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蛍の記憶

一.送りましょうか 送られましょうか 寺が鼻まで 時雨に濡れて 昔ゃお六と 昔ゃお六と桂姫

二.月が出たぞえ 木陰に入ろか ままよ渡ろか 坂戸の橋を お六甚句で お六甚句で水鏡

三.吹雪く窓なりゃ 届かぬ想い 心細かな 縮の綾を 織って着せたや 織って着せたや 主が肩

四.百姓大名じゃ 兼続様は 尻をからげて 田草もとりゃる 峰にゃ松風 峰にゃ松風玉日和

五.おらが娘の 器量を見やれ 燃えて溶かした 高峰の雪を 袖に掬って 袖に掬って玉の肌

六.お六恋しや 姫様桂 会えぬこの身が 川瀬を焦がす 蛍呼ぶなら 蛍呼ぶなら寺が鼻
(新潟県民謡:お六甚句)

 戦国の乱世も豊臣秀吉の小田原攻めにて収束し小康状態を得た時分。
 越後国の春日山城下にある上杉家家老、直江兼続の屋敷を珍しい客人が訪ねて来たのはそんな頃だった。

 一日の政務を終えて自邸へ戻り書斎で書き物をしていた兼続が俄かに騒がしくなった邸内と、廊下を進んで来る家人の慌てたような足音にふと書きかけの書状から目を上げる。
「騒がしいな。何があったのだ」
 いそいそと歩いて来た家人が膝を折って書斎の主人に声を掛けるよりも早く、兼続の落ち着いた良く通る声が彼に尋ねた。
「は、それが京からお客人が参られまして、ご主人様にお目通り願いたいと」
「客人。どなただろう」
 兼続は手にしていた筆を硯箱に置くと廊下に膝をついている家人をちらと見た。
「それが…お名前は故あってどうしても明かせぬと仰るのです」
 弱りきった様子の家来の様子に、兼続がふむ、と文机を押し退けて家人と真っ直ぐに向かい合う。
「そなたその者の顔は見たか。いつもこの屋敷に出入りする者ではないのだな」
「は、私もちらとお姿を拝見いたしましたが覚えがありませんでした」
 兼続は生真面目に重ねて問うた。
「名を明かせぬような者が一体何用で私の所へやって来るのだろう。そなたが覚えていないだけではないのか」
 主の言葉に、まだ若い家人は滅相も無い、と大きく左右に首を振る。
「あのような美しい方、一度でも目にしたら忘れられようもありませぬ」
 む、と兼続の秀麗な眉が顰められた。
「その言い様は、もしやお客人とは女人なのか」
 兼続の問いに、家人はお心当たりがおありで?と顔を輝かせたが、生憎と愛だ愛だと騒ぐ割には色恋に疎い朴念仁で通っている兼続には京から遥々名を伏せてまで自分に会いに来る様な佳人にはとんと心当たりがなかった。
 それでも余り客人を待たせるのは不義だ。
「よい。会おう」
 兼続は狐に抓まれたような気分になりながらも腰を浮かせた。家人は一足先に『美しいお客人』を客間に案内するため小走りに下がって行く。
 庭に面した廊下を歩きながら、兼続は客人について思いを巡らせた。
 京にいる知己の女性。
 真っ先に思い浮かべたのは太閤秀吉が愛妻、ねねの方であるが彼女にはわざわざ越後までやって来る必然性がない。兼続は秀吉だけでなくねねにも気に入られており、常々顔を見せに来いと言われる一人ではあったが、身分の差を考えればどう考えても会いたければ兼続を京まで呼びつけるのが筋だ。
 他には幸村の忍びのくのいちと、北条の臣下でありながら今回の小田原仕置きで特別に赦された甲斐姫がいたはずだが、家臣の言っていた『一度でも目にしたら忘れられない』程の美人かと言われるとどうだろう。兼続の眼から見ればまだ少女の域を出ない『可愛らしい』彼女らなのだけれども。
 猛将の誉れ高い本田忠勝の娘御の稲姫は確かに見目麗しいと兼続も思うが良人の真田信之と共に嫁ぎ先である上田の城に戻った筈だ。
 と、なればあと京に居るのはまだ国元に戻っていないと聞く立花誾千代か。
 兼続は戦場を駆けるあの凛とした横顔を思い出して少し頷いた。確かに彼女は美しい。戦場での彼女の勇姿を一度見たら忘れられないというのも頷ける。
 しかし彼女がわざわざ越後くんだりまで自分に何用だろうかとやはり釈然としないものを感じながら、既に客人が通されている客間の襖を開けた時、兼続は客人が誾千代でもないことを知った。
 兼続の視界に飛び込んで来たのは眼にも綾な美しい装束を身に着けた女。京から来たと聞いていたが、彼女が纏っているのは質素な旅姿等ではなく大名家の姫君が身に着ける様な美しい絹だ。
 煌びやかな衣装と好対照に、女は楚々とした仕草で控えめに手を突き礼をしたまま俯いているため兼続からは顔立ちは窺えない。
 しばし呆然と立ち尽くしていた兼続は、先程の家人の控えめな咳払いで我に返った。兼続が上座に座らなければ彼女はずっと頭を下げ続けていなければならない。
 柄にもなく取り乱したようになりながら、兼続はすっと低頭する女性の向かいに座った。
「お待たせいたした。私がこの屋敷の主、直江兼続」
 兼続の名乗りに、女は低頭したまま涼やかな声で応える。
「存じあげておりまする。直江様とわたくしとは一方ならぬ間柄にございますれば」
 兼続がはっとしたのと同時に、がた、と縁側で大きな音が上がった。使用人の誰かが驚いて音を立てたのに違いない。
 兼続は家人の躾を厳しくせねばなるまいと苦々しく思いながら人払いを命じた。
「さて、これで宜しいか?」
 そう訊ねる兼続の口元は笑っている。
「愛と義を標榜する兼続様のご家人にしては不調法なことですこと」
 涼やかな声に痛烈な皮肉を乗せながら、女が顔を上げる。
 抜けるような白い肌、整った目鼻立ち、薄く紅を引いた唇。鴉の濡れ羽のような漆黒の長い髪は髢だろう。
 そこに美しく座しているのは紛れもなく。
「三成」
 兼続が女装した三成の手を取らんばかりに喜んで親友の名を唇に乗せた。それをさっと帯から抜き取った女物の雅な扇で打ち据えて、直江兼続の親友石田三成は澄ました顔で首を左右に振って見せる。
「さても面妖なことを仰いますな。石田治部少輔様がどこにいらっしゃると仰るのですか兼続様?」
 聡明な兼続はそれだけで三成の意図を汲んだらしく大人しくじりじりと下がって客と主の距離として妥当な位置に腰を据えた。
「いやすまない。ふとあなたを見ていたら遠く離れた大切な友のことを思い出しまして」
 構いませぬ。三成はしれっとそんな風に返して暫くこの遊びを続けるつもりらしい。他愛無い言葉遊びだけれども、それは兼続にとっても久方振りに面白いと思える遊びだった。
「確かにあなたとは私が京に上洛した折、いやそれ以前よりの間柄。なのに何故でしょう。私にはあなたのお名前一つ思い出せないのです。きっと先の上洛の折、去り難い想いが私にあなたに関する一切の想い出を京に残して来させてしまったのでしょう」
 三成は先程兼続の顔を打ち据えた扇をざっと開いて口元を隠し、よよと泣く真似をしてみせる。
「ああ兼続様。わたくしの事など覚えておられないと仰いますのか。あれ程この先を固く約した二人だというのに」
 無論兼続と三成が約したのはこの日の本の行く末についてだが、兼続はそう来たか、と笑いを噛み殺すのに苦心した。
「忘れてなど。どうしてあなたのことを忘れられましょうか。先程もあなたを想って、あなたに宛てる恋文を認めていたのですよ、桂姫」
「なんだ、朴念仁だとばかり思っていたが、なかなか歯の浮くような台詞も吐けるではないか」
 そこで興を削がれたか、三成は急にがらりと口調を変えていつものようにややもすると尊大と受け取られかねない態度でぱちん、と扇を閉じた。
 兼続は三成の豹変振りに声を上げて笑いながら弁解する。
「まさか。相手がお前だと思うから言えるまでだ。このような言葉、生まれて初めて言ったぞ」
 どうだか、と何故だか不機嫌そうな三成を無遠慮にじろじろと凝視して、兼続は感嘆の声を漏らした。
「いや、どんな事情があったかは解らぬが、これは上手く化けたものだなあ。不覚にもお前の声を聞くまで解らなかったよ。先程のように猫を被っておれば誰もがおなごと思うだろうな」
 声で解った、という兼続に、三成は幾分機嫌を直したらしい。
「猫を被るというのが気に食わないがまあ許してやろう」
「被っておったではないか、特大の猫を」
 くすくすと笑う兼続につられて三成も紅を引いた口元を柔らかく綻ばせた。
「久しいな。息災であったか」
「見ての通りだ。三…桂姫も恙無いようで何より」
 姿は女性にしか見えないが、中身はいつもと変わらぬ三成だ。兼続はつい名を呼びそうになって、先程咎められたのを思い出して言い直す。それへ三成が怪訝そうに眉を顰めた。
「さっきから気になっていたのだが、その『桂姫』というのは俺のことか」
「他に誰かがいるか?」
「何故『桂』なのだ」
 問われて、兼続はうむ、と腕組みをした。
「何故と言われても困るが、お前を見てふと浮かんだのがその名だった。名を呼んではならぬと言われたがやはり呼び名がないと不便と思いそう呼んだまでのこと」
 三成は兼続が自分を見て、どうしてその名が浮かんだのかを知りたいと思った。それは常日頃周囲から言われ、また自分でも納得している、何事にも執着しないという彼の性格に少しく反することである。
 むすっと黙り込んだ三成を余所に、兼続はつらつらと立て板に水の勢いで纏まらぬ頭の中を整理するかのように良く回る口に出してその理由を考え出す。
「そう言われて見れば何故だったのかな。お前のその装いと容姿にはもっと華やかで艶やかな名が相応しかったかも知れぬのにな」
 何気ない調子で話す兼続の言葉を聞いている内に、三成が突然扇を開いて口元を隠した。兼続はというと三成の様子には頓着せずにじっと女装姿の三成を見つめたまま尚も喋り続けている。
「うん、恐らく見た目では無かったのだろうな。私はお前の容姿が少しく変わった所に名をつけたのではなくて、お前の中身に名をつけたのだろう」
 三成は扇で顔半分を隠したまま兼続を見つめている。
