律「あ、あの…ところで…それが…」

律が転がった異生物を指さした。

さわ子も純を抱いたままその指の先を見る

さわ子「な…なにこれ」

先生1「きゅ、救急車呼んできます!」

ここであっけに取られていた先生のひとりが駆け出していった。

「な、なんですかねこれ…」

梓が傍にあったマイクスタンドを掴むと、その脚でまだ痙攣している異生物をつついた。

「あ、おい。やめろって…」

律が制止する以前の問題であった。

異生物は女子高生ごときに刺されたヒッコリー材のドラムスティックの貫通と、

総重量たかだか4.9キロのABC粉末消火器10型の直撃を問題になどハナからしてはいなかったのだ。

消火器を払い除け、そのツインテールもとい、髪腕とでも呼ぶべきであろう毛髪製の腕でスティックを引っこ抜いた。


澪「ひ!」

紬「あ…梓ちゃん…」

梓「えっ!?」

律「嘘だろ…」

さわ子「…」

一同がその不気味な景色と、その異生物の顔とでも言うべき部位の造形に凍りつく中、異生物は外に軽やかに飛び出していった。


― よんふんにじゅうびょうご!


3年2組の教室では唯を含め掃除当番が教室掃除の真っ最中だった。

唯「あ、ゴミ捨ててくるね」

唯がゴミ箱を抱えて廊下へ出て行く。

そして間もなく響き渡るごみ箱の転がる音。

(唯、コケた?)

唯の存在が最近気になって仕方ない姫子は微笑ましいなぁなどと思いつつ、

その様子を見ようと自在ほうきを片手に廊下を覗き込んだ。


しかし、姫子の目に入ったのはのたうちまわる唯と髪の長い生首だった

「え!ちょっ、ウソっ!?」

姫子はほうきを放り出して駆け寄ると生首を引きはがしに掛かる。

しかし恐るべき馬鹿力で唯にしがみつく生首はびくともしない上に唯の抵抗が弱まってくる。

「誰か!」

姫子の声でクラスメートが数人飛び出してくるが、あまりの光景に硬直する。

「あ゛っ…かはっ…!」

唯の声が苦しげになる。生首の髪の毛は唯の首を絞めるかのごとくその首にまとわりついていた。


「っ!」

姫子は転がっていた自在ほうきを逆さまに掴むと、思い切り柄をフルスイングで生首に打ち込んだ。


姫子は柄が折れる音と不気味な感触を感じた。

生首は吹き飛び、そのまま窓に激突して学校用ガラスを粉砕し外に落下していった。

「あ゛……ひ…ひめごぢゃん…あ゛りがど…」

唯が頭を起こして弱々しく姫子に礼を述べた。

その顔は赤を通り越し、紫色すら帯びている。唇も切ったのか血が付いている。

姫子は唯を抱き抱えて呆然と見ているだけのクラスメートに叫んだ。

「早く先生を!」

「な、なにあれ!?」

「おい!どうした!」

「センセイ!」

「ぎゃー今のって何あれ!」

この騒ぎを発端に廊下は大混乱に陥り、ほとんどの生徒が理由もわからないまま、

地震を察知したネズミの如く帰り支度もそこそこに学校から逃げ出し始めていた。


― ごふんじゅうろくびょうご!

堀込「こ、この野郎!よくもうちの生徒を」

刺股片手に駆けつけた堀込先生以下男性教諭陣が窓の下で異生物を敵討ちと言わんばかりに

凶器片手に袋叩きにしている頃、恐怖の現場となった廊下ではようやく唯が担架で保健室へ連れて行かれるところだった。

さわ子「立花さん!」

遅れて知らせを受けたさわ子がその現場に到着すると、ガラスが割れ、ゴミ箱とその中身が散乱した

異様な光景が広がっていた。

「唯が…」

その中心で姫子が放心したように立ち尽くしながら、さわ子の顔を見て呟いた。

「ようし!警察が来るまで覆っておきましょう」

その声を聞き、すっかり風通しの良くなった窓に駆け寄ったさわ子は、

窓の下で堀込先生のサスマタに押さえこまれ、今まさに重し付きドラム缶で覆われるモノを見た。


―ほけんしつ!


