― たいなかけ!
「頭」はやはり存在していたのだ。
汗だくでリビングのソファーに倒れこんだ澪も律もそれで頭がいっぱいだった。
だがその存在を確認したところでどこに知らせればいいのか全く検討もつかない。
聡は予期しない来客でテスト勉強もそぞろに右往左往し、律の母親は何が何だかわからないという表情を
浮かべながら二人に麦茶とタオルを出して様子を見守っていた。
「なぁ…律…」
「ホントにいたな…」
「ああ…夢じゃなかった…」
20分後、汗だくになった二人はシャワーを浴びて律の部屋でようやく落ち着いた。
「と、取りあえず誰かに知らせよう」
「え、えーとこういう場合はアレだ…ムギだ」
律はそれがどういう根拠かも曖昧なまま、ムギに電話をした。
『あ、りっちゃん?』
電話に出た瞬間の紬は至って普段の紬だった。
しかし律がさっき降りかかった事態を伝えるうちに紬はそれを聞いて何か考えているのか
「うん」や「そうなの」という相槌ばかりを打ち、どんどん反応が上の空といった調子になっていった。
律の懸命な説明はほとんど空回りとなり、最後には『ちょっと思いついたことがあるの』と言って紬から電話を切ってしまった
「なんか切られた…」
律は携帯を片手に唖然とした表情で澪の方を向いた。
続いて律は唯に知らせようとしたものの、澪はそれを制し梓へ電話することとなった。
― しんや!
唯の動く気配を感じて憂は目を覚ました。
ベッドの方を振り返ると、唯は体を起こしていた。
「お姉ちゃん?」
憂が立ち上がって横に座ると、唯は憂を見つめた。
「なんか変な夢見ちゃった。誰かがずっと私の事バカにしてくるんだ」
寝ぼけているのだろう、ぼんやりした調子で話している。
「嫌な夢見ちゃったの?大丈夫。誰もお姉ちゃんをバカにしないし、私はお姉ちゃんの味方だよ」
憂は唯の髪を優しく撫でた。
甘いシャンプーの香りと、極めて上質な絹のような艶々としてしなやかな感触が憂の指先に感じられた。
やがて安心したかのように唯はまた布団にゆっくりと身を沈め目を閉じた。
憂は寝息を立て始めたのを見届け、ベッド脇に敷かれた布団へ潜り込んだ。
月明かりは窓から射し込み、そんな二人を優しく照らしていた。
―
暗い…。
気づくとまた私は真っ暗な世界にいた。
今日は声はしないようだ。
やがて目の前がスポットライトが当たったように丸く白色に切り取られた。
瞬きしてから改めて見ると今度は「頭」がそこにいた。
「ヤッテヤルデスハ、ヤッテヤルデス」
頭は能面のような口を動かしてそう言った。
コイツをどこで見かけたのだろう、私は頭を見ながら考えた。
そうだ、学校だ。
昨日純と唯先輩を襲ったバケモノだ。
思わず後ずさりする。足の裏には冷たいタイルのような感触があった。
「ヤッテヤルデスハ、アズサトイッショ」
え?コイツは今何を?
「ジャマヲスルノハユルサナイ」
「ヤッテヤルデスハアズサガイテヤッテヤルデス」
感情などおよそ込もっていないような声で頭は確かにそう言った。
イントネーションも全くない言葉の意味を咀嚼しながら改めて考える。
最初にどこでコイツを見かけたのか。
夢だ。
そう思ったところで世界はテレビを消したようにブチッと途切れて真っ暗になった。
夢から醒めたらしい。
重い瞼を開くとまたそこは見慣れたクロス張の天井だった。手探りで探し当てた目覚まし時計を確かめると
夜光塗料の緑色は午前3時を指している。私は目覚ましを放り出すと再び瞼を閉じた。
― あさ!
午前7時、緊急連絡網は今日の臨時休校を伝えた。
一方で桜高の職員室にはその時点で職員全員が集結し、ありとあらゆる対応に当たる態勢を整えた。
しかしこの臨時休校からして危機管理マニュアルによる台風接近時の項目にあるものをそのままなぞったに過ぎず、
もちろんそのマニュアルに異生物の襲撃という項目は用意されていなかった。
まして昨日の記憶は誰もが対処要綱の策定を嫌がることにつながり、遂に大人達の責任逃れの火蓋が切って落とされた。
その責任逃れは後の自由登校解禁に繋がっていった。
時を同じくして紬は臨時休校の報を聞くやいなや全員に連絡を取り始めていた。
― えきまえ!
