22歳問題連載1. 仕事で「自己表現」という就活の甘い罠


miyu

 年制大学における三年次、多くの学生に変化が訪れる。それまで「いかに遊ぶか」「いかに授業をさぼりながら単位をとるか」を至上命題としていた大学生たちが、「いかに一流企業に就職するか」という方向へ己の意識を一転させるのだ。冷静に見ればかなり不気味な光景ではある。が、大多数の学生たちが「就活モード」へと変化するので、否応なく全ての学生たちがその中へ巻き込まれていくこととなる。

「就活」という行事はこうして通過儀礼なき現代社会の実質的通過儀礼として機能している。その事実を捉えれば、上のような大学三年生の意識変化は社会システム上「好ましい」、とまでは言わずとも、「あってしかるべき」変化ではあると思う。

 しかし一方、同じ大学内にあっても例えば軽音楽サークルのような、日ごろから強い表現欲求をもった人間が集まる場所では少し事情が変わってくるようだ。ここでは学生の意識変化が、大雑把に言えば二パターンに分かれて出現するのである。第一のパターンは、ほかの大多数の学生と同様就活モードへ移行する人間。そしてもう一方は、己の音楽活動を第一に考え就活モードに背を向ける人間である。

 今後音楽を趣味とするのか、それともライフワークとするのか?同じサークルに所属する同じ大学三年生、似通った趣味を持つ彼ら、人並み以上に表現の楽しさを知る彼らが、来るべき就活を前にして二つの派閥に分断される。多くにとって22歳であるこの時期、それぞれの価値観(将来観)が露呈するのである。

 今回は、そのうち前者に生じる問題点についての考察を試みる。後者に関しても大いなる問題点が存在しているのだが、それについては後日に譲る。


 さて前者、つまり軽音サークルに在籍しながら、他の大多数の学生同様就活モードにシフトチェンジした学生たちについて。彼らの将来は「大人の目線」で見れば、とりえず一安心である。郷里のオフクロも、息子が今ハヤリのシューカツをしていると聞けばほっと胸をなで下ろすだろう。

 ただ、彼らには陥りやすい穴がある。彼らは一度は音楽という表現世界に身を置いたことのある人間。大方の傾向として「自己表現」欲求を人並み以上に有しているわけである。彼らは仕事にまで自己表現を求めたがる。就活に臨むにあたって、「学生時代のバンド活動経験で人を喜ばせる楽しみを知った。だから、○○の仕事で多くの人を喜ばせるような仕事がしたい」と、こういうわけである。そうなると彼らは就活の場(例えばリクナビ、就活ナビのような)において企業が提示する「クリエイティブな仕事」という誘い文句に弱い。

 しかしリクナビに載ってるような普通の仕事で「自己表現」なんざ、現実には出来っこない。

 たとえできたとしても、十年・二十年の経験を経た末の成果としてであろう。企業側は響きがいいから「クリエイティブな仕事」を学生への誘い文句にしているだけだ。企業は「クリエイティブ」という看板を掲げていれば多くの学生が食いついてくると知っているのだ。就活では「学生時代の活動で〜」なんて言ってるやつが一番危ない。そもそも企業側は、大学生のクリエイティビティなぞ全く期待していない。

 また、そうやって「クリエイティブな仕事」を売りにする企業には、実感としてだが、ブラック企業が多い。「クリエイティブな仕事させてやってるんだから、残業もいとわず働け」と、言うことである。

「マスコミ系」、「クリエイティブな仕事」を売りに採用活動をする某出版社を例にあげよう。

 この会社は、まず新卒の人間を地方の営業職に配置させる。そして、現実的に達成不可能な無理な目標を与える。無論、新卒社員に程々という言葉は存在しない。彼らは寝る間もなく仕事せざるを得ない。仕事の実態は、バイト君を含めた全国の本屋の店員にひたすら頭を下げつつけること。それが延々と続く。それでも失職するわけにはいかないから、身のない仕事でもやるしかない。そんな日々。自然と精神的、肉体的に参ってきて、当初思い描いていた「クリエイティブな創造力」なんて持ち出す余裕もなく、モチベーションごと潰されてしまう。

 それでも彼らは「出版社で働く自分」を「クリエイティブな仕事」をしている人間だと疑わない。その変なプライドだけはずっと持ち続けている。そして彼らは隷属的な労働を努力へ、努力を自己表現へとすりかえて、自己が崩壊するのを防ごうと躍起になっていく。その結果、「二十連勤」「三十連勤」と会社の奴隷になって働く単なる社員が出来上がるわけである。

 本来思い描いていた「表現」「クリエイティブ」の意味すら倒錯してしまう悲劇の実例がそこにはあった。クリエイティブなイメージを打ち出している出版社ですらこの有様である。そもそも企業という営利目的の組織にあって、本当にクリエイティブな部分は社長をはじめとした一部のものだけが持っていればいいのである。就活で入ってくる平社員に求められるのは「労働者」として従順であることなのである。


 それでも、「ビジネスの世界で大成することこそ己の自己表現だ」と、居直るくらいの覚悟があればそれはいい。事実、厳しい労働環境でもそういう人間は将来的に成功するだろう。また逆に、何が何でも表現活動のプロになって金を稼ぐ、くらいの覚悟があればこれも問題ないだろう。

 だが、「就職はしなきゃと思っているけれど、表現活動も続けていきたいんだよね」という中間層の人間も必ずいる。そうした人びとはどうすればいいのか?私は、そういう人間は、あえて仕事と自己表現を切り離した生き方をすることが一番賢いのではないかと思う。


 仕事は「金と生活のため」。表現活動をするなら、仕事とは別のフィールドを持つ。


 そう考えられれば、就職の捕らえ方も変わってくる。就職先の選択は、仕事内容やイメージ・企業のブランドより、時間的融通や、勤務地・給与など条件面から就職先を考えるようになる。そしてそのほうが、己の表現欲求の充足という側面から見ても、バランスがよい生活を送ることができると私は思う。

「土日はライブ活動をするので、土日完全休みの仕事を」でもいいし、「アフターファイブに小説を執筆するので、毎日17時に帰れる仕事を」、でもいい。根気と最低限の社会的能力があれば、そういう職場を探し出すことは不可能ではない。本気で表現活動を続けたいのなら、電通に就職しようとしているやつと同じくらいの努力と熱意で、そういう好条件の職場を探し出せばいいのである。

「就職はしなきゃと思っているけれど、表現活動も続けていきたい」と、結局、ビジネスの世界にも、プロアーティストの世界にも一辺倒になる覚悟ができないまま、という層。ある程度の表現欲求を有した人間であっても、なんだかんだでそういう層の人間が大多数を占めているのが若者たちの実情だと思う。

 となると、新地下の掲げるテーマ「一億総表現者社会」の実現のためには、この層の表現欲求をいかに発露できる社会システムを構築していくのかが、現実的なハードルであると私は思う。

 私自身、その「中間層」の人間の一人として、上記のようなハードルを越える方法を探るべく、引き続き連載の中で「22歳問題」を追いかけていこうと思う。


2010/06/05 miyu




(2010,9,1)


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最終更新:2010年09月07日 01:01
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