唯が保健室に運び込まれると、既に軽音部の4人が揃っていた。

律「唯!」

梓「唯先輩…」

澪「大丈夫なのか?!」

紬「ゆ…唯ちゃん…」

唯がベッドに座ると、背後のカーテンが開けて純が顔を出した。

純「ゆ…唯先輩も襲われたんですか?」

唯「うん。そうなんだ…ゴミ捨てに行ったらガバーッシャーッだよ!」

唯は心配掛けまいと普段の調子を取り繕おうと精一杯振舞っていた。

しかし、振り上げた腕は弱々しく下がり、唯の目からは涙がとめどなく流れ落ちた。

「こ…怖かったよぉ…」

唯の髪はめちゃめちゃに乱れ、ブラウスには切った時の血が生々しく残っている。

そしてその白い頚にははっきりと異様な痣が残されていた。

それは確実に唯が生命の危険にさらされた事の紛れもない証拠でもあった。

唯はそのまま泣きじゃくり、紬は歩み出ると唯を優しく抱きしめた。

「唯ちゃん…怖かったよね…もう大丈夫…」

唯の涙は紬のブラウスとブレザーを黒く濡らしていく。

紬はその体温を感じながら、その恐怖を再認識はじめていた。

そこへドアが開き、さわ子が駆けこんでくる。

「唯ちゃん!?」

「さ、さわちゃああああああああああん!!!!!」

唯は更に声を上げて泣いた。その声はその場にいる全員の胸を抉るように響いた。

「良かった…唯ちゃん…」

しばらく紬に変わって唯を抱きしめていたさわ子は唯を優しく離すと再び立ち上がった。

「もう大丈夫だから…安心してね…」

さわ子はそう言いながら、内心恐怖心を全く拭い去れていなかった。

警察官要請は既に他の教師たちが済ませたようだが、救急車も警察もまだ到着してはいない。

ましてあの生物を封じ込めているのはたかだがドラム缶である。

もしも、もしもということばかりがさわ子の頭の中を走っていた。

さわ子は警察官要請の有無を確認していたわけではなかった。

事態が事態なだけに勝手に警察官要請はなされただろうという思い込みはさわ子以外の教員にも広がっており、

混乱時にありがちな思い込みが生じていた。

実際には発生後唯一電話機に触っていた養護教諭は救急車要請しか行なっておらず、その電話している光景を見て

各々は勝手に警察にも電話しただろうと思っていただけに過ぎなかった。

その養護教諭は防災訓練では教頭が通報を行なっていたことを踏まえて、気を利かせたつもりで警察には電話していなかった。

誰かが警察を呼べと叫び、そのあと何人かがその場から姿を消していれば警察を呼びに行ったと思い込んでも確かに仕方はない。

そして近隣の消防署と消防分署からは養護教諭による「動物に襲われ生徒二人がケガ」という情報で救急車が出動した。


ガツン、という音が保健室に響き渡ったのはそれから数秒後の事であった。

保健室にいた全員が何事かとその音の方向を見ると、音の出所は窓だった。

ガラス窓には梓の顔、もといさっきの頭が張り付き、執拗にその額と思われる部分をガラスに打ち付けていた。

唯「ひいいっ!?」

唯の悲鳴で我に返ったさわ子は片手で思わず乱暴に唯を引っ張り寄せた。

律「さわちゃん!」

純「いやあああ」

純が裸足で真っ先に保健室を飛び出していった。

梓「あっ、純!」

澪「せ、先生逃げよう!」

澪の声でようやく全員は保健室を飛び出した。

幸いにも保健室のサッシは断熱型に交換されており、厚さ5ミリのフロート強化ガラスが入っていた。

熱処理によって強度を上げてあるそれは、バレーボールや硬球の直撃程度ではまず破損しない。

それは頭が今まさにやっている額による攻撃も同様であった。

頭はガラスの向こうの5人が居なくなるのを見てから、窓から窓へと飛び移り再び移動を開始した。


どこへ逃げればいいのかわからない。

飛び出した瞬間さわ子はそう思った。それでも逃げるしかない。

この子達の命が懸かっているという一心で必死に考える。

外線電話に掛けられるのは職員室、防犯用の刺股も職員室。ドアのガラスと鍵が交換されているのも職員室。

「職員室よ!」

ヒートアップする思考の中、結論をたたき出したさわ子は即座に全員を引き連れ職員室へ走った。

年代物の木製ドアを壊れんばかりに蹴り開け、全員が職員室に入ったことを確認するとさわ子はドアを閉めて鍵を掛けた。

