国民皆表現者社会について


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コクミン カイ ヒョウゲンシャ シャカイ ニ ツイテ

国民皆表現者社会とは、 




全ての人びとが消費者であることのみに甘んじず、生産者でもある社会である。
言い換えれば一億三千万総表現者社会である。 




国民皆表現者社会では、 



一. 個人が表現を行うことが奨励される 


 そこでは「表現」が、人間の権利のひとつに数えられる。
 我々は我々の「表現欲」を、食欲、性欲、睡眠欲、排泄欲と同じ次元で語る。
 表現は何かを外に表す行為であると同時に、自らの内部を見つめる行為である。
 何かを表現をすることは各人の人生の意義にもなれば、慰撫ともなりうる。
 何か自分の証を残したい、後世に刻みつけたい、そんな表現欲求をこの社会は受け入れる。
 あるいはそこでは単なる趣味の範疇を越えて、
 各人が本業の他に副業としての表現の場を持つことが薦められる。 
 


一.個人が自由に表現できる 


 そこは個人個人おのおのがその個性を存分に発露できる社会であり、
 社会階層や職種などの差異は存在せず、送り手が存分に自己主張できる。
 表現はプロフェッショナルに専有されるものとはならず、同人活動がなにより奨励される。
 そこでは良質な個人ブログや個人サイトが最もクールなメディアであり、
 完成度が高くさえあれば同人やインディーズ名義であろうとメジャーシーンに大きく喰らい込み、
 例えば、個人で作った置物、織物、民芸品などがこぞって取引される。
 多くの人びとが興味を引かれるのは、今日で言うコミックマーケットのような同人イベントである。
 そうしたイベントは今はまだ特定の顧客のニーズを潤すものでしかないが、
 やがて全分野・全年齢向けに拡充されることが望ましい。

 同人活動が活発化すれば自ずと表現の裾野は広大化し、
 新世代の表現者と、新たな社会利益が生まれるだろう。
 


一.著作権にかわる時代に即した新たな権利が制定される 

 有り体に言って、著作権は時代遅れの権利規定である。
 Youtube一つを例にとってみれば解ろうが、著作権では著作者の権利は守れない。
 それどころか、例えばジャスラックのように、著作権が表現の足かせになっている事実がある。
 私たちはもっと現代的な、自由な表現活動の指標を考案していかねばならない。

 社団法人への一極的なライセンス委託ではなく、
 競争原理と自浄作用を備えた複数による管理体制が望まれる。
 我々は我々自ら表現者が守られ、かつ二次創作も自由に可能である、
 新時代の表現の権利を模索していかねばならない。
 

一.眼力のある人材が涵養される 

 この社会は、個人的な表現を受容出来る人材が多数存在することが前提となる。
 しかし、今最も自由であるはずのネットメディアには、
 心ない批判やその場のノリや空気を維持することを求める風潮、
 そしてお約束に基づいた再生産が万延している。
 私はそうではなく、一人一人の表現に血が滲み、
 一人一人が他人の表現を敬意をもって受け取ることを望む。
 そのためにも、全ての人びとが単なる消費者/顧客/クレーマーであることを脱し、
 表現の舞台に立つことが必要なのである。

 我々が求めるのは、
 個人的な表現の楽しみ方を主張できるひとびと、
 他人の表現を良くしていけるひとびと、
 真っ当な批判が出来るひとびと、
 短絡的再生産でない価値を見つけ出せるひとびと、
 そして、表現に生命をかけられるひとびとである。
 個人の欲求の多様化が叫ばれる現在にあって自身の意見を声高に主張できる人材がいて、
 そのひとびとが表現者として創造の次元に踏み出すこと、それが目指す社会への第一歩である。
 表現者のための時代とは、編集者と評論家の時代の復活をも意味する。


国民皆表現者社会は、 

 これら上記の題目が共通意識の元におかれる社会である。
 それは、現代日本社会のその先にある、理想の社会である。
 たとえそれを実現することが困難であろうとも、夢見続けることに意義のあるユートピアなのである。
 




では国民皆表現者社会、その実現のためにまず何をするべきか? 




まず有志から表現を始め、他者に開示せねばならない。
表現の爆発、表現の連鎖こそが、この新たなる社会への突破口となるであろう。


以下には、
新地下の賛同者諸兄による国民皆表現者社会への所見を列記する。





コクミン カイ ヒョウゲンシャ シャカイ ニ ツイテ

(2010,9,1)

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