「多分、京で共に見た桂川。名の元はあれではないだろうか。あの時見た桂川の流れは大変に美しかったし、流れの速い所とゆっくりな所、一筋の同じ流れでありながら様々な表情を見せてくれたであろう?それをお前のようだと思ったのだ」
 そこまで一気に言い切って、すっきりした、とでも言いたげににこ、と笑った兼続からとうとう三成は顔を背けた。また機嫌を損ねたかと思った兼続は三成に向かって更に言い募る。
「悪い名ではないと思うが。明国の古い書物にも桂について書かれているぞ。こちらは植物の桂ではあるが、月に輝く高き理想を示す木なのだという。これもお前にぴったりではないか」
「ええい何時もながら貴様の物言いは恥ずかしいのだよ!」
 耐え兼ねたように扇を外して三成が怒鳴ったが、露わになったその美しい顔は一面朱を刷いたように真っ赤だった。
「恥ずかしいものかな。私はそう思ったからそのままを口にしているだけなのだが」
 まるで天気の話をするかのようにそう自然に返して来るものだから、三成は心中でこのど天然が!と思う様悪態を吐いた。
「もうよい。疲れた。何とでも呼ぶがいい」
 げんなりした様子の三成を気遣って、兼続は払っておいた家人を呼ぶと茶と菓子を運んで来させた。そしてまた人払いをすると改まった様子で三成に向き直る。
「さて、そろそろお前が来た用件を聞かせて貰おうか。そのような姿で遥々京からやって来たと言うのはただ事ではあるまい」
 三成は出された饅頭を一口齧り、出された茶を殊更ゆっくりと飲んでから落ち着いた態で話し始めた。
「何か大事が起きたという訳ではない。豊臣では小田原の仕置きが終わり一息ついた所だ。後は小さな抵抗勢力を一つずつ鎮撫していけばよい」
 抵抗勢力。
 兼続の脳裏に一人の男が浮かぶ。
「…伊達の…」
「政宗の扇動したと思われる一揆では当然伊達に沙汰がある筈だったが、奴の花押入りの書状という動かぬ証拠がありながらあの男図太い神経で偽物と言い逃れお咎めなしだ」
 三成がさばさばした口調で端的に答えると、兼続は束の間口を噤んだ。
 山犬らしい。沈黙の後そう呟いた兼続の浮かべた表情は、付き合いの長い三成から見てもどのような感情が篭っていたのか解らなかった。
 しかしそれも一瞬で、直ぐに兼続は三成の眼を真っ直ぐ見つめる。
「それで、上杉も領内を良く治めよと、そう言いに来たのだな」
「まあ、そんな所だ」
「しかしそれ位のことならば書簡で事足りるではないか。直接お前が来て釘を刺されるほど我ら上杉の忠義は薄いと思われているのか」
 秀麗な眉を顰めた兼続に、呆れたように三成が大きく溜息を吐いた。相変わらずこの風変わりな所のある友は骨の髄から義に染まっている。
「そうではない。秀吉様は上杉…分けてもお前には全幅の信頼を置いている。今回俺がこうしてやって来たのは別の理由だ」
「別の?」
 全く思いもつかないといった様子の兼続を三成は憮然と睨みつける。長い付き合いで慣れたつもりではあったがやはりこの男の、人の心の機微に関する鈍さには苛々させられる。
 三成は半ば自棄のようになりながらまた扇をざっと開いて直ぐに閉じ、殆ど喧嘩腰で兼続に言った。
「俺がお前に会いたかったのだよ!悪いか!」
 突然の三成の告白に眼をぱちくりさせていた兼続が、ふっと愁眉を開いて破願する。
「そうだったのか。それならそうと早く言ってくれれば良かったのに。会いたかったのは私もだ、遥々会いに来てくれて本当に嬉しい」
 何の衒いも無くさっぱりと言う兼続に、今度こそ真っ赤に顔を染めた三成はぽつりぽつりと事のあらましを語りだす。
「小田原までずっと働き詰めだったろうと秀吉様とおねね様が仰ってくれたのだ。小田原仕置きも終わったし、天下も粗方治まった。少しは休んではどうかと言われたのだが京ではどうにも仕事が気になってゆっくり休む気にはなれん。かと言って行きたい所があるでなし。しかも遠くまで行くと時間がかかる」
 そこで三成は言葉を切って照れ隠しのように手にあった残りの饅頭を一口に放り込んだ。そんな三成を微笑を湛えて見つめる兼続を半ば睨みながら、饅頭を嚥下した三成がぽつりと零す。
「しかしただ一人、会いたいと思った奴がいたのだ」
 こくりと、兼続が頷いた。
「しかしその者は遠く越後に居り、会いに行くとなれば一月は京を空けねばならんだろう。石田治部が京を空けて長く不在というのもまだ千代に磐石とは言い難い現状では巧くない。そこで、京には影を置いて行くことにした」
「成る程、石田三成は京にいる。越後になど居てはならぬとそういうことか」
「それだけではないぞ。徳川の狸がちらちらと天下を窺っているのだ。奴に俺とお前が越後で密談していたなどと知られて見ろ、でっち上げも甚だしく何かの火種にならぬとも限らん。あれはそういう食えん狸よ」
 然り。と兼続が頷いて大分温んだ茶を啜った。
「それでおなごの形をしてきたと言う訳か。家の者達もお前には幾度も会っている筈だが誰一人気付いた風も無かったな。本当に上手く化けたものだ」
 三成はそれには答えずにずず、と茶を飲んだ。傍から見るとまるで男とは思えないその姿を、兼続はううむと唸ってじろじろと眺めている。
「その策はお前一人で考えたのか?」
 途端に三成の美しい顔が渋くなった。
「それとも左近殿の献策かな?」
 何の悪気もない兼続に、三成は不機嫌そうにしながらも肯定を返す。
「半分は当たりだが、もう半分の発案者はおねね様だ」
 三成の語る所に拠れば三成が女装するに至った経緯はこうだ。
 小田原攻めの後、京に戻った豊臣家はいつになく平和な空気が流れており、御台所たるねねが忍びとして良人の秀吉を支える必要もなくなっていた。つまるところねねは暇を持て余していたのである。
 そこへ降って湧いたような三成のお忍び越後旅行が持ち上がり、三成の影武者を立てるという左近の献策が採用された。それを聞き及んだ聡明な『母』ねねは、念には念を入れるべきだと力説し三成に変装を薦めたのだが、何のことはない退屈しのぎに三成を着せ替え人形にして遊びたいというのが本音である。
 ねねには頭が上がらないばかりか意見も出来ないというのは子飼いも含めた豊臣家の伝統であり、かくしてねねは三成で心ゆくまで人形遊びを堪能したのだが。そこで終わらないのが流石天下人の奥方と言うべきか。ねねの暇潰しは着せ替えだけに留まらず、三成は政務の合間を縫って化粧の仕方や着物の着方、女性らしい所作に至るまでみっちり叩き込まれ、その様は普段三成と衝突する事が多い加藤清正、福島正則ですら同情したとかしないとか。
 その稽古を思い出してかげんなりしている様子の三成に、思わず兼続が快活に笑う。当然の様に三成がむすっと膨れると、兼続は慌てたように話題を変えた。
「それで、桂姫。越後へはどの位滞在の予定なのだ?」
 二人で語り合いたいことはそれこそ山のようにある。先程兼続が恋文を書いていたと言うのも満更嘘ではなく、三成宛の書状を認めていたのだ。
 三成はうむ、と小さく頷いて紅を引いた形の良い唇を開く。
「今宵一晩城下に泊まり、明日には立つつもりだ」
「何、明日だと!?」
 兼続は驚いて三成の方へいざると上質の綾から覗く白い手を掴んだ。三成がもう少しで茶碗を取り落としかけたのにも気付かぬように、兼続は年端の行かぬ子供のように熱心に三成の眼を覗き込むようにして言い募る。
「なんと!たった一日!?聞かせたい話も聞きたい話も山のようにあるのだぞ!しかも城下に泊まると言ったな。何故だ、此処に泊まれば良かろう!」
 そうまで言われれば三成とて悪い気はしない。しないが、呆れたように己の手を握って離さない兼続の手をぺしり、と叩いた。
「阿呆か。中身はどうあれ俺の形はこうなのだぞ」
 解っていない様子の兼続を諭すように三成はこんこんと言い聞かせる。
「誰とも知れぬおなごが直江兼続の屋敷に泊まってみろ、明日には春日山城下は驚天動地、大変な騒ぎになるに決まっている。お前とてあらぬ噂を立てられて肩身の狭い思いをするぞ」
「何だ、そんなことか。私は全く気にしないぞ。言いたい者には言わせておけばよいし、例え本当に私が美しい女人と懇ろになったとして、それが悪いこととは思えんな」
 だから、どうしてもここに泊まって欲しいと手を握り締めて懇願されては流石の三成も嫌とは言えなかった。心中では三成とて折角会えた兼続と夜更けまで語り合いたいと思っているのは同じなのだから。
「どこに宿を取ったのだ?供回りのものはそこに?使いをやって迎えに行かせよう」
 ここぞとばかりにてきぱきと話を進めようとする兼続に、三成は大袈裟に溜息をついて、諾の意を伝えた。ぱっと顔を輝かせた兼続だが三成は構わず淡々と付け加える。
「しかし、明日出立するのは変えぬぞ。やはり京が気になるのだ。お前にも会えたし、今宵は語り明かせるならばそれで良い」
 兼続は少し残念そうな素振りを見せたが次の瞬間にはからりと笑って頷いた。
「解った。そうしよう。だが、明日の出立は朝早いぞ」
「何故だ」
 即座に三成が問い返すと兼続は三成の手を右手で握り締めたまま、空いた左手で美しい三成の姿を指差した。
「陽が高くなってから屋敷を出れば事情を知らぬ皆の好奇の視線にお前が晒されよう。私が何を言われるのも構わぬが、お前にそのような思いをさせるのは不義だ」
 だから、まだ夜が明け切らぬ内に出立しよう。
 その言葉尻を捉えて三成が訝しげに訊いた。
「何だ、お前も一緒に出掛ける様な口振りだな」
 その通りだと兼続が笑う。
「私も明日はお前と共に送れる所まで送って行こう。さすればお前と少しでも長く居られるからな」
 まるで恋人同士のような言い草に、顔を赤くした三成は今度こそ兼続の手を振り払った。それを一向に気にしない兼続はにこにこと邪気の無い笑顔を三成に向ける。
「早く出る分、急がずとも良かろう。少し遠回りにはなるが是非お前に見せたいものがあるのだよ、三…桂姫」
「お前がそこまで言うなら好きにするがいい」
 まだ顔を赤らめたままの三成の口から出て来るのは可愛らしくない言葉だったが、兼続は嬉しげになって家人を呼んだ。

