~とある高校・保健室前~
リトヴィア『状況はよくわかりました。では私からイギリス清教に働きかけます。こちらは私に任せて。貴女は貴女の聖務を果たしていただいて結構ですので』
オリアナ「来日してたった一日でこれよー?流石のお姉さんもどぎまぎしちゃったわ。いきなりシャワールームに踏み込まれちゃったみたいに」
リトヴィア『卑猥な発言は控えて下さいオリアナ=トムソン。イギリス清教からも――』
オリアナ=トムソンは嘆息していた。能力者や原石の『水先案内人』を1日していてわかった事…
それはこの街が外部勢力から下着姿で寝室へ誘う女のように無防備である事。
そして『持ち出されて危険な原石』は三つ。
一つは『幻想殺し』の上条当麻。しかし彼は今現在行方不明であり、代理人たる雲川芹亜をして原石に含めるべきではないと言う事。
さらに彼と手合わせしたオリアナ自身がわかっている。彼ならば問題ない。
二つは『世界最高の原石』削板軍覇。彼の戦力は絶大かつ強大であり、戦力的に今現在のグノーシズム(異端宗派)では手に負えず手に余る事。アウレオルス=イザードが『死んだ』今、グノーシズムですらおいそれと手は出せない。
問題は三つ目…不老不死にして無尽蔵の力を秘めた『吸血鬼』を呼び寄せる姫神秋沙だ。彼女は他の二人と違って戦力がない。
加えて魔術サイドの禁忌もへったくれもない異端宗派が吸血鬼を利用すれば十字教に多大なダメージを与えかねない。戦力的に魔術サイドが虫の息の今ならば瓦解の可能性がある。
オリアナ「うう~ん…以前の事があるから顔を出せた義理じゃないけど、お姉さんもお仕事なのよね」
何とか魔術師二人から辛くも逃れたようだがそれすら時間の問題だろう。
ならば最も入手難易度が低く、かつ十字教に壊滅的ダメージを与える吸血鬼を呼び寄せる吸血殺し(ディープブラッド)を保護するにはどうするか?答えは一つだ。
コンコン
オリアナ「はぁい?しどけない寝姿を晒してないなら入っていいかしら?」
姫神「いい。もう開いてる。けれど静かに」
オリアナ「うふふ…それじゃあ失礼させてもらうわね?」
室内には体操着の姫神と、ベッドで眠り込んでいる結標…そこでオリアナはふと思う。
眠っているのは姫神秋沙ではなかったのかと。しかし――
オリアナ「お姉さん、大事なお話があるんだけれど…二人っきりで話せないかしら?(あら?この香りクロエ?)」
この時、オリアナの目は適度な余裕とゆとりを保っていながらも『運び屋』のそれだった。
姫神「わかった。表で」
その時、姫神の目は何かを『決意』したそれだった。
もう自分を血塗れにした相手に怯えていない。それは確かに『決意』だった。
奇しくも、その十数分後…互いの利益が一致した事を知らない
結標「…秋沙…」
結標淡希の無邪気な寝顔だけを残して――
~とある高校・全学連復興支援委員会詰め所~
カチンッ…パチン。カチンッ…パチン。
ステイル「(嗚呼…煙草が吸いたい)」
17:15分。ステイル=マグヌスはベースキャンプと化しているサーカステントの中でライオンハートのジッポーをいじっていた。
兎にも角にも口寂しいのである。しかし吸えない。スタンド灰皿が目の前にあるにも関わらずに、だ。
表面に刻印された“ハウル”が恨めしそうにステイルを睨んでいる。そして当のステイルはと言うと…
小萌「………………」キュッ
ステイル「(嗚呼…とても吸える雰囲気じゃない。ニコチンのない世界以上の地獄だ)」
唇を噛み締めスカートの裾を握り締めてパイプ椅子に座っている月詠小萌を見やって嘆息する。
『運び屋』オリアナ=トムソンが仮初めの『水先案内人』ではなく『本業』に乗り出してからこうだ。
無理からぬ話ではない、とステイルは推察する。
ステイル「(噛み煙草も切らしてるな…水煙草なんて持って来てすらいない…嗚呼、この灰皿の中の吸い殻に手を突っ込んでしまいそうだ)」
昨夜から今朝にかけての事件、オリアナの判断とステイルの決断、それを覆すだけの力が優秀ではあっても一教師である彼女にはないのだから。
それは彼女が無能だからでも無力だからでもない。これは『魔術サイド』の問題だからだ。
ステイル「(それにつけても…)」チラッ
削板「ふんならばあああぁぁぁ!!さあ運ぶぞ!武士は食わねど根性だ!だが補給と情報を蔑ろにするヤツに戦は出来ん!行くぞおおおぉぉぉ!!」
雲川「前に言ってた三点バーストマグナムまだ持ってない?あのバカ大将を撃ってやりたいんだけど」
服部「ありゃダメだ痛がるだけで効かねえ。それに机に座ってあれこれ指示を出すのに向いてない。あんたがリーダー張れば良かったんじゃねえのか?」
雲川「私、黒幕でいたいんだけど」
避難所に運び込まれてくる、食材の入ったドラム缶をブルドーザーのように次々と運び込んでくる削板軍覇。
それを復興支援委員会副委員長席で冗談に聞こえない声音で睨む雲川芹亜。
呆れ顔でそれを見やりながらも米俵を両肩に抱えてついて行く服部半蔵の姿が見えた。
ステイル「そろそろ夕食だ。並びにいかなくていいのかい?」
