青年の表現


齋藤蘆琴

よそ人たる限り表現せぬ者のなきことは、厳然
にして疑ふべからざる事実なり。これは誰もが無意
識裡に言語身振を以て作す行為であつて、若し知ら
ぬと反駁する者有らば、吾は彼の息の根を止むるに
憚ることなし。

答へするその言辞のみならず、彼の死の淵の脆
弱なる息遣も表現と呼ぶべし。死骸と化したる後も
人の心に表象となつて発現し、偲ぶ思ひに涙をぞ生
むべき、悲喜交々の感情を惹起せしむる彼の存在は、
これもまた敢えて表現と呼ばずばあらざるなり。瀕
死の者や斃れし者も且つ為せり、況や健全人物の吾
等に於いてをや。

かるに表現とは何ぞや。まづ疑義を明らかにせ
ん。表現とは、自己を挟む主客二様の宇宙にいかに
対峙するかてふ態度に他ならず。蓋し譬ふるに卓上
に林檎あるを発見し、腹中に己が食慾を感じ、将に
腕を伸ばして之を喰はんとする心情の動向の如し。
ここに行為の存する世界を質さんとする議論は、意
味を為さざれば、吾は惟だ二円の接点を以て自我と
為し、之が主観と客観との両世界いづれかに向けて
発せらるゝ記号を表現と呼ばんとするなり。精神に
籠れば狂ひ、肉体に出づれば堕す。

の内、人の或る状況に直面して当然執ると期待
されうべき態度が、原初の表現活動なり。人は今日
の社会に高等にして複雑なる文明を築きたるも、既
に日常生活に於いてこの種の一次表現を多分に含む
点に於いて、畜生と何ら画するところなきかな。す
なはち、たゞひたすらに肉体の慾求に従属する者は、
衆人いかに之を人と云ふと雖も、これ未だに獣畜の
類を脱せざりと吾は言はざるべからざるなり。

或ひは問ひて曰く、「何故にかくの如き事態の
生起するや。人の動物界を脱出せる機縁となりし自
由意志を以てしても、人は人たらざらんか」――あ
らゆる表現の磁場は、おしなべて誠実を要求す。人
が友人に至誠を頼み、恋人に貞節を強ひるが如く、
世界は吾々個人に「汝よ真摯たれ」と命じぬ。これ
を「なすがまゝにせよ」の意に取つたる放蕩者が、
半獣半人の道を出でて、半獣半畜の路へ入る先導と
なるなり。

汝よ真摯たれ」この宇宙に頂戴しにける檄文に書
かれたる文句を義務と思はねば、世界は容易ならん。
人の一生はいとも簡単に娯楽の内に消滅せん。幻想
に勝者を自ら以て任じ、疑はぬまゝ灰燼に帰す。愚
昧な連中と何ぞ之を呼ばざらんや。

かるを、僅かに有意の士は、之を己が背に到底
負ひきれぬ重荷と感じなん。意志と世界との間隙有
り。是に人性の悲劇は存す。耳目をして世界に垂直
たらしめば、則ち狂人の赤き画面と音聲とが悲哀を
嘆きける様を感得せん。

等は人にして獣、獣にして人、決して片の道に
没入しえず、また双方を推して行くことも充分なら
ず。この解決せざる懊悩から、この最大の矛盾から
別の次元の表現――より高く、より純粋なる二次表
現――が生まれ来るものと吾は信ず。古今東西の天
才はこの人知れぬ荒地を発見するのみならず、その
才能の命に従つて、独特の意匠で以て新しき道路を
建設しにけり。

後六十五年、不明の現代を生きる吾等は未だ道
標さへ建設せぬまゝ、曖昧模糊の遍路を歩まざるを
得ざるなり。殊に吾邦の混迷は、戦争のゝち、後来
の思想を顧みず、無知蒙昧野蛮人の斧鎚で以て前代
の遺産を破壊したるがゆゑなり。吾等日本人は西欧
の滋味を求めて毒物まで頂戴せり。

の国難の療治を誰かなさん。現代を照らす業は
現代の青年を除いて誰に為しえやうか。新しき時代
の新しき表現を、今の青年が為さねばならぬ。その
真摯たる証明に、滾る血で署名せよ! 手前勝手に
歩くだけならば蟻蟲も之を能くせり。試みに世の多
くの表現を見よ。低劣な表現の精神の捕囚なる俗物
の何と多きことか。青年よ、自殺者の魂を振るつて
生命へと向かはせ、目明きにして盲なる者の目に真
の光明を与へ、跳躍するテンポで萎弱したる跛を走
らせよ!

2010.07.19




(2010,9,1)


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最終更新:2010年09月18日 03:20
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