おらが娘の 器量を見やれ
燃えて溶かした 高峰の雪を
袖に掬って 袖に掬って玉の肌

 その後、有能な上杉家筆頭家老殿は実城に走り主君である上杉景勝に五日の休みを願い出て許されると共に瞬く間に『桂姫』の客間の用意、城下にいる供と荷の迎えと実に手際よく一切の手配を済ませてしまった。
 主人を愛する直江家のご家来集は美しい『桂姫』と仲睦まじい様子の兼続を見て皆諸手を上げて歓迎し、これで直江家も安泰と『桂姫』を下にも置かぬよう丁重にもてなした。中には喜びの余り涙ぐむ老婆さえ居て『桂姫』こと三成は酷く居た堪れない想いで長年の友人について考える。
 兼続は雪国の生まれらしく男ではあるが肌の肌理も細かく鼻梁の通った整った顔立ちをしている。慶次と並ぶ事が多いから余り際立って目立ちはしないが背丈も高く、戦場で剣を振る兼続の身体は無駄の無いしなやかな均整の取れた身体つきだ。
 性格は清廉で真っ直ぐ。時に義だ愛だと煩いことこの上ないが頭の回転はこの自分が認めるほどに早いし、主君である上杉景勝のみならず天下人・太閤秀吉の覚えもめでたい。
 やっかみを含めて欠点を多めに差し引いて見たとしても男として申し分無いと思うのだが、本人にはその自覚は全く無いようで京で慶次と孫市に遊郭に連れて行かれたときも酒席で飲んでそのまま帰って来たらしい。
 衆道の気でもあるのかと思ったが見目美しい若い小姓を傍に置いているという話も聞かないのでどうもそういう訳でもなさそうなのだ。
 しかし兼続は樋口家から直江家へ養子に来たのだから直江の家を存続させるためにも妻を娶って子を成すべきなのに当の本人が一向にそんな素振りを見せないのだから家人達は随分気を揉んでいる様子。
 主である景勝も兼続の世継について何も言わないらしいので家人は相当困っていたのだろう。
 これは、だからだ。そうに決まっている。
 と、三成は湯殿から上がって女物の浴衣を纏い自分の部屋と決められた部屋へ戻って来た所で頭痛を覚え、こめかみを抑えて障子に凭れた。
「ああっ、お方様お加減がお悪いので?」
 嬉々として三成の世話を焼いていた使用人頭の老女がふらりと眩暈を起しそうになった三成を見て医師と薬師を呼びに行こうとするのを慌てて止めて、三成は演技でなく顔を真っ赤に染めて蚊の鳴く様な声で頼む。
「あの、その『お方様』と言うのは止めて頂けないでしょうか…」
「なんの、こちらではもう準備万端に御座いますよ。旦那様も直ぐに参られます」
 なんの準備が万端なのだ!と心の中で喚いたが詮無き事。家人の誤解は止まらない。
「いつになれば旦那様はこの老体に若様を抱かせて下さるのかと気を揉んで参りましたがほんに今日は良き日ですこと!お方様のようなお美しい方をお連れになって、皆喜んでおります」
 このままでは本当に兼続の嫁にされてしまう。三成は真っ赤な顔で部屋の中央に敷かれた一組の布団に眼を遣った。
 そこには上等な羽二重の褥が延べてあり。
 当然の様に枕が二つ並べられている。
「いえ、そうではなくて…」
「姫。どうされた?」
 折悪しく(と、三成には感じられた。)廊下の先から同じく湯浴みを終えたらしい兼続が寛いだ部屋着姿でやって来たので老婆は訳知り顔に一礼すると下がって行った。
 恐らく明日の朝まで誰もこの部屋の周囲には近づかないのだろうなと思うと三成はどっと疲れて兼続に当り散らす元気もなく大人しく部屋に入る。そんな三成に続いて部屋に入った兼続が、障子を閉めながらふと気がついて三成に向き直った。
「どうした、顔が赤いな。湯当たりでもしたか?」
 すっと兼続の大きな掌が三成の額を覆って心配そうな兼続の顔が間近にある。何かが三成の中でぷちっと切れて、思わずいつものように癇癪を起こす。
「どうもしない!だがそれもこれも皆貴様のせいなのだよ!」
「はっはっは、おかしな奴だな。どうもしないのに私のせいか。まあ少し落ち着いて座ったらどうだ桂姫。お前のために取って置きの酒を用意したぞ」
 これぞ正に馬耳東風。兼続はからからと笑って一つしかない布団になど眼もくれず畳の上に直に胡坐をかいて座ると朱塗りの杯を一つ三成に差し出した。
 最早鈍いのかなんなのか。三成は呆れてしまって怒りも忘れる。この男に憤っても仕方あるまい。そもそも自分が女の形をしてやって来たのが悪かったのだろう。
 そう自分に言い聞かせたが、それでもちくりと厭味の一つも言いたくなる。
「貴様は本当に朴念仁だな。家人達が気の毒になってくる」
「うん?」
「こっちの話だ」
 まあ呑めと兼続が三成の杯になみなみと越後の酒を注ぐのに、大きな溜息を零した三成は気紛れに朱杯に満たされた酒を三度に分けて飲み乾した。
 返杯にと銚子を取って兼続の杯に注ぎながら平静を装って聞いてみる。
「時に、お前妻帯せぬのか。直江の家を継ぐ者が必要であろう」
「それはお互い様と思うがな」
 一息に杯を空け悪戯っぽく笑う兼続に、それもそうかと納得しかけた三成だったが慌てて首を横に振った。
「皆が俺をおなごと思って喜んでいるのをみて本当にお前何も思わんのか。それは不義ではないのか」
 兼続は手酌で自分の杯に酒を注ぎながら常に無く大人しく頷いた。
「解っている。しかし、まだ私には他に成すべき事が山とあるのだ。いつか真に天下泰平の世が来たら、その時は次の世代を育てることを考えねばならぬと思っている」
 ちくりと、胸に棘が刺さったような気がして三成はついと眼を伏せた。
 当然だ。兼続とて今のままでいいとは思っていない。いつかは妻を娶り、子を成すのだろう。それが自然で、そうあるべきだ。
 なのに、それを喜べない自分は何なのだろう。
『いつかお前に嫁を紹介される日が来るのかな』
 喉まで出掛かった馬鹿げた言葉は酒と一緒に呑み下した。
「いい呑みっぷりだ。さあ呑もう。我らに残された時間は長くないぞ」
 兼続が珍しく茶化すようにそう言って、いつもの空気が二人を包む。
 一を語ると十伝わる。十を語ると百伝わる。まるで己の半身であるかの様に自然にそこに在る。
 とても一晩では語り切れない積もる話がふと途切れた時、兼続はまじまじと三成を見つめた。視線に気付いて三成が眼を上げれば、真摯な眼差しの兼続と眼が合った。
「私は最近思うのだ。遠き国で別々に生を受けた我らがこうして知遇を得、一方ならぬ友誼を交わした。これも前生での縁の賜物だろうか」
「袖振り合うも他生の縁、か?ならば来世はどうなっているのだろうな」
 仏教の教えでは命は巡る。輪廻という輪を廻り続けて、命は始まって終わる度に転生を繰り返す。そして近しい魂は次の生でもまた近しい縁を結ぶという。
 三成は何故だか可笑しくてふふ、と声を上げて笑った。今の自分が前生を覚えていないのと同じように、来世の自分も今生を覚えてはいないだろう。
 三成は自分の想いに気付き始めている。
 多分、これは簡単に名を付けてしまえる想いだ。
 しかしこの想いは今生では叶う事は無いだろう。
 今生で結ばれることが無くとも、来世でまた会えるといい。
 そして、願わくば今この時のこの想いを覚えていたい。
「来世でも、私はお前に会えると信じているよ」
 そう言ったのは三成ではなく兼続の方だった。微笑んだ兼続の顔は月明かりに照らされて例えようも無く美しかった。
「お前がそれを言うのか」
 全く、お前には敵わんな。
 華が綻ぶように三成が笑った。


