ことぶきの日


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ことぶきの日
加藤亮太
 
 青い電車が出発する、行くの帰るの、の音楽が鳴り出していたのに窓の外で未だにじたばた走る赤い影が見えた。熱烈な眠たさと倦怠とをひねり出された膿にして、あとは高圧シャワーに晒すだけの裸を持ち合わせた終電の中身は、誰も、彼や彼女の事など気にしていないフリをして朝を待っている。しかしまさしくこの最後の行くの帰るの、の時に、赤い影は走り巡ってきりきり舞いの無限の模様を描き続けているのだから、私にはどうしても気になった。その影は扉を閉められたところを危うく闖入した。私の乗る、切り離された車両に乗ったようである。ついで私の切り離された意識はここから息を吹き返した。
 赤いセーターの女は同じく真っ赤に充血させた口腔内を見せつけて、ぜえはあ、私の横の吊り革にしがみつき、私の意識をえぐった。勘違いか気違いか私の横顔に斬りつけるような熱い眼差しを投げかけるのが感じられ、闇の窓ガラス越しにもそれは確認できた。肩を震わせ女は依然私を睨みつけている。知らないフリが続く阿鼻車内の中で、最もそのマナーが不自然に行われた瞬間がこれである。 
 

 終電車は私の住む町に着いた。私は、ゆったりとした所作で足を上げ、指を伸ばし、舌を絡め、目をつぶり、そして開いた。扉は開いた。赤い女は私の前に立ち塞がり行く手を阻んだので、私は背筋をぴんと伸ばし、胸板でもって、相手の胸から肩の辺りをぐいと押してその場の事件を黙秘して無間地獄のリズムに頼った。やり過ごすことにした。ホームを出て、ここ数年で馴染んだ湿度の高い空気に乗って改札を抜けたら、そこには私と赤い女と黄色いイスラム人の男しかいなかった。そういう配置になった。
 すばしこく先回りしていた女は私を振り返りふりかえり、さまざまな表情を見せてくれた。安らぎが到来するのを招く広々とした笑顔。狐のくしゃみのように皺を寄せた怒りの噛みつき。愛おしいものをやっと見つけて輝く発見。夢を見るように紅潮したエクスタシー。そして般若のくるおしい妬みの雄叫び。
 私の過去をぜんぶ洗いざらい憎む、最後のお面を見たとき、今後すべての私の生活が過ちに満ちることを宿命づけられたのだった。突如、女は逃げた。
 吸いかけの煙草を濃紺の空にちからいっぱい投げつけ、私はその後を追った。
 女は私の自殺をきめつけ、私は女の自殺を予感した。結末は傷つけ合うしかないのに、このまま別れては二人ともざらざら壁の隙間で死んでしまう。それをとどめなくてはならない。私は駆けた。猛烈な速度で路地を駆け抜け、タクシーを跳び越え、花木を踏みつぶして行く赤い背中は、遠くもあり、近くもある。
 孤独、嫉妬、慈愛、虚無、殺戮が、慟哭となって二人の切ない距離を往来する。私の足指の幻像は前の瞬間を刻み、その瞬間に追いつく今の肉体に、やっとのことで遅れた精神が追いついてくる。最初のさいしょの瞬間に水平して久遠の時が流れている。
 女は私の妻にちがいない。妻になるだろうし、妻だったのだろう。「さあ、また後ろを振り返ってごらん!」叫んでも、夜の霞の向こう側、妻の獣のような横顔しか瞬かない。それでも、ここで走ることを止めたら、私は妻に見透かされた短い最期の呪縛の日々を送り、妻も私へのがんじがらめの欲望天国で激しい自殺を遂げるはずである。「遅い。あなたは、のべつ、遅すぎる」と、嵐の苦しさの中で嗚咽を漏らしながら私を幾度も責め苦する妻の目からこぼれたであろう熱い滴りが私の青い頬を濡らす。それは、私の目に入ればよかったのだった。
「許してくれえ! 待ってくれええ!」こういうことになるのは予想していた  
んだ。だけど、それはおれの想定内の、ほんとうに、どうしようもないちっぽけな想定内のものだった。許してくれ。許して。許して。許して。お願い。許して。おれは、恐ろしいことをしてしまったんだと、今頃気づいたんだ。もう一度だけチャンスをくれ。つらいよ。このまま生きていても、お前しか思い出せないんだ」
「なに自己分析してんの?」
 私は完全に言語を失う。ただ、遠くからのしろい光が眩しい。どこまでも長いガードレールがぴかぴか反映する。燦々の光の中へ、妻は、けなげな体躯の影を作って全速力で駆けていった。私は、妻の影にすっかり隠れ、黒に埋もれた。呆気なく存在を失った。
 妻は、どうせ振り返ることなく、その代わりに赤いセーターを大蝙蝠の両翼のように広げたのは、ほとばしる鮮血だった。脱ぎ捨てた妻のからだは透明のきよらかな無限さを閉じ込めた不思議な輪郭となり、七つのしろい光の輪の中にとけ込んでゆく。妻の大量の血液は失せた夫のすぐ手前の瞬間の、実在の夫にべたりと叩き付けられ、結果、次の瞬間、真っ赤な、ひとがたのわたくしがそこに発生した。
 知能を失い、足るを思わず、無のみを求め尽くしたそのわたくしは「おぎゃあ」の声もあげることできない。あなた様の産み落し子としてセブン・イレブンの駐車場に転がった。
 朝も来ないうちから、私をじろじろ見るものがいる。私を揺らすものがいる。私を蹴るものがいる。私を食べるものがいる。私を育むものがいる。私を廃すものがいる。私を生かすものがいる。私を愛するものがいる。誰でも構うことなく、私を愛せ。狂って死ね。



(2009,3,6)


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