朝の涼しい空気の中、忙しない乗降客が行き交う駅前広場に律と澪は立っていた。
「ムギ、何をするつもりなんだ?」
「さぁなぁ?」
二人がボソボソと話していると唯が憂とともに現れた。
「おはようございます」
「澪ちゃん、りっちゃんおはよう!」
首元にマフラーを巻いているのはあの痣をごまかす為なのだろう。
しかし甲斐甲斐しく尽くした憂のおかげか、唯の調子は一見完全に戻っていた。
それとも天然に見えてどこかに芯には強い部分があるのだろうか、澪と律はその光景に安心した。
「おはよう」
最後にムギが現れた。
「あれ?全員じゃないのか?」
「これからみんなで梓ちゃんの家にお邪魔させてもらうのよ~」
澪が尋ねると紬は笑顔で答えた。
― なかのけ!
「ねぇ、梓ちゃんってあれについて何か知っていることはないの?」
初っ端からムギの口調は厳しく、部屋の空気は一気に重くなった。
「確かにあれって梓の顔そっくりだよな」
律がそれに追従した。しかし律は直後にそれが失言だったと悔やんだ。
しかし今まで口には誰も出してはいなかったが、その見解だけは一致していた。
「頭」は梓そっくりなのだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい!私があれとなんか関係あるって言いたいんですか!?」
朝っぱらから家に揃って押しかけられた上にいきなり諸悪の根源扱いではいくらなんでもたまったものではない。
さすがの梓も声を荒らげて叫んだ。
「そうじゃないわ」
紬が落ち着いた口調でそれを宥めた。
「ねぇ…梓ちゃん…何か、何か思い当たることはないの?」
「…夢」
「夢?」
澪が訊き返した。
「思い出した…夢…夢に…出たんです。あれ…」
その梓の声はかすれていた。
「ヤッテヤルデス…」
「やってやるです?」
唯が繰り返した。
「あの頭…ヤッテヤルデスは…私と一緒って…夢で…」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話がわからない」
澪が呆気に取られながら誰でもいいからと言った感じで説明を求めた。
「夢よ。ただの夢。梓ちゃんは関係ない。」
澪への回答なのか、梓への言葉なのかはたまた自分自身へ向けたものなのか、紬自身もわからなかった。
梓は今や目に涙を浮かべ、律と憂はこの状況をどうすればいいのか考えあぐねていた。
「どういう理由で生まれたかなんて私達にはわからない…でも。
一歩間違えたら梓ちゃんだけじゃない、私達の姿をしたものも生まれるかもしれない…他人事じゃないのかも」
憂がそう呟いたところで澪はすかさず割って入る。
「梓。夢のなかでそいつ他に何を言ってた!?」
梓が怯えたように澪の方を向いた。
「え、えっと…」
一瞬考え込んでから梓が答える。
「多分ですが、邪魔をするのは許さない…、ヤッテヤルデスは梓がいてヤッテヤルデス…」
「なぁ、ヤッテヤルデスってのは名前か?」
律が聞き直す。
「ヤッテヤルデス…名前かはわからないですけど…」
梓は鼻水を啜りながら弱々しく答えた。
「あいつ、ヤッテヤルデスって言うのか…」
「呼びづらいね」
唯がそれに相槌を打った。
「…ねぇ、あれの目的って何かしら?」
「あー…」
紬の言葉でどういう訳か澪は梓の頭を齧る「ヤッテヤルデス」の姿が浮かべた。
「うわわっ!」
澪はとりあえず叫んで慌てて不気味な思考を払いのけた。
「どうしたの?」
紬が怪訝そうに尋ねたが澪はそれを黙った。
「梓じゃないのか」
律は澪の沈黙をを無に帰した。
「あずにゃんが危ない!?」
「ちょっと待て。じゃあなんで唯や純ちゃんが襲われたんだよ」
澪が割って入る。
「そうよね…」
「あの…もしかして私達全員が標的なんでは…」
梓が不安そうな面持ちで見回すと思わず全員が黙りこんだ。
それぞれ思い返してみても、昨日の時点で全員が標的と言っても過言ではなかった。
廊下で襲われた唯、職員室で律と梓、夜道で澪。
紬はまだ直接襲われてこそいないものの、どう考えてもこの状況であれば標的と考えて差し支えないだろう。
「…なら私達であれをどうにかできるかも知れない」