百姓大名じゃ 兼続様は
尻をからげて 田草もとりゃる
峰にゃ松風 峰にゃ松風玉日和

 翌日、『桂姫』とその従者、そして直江兼続はまだ夜も明けやらぬ内に春日山の直江屋敷を出立した。
 眼にも綾な絹から質素な旅装束に着替えた三成は市女笠を目深に被り、見た目には唯の旅姿の女にしか見えない。馬が一頭、供の者が二人。それに兼続と彼の愛馬の道行きである。
 馬に揺られながら三成は疲れたように溜息をついた。
「どうした、桂姫。流石にまだ眠たいか」
 東の空が白々と明けて来たのを見ながら、兼続が笑いを含んだ声で聞く。
「眠いのなら眠ってしまっても構わないのだぞ」
 返事をする気も起きなくて、三成がそっぽを向いたまま黙っていると兼続の快活な笑いが直ぐ傍でした。
 それもその筈、三成は兼続に横抱きにされてぴたりと密着した姿で兼続の愛馬に揺られているのだから。自然、手綱を取る兼続の腕の中に閉じ込められているような体勢になる。
「私がちゃんと手綱を握っているから眠ってしまっても落ちたりはせぬぞ」
 京から連れて来た馬と従者は少し遅れて付いて来ているようで、三成からは姿が見えない。
 何故こんなことに。
 三成は昨夜の酒が残っているせいか、それとも他の理由があってか白い頬を染めながら出掛けのやり取りを思い出す。
 結局遅くまで延々語り合った兼続と三成が短い仮眠の後起き出したのはまだ月が出ている内だというのに耳聡く出立の準備の音を聞きつけた家人は揃って起き出して来て、三成の出立を引き伸ばそうとあの手この手で引き留めようとしたが屋敷の主たる兼続がやんわりとたしなめると不承不承引き下がってくれたのだが。
 いざ出立という段になり、来た時と同様に従者の一人に馬の轡を取らせて騎乗しようとした時家人達が悲鳴を上げた。
『お止め下さいませお方様!お一人で馬に乗られるなど!もし馬が躓いて落馬でもしたら如何致します!!』
 ではどうしろと言うのかと困り果てて兼続を見上げると、既に馬上の人となっている兼続が三成に向けて手を差し伸べている。
 その手を取ったのが果たして自分自身だったのか三成には自信が無い。気付けば三成の身体は軽々と兼続に横抱きにされて掌中の玉を慈しむが如くに優しく腕の中に閉じ込められていた。
 それからずっと、兼続は抑えた声で他愛の無い話をしながら馬を歩かせている。何しろまだ夜も明けやらぬ内なのだ。春日山の城下を抜けるまで、町民の眠りを妨げぬよう控えた声は優しく触れ合った身体伝いに響いて来る。
 それらの全てに上の空の相槌を打ちながら、三成は段々明るくなる辺りに落ち着かな気に顔を伏せている。その様子をどんな風に曲解したのだか、民家も疎らになった頃合を見計らって兼続がすっと三成の市女笠を取り去った。
 ぱっと広くなる視界。驚いて見上げるその先に、嫌になる程明るい笑顔の兼続の整った顔があって。元からほんのり紅みがかっていた三成の顔にぼっと火が燃えるように朱が差した。
「笠が邪魔で風通しが悪かろう。顔が火照っているぞ桂姫」
「な、ち、お、兼続!」
 動転した三成は赤い顔のまま何事か意味を為さない言葉を発しようとして結局己の顔を至近距離で覗き込んで来ている男の名しか満足に声に出せなかった。兼続はというと平然と三成の従者に市女笠を手渡してまた何事も無かったかのように馬を歩ませる。
 赤い顔を恥じて顔を俯かせたまま黙ってしまった三成に、兼続は早、見渡す限りの田畑になった越後路を示す。
「桂姫、そう俯いてばかり居ないで私の愛する越後を見てくれないか。まだ田はようやく穂が揃ってきた所で収穫には遠いが、今年の実りは上々なのだ」
 そう言う兼続の声に三成が眼を上げると朝日を受けて何とも言えぬ色合いで輝くまだ青い稲の海が広がっていた。
 越後のことは兼続から今まで幾度と無く話には聞かされていた。しかし、こうして己の眼で見、己の耳で聞き、己の五感全てで感じるのは三成にとって殆ど初めての体験だった。
 これがこの男の愛する土地。
 そう思うと三成には眼の前の景色が尚のこと特別に思えて来る。
「…美しいな」
 ぽつり、と零した言葉に兼続が嬉しそうに大きく頷く。
「そうであろう!お前にこの地を見て貰いたかったのだ!」
 清々とした良く通る声が本当に間近で聞こえる。まだ明け方の涼やかな風が三成の結った髢を揺らした。
「お前が言っていた、私に是非見せたいものというのはこの越後のことか」
 昨夜の会話を思い出し、ようやく顔から朱が引いた三成が兼続を見上げると、薄灰色の聡明な瞳と眼が合った。
 しかし兼続は口元に笑みを乗せながらゆっくりと首を横に振る。
「これも確かにお前に見せたかったものの一つではあるが、目的のものとは少し違う」
「ではそれはなんなのだ」
 尚も訊く三成に答えることはせず、兼続は笑いながらそよ風が乱して行った三成の髢のひと房を細く筋張った指で梳く。
「それは着いてのお楽しみという奴だ」
「随分気を持たせるな」
「そうせっかちにならずたまの休み位ゆったりと構えていたらどうだ、桂姫」
 馬上の二人は一瞬互いに眼を見合わせて、それからさやかに笑い合う。
「そうかもな。では楽しみに待つとしようか」
 三成が先程までとは打って変わって随分と気楽な様子になったのに、兼続は満足気に微笑んだ。どうせ周りには一面に田畑が広がるばかりなのだ。何を恥じることもない。供に連れて来た二人も、行きは手持ちだった荷物を今は三成の馬に載せて貰えるので徒歩といえども足取りは軽い。
「今日の内に山向こうまで行くつもりなのだ。松代の街には私の父が城主を努めている直峰城がある」
 何気ない兼続の口振りに、直江屋敷で懲りたのか三成が血相を変えた。
「まさか今日はそこへ泊まるつもりなのか!?」
 血の気の引いた三成の様子が面白く、兼続が快活に笑い飛ばすと触れ合っている三成の肩を伝って暖かな振動が伝わって来る。
「いいや。父上には悪いがどこか城下で宿を取ろう。お前を連れて行けばお小言の雨あられであろうからな」
 直江屋敷の皆の小言は気にならなくても流石に父親の小言は嫌と見える。三成はそんな兼続の様子に笑みを零した。
「お前にも人並みにそのような感覚があったのだな」
 意地悪く話を蒸し返してつついてやると、当然だと言わんばかりに兼続が頷く。
「当たり前だ。いつまでも身を固めず父上に孫の顔一つ見せてやれぬのは不義だし不孝だ。私とて父上に孫の顔を見せてやりたいとは思っているのだが、な…」
 自分で振った話の筈が、何故だかちくり、と三成の胸の辺りが痛んだ。珍しく言葉尻を濁す兼続の様子もこの話題では余り見たくはないものだった。
 この胸の痛みも、この何とも言い難い切なさも、名を付けるのは簡単だ。
 もう、開き直ってしまおうか。半ば投げ遣りに三成は思う。
 己がおなごであったならば良かったのだろうか?
 もしも、己がおなごであったら兼続は己を妻としただろうか。またその逆で、兼続がおなごであったら己は兼続を妻としただろうかと考えて、三成は埒もないと自分でその考えを打ち消した。
 もしも同じ土地に生を受けていたならばそうなっていた可能性も無いとはいえない。しかし二人が生まれ育ったのは遥か遠い越後と近江の二国である。例えどちらかがおなごとして生まれていてもきっと出会うことは無かっただろう。
 けして結ばれず、何も残せぬ二人だからこそ出会えたのだとしたら何と皮肉なことか。
 三成の脳裏に兼続の昨夜の戯言が浮かんで消える。
『来世でも、私はお前に会えると信じているよ』
 そうだといい。
 次があるというのなら今度は友情以上の絆で結ばれることが出来るようにと三成は祈らずには居られなかった。

 道中他愛も無い会話を続けながら、一行が休憩にと馬を止めたのは山越えの間際の開けた野原であった。陽は調度中天に差し掛かりかけている。
「ここから先は山道になる。少し休んで日暮れ前に超えてしまおう」
 さっと下馬した兼続が、極自然な動作で三成を馬から抱え降ろした。
 三成の供の者が荷の中から昼食にと直江の家人が包んで持たせてくれた竹の皮に包んだ握り飯の弁当を二つ持ってくる。
「すまんな。越後の山はなかなか厳しいぞ。お前達もゆっくり休んでおけ」
 兼続の人好きする笑顔に、京から伴った家臣もつられて微笑んでいる。その様子を視界の隅に納めながら三成は座るに調度良い倒木を見つけてそこへ腰掛けた。
 春日山は既に遥か遠くへ過ぎ去って、何枚もの薄い紗を掛けたように小さく薄ぼんやりとしている。今まで歩んできた道を振り返ってみれば、昨夜兼続の申し出を受け入れて良かったと心の底からそう感じた。
 もし今ここに兼続が居なかったとしたら、きっと自分は小さく、遠くなって行く春日山を振り返ってばかりいただろう。
 三成の中には呆れたように、天下の治部少輔が何をという理性もまだなけ無しながら残っていて自嘲するしかない。
「何を笑って居るのだ?」
 頭上から聞き慣れた声が降って来て、今汲んできたばかりらしい冷たい竹の水筒を渡される。別に、と素っ気無く答えて水筒の中の水を口に含めば身体の中に一筋の涼やかな流れが出来た。
「唯の水でも旨いだろう。越後は雪深い国だがその降り積もった雪はやがて融けて水となって人の暮らしを潤すのだ」
 ひょい、と三成の手から水筒を取り上げた兼続はそれを己の口元に運びながらそう言って笑う。その屈託の無い笑顔が眩しくて、三成も思わずつられて微笑んでしまう。
「この水で作る米も旨いぞ。ほら、みつ…桂姫、お前の分だ」
 もう辺りには誰も居ないというのに律儀に三成と呼ばない兼続が可笑しくもあり、好もしくもある。手を伸ばして竹皮の包みを受け取ると、兼続が釘をさして来た。
「旨い米で作った握り飯なのだから、残さずに食べるのだぞ。お前は食が細くていかん」
「お前は俺の親か」
 呆れたように呟いた言葉に驚いたらしく、兼続は鳶色の瞳を真ん丸にして三成を見つめている。それから俄かに可笑しみが込み上げて来たようで、三成の隣に腰を降ろしながらくすくすと笑う。
「親か。酷いな、私とお前は同い歳だっただろうに。せめて兄位に留めておいて欲しいものだな」
「親でも嫌だがこのように口煩い兄も願い下げだな」
「そうだな、私もこのように可愛げのない弟は願い下げだよ」
 軽口を叩き合いながら二人仲良く並んで昼飯に齧り付く。
 青空の下で食べる握り飯は旨かった。
 三成は竹包みの中の大ぶりの握り飯二つをぺろりと平らげ兼続を喜ばせただけでなく、もっと喰えと勧められるまま兼続の食べ掛けの握り飯まで難なく胃に納めた。
「食の細いお前がそれ程に喰うとは珍しい」
 次の新米が収穫出来たら京に送ってやろうかと兼続が眼を細めて笑いかけて来るが、三成は多少のバツの悪さを感じてふいとそっぽを向いた。
 握り飯が旨かったのは確かだが、二つ半も食べる程に旨く感じたのは多分越後の米だからだけではない。
 隣に兼続が居たからだ。
 兼続の前では上方に居る時の様に気を張っている必要も、気忙しくあれこれと考える必要も無い。兼続の傍では三成は様々な重荷を負わずに居られるのだ。
 出来る事なら兼続とずっと共に居たいと三成は思う。
 しかし己が秀吉の下を離れる事が出来ないように、兼続もまた上杉家を離れる事は出来ないだろう。もしも兼続が全てを捨てて上京し三成と共に生きる事を選んだとしても、多分それは三成の望む『兼続』ではないだろうとも思った。
 直江兼続は上杉謙信の薫陶を受け、上杉家と上杉家の貫く義の為にのみ働く。
 何故だか知らないが己はそんな男に惚れたのだ。
「難儀な事だ」
 三成はそうぽつりと呟いて、兼続に聞き返される前に立ち上がる。
「陽が暮れる前に山を越えるのだろう?」
 草と水を貰って充分に休んだらしい兼続の愛馬の鼻面を撫でながら三成は兼続を振り返った。

