしく警杖やポリカーボネート盾や刺股を準備し、態勢を整え始める。

やがて何台かの救急車と共に、ルーフに着脱式の赤色灯を載せてサンバイザー取り付け型補助灯を煌々と点滅させた隊長車のティアナを先頭に

県警機動捜査隊の覆面パトカーが続々と現われて正門前の広場に進入してぞろぞろと並ぶ。

降車した機動捜査隊員達はめいめい覆面パトカーのトランクからそれぞれ耐刃防護板を取り出して黒いメッシュの多目的ベストの下に着込み始めた。

この時、警察には和以外の生徒や教員からも通報が入っていた。

通信指令室の警察官は錯綜する情報を総合した結果、刃物を持った者が学校へ侵入し、生徒や教員を切りつけていると判断してパトカーや警察官に指令を出していた。

しかし今や通報者は和を除き全員の安否がわからなくなっていた。

警察官達はまくし立てる無線で聞いたその凶悪な犯罪者への怒りを秘め、透明なポリカーボネート盾を構えた4人を先頭に昇降口へとなだれ込む。

下駄箱が並ぶ昇降口を駆け抜けると盾を構えた警察官は左右に別れる。続いて後列の刺股や警杖を装備した者が後衛を務める。

なだれ込んだ自動車警ら隊と所轄署の警察官達は左右をぎょろぎょろと見回しながらゆっくりと廊下を進みだす。

最初の検索地点は職員室とされ、両側のドアから一斉に警察官が職員室へ足を踏み入れた。


先頭を切った警察官は異様な匂いの立ち込める職員室にぎょっとして立ち止まる。

穏やかな日差しが差し込む職員室には表現しがたい「死臭」が立ち込めていた。

デスクに臥せった教員やぐちゃぐちゃになった室内は警察官にすら一抹の不安を覚えさせる。

警察官は盾を突き出したまま、左右を確認して前進する。

後衛の警察官が倒れたままの生徒と教員に駆け寄り、何名か分散しては室内をどんどん調べていく。

「誰もいません!」誰かの声は室内に響き渡った。


一方のヤッテヤルデスは紺色を纏った集団の闖入に驚きを隠せなかった。

闖入者は今まで相手にしてきた教員達とは比べものにならない人数かつ、同じような風体をしていた。

さらにヤッテヤルデスにとって未知の物を所持している。

生徒も制服姿という同じような風体を全員していたが大した反撃をしてくるわけでもなく脅威にはならなかった。

しかし今回は似たような風体を持つ集団にもかかわらず、漂ってくる気配にはただならぬものがあることがヤッテヤルデスにはっきりと感じられた。

今までの相手とはレベルが違う、そう判断したヤッテヤルデスは未知の敵に対して攻撃を行ってその反応を伺うことを決意した。

勝利のためにはリスクも必要であるということをうすうす理解し、威力偵察を考案するヤッテヤルデスは確実にその知性を高めていた。

威力偵察を決め込んだヤッテヤルデスが襲撃した時警官隊は生徒会室と相談室の検索の最中だった。

ヤッテヤルデスは集団の中で一番手前かつ、離れた場所に立っていた警察官を右上45度の角度から急襲した。

「うわっ!」

標的となった警察官の声が響きわたり、周りの警察官の視線は一斉に集まった。

まず上からのヤッテヤルデスの体当たりは思いのほか踏ん張った警察官に対して強い効力を発揮できずに終わった。

払われた活動帽が地面に落ちるなか、一度飛び退いて体制を立て直すと今度は飛びかかる。

怯ませてから再度飛びかかる、ケタ違いの素早さを持つヤッテヤルデスだからこそ出来る芸当。

この攻撃で大半の人間を制圧してきたヤッテヤルデスはある程度この戦法に自信があった。

「この野郎!」

しかしヤッテヤルデスは警察官の顔面に飛びつく前に強化アルミ製の伸縮警棒によって強力な一撃を受けて床に叩きつけられた。

「なんだこれ!」

「おい!こいつ血がついてるぞ!」

警察官の怒号が立て続けに響き渡った。ヤッテヤルデスは威力偵察を中断し、逃走態勢に入る。

人間に負けてしまうことを屈辱として考えていたヤッテヤルデスだったが、

今背後から迫ってくる警官隊相手では明らかにこちらが劣勢である事を感じさせた。

警棒で受けたダメージもあり、この不完全な状況で反撃は危険と判断して撤退を選ぶと窓枠や取っ掛かり伝いに天井を使って一気に二階へと逃走した。


― むぎ!