澪が口を開こうとしたとき、律が突然呟いた。
「ど、どうやって!?」
唯が尋ねる。
「あー、ほら。私達で講堂とかに誘き出せばあとは先生たちが…」
「おおっ、りっちゃんすごい!」
それにどう乗せられてしまったのか唯が拍手する。
「武器さえあれば可能かも。例えば剣道の防具を着こんだり」
紬がそれに応じた。
律の主張によれば「人間は首が一番弱い。ヤッテヤルデスはそこを標的としているので
首さえ守れればヤッテヤルデスと対等に対峙することも可能」ということだ。
昨日のヤッテヤルデスの攻撃は直接的な首絞めが多かった。
更にヤッテヤルデスを事実上さわ子と紬が一度撃退しているだけに、
その提案は軽音部の5人と憂にとって比較的現実味を帯びて感じられた。
「殺れるぞ…殺ってやるです」
律が広角を歪めながら呟いた。
紬が笑っていいのか悪いのかを見極めようと言わんばかりに全員の表情を伺っていると澪の携帯電話が鳴った。
「あ、もしもし」
澪が部屋を出て行ったが、すぐに戻ってきた。
「今日は自由登校になったらしいぞ」
澪の言葉を聞いた途端、唯が律の方を見てニヤっと笑った。
「早速ですなりっちゃん隊長」
「ああ。唯隊員」
「じゃあ、まず制服に着替えて学校に集合だ!」
律を隊長に据え、かくして桜高軽音部によるヤッテヤルデス掃討作戦は開始された。
午前11時、桜が丘高等学校では自由登校が始まった。
危険への注意を促す呼びかけに対して当事者意識をしっかりと持てるという人間は意外にも少ない。
そして情報には量と正確性が重要だと言われるが、その両方が欠けているのが今の桜高の生徒達だった。
生徒達は本格的な事態が始まる前に流されるままに帰った者が大半であったために、昨日の事件について深く考えている者は皆無だった。
自由登校の始まった昇降口には教員が立哨し、生徒に一人ひとり登校目的を聞き、内容いかんによっては下校させるという措置も取られた。
にも関わらず掃討作戦の装備品をどっさりと携行した軽音部の5人は音出しで練習を口実にした結果あっさり校舎内に立ち入ることが出来た。
ちなみに何も知らない和は高文連の壮行会の準備を理由に、憂は唯の付き添いであっさりと立ち入りが許可された。
そもそも、臨時休校のあとに打ち出された自由登校ならば大半の生徒は休みを一日享受する方を選ぶ。
軽音部や生徒会関係者以外に登校してくる生徒はほとんど現れなかった。
その頃、閑散とした校舎内をさわ子は刺股片手に図書室へ向かっていた。
自由登校の実施にあたっては校舎内を常時教員が巡回するという警戒措置を取っていた。
東西と1、2階に別れて4人態勢で行う1回目の巡回、その1階西にはさわ子が充てられた。
さわ子は昨日の教訓から今日は身軽さを最重視したジャージに運動靴という出で立ちで臨んでいる。
さわ子は職員室前を出発し、やがて渡り廊下を進み図書館の前に到着すると閉ざされたドアの施錠を確認する。
ところが真鍮色の取手は普通に回り、ドアはガチャリと開いた。
「あら?」
図書館は手が回り切らず、警戒が疎かになるという理由から危険とされて施錠されているはずだった。
にも関わらず、そのドアは開いた。
ドアを開けたその先、光の中には人影があった。
逆光で良く見えないもののどうやら窓際に1つポツンと置かれた椅子に座っているらしい。
そのツインテールの生徒はこちらに気づかないのか、向こうを向いたままだ。
「ちょっと…あなた…今日図書館は閉鎖よ。出なさーい」
だが、声を掛けてもその生徒は振り返ろうとしない。
「ちょっと、聞いてるの?」
さわ子は仕方なく刺股をドアの脇に置いて中に足を踏み入れた。
静まり返って空気の淀んだ図書館の中にはいつもより強く独特の匂いがこもり、さわ子の鼻をくすぐる。
光が宙を舞う埃を神秘的に照らし出している中、さわ子は生徒に近づいていくと突然生徒が振り返った。
…あ、首が360度回って後ろを向いたんだ。
…違う。首だけ、頭だけが立っている。
これ、椅子に上着が掛かってただけで…。
…騙された!頭だ!
さわ子がそれに気づいたときにはもう手遅れだった。
最終更新:2011年05月01日 00:58