 一行は山と山との谷間や山を流れる清水のほとりを縫うようにして続く、決して平坦ではない隘路をゆっくりと進んでいた。
 山育ちの兼続でもこの辺りの山越えには細心の注意を払う。雪が融けたばかりの春先や雨の多い梅雨等は足場も悪く道も細いので崖から沢へ転落する危険が高いのである。
 幸い今は地面も乾いているし足場は悪くは無いが山道に慣れない都会人を三人連れている。兼続は騎乗のまま上手く愛馬の手綱を操り隘路を進んで行くが、平地の様にとは行かない。
「桂姫、足場が悪くて揺れるからしっかり私に摑まっていろ」
 言うが早いか兼続は三成の肩を引き寄せ己の胸に三成の身体を密着させると自分は手綱に集中した。
 三成はといえば顔を真っ赤にして離れようとする素振りを見せたがその時兼続の愛馬が地面に落ちている小枝を嫌がって避けようと大きく向きを変えたため振り落とされそうになったので三成は慌てて兼続の腰に手を回してぺたりと顔を兼続の胸につける。
 自分の心臓ははちきれんばかりであるのに、兼続の心音は彼の人柄と同じように力強く、規則正しく脈打っている。そんな違いを忌々しく思いはしたが、三成は揺れる馬上を良いことに兼続の身体に抱きついて眼を閉じた。
 暖かい体温が二人の着衣越しに伝わって、二人の間の温度は同じになっていく。
―来て、良かったのだろうかな。
 三成は兼続の胸に顔を埋めたまま考える。
 秀吉に休めと命じられ、すぐに脳裏に浮かんだ男。会いたいと思ったのは友情と思って遠い越後にまでやって来た。しかし実際に会って見て認めざるを得なくなったのは友情とは呼べない兼続への感情だった。
 会いに来なければ兼続に対して抱く感情は友情のままで居られたのに。
 三成は自問した問に答えを出す事が出来なかった。

 兼続の言葉通り、一行は陽が沈むぎりぎり前に山を越えて松代の街へ至った。
 松代の街は京の次に栄えているとまで言われる越後の春日山城下とは比べるべくも無いが、それでも春日山へ抜けるための宿場町として数軒の宿は見て取れた。
「今日はここで一泊だ。明日は山は越えぬが山裾をずっと北上するぞ」
 兼続が一軒の宿の厩舎に愛馬と三成の伴ってきた馬を並べて繋ぎながら三成に微笑んだ。供の者は二人とも宿に荷を運び、部屋を都合してもらいに行っていてここには居ない。
「北上?おい、兼続、俺は上方へ帰るのだぞ」
 怪訝な声を出した三成に、二頭の馬の鼻面を撫でてやっていた兼続が何でもないことのように振り返る。
「良いではないか。このまま南下しても信濃へ出るが信濃から京までは山越えが続く。多少遠回りだが少し北上して上野国に出てしまえば後は関東平野を行くばかりだ」
 勿論日の本の地図なら三成の頭の中に入ってはいるが、詳細な地形については土地の者に訊くに如くはない。
 太陽は今越えて来た山の向こうへ没しようとしている。そして東の空には薄蒼い幕が降り始め、じわじわとその領域を広げ始めていた。
「さあ、姫。早く中へ入ろう。越後は夏でも朝晩は冷える事があるのだ」
 兼続の腕が自然に三成の肩を抱いて促した。極々自然にそれをやって退ける兼続に他意が無いのは三成には痛い程解っている。真っ赤になってその腕を振り払おうとする自分の方が嫌になる程兼続を意識してしまっているだけで。
「姫?」
 これ以上の醜態を晒す前にと三成は返事もせずにそそくさと宿の木戸を潜った。
「いらっしゃいませ!」
 御免と声を上げるまでも無く奥から上がった快活な歓迎の声が兼続と三成を迎え、声のした方を見れば乳飲み子を背中に背負ったまだ若い女が甲斐甲斐しく今宵の客のために忙しく立ち働いている。
「一晩世話になる」
 よろしく頼むと兼続が人好きする笑顔で言うと宿屋の女将は思わずぽっと顔を赤らめた。まさか女将も眼の前の人物が自分達の国主上杉景勝の家老であるとは夢にも思わないだろう。
「お口に合うか分かりませんけど直ぐに夕餉にしますわね。なあんにもありませんけどそれまでゆっくりなさってて下さいな、お侍様」
「ありがとう」
 あからさまに媚を売る女将もそれに笑顔で答える兼続も三成には何となく面白くない。付き合いの長さがなせる業か、三成の機嫌が悪くなったのを察した兼続がついと後ろを振り返る。
「どうした?桂…」
 おなごの様に悋気を起こした等と誰が言えようか。いや、例え言えたとしてもこの男にだけは絶対に言ってやらんと心に誓いながらも女将の手前、三成はにっこりと微笑んでゆるゆると首を横に振った。
「いいえ。どうと言うことは無いのですけれど、少し疲れたようですわ」
 巨大な猫を被った三成の言葉に反応したのは兼続よりも女将の方が早かった。
「まあまあそれはいけませんね、横になった方がいいでしょう。床を延べましょうか奥様」
 墓穴を掘るとはこのことか。三成は本当にくらりと眩暈を感じて慌てて腕を伸ばした兼続に支えられてしまった。
 自分の耳が悪くなったのでなければ、奥様と、そう呼ばれなかったか、俺は。
 思わず反駁しようとした所を兼続が額に手を当て熱を測る振りをして三成の口を塞ぐと如才ない笑みを女将に向けて言う。
「熱は無いようだ。少し座って休めば大丈夫だろう。気遣い痛み入る」
 心配そうな女将の視線に見送られ、三成は兼続を置いて宛がわれた部屋へ入った。遅れて入って来た兼続が腰に帯びていた大小の太刀を傍に置いて座るのを、そっぽを向いていた三成は気配で感じた。
「全くお前は妙な所で意地を張る」
 兼続なりに三成の不機嫌の理由を考えてみたらしい。またどうせ見当違いも甚だしいことを考えて一人納得しているのだろうから、三成はふんと鼻で笑って問うて見た。
「俺がいつ意地を張った。お前、俺の機嫌が悪いのは何故だか解っているのか」
 無論理由など教えてやるつもりはさらさら無いが、兼続は当然だとばかりに大きく頷く。
「宿の内儀に私と夫婦者と思われたのが癪に障ったのだろう?」
 やはりこいつには男女の機微なんてものは一生掛けても解らないのに違いないと三成は確信した。それと同時にまだ見ぬ兼続の嫁になる女に同情すら覚える。
 三成が返事をする気も失せて黙っていると兼続はそれを諾と取ったらしい。
「仕方が無いではないか。私と、お前と、供が二人の道行きではその筋書きが一番普通だろう。もしもそうでなかったとして、何と説明するつもりだ?」
 甚だ不本意ながら、また、三成の不機嫌の理由とは全く関係ないながら兼続の言い分は尤もだ。三成自身兼続ののんびり具合に感化されて忘れかけていたが、京を離れて遠く越後に来ている今の己は世を忍ばねばならぬのだった。
 往路では行く先々で、供を二人も連れたうら若い女人が一体何用で旅をと宿一つ取るにも散々勘繰られたものだったが、そう言えば今日は兼続が傍に居たせいでなんの問題も無かった。
 中身はどうあれ、三成の見掛けが女人に見えて、尚且つ兼続と夫婦に見えるというのであればそのように振舞う方が周囲の目もかわしやすいし賢い選択と言えた。
「…何か上手く言い包められた気がせんでもないな」
「気にするな」
 腕組みをした三成が首を傾げてぽつりと言うと、兼続が笑って応える。その暢気な笑い顔が勘に触って、三成はまたちくりと刺した。
「言っておくがな、俺が機嫌が悪かったのはお前と夫婦と思われたからではないからな」
「違うのか?なら、どうしてだ」
 きょとん、と兼続が見返してくるのを意地悪く笑って流し、三成はぺしりと兼続の肩を叩いて立ち上がる。
「自分で考えてみるのだな。お前が自力で答えが解ったら答えを教えてやっても良い」
 兼続は三成を見上げて呆れ声を上げた。
「自力で答えが解ったらお前に答えを聞く必要など無いではないか」
 そうだろう、お前がそう思っていてくれる限り、俺はこの無様な想いをお前に打ち明けずに済むのだよ。
 三成は心の中でそう呟いて、華が綻ぶように微笑んだ。
 夫婦に見えるならばまあそれも一興。どうせこの道行きが終わるまでの遊戯なのだから。