カチリという動作音で思わずため息が漏れる。

「せ、先生…」

だが、恐怖に怯えた紬の声でさわ子は再び地獄に突き落とされた。

紬が指差す先には全開になっている窓が目に入った。

開け放たれた大型窓は涼し気な秋の風を職員室に招き入れ、汗ばんださわ子以下5名を冷やした。

「…あ、開いてる」

さわ子は愕然とした面持ちで呟いた。そして窓際のデスクには蠢く物体がいた。

頭だ、最悪だ。さわ子がそう思ったときには頭が恐ろしい跳躍能力でこちらへジャンプしていた。

「逃げて!」

さわ子が叫ばずとも全員が一斉に職員室内に散った。

頭は机を足場のように使い、運悪く手近で標的となった律を追いかけ回す。

「今度は私かよっ!」

律が叫びながら職員室内を逃げまわる。

素早い律と頭の追跡劇でゴミ箱は吹っ飛び、電話機は落ち、書類が散らばっていく。

梓はその隙にドアのカギを開けるとそのまま開け放った。

「律先輩!ドアへ!早く!」

律が最後に脱出したところで梓がドアを閉めたものの、

頭はあろうことかドアのステンド張りのガラスをぶち割って外に転がりでてきた。

頭上を飛んだ頭と目が合った梓は腰が抜けてそのままへたり込む。

「ぎゃあああああああ」

悲鳴を上げた梓を気にしたさわ子はそのまま段差に引っかかって転んだ。

膝を打ったさわ子が立ち上がりながら、後ろを振り向くと頭はもう1メートルほどの距離まで迫っていた。

「ひっ」

小さく悲鳴を上げたさわ子の脳裏には走馬灯のように記憶が蘇る。

だが最後には私が死んだらこの子達はどうなるんだろう、そう考えて反撃を選ぼうとしたさわ子は教師の鑑だった。

ところが頭はさわ子を無視して飛び越し律達を追った。

「あっ、く…っちょっと!」さわ子は立ち上がると靴を脱ぎ捨てその後を追った。

律を先頭に生徒玄関から飛び出そうとしたところに、刺股を片手に堀込先生が現れた。

「先生!あれ!」

「頭が!」

「襲ってきます!」

律、唯、紬の順番で堀込先生とすれ違う。

その堀込先生はというと何が何だか理解できず、そのまま廊下を覗き込んだ。

その目に映ったのは凄まじい勢いで黒い脚のような何かを動かしこっちに突っ込んでくる頭だった。

「お!?うわ!?頭!」

さっきの袋叩きが生々しいタイミングでその主導者と遭遇した頭はあの恐ろしい痛みを想起させられたのか急停止する。

堀込先生がそのまま飛びかかったものの、頭はそのまま今度は猛烈な勢いで後退し、壁とスチーム配管を足場に

標的を梓に切り替え、さわ子の頭上を過ごして取り残されていた梓に頭上から襲いかかった。

そもそも刺股というのは対人用の武器であり、使用側が人数的にも優位かつ、複数使用する場合にその効力を最大発揮するものである。

さっきの袋叩きにおいて使用するならば問題はなかったであろうが、飛来している標的を叩き落すには些か不適当な武器である上、

いい加減いい歳行ってしまった堀込先生に機敏な動きを要求することも相俟って酷な話でもあった。

生徒を守ろうと刺股を振った堀込先生は見事に突っ転び、刺股は廊下を滑っていく。

片や頭は梓に馬乗りになる形になっており、すでに急迫した情勢であった。

足元に滑った刺股を拾い上げさわ子はそのまま駆け出し、梓に張り付く頭に刺股を振り上げた。

ちなみに刺股の使用方法は殴打武器ではなく動きを封じ込めるためのものである。

「おりゃあああ」

さわ子の雄叫びと共に天誅のごとく下った刺股攻撃はクリティカルヒットし、頭は電撃が走ったかのように梓から飛び退き、

その脚でヒョコヒョコとこちらを向いたまま更に後ずさった。

梓はその間に立ち上がりさわ子に駆け寄る。

更にいつの間にか戻ってきた紬がトドメを刺すかのようにABC粉末消火器を噴射した。

ブシュウという音とともに、数秒で凄まじい白い煙が立ち込め始める。

思わぬ反撃にヤッテヤルデスはそのまま5メートル程飛び退いていた。

それを見逃さなかったさわ子は壁に設置してあった防火シャッターの手動閉鎖装置の赤いプラ板を押し込む。

防火シャッターは自重で金属音を立てながらギシギシと落下し始める。

頭は慌ててシャッターの隙間を潜り抜けようとしたものの、間一髪で防火シャッターはさわ子とヤッテヤルデスを隔てた。