時は少しさかのぼって2階の廊下。

澪の崩壊は今まで頑張り続けていた紬にも大きな影響を与えていた。

思い切り突きつけられた友人の「死」は今まで張り詰めていた紬の精神状態を一気にギリギリまで追い詰める。

止まらない涙。そして止まらない震え。

廊下をふらふらと進むムギは無意識のうちに見慣れた自分の教室のドアを開けて中に踏み入った。

そこで目にしたのは唯と憂の姿だった。

「唯ちゃん!憂ちゃん!」

紬は思わず2人に駆け寄った。

2人は仲睦まじく抱き合っていた。

眠っているのだろうか、全く紬に気づく様子はない。

その光景は射し込むうららかな光に照らし出されて、美しい光景に感じられてくる。

「仲よしっていいわね・・・」

紬も二人の横に並んで座ろうと屈みこむ。

地面に紬のお尻がついた瞬間だった。冷たい感触、そして全身に走る悪寒。

「あら?」

思わず床に触れると指先には赤黒い液体が付着していた。

太陽が雲に隠れたのか急に差し込む日は弱まり室内は薄暗くなる。

紬は唯と憂の方をもう一度見た。

そこには仲睦まじく抱き合って眠っている2人ではなく、恐怖の果てに死という永遠の眠りについた2人がいた。

紬は思わず飛びのくように立ち上がる。

改めて見た2人の周りにはまるで絨毯のように赤黒い血溜りが広がっていた。

「いやああああああっ!唯ちゃん!憂ちゃん!」

紬の悲鳴が校内に響き渡った。


― あずさ!


紬が澪に出会った頃、完全に壊れた澪の姿に泣きそうになりながら梓は西側階段をゆっくりと下っていた。

西側の昇降口から一気に外へ脱出し、外部に異常を知らせた方がどこから襲いかかってくるかわからない

ヤッテヤルデスに怯えながら、電話機を捜すより遥かに安全かつ確実と踏んだのである。


梓は例えヤッテヤルデスが飛び掛ってこようとも避ける気概で臨んでいたが、

恐怖感は進むにつれて増大していった。

しかし1階に辿り付くと、渡り廊下の向こう、ちょうど出入り口辺りで何事かしている白い顔を捉えた。

ヤッテヤルデスだ!

梓は思わず階段脇にあったロッカーの中に駆け込んだ。

ヤッテヤルデスは気づかない、そんな感じの根拠のない自信が薄っすらとあった。

ロッカーの扉を鍵の部分を掴んで内側から閉める使い古しの黄色いモップが数本ぶら下がるロッカーの中は非常に狭く、臭かった。

未知の暗闇を引き金に湧き上がった恐怖心で心臓はバクバクバクと鳴り、息が詰まりそうになる。

息を潜めひたすら待ち続けると、ヤッテヤルデスの足音は2階に進んでいって聞こえなくなった。

そして代わりに聞こえてきたのはサイレンの音だった。


梓がロッカーに飛び込んだ行動はどちらかと言えば直感的ではあった。しかし今の梓にはヤッテヤルデスの思考が薄っすらながら予測できた気がしていた。

事実ヤッテヤルデスは階段を登って行き、脇にあったロッカーは見逃したのである。

しかし梓はため息をついてからそれよりも重大かつ恐ろしい事実に愕然とした。2階にはまだぶっ壊れた澪先輩がいるのである。


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