吹雪く窓なりゃ 届かぬ想い
心細かな 縮の綾を
織って着せたや 織って着せたや 主が肩

 翌朝、一行はまた次の宿場を目指して出立した。兼続の言った通り、山裾を縫うようにして北へ北へと進路を取る。道は悪路だが山越程ではない。
 今日もまた、三成の馬が運んでいるのは主ではなく主の荷物。もうとやかく言う直江屋敷の家人達は居ないというのに兼続は当然の様に馬上から三成の手を取って、三成もその手を握り返す。
『本当に美男美女のお似合いのご夫婦で。道中、お気をつけて』
 見送りに出た宿屋の内儀が仲睦まじい二人の様子を見てほう、と感嘆の溜息を漏らしながら見送ってくれるのを背に、兼続の愛馬はゆったりと歩き始めたのだった。
 旅の恥は何とやらというが、傍から見て夫婦に見えるならばそれで良いではないかと思う程には夕べの一件で三成も吹っ切れていた。何よりそれは兼続の傍に居る大義名分にもなって、生き辛い三成の性分に言い訳を与えてくれていた。
 他愛無い会話を交わしながらの急ぐ風でもない道行きは、兼続の目論見通り次の宿場に着くとほぼ同時に陽が暮れ始める。
「この辺りは十日町というのだ。毎月十が着く日に市が立つからその名がついたのだが、市が立つ日は大層賑やかなのだぞ。市はこの辺りを順繰りに移動するからこの辺りには二日町だの五日町だのという名の町が多いのだ」
 三成に語って聞かせる兼続の穏やかな言葉には故郷への深い愛情が込められていて、思わず三成も薄く微笑む。
「この辺りは春日山よりももっとずっと雪深いのだ。冬になれば雪に降り込められて町々の往来は殆ど無くなる」
「それは不便な事だな」
「うむ。だが、越後の民達はそれでも強く生きているのだよ。ほら、あれもその一つだ」
 兼続が指差す方を三成が見遣ると、呉服屋が店仕舞をしている所である。店の小僧が店の前を掃き清めているのが見えた。
「冬の間雪に降り込められた農民はせっせと機を織る。それを藍で染めて、一反一反雪の上に晒すのだ。それで織物は目が詰まり丈夫な布になる。けして華やかなものではないが、実用に向く紬になるのだ」
 熱く語る兼続の腕の中から友の顔を見上げれば、そこには越後を治める上杉家執政という立場の男が居た。民を慈しみ、土地を慈しみ、越後に住まう人間の営みを慈しんでいる顔がそこにはあった。この男の、こういう表情は嫌いではない。
「お前は本当に越後の事を話す時は嬉しそうな顔をするな」
 三成が常に無く何のけれんみも無くそう笑ったので、兼続はそれに大きく笑って頷き返した。それからふと良い事を思いついたと言う様にぽん、と膝を打つ。
「そうだ。お前に何の土産も持たせずにここまで来てしまったな。少し待っていてくれないか」
 そう言うが早いか兼続はひらりと馬を降りると店仕舞をしている呉服店に入って行った。
 そして待つ事暫し。
 暖簾を掻き分け出て来た兼続は小脇に濃紺の縮の反物を二巻き抱えていた。
 後から店主と奥方らしき夫婦が往来に出て来て深々と頭を下げるのに世話になったと声を掛け、兼続は三成に反物を預けるとまた馬上の人となった。
 手渡された反物を三成がまじまじと見つめていると、再び手綱を取った兼続がいつものように良く通るよい声で言う。
「京では流行らぬ織物であろうが、部屋着にでも誂えると良い。汗も良く吸うし、なかなか着心地も良いものだぞ」
 にこにこと笑っている兼続と、反物とを見比べながら三成は小さく頷いた。
「心遣い、痛み入る」
 何時に無く素直な三成に、兼続が明日は雨かも知れぬな等と軽口を叩くと二反の縮を腕に抱いた三成はまた兼続から顔を背けて頬を染めた。
「俺とて礼くらい言う」
 そんな三成の様子に笑みを零した兼続が、ふと気付いてまだ明るい東の山を指差す。
「ほら、見ろ桂姫。明日はあの峠を越えるのだ。あの峠を越えたら坂戸の城はすぐそこだ」
「坂戸城か」
 薄々解っていた事ではあった。
 上杉家の家老ともあろうものが何日も主君の傍を離れて容易く出掛ける事が出来る場所などそう多くは無い。
 坂戸城は関東からの守りの拠点となる堅固な山城で、長尾氏の居城であった城である。先の城主は長尾正景、上杉謙信の姉である綾御前を娶った武将。そしてその嫡男は長尾喜平次景勝―兼続の主君である上杉景勝であり、坂戸城は今でも景勝の名代が景勝に代わって治めており、国境の要所と言う事もあって春日山とも頻繁に行き来のある場所である。
 坂戸城は景勝の生まれた育った場所であり、その城下の上田の庄では樋口与六が生まれた。言わば坂戸は景勝と兼続の故郷である。

 俺に何を見せたいと言うのだろうな。

 夕暮れの中、三成は別れの時が翌日に迫っていることを唐突に理解した。きゅう、と胸の奥が痛む。
 本来なら一昨日にもう別れていた筈なのだと、自分に言い聞かせても無駄だった。
 もっとずっと一緒にいたいと思ってしまう。
 もっとずっと話していたいと思ってしまう。
 女々しい自分を嘲りながら、三成は旅籠の前で下馬した兼続が三成を馬から下ろそうと差し出した両手に大人しく抱かれて眼を閉じた。

 夢の終わりはいつも切ない。それが楽しければ楽しかっただけ、美しければ美しかっただけ、夢の終わりが見えてしまうと胸の奥に取り去れない重たい塊が現れてぎゅうぎゅうと心を押し潰そうとする。
 明日で兼続と別れなければならぬと解ってしまえば三成には残された時間を楽しむ余裕すら無くなってしまった。そんなのは馬鹿げている。今まで会えない事の方が断然多かったのだ。元通りの生活に戻るだけなのに。
 段々言葉少なになる三成に流石の兼続も気付いたらしい。敢えて何も言いはしないが、三成の思い違いでなければ兼続も自分との別れを惜しんでくれているのだと知れた。それでもいつものように話してくれる兼続が有り難かったが、最後まで目的地を明かさないで居てくれたら良かったという我儘も三成の心の中にあった。
 夕餉を終えると勧められるまま三成が先に風呂に入り、入れ替わりに兼続が風呂に行ってしまうと部屋の中は途端に静寂に支配される。京は遅い時間でも繁華な通りであれば人の往来もあるが、拓けている方とは言え山間の集落では人が居るのかも怪しく思えて来る程に静かだった。
 しかしそれは人が立てる音の話。涼を求めて縁側へ出た三成の耳に水田に住む雨蛙達の大合唱が届く。宿の傍を流れる小川の絶え間ない水音が三成の無聊を慰めた。

 どれだけそうしていたのだろうか、三成は兼続の呆れた声で我に返った。
「姫。おなごがそのように浴衣姿で端近に出るものではない」
 湯上りでさっぱりした顔をしている兼続の手には酒の入った徳利と杯が一つ。流石の兼続でも『桂姫』の分の杯までは借りて来ないだけの常識はあったらしい。
 促されるまま部屋に入った三成は兼続と二人静かに語り合いながら一つの杯で順番に酒を呑む。
 ふと、話が途切れた合間に何気なく兼続の顔を見ると酷く真面目な眼差しをした兼続と眼が合った。どきりと胸が跳ねたが平静を装って訊く。
「どうした、俺の顔に何かついているか」
 己の真意を隠すのは得意だ。三成は少し笑って兼続の眼を見返した。
 兼続は杯を畳の上に置き、まじまじと三成の顔を…というよりも髪を見つめている。
「その髢は取るのが大変か?」
「なんだと?」
 予想外の言葉に、三成は思わず聞き返してしまった。
「まさか酔った訳ではあるまいな。こんな少しの酒に」
 そう言ってやると兼続が口元を緩めて微笑んだ。
「いや、酔った訳ではない。ただ、その髢を取って見せて欲しかっただけなのだ」
「おかしな奴だな、そんなにおなごの髢が珍しいか。まさかお前が付けてみたいとでも言うのではないだろうな」
 胡乱な目付きで三成に見られて、兼続は慌てて首を横に振った。
「違う違う。私が見たいのは髢ではなくお前の髪だ」
「なんだと?」
 またも兼続の口から飛び出した予想外の言葉に、三成は再び聞き返す。
 対して兼続はどこまでも真面目に答えるのがちぐはぐで滑稽なのだが三成にそれを笑う余裕は無い。
「お前が女人に身をやつしてまで会いに来てくれたのは本当に嬉しかった。姿形が多少変わった所でお前はお前なのだが、やはりここに来て少し惜しくなった」
 三成はともすれば意味を取れないまま右から左へ抜けてしまいそうな兼続の言葉を反芻しながら一体何を言い出すのかとどくどくと煩く喚く心臓を殴りつけたい衝動に駆られた。
「折角お前が会いに来てくれたのだから、桂姫ではないお前のままの姿を見たいのだ」
 さらりと言い切る兼続に、殴るならこいつの方かと思いつつ、三成は紅く染まった顔を誤魔化すようにわざと手荒に髢を取った。はらり、と見慣れた赤茶の髪が肩の上に零れる。
「これで満足か」
 照れ隠しのためにぶっきらぼうな口調になるのを止められない。兼続は嬉しげにああ!と頷くと三成の方におもむろに手を伸ばした。三成が避ける暇もなく、兼続の長い指が三成の乱れた髪を手櫛で梳きはじめる。
「黒髪も似合っていたが、やはりお前にはこの髪の色が似合うな」
 三成は天然は始末が悪い、ここまでくれば国宝級だと心の中で思う様毒づきながら兼続の好きにさせている自分も大概だと大きく溜息をついた。
 髪を梳いていく兼続の手の暖かさが心地よい。しかし三成の口は心とは裏腹に動く。
「こんな赤い髪などいいものか。正則の馬鹿など未だに俺の事を赤鬼だなどと呼ぶぞ」
「誰が何と言おうと関係ないではないか。私はお前のこの髪が好きなのだから」
 今度こそ返す言葉を完全に失った三成はぺしり、と兼続の手を払い除け、仕返しとばかりに最後に徳利の中に残った酒を皆呑んでやった。
「ああっ!最後は半分と約束していただろう!」
「知らんな!馬鹿なことばかり言っていないでさっさと寝てしまえ!」
 恨みがましい兼続の視線から逃げるように、三成は真っ赤に染まった顔を見られる前に二つ並べて延べられた布団の片方に潜り込んだ。