廊下にはシャッターに頭がその身をぶつける音が何度も響き渡る。


「みんなは…?」

とりあえずの安全を確認したさわ子が振り返ると、そこにはけいおん部全員が揃っていた。

「先生…」

紬と梓はうっすらと涙を浮かべてさわ子を見ている。

「あっ、大丈夫ですか」

「山中!大丈夫か!?」

その後ろでは律に助け起こされて、堀込先生がようやく立ち上がった。

「早く警察を!」

さわ子は誰にともなく怒鳴った。

その直後どこで何をしていたのかようやく教員たちが玄関や廊下の奥から集まって来る。

さわ子はそのまま糸が切れたように壁にもたれかかり、紬と律がそれを支えた。

「おい!向こう側から来るかも知れんぞ!」

「火災報知器鳴らして防火扉閉めろ!」

ざわめきを打ち破った誰かの怒鳴り声の後、頭がシャッターに体当りする音に加え、学校中にけたたましいベルの音が響き渡った。

『―校舎内に残っている生徒は西側階段及び、西側非常階段を使用して至急校舎外へ避難してください』

手遅れ感の拭えない避難指示の放送はようやく全校に響き渡り、やがてこの大騒ぎのさなか一体どこで何をしていたのか残っていた生徒達が

ぞろぞろと玄関前に集結し始めた。

その騒ぎのさなか、ようやくサイレンを響かせ玄関前も構わず救急車が滑りこむ。

生徒を掻き分け駆けこんできた救急隊員は「けが人はどこですか」とそのへんの教員に声をかけ、

その教員は養護教諭を探し出し、養護教諭はさわ子にくっついていた唯を見つけるてさわ子の所にいた唯を救急隊員の元へ連れて行った。

続いてどこから来たのか徒歩で警察官も現れる。

「何があったんですか?」

どういう通報を受けたのか、はたまた自発的な登場なのかはわからないが、

その警察官はのんきな調子で靴も履かず、埃まみれになったさわ子に声を掛けた。

生徒を体を張って守ったさわ子に対しての無礼な調子を見兼ねたのか堀込先生がそこに割って入って警察官を引き離す。

さっきの警察官が携行する無線機に何事か吹き込んでいる横で、さわ子は改めて無事だったけいおん部の面々を見て生還を噛み締めた。

「先生…カッコよかったですよ」

「さわちゃんすげぇよ!かっこよかった!」

「先生…」

紬の褒め言葉を皮切りに、律と澪が続く。

生徒達を守りぬいた達成感と久々のちょっとしたヒーロー扱いっぷりにさわ子もまんざらではなく、思わずニヤけていた。

「…あれ?」

そんな中梓は重大な何かが見落とされている気がして辺りを見回した。

唯がハッチを開けたままの救急車の中で手当を受けているのが目に入る。

その横にはもう一台救急車が並んで停車し、LED赤色警告灯の赤い光を辺りにまき散らしている。

そこへひとりの救急隊員が駆け寄ってきてさわ子に尋ねる。

「あの、もう一人の生徒さんはどちらに」

一瞬で場の空気はどん底へ落ち込んだ。純が戻ってはいなかった。

事態に配慮が足りなかったとさわ子に責任を問うことは簡単ではあろうが、

この状況で真っ先に飛び出してしまった純をさわ子がどうにか出来るかといえば全くもって無茶であり、

そもそも最も生徒や教員が散り散りになる時間帯である放課後という襲撃タイミングも事態に拍車をかけていた。


最初に居残っていた生徒達を手始めに片っ端から安否確認がスタートしたものの、

同じクラスでも誰も携帯の番号を知らないという生徒や

携帯を所持していない上に自宅にも連絡がつかないという生徒が現れ始める。

教員達総出の安否確認の一方、この混乱の原因である「頭」の捜索が警察官により開始された。

それは状況がわからないまま捜索範囲を広げることを嫌った警察の判断で敷地内のみに留められたが、

純が講堂へ繋がる渡り廊下の出入口前で転倒し気を失っているのが発見された。

これで最低頭を3度は打ったということで純は即座に市立病院へと救急車で搬送された。

3時間掛けて校舎内を捜索したものの「頭」が発見されなかったために、警察はさわ子以下目撃者全員の証言を一蹴し

イノシシやニホンザルの類による犯行だと片付けて引き上げた。

なお、全員の安否の確認が取れたのは深夜2時であったが、幸いにもこの日、犠牲者はなかったことも判明した。


― ちょっともどって ごご7じ40ぷん!