 翌朝宿を発つ時から三成は言葉少なだった。
 それを知ってか知らずか解らぬが一方の兼続はといえば朝から普段の倍ほどに喋り続けている。
 道は山道。一行は傾斜のついた道をゆっくりと進んでいた。
―十日町から上田の庄へ抜けるには八つの峠を越えねばならぬ。だからこの道を八箇峠と言うのだよ。
 何時も通りの良く通る声で紡がれる兼続の話を聞きながら、三成は悪路を良いことにして兼続の腕の中に大人しく納まっている。揺れる馬上でなら許されるだろうと、三成の繊手は兼続の袂をきゅっと握り締めて離さない。
 兼続はそんな三成を一度だけ馬が怖い童のようだと言って笑ったがそのまま好きなようにさせている。
 一刻程も進んだのだろうか。周囲の高い山に遮られ、陽の位置がわからない。
 そう言えば越後へ来てからというもの、時間の感覚がおかしくなってしまっていることに三成は今更ながらに気付いた。物凄く一日が長いような、あっという間に過ぎ去るような奇妙な感覚。こんな俺は全く俺らしくないと三成は兼続の胸に抱かれたまま自分に対して毒づいた時、殊更張りのある声で兼続が三成の注意を引いた。
「もう峠も半ばだ。そろそろ向こうの盆地が見えて来るぞ」
 兼続の声は心なしか浮き立っている。三成が返事をしなくとも、ちゃんと聞いているのは承知していて問わず語りに昔話を始めた。
「お前も知っているだろうが私は四つの頃から景勝様にお仕えしていてな。景勝様が謙信公の御養子となられて春日山にお移りになる際に私も随行したのだ。幼き頃の話しゆえ、もうずっと昔のことではあるのだがな」
 兼続の胸にぴたりと左耳をつけている三成には、照れたような兼続の声が直接響いて来る。
「それでも、生まれ育った場所と言うのは特別なのだな。時折無性に懐かしくなることがある。一つ一つは大したことの無い思い出なのだ。山であけびを採って喰ったり、とんぼを捕まえたりとかな。なのに、何故かな。時折無性に帰りたいと、そう思うのだ」
 珍しく感傷的な兼続の言葉に、三成はやはり沈黙を守った。
 その内に尾根に沿って登り下りを繰り返す坂戸への峠は徐々に下りが多くなって来る。
「ほら、もうその山裾を回り込めば上田の庄が一望出来るぞ!」
 兼続の浮き立つ言葉が解るのか、二人を乗せた兼続の愛馬は主人の意を汲んで心持ち歩みを早めたような気がした。
 兼続の指した山裾を回るとさっと開ける視界。
 平地を挟んで同じ高さに坂戸山の山城が見えた。
 こちらとあちら、二つの山に挟まれた盆地には縦に一筋大きな川が流れていて、見渡す限り一面に広がる水田を分断しているのがまだ遠いここからでも解る。
 平地には水田の他にぼつぼつと粗末な農家が点在しており、三成には素朴な人の営みが見えるような気すらした。
 兼続が見晴らしの良い尾根で駒を止めて三成に一つ一つ指を指して教えてくれる。
「正面の山が坂戸山。本丸はあの山の麓にあって、山の五合目、八合目、山頂にそれぞれ物見櫓と屋敷がある。謙信公と景勝様は良く連れ立って山頂まで登って居られたよ」
 穏やかな兼続の声は耳に心地良い。静かに語る兼続の声は坂戸の景色に眼を奪われている三成の邪魔にはならなかった。
「ずっと坂戸山の山裾を行くと私が景勝様の近習として共に学ばせて頂いた越後一の名刹雲洞庵がある。お師匠様は行儀作法に厳しいお方でな。私なぞは何度物置に放り込まれたか解らぬよ」
 兼続が昔を思い出したか笑みを含んだ声音で呟き、三成はその腕に抱かれたまま眼前に広がる一幅の絵のような風景を飽かず眺め続けている。
「私の生家はあの、上田の庄の真ん中を流れていく川の近くにあるのだ。あの川は魚野川といって、何れ海へと流れ込む大河の支流なのだ。良く与七と鮎を獲って遊んだな。二人とも着物をずぶ濡れにして帰るものだから良く母上に叱られもした」
 兼続の声に釣られて眼を移した川縁に幼き日の兼続の姿が見える気がして、三成はくすくすと笑いを零した。
「今では澄ました顔で上杉の家老を勤めている直江山城守殿も、子供の時分はやんちゃだったと見える」
 兼続も三成に釣られて笑う。
 一頻り笑いの波が引いたところで穏やかな微笑みで三成を見つめた。
「これを、お前に見て貰いたかったのだ」
 見せたかったのは兼続が生まれ育った家、土地、山。
 直江兼続という人間の根幹を成す原風景。
 それら全てを視界に納めながら、三成がぽつりと呟く。
「お前を育んだのはここなのだな」
 何故だろう、柄にも無く今ここに居る直江兼続を形作ってきた全てのものに感謝したい気分になる。
「美しいな」
 三成が零した一言に、兼続は少し驚いたような顔をして、それから弾ける様な笑顔を見せた。
 二人は暫し言葉もなく上田の庄をただ見つめていた。

 兼続の生家は今でもまだ手元に残してあるのだと言う。
「どうだ、少し寄って行かないか。家のことは人に任せているが急に行っても茶くらいは出せるだろう」
 そんな風に言われてしまっては、三成が断れる訳が無い。
「お前はいつも狡いな」
 急にツンとそっぽを向いた三成に、兼続が不思議そうな顔をする。
「私がいつ狡かったというのだ」
「常にだ!」
 三成が言い放つのを聞いて、兼続は真面目に三成に向き直った。
「それは心外だがお前にそう見えているのならそうなのだろう。すまなかった。改めねばならんな」
「そういう所が、狡いというのだよ」
 それきり口を噤んでしまった三成に、兼続は困ったように笑い掛ける。
「やはり私には解らぬ」
「解らんでも良い」
 取り付く島も無くばさりと斬り捨てながらも三成は狡いと感じるのは自分自身に含む所があるせいだと良く解っている。三成は目を伏せて手綱を取る兼続の手を八つ当たりのようにぺしりと叩いた。
 三成の八つ当たりは照れ隠しのようなもので親愛の表れだと解っている兼続は構わず愛馬の手綱を引いて小さな茅葺の家を指す。
「ほら、あれが私の生家だ。もう父も母も兄弟達も居らぬのだが、どうしても手放し難くて上田に来る時の住まいにしているのだ」
 俄かに門前が騒がしくなったのを聞きつけて顔を出した老爺が兼続を見て眼を丸くする。
「若様!」
 兼続は微笑んで老爺に声を掛ける。
「連絡もせずに突然来て済まない。今宵一晩泊まって行くから準備を頼む」
「ここはいつでも若様の御家でございますよ。何の気兼ねがありましょうや」
 しかし―、と、老爺は兼続の陰に隠れる様にして立っている三成を興味津々といった態で凝視した。
「若様、そちらの大変美しいお方は…」
 兼続が後ろを振り返り、三成に向かって手を差し伸べる。何故だか、三成は大人しくその手を取ってしまった。ゆっくりと手を引かれたまま兼続に並ばされ、遠慮の無い老爺の視線に顔を紅くして俯いた。
「桂姫と言って、京からいらしたやんごとなき姫君だ。故あって坂戸まで旅のお供に加えて頂いたのだよ」
 兼続がぼかした言葉の端々を、老爺は想像で補完したらしい。きっと兼続の想い人とでも思っているのだろうと三成はまたげんなりしたが、老爺は相好を崩すとそうでありましたかと何度も口の中で唱えながら嬉々として一行を庭に招じ入れた。
「そうでありましたか。八箇峠越えでさぞお疲れでしょう。大したお持て成しは出来ませんがどうぞお上がり下さい。さあさ今盥に湯をお持ち致しますから」
 老爺が大きくは無い家の中に向かって呼ばわると、中から彼の連れ合いらしき老婆が喜色満面で姿を現した。
「若様。暫く振りで御座いました。ご健勝のご様子何よりに御座います」
 今度も兼続はまた三成を同じように紹介したが、老夫妻は同じような誤解をしたらしい。お茶を、湯をと、立ち働く二人は心底嬉しそうで三成はそれを否定するのも気が引けた。
 部屋に通された三成は兼続と共に客間に上がらず庭に面した縁側に座った。
 春日山の兼続に与えられた直江屋敷とは比べ物にならない程の猫の額ほどの広さの庭だが良く手入れが行き届いている。きっとあの老爺が生き甲斐のようにして日々大切に手入れをしているのにちがいない。
 庭の垣根の向こうには、難攻不落の山城と言われる坂戸山と坂戸城が見える。
 兼続は三成と二人並んで縁側に座り、懐かしそうに微笑んだ。
「ここに居る頃は朝な夕なにあの山を見ていたよ。いつか父上の様な武士になってあのお城を護るのだと思っていた」
 三成の視線の先を辿ったか、兼続はそう言って少し笑った。
「実際は綾御前に見出され景勝様にお仕えする事になったわけだが。…人生何があるか解らぬものだな」
 老婆が出してくれた茶を啜りながら、三成は小さく頷いた。
 自分の人生が変わったのも、秀吉に茶を献じたあの時からだ。どこに人生の転機が落ちているかは解らない。
 三成は温かい茶で喉を潤して、ほう、と一息溜息をついた。
 ここは時間の流れが緩やかだ。
 上田の庄も、兼続の家も。本来どこに居てもどのように過ごしても同じ筈の時間というものが、ここだけはゆるりと流れているような、そんな錯覚を覚える。
 兼続の生家は大きくは無かったが、そこに住まう家族が居なくなって尚家庭の温かみを残していた。

「お前に、会えて良かった」

 唐突に三成が呟いた。
 それは直江兼続という人間と、石田三成という人間の出会いについての言葉であったのだが兼続は今回の旅の事だと意味を違えて取ったらしい。
「私もだ!私が上洛する事はあってもお前が越後に来る事など殆ど無いからな」
 三成は敢えてその言葉の擦れ違いを指摘せずに微笑んだ。
「この数日、お前にとって掛け替えの無いものを沢山見せてもらった。お前の愛する越後を」
「お前に、見て貰いたかったのだ。私の愛するもの達を」
 笑みを深くした兼続に、こくりと、三成が頷いた。
 ふと、兼続が空を見上げて呟いた。
「雲の流れが速い。一雨来そうだぞ」
 二人並んで流れ行く鉛色の空を見上げていると、兼続の言葉通り庭の石にぽつりと当たるものがある。それは見る間に数を増やして、越後の大地に柔らかく降り注ぐ霧雨となった。
「遣らずの雨という奴かな」
 兼続がぽつりと呟く。珍しく兼続が何かを言い掛けて、途中で口を噤んだ。三成は兼続が何を言おうとしたのかぼんやり解っていながら、兼続本人の口からその言葉が聞きたくて素知らぬ顔で促した。
「お前らしくない。言いたいことがあれば言え」
 三成の想いを知ってか知らずか兼続は困ったように微笑んで、三成の顔を覗き込んだ。柄にも無く少し遠慮がちに言うその様子は彼にしては酷く珍しい。
「雨が降ってはこの先難儀だろう。今宵はここに泊まってはどうだ」
 三成は少し俯いて、嬉しさと遣り切れない切ない思いが綯い交ぜになった複雑な心境で返事を返す。
「…いや、もう帰らねば」
 お互いに解っていた問答。
 それでも三成は兼続に引き止めて欲しかったし、兼続は三成を少しでも長く引き止めておきたかった。
 不毛なのは理解している。三成は音を吸い取るような霧雨を見つめながら兼続との最後の時間を無言で過ごした。
 語り合うことは互いに尽きてなどいない。それでも今は何も言葉にしたくなかった。