「なーにが白昼夢よ!バカじゃないの!?人をバカにしてんじゃないわよ!」

ハンドルを握るさわ子の機嫌は非常に悪かった。

「挙げ句の果てにはヤク中扱い?ヤク中で教師やれると思ってんの!?じゃあ尿検査でもなんでもやればいいじゃない!」

「こちとら可愛い教え子が殺されかけてんのよ!ナメてんのか!」

時々ハンドルをエアバッグが作動しかねないような勢いで思い切り殴りつける。

「さ、さわちゃん…」

律が弱々しく声をかける。

「ねぇ!?どう見ても見たわよね!アレ明らかに生首が暴れてたじゃない!?」

さわ子は自分自身の発言でより一層頭に血が登ったのかアクセルを思い切り踏み込む。

「は、はい…」

660ccのエンジンが甲高く唸る中澪が更に弱々しく返事をした。

さわ子や堀込先生など、「頭」と接触した教員達は全員所轄警察署で事情聴取を受けた。

しかしその処遇は非常に悪く、教員達は全員漏れなく屈辱にまみれざるを得なかった。


さわ子は堀込先生と並んで最も最悪な部類だったらしく、どういう訳か迎えが来た紬を除いて

不幸にもさわ子のクルマに乗ることになった律、澪、梓の3人はなんとか宥めようとしたものの、さわ子の機嫌は直らなかった。


― みおのいえ!