送りましょうか 送られましょうか
寺が鼻まで 時雨に濡れて
昔ゃお六と 昔ゃお六と桂姫

 それでも別れの時はやって来る。
 老夫婦が夕食の準備に取り掛かる前に、三成は供回りの二人に馬と荷を連れて先に出立するようにと言い付けた。
 主一人残して行く訳には行かないと言う家臣二人に、隣町との境にある稲荷神社で待つよう言い含めて送り出すと、三成は途中まで送るといってどうしても聞かない兼続と共に徒歩でわざとゆっくり歩き出す。
 道々話す言葉ももう無い。口を開けば離れ難い想いが口を衝いて出て来てしまいそうで、三成は無言のまま兼続と並んで歩く。
 途中までとは一体何処までだ。
 いつ別れを告げられるかと思うと気が気ではなく、もういっそのことここまでで良いと三成は何度も思った。
 霧雨は雨脚を弱めたものの未だ静かに降り続けている。
「見送りはここでいい」
 兼続の脚が止まった。お互いに傘で隠れて表情は窺えないが、聞き慣れた深い声が降って来る。
「今少し。もう少しだけ送らせてくれ」
 俯いている三成には、兼続がどんな想いでそう言ってくれているのか解らなかったし、知るのが怖いとも思った。
 己と同じ想いならば良い。しかし、もしそうでなかったら。
「この先に寺が鼻と言う地名がある。せめてそこまで」
 三成にはそこが遠いのか近いのかさえ解らない。二人はまた無言で時雨の中を歩き出す。

月が出たぞえ 木陰に入ろか
ままよ渡ろか 坂戸の橋を
お六甚句で お六甚句で水鏡

 殊更ゆっくりと歩く内にいつの間にやら雨は上がっていた。流れが速かった雲は現れた時と同様にあっという間に流れ去り、気の早い月が天空に太陽を追いかける様に姿を現わす。
 辺りはすっかり薄闇に包まれている。それでも灯り無しで歩いて行けるのは煌々と明るい月のせいだ。傘を閉じた二人は遮るもの無く月明かりに照らされている。
「兼続。お前、誰ぞ坂戸の城の者に俺と一緒の所を見られては拙いのではないか」
 松代、十日町は良くても故郷に浮名を流すのは如何にも拙かろうと三成は少し兼続から距離を取った。
「馬鹿なことを。やましい事は何も無いのだから堂々としていればいい。違うか?」
 常に無い低い声で呟く兼続の横顔を見上げ、三成は困ったように笑う。
「その通りだな」
 本心では多分違う事を望んでいるのだろうなと三成は自分のことをまるで他人のように感じてそう思った。
 自分は、例え他人から後ろ指を指されようとも、親友ではない兼続の特別で居たいのだ。
 言葉少なな二人の道行きは昼間見た川に架かった橋へと差し掛かる。
「坂戸の城へ行くには必ずこの橋を通るのだ」
 兼続の言葉を聞き流しながら、ふと、三成は橋の上から満々と水を湛えた水面を見つめた。
 そこには一組の美しい男女の姿が映っており、それは一幅の絵のような完成された美しさを持っていた。
 けれど三成は知っている。絵は人の心まで写し取りはしない。だからこのように美しく見えるのだと。
 もしもこの、己の抱くどろどろとした葛藤を絵に表せたとしたらその絵はたちまちの内に台無しになるだろう。
 橋を渡り切って暫くして、三成は半歩先を行く兼続の背中を見つめて立ち止まった。
 直ぐに兼続も気付いて振り返る。
 三成は努めて普段通りに聞こえるように言葉を発するのに苦労した。

「もうここまでで良い。際限ない」

 もう兼続には引き止める理由も言葉も無い。
 一瞬の間の後、兼続は大きく頷いた。
「そうか、次の上洛まで息災にな」
「ああ」
 そう、これが今生の別れという訳ではないのだ。次の春にはまた景勝は上洛するだろうし、兼続もまた景勝と共に上洛するに違いない。
「一人で大丈夫か」
 ここから随人達を待たせている稲荷社までは少し距離がある。
 今宵は月が明るい上、道は開けた街道故危険も少ないとは思うが女人の一人歩きはやはり物騒だと兼続が言う。三成は強張る口元を叱咤して普段通りに返事を返す。
「直ぐに二人に追付く。もしも賊が出たとしても野武士等にやられるほど柔ではない」
 くすり、と兼続が笑った。三成はその笑いを流してそれに、と言葉を継ぐ。

「関東に出たら途中まで左近が迎えに来る事になっているのだ」

 また一瞬の間。

「そうか。左近殿がついていて下さるなら安心だな」
 兼続は頷いて三成の顔を正面から見た。
「また、文を送る」
「ああ」
「達者で。京に戻ったら文をくれ」
「ああ」
「絶対だぞ」
「ああ」
 三成は兼続の言葉と対照的に気の利いた返事すら出来ない自分に苛立つ。しかし苛立った所で言葉の出ない事には変わりなく。
「…もう、ゆくよ」
 ただそれだけしか言えない自分が歯痒い。
 頷いた兼続はもう何も言わなかった。手を振って、別離の言葉は飲み込んだ。
 一人歩き始めた三成の脚は鉛の様に重い。それでも後ろ髪引かれる自分を叱咤して、三成は一歩一歩兼続の愛する越後路を歩いていく。
 後ろを振り向くと、兼続がまだ別れた場所に立ったままこちらを見つめているのが見えた。
 いつまでああしているつもりだ、といつものように毒づいて、三成は歩調を上げた。
 一歩進むごとに薄闇の紗が一枚掛けられて、兼続の姿を曖昧にしてしまう。
 いつの間にか三成は駆けていた。もう後ろを振り向いても兼続の姿は闇に溶けて見えない。
 三成の薄茶の瞳からぽろりと水滴が零れ落ち、白い肌にふた筋の流れを描いた。
 街道の両脇に広がる水田には、仄明るい黄色い灯りが飛び交っている。
 明滅しながら或いは飛び交い、或いは草の葉にとまっている蛍を三成は溢れて止まらない涙を拭くのも忘れて見つめた。

 お六恋しや 姫様桂
 会えぬこの身が 川瀬を焦がす
 蛍呼ぶなら 蛍呼ぶなら寺が鼻

 何が哀しいというのだ、俺は。
 三成は暫しその場に佇んで、兼続の愛する越後に別れを告げた。
 不意に三成の胸に、兼続と交わした約束が飛来する。
『来世でも…』
 約束を破るのは不義だ。
 だから、絶対に守らねばならぬのだぞ、兼続。
 そう心の中で呟いて顔を上げた三成の涙はもう乾いていた。
 すっかり夜になった空には満天の星が輝いている。
 三成は再び凛として歩き始めた。

終わり。

あとがき
 はじめまして、こんにちは。野間喜孝と申します。
 この度は本書を手に取って下さりありがとうございました!
 普段はネット界の片隅で専らウェブ小説を書き散らしているのですが、実はこの本が野間にとって初めての同人誌です。歴史好き(と、兼続好き)が高じてこうして本を出す事になりました。少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。
 コンセプトは電車の中でも読める同人誌!文庫本と同じサイズで程々の厚さなら、カバーを掛けてしまえば解らない!と信じたい。
 YOUやっちゃえばいいじゃん!と背中を押してくれた友人達に感謝です。

 さて。兼続への愛でも語らせて頂こうかと。友人が戦国無双2にハマっているのを見ておいらもやってみるかなと中古で手に入れたのが戦国無双との出会いでした。ファーストインプレッションでは浅井長政と孫市が好きかなー。でも腐までは行かないなーとか思っていたのですが。段々余所様の二次創作を読んだりゲームを進めていく内に最初は全然興味ナッシングだった兼続にハマっておりました。
 兼続と野間とは同郷ということもあり。今では可愛いなあコイツ。とかニヤニヤ妄想しておりますよ。2では大人気だった彼も3での変貌振りもひっくるめて愛しています。きっぱり。

 今回のお話は、野間と兼続の地元(新潟県旧六日町)に伝わる民謡をモチーフにしました。昭和初期に作られた民謡と聞いたことがありますが、兼続(お六)の悲恋を謡ったもので、三日に渡って開催される夏祭りの二日目のメインイベントでは通りをこの民謡を踊りながら歩く『お六流し』という行事を行います。その他にも小学校や中学校では体育祭で踊るので×十年経った野間も未だに踊れたりします。
 歌に出て来る桂姫とは、一説には景勝の腹違いの妹姫だと言われています。戦闘員さまおっと間違い仙桃院さま(綾御前)の娘ではなく母親が身分の低い女性だったため本邸に住む事叶わず坂戸山の南裾、寺が鼻と呼ばれる地区に住んでいたそうで。
 兼続は上杉の重臣という身分を隠して桂姫と逢引していたのでしょうか。その真偽は今となっては解らない事ではありますが、今回は無理矢理三成に桂姫になって頂きました(笑)野間は兼続は受けの方だといいと思ってはいますが三成は兼続にさえ負けると思うんだ。
 何だか寂しい感じで終わってしまった(ような気がする)『蛍の記憶』ですが、実は最初から現代パラレルに続く話にしようと思っておりました。そちらは兼三ではない上にやりたい放題のお話ですがまたその本でお会い出来たら甚幸です。
 ここまで読んで下さいまして本当にありがとうございました!
野間喜孝 拝
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