澪がさわ子の車で帰宅して一息ついた時には午後8時半を回っていた。

数時間前に経験した悪夢はベットリと澪の脳裏に張り付き、瞼を閉じるたびに

あの能面のような梓の顔をした頭の姿が蘇った。

悪夢を洗い流したい一心でシャワーを浴び、リビングに戻ってきたところでテーブルに置いてあった携帯が鳴った。

「律?」

何だろうという思いを抱きつつ、澪は携帯を取った。

「もしもし?」

『あ…澪か!?ちょ、ちょっと今から行くから!』

律の声は上ずり、どちらかと言えば何か良くないことがあったような調子だった。

「え?ちょっと!おい!」

そして澪の声に耳を貸さず律は一方的に電話を切った。

澪は慌てて部屋着に着替え、ドライヤーで髪を乾かした。

電話から10分、呼び鈴が鳴った。

息を切らせ玄関に立っていた律の小脇には丸めた経年を感じる画用紙があり、

クレヨンの粉が点々とつき、たいなかりつと名前が平仮名で書いてあるのが見えた。

「急にどうしたんだよ」

律は澪の問いかけに構わず玄関マットにその画用紙を広げた。

澪はその様子を黙ってそのまま目で追った。

広がった画用紙には顔に脚が直接生えた人間が描かれていた。

黒いクレヨンで描かれたそれは普段なら幼児の描いたただのクレヨン絵で済まされるところであろう。

だがそれはあまりにも「頭」に似すぎていた。

澪は言葉を失い、思わず律の表情を伺った。

「な…なぁ…聞いてくれよ澪…」

その沈黙を破った律の声は震えている。

「私じゃないよな…?私のせいじゃないんだよな…?」

震える声で問いかける律の目には涙が浮かんでいた。

「当たり前だろ…」

律の描いた絵はあくまで幼児が描いた絵に過ぎない、いくら似ていると言っても

こんなような絵は幼児には当たり前だしちょっと探せばいくらでも出てくる。

澪はそう言いたかった。しかしその言葉は乾いた喉に張り付くばかりで一向に言語化されなかった。

「わかってる」

長い空白の末、澪はなんとか一言搾り出した。

それでも一見おおよそ噛み合ってないようなその言葉は、律が抱いた恐怖をぬぐい去るには十分なものであった。

澪はその絵を律から取り上げると、再び丸めて小脇に抱えた。

「家まで送る」

澪はそう言ってサンダルを突っ掛け、律の手を取った。

外に出ると夜の空気は澄み切り、虫の声が軽やかに響いていた。

涼しい夜風が吹く中を二人は歩いていく。

どんどん歩いていく澪とそれに黙って付いていく律。

幼い頃律が澪を引っ張っていた道で今、澪が律を引っ張っていた。

やがて川にかかる橋の上に辿りつくと、二人は欄干に並ぶ。

時々通り過ぎた車のヘッドライトが二人を照らしだした。

路線バスがディーゼルの煙を残して通り過ぎた直後、澪は躊躇いなく画用紙を真っ二つに引き裂いた。

さらにそれを細かくビリビリと破ると、そのまま橋の上からばらまいた。

白い破片は街灯と月明かりに照らされながら静かに桜吹雪のように舞い散り、

やがて流れへと落ちて彼方へと消えていった。

「行こう」

「うん」

澪と律はまた歩き出した。

律の家がそう遠くない角を曲がった時だった。

その住宅地にある何の変哲もない生活道路に静寂は広がっていた。

「あれ?」

最初に異変に気づいたのは律だった。

「静かだ…」

耳を澄ますと人工的な室外機の音や遠くのサイレンや列車の警笛は聞こえてくる。

だがそこに何かが欠けていた。

「虫が鳴いてない…」

欠けたものに気づいた澪が呟いた。

「…歌声?」

さらに律が辺りを見回しながら不安そうに呟いた。

「え?」

その声は最初聞き間違いかと思われるほど小さかったが、二人が耳をそばだてているうちに

緊急車両が近づくかのようにその声ははっきりと聞こえるようになっていた。

「な…なんだ?」

「あ…アイツだ」

律が指さした無落雪屋根の上には満月、そしてあの忌々しい「頭」のシルエットがあった。

「歌ってる…」

その歌声はあの所業に対してに、天使のように美しい声だった。

澪がそのシルエットを呆然と見つめていると雲が隠れ、一瞬真っ暗になる。

すぐに月明かりは戻ってきたものの、その一瞬で頭はそこから消えていた。

そしてより一層澪たちに近くなり、鮮明かつ力強くなる歌声。

「どこだ…どこにいるんだ…」

澪はあたりを見回すが、声の発生源はわからない。

電柱、塀、駐車車両、家の軒下、自動販売機、ありとあらゆる物が敵に感じられてくる。


― 今まさに歌いながら虎視眈々とアイツはこっちを狙っている。


そして歌声はピタリと止んだ。

今起きうるケースで一番最悪なのはなんだろう、どういう訳か澪は冷静に考えた。

それは背後を取られること、結論はあっさりと出た。

そして澪は振り返る。

「やっぱり…」

澪は勝ち誇ったように呟いた。

背後のブロック塀の上で頭がこちらを見つめていた。

「逃げよう」

そう言った律の顔は妙に冷静で、澪自身もどこかに冷めたものを感じていた。

それでも澪と律は次の瞬間には全力で走りだしていた。


ようやく律の家が見えてきたとき、澪は意を決して振り返った。

街灯に照らされた道路はいつものままで、虫の声はまた軽やかに響いている。

「り、律!」

澪は律の肩を掴むと、律は後ろにのけ反ってバランスを崩してよろめいた。

「な、なんだよっ!」

律がなかなか恐ろしい形相で振り返った。

「もう…いない…」

澪は息も絶え絶えで律に答えた。


― むぎちゃんのいえ!


「髪行類?」

紬は思わず身を乗り出した。

「敢えて呼称するならばそんな感じではと考えた次第です」

斎藤は遠近両用メガネを外しながら答えた。

「ツインテールと見せかけて脚とは中々不気味な生物ですね。

それを退治なさったお嬢様はお見事です」

「やめて」

紬は不快そうにそれを制した。

「失礼致しました」

「これ、本当に生物なのかしら」

紬は「頭」のスケッチが描かれた便箋をひらひらと振った。

「生物ではないのかも知れませんよ。例えば思念の塊であったり」

「思念の塊?」

紬は眉をひそめる。

「ええ。中野さんそっくりですから、中野さんへの執着心が塊になったとか」

「執着心?」

「まぁこれは、科学的根拠なんてものも全くないあくまで私の戯言に過ぎません」

斎藤はそう言って立ち上がり、すっかり冷めた紅茶が沈むティーカップを片付け始める。

紬はそれ以上斎藤を追求せず、黙って便箋を見つめていた。


3