小萌「…姫神ちゃん達がどうなるか、それを聞いてから先生は行くのですよー!」
前半はやや重いトーンであったが、尻上がり気味にテンションを上げてステイルを振り返る小萌。
その様子にステイルは僅かな安堵と微かな心痛を覚える。
身長こそ小萌が二人分でステイル一人分だが、年齢はステイル二人分で小萌一人分である。
ステイル「それは構わないんだが…はたして彼女が貴女の分まで残してくれるかな?」チラッ
禁書「離して!離すんだよ短髪!今日はトルコライスなんだよ!この匂いはもはや暴力かも!」ダッ
御坂「その短髪って言うのやめてよね!ってなにフライングしてんのよ順番守りなさいよゴラアアアァァァ!!!」バッ
寮監「列を乱すな馬鹿者共!!」ゴキャッ
御坂妹『そこの女生徒、キリキリ千切りに勤しんで下さい、とミサカは働かざる者食うべからずの精神でアナウンスします』キーン
言わずと知れた食欲魔人インデックスと、それを止めようとして吶喊して行く御坂美琴、更に二人を軽く捻る寮監、そして放送席の窓からスピーカー片手に呼び掛ける御坂妹。
その声音の行く末は今や戦争さながらの調理場と炊事場である――
フレンダ「結局、千切りとみじん切りの違いってなんな訳よ!?うあっ痛っ!」
絹旗「口より超手動かして下さいフレンダ!あがぁぁ手首が!肘が超痛いです!」
滝壺「大丈夫。わたしはそんなキャベツも刻めないふれんだときぬはたを応援している」トントントントン
麦野「使えないわねーアンタ達。滝壺を見習いなさい。ってアンタ身体大丈夫なの?今日もだったんでしょ」タンタンタンタン
滝壺「ありがとうむぎの。もう“体晶”を使わなくもいいから大丈夫。仕事も観測だけだから第六位にばとんたっち」ザザー
麦野「…そ。ってそこの二人ー。伸びてたらアンタら刻むよ。嫌なら働きな」ギランッ
フレンダ・絹旗「(超)なんな(訳)よそのキャベツの山盛り!!?」
麦野・滝壺「旦那持ち(待ち)を舐めんな(ないで)」
『アイテム』勢である。指を切ったフレンダ、腱鞘炎状態の絹旗最愛の16倍の速度で32倍のキャベツを刻みながらも手を休めない麦野沈利と滝壺理后。
料理スキルまでレベル5かと一緒に落ち込む二人の脇を――
佐天「お、重い~」
初春「さ、佐天さん!そっちもう少し上げて下さーい!」
学生A「お、おれ持つよ!」
学生B「いやオレが!!」
学生C「いやいや俺が!!!」
学生A・B「「どうぞどうぞ」」
学生C「えっ!?」
介旅「ああ…」
工山「うう…」
スキルアウトA「なにやってんだアイツら…キャッキャウフフしやがって」
スキルアウトB「…俺らもあんなのしたかったよな…ボーイミーツガール」
スキルアウトC「言うなよ…悲しくなるから…はあっ」
郭「コラー!」
スキルアウトABC「「「げえっ、郭!!!」」」
吹寄「つまみ食いは禁止だと言ったろう!待ちなさい!コラ!待て!!」
青髪「(第八位が丸投げするからこの時間までオマンマ食い上げなんて言えるかいな!僕お腹空いてんねんてホンマに!)」
絶対等速「ムショから出たと思えば…ううっ、シャバの飯があったかくて美味ぇ」
配膳から料飲へ駆け回る学生達。学生もスキルアウトも刑務所帰りも囲む卓も食べる物も同じである。
同時に、夕餉にありつく者もいれば、その影でその場を守っている者達も――
黄泉川「わかったじゃん。そういう事なら23学区まで警護につくじゃん…今朝の事もあるじゃん…」
手塩「私も、付こう。量は質に、質は量に、数の論理は、そのまま、当てはまる」
固法「今日はなんだか、動きがなさ過ぎて少し不気味だわ」
白井「…嵐の前の静けさ…ですの?」
警備員(アンチスキル)と風紀委員(ジャッジメント)である。
和やかかつ騒がしい夕餉とは対照的に、こちらはやや不穏な気配にピリピリした空気を醸し出しているのがわかる。
そして学園都市の“表”を守る者がいれば、同時に“裏”を担う者もいる。例えば――
垣根「今日の鼠捕りは何匹かかった?」
心理定規「0。私、鉄網、心理掌握(メンタルアウト)合わせてね。昨日は二人は紛れ込んでいたのにパッタリ」
垣根「…臭えな。ネズミがぶら下げたエサからケツまくるのは泥船から逃げる時か集団自殺(レミングス)の時くらいのもんだって決まってる。匂うぜ」
心理定規「貴方、また目が昔に戻ってるわよ?可愛い花飾りのお姫様の前じゃダメよそんな顔しちゃ」
垣根「五月蠅え。で、顔見せんのも恥ずかしがるシャイな女王様はなんつってた?」
心理定規「レベル5の仕事と、自分の派閥以外は興味がないって」
垣根「ハッ!同じ中坊でも飾利と違って可愛げがねえな。あ?もう中坊じゃねえのか?まあいい。あんなクソ女にマジでムカついても仕方ねえ、メシ食うぞメシ」
心理定規「食事の前にケツだのクソだの言わないで…ノワール小説の主人公みたいよ」
垣根「悪かねえがあんな品のないもんと一緒にすんじゃねえよ。どうせなら悪漢(ピカレスク)にしろ馬鹿野郎。…飾利ー!一緒にメシ食おうぜー!」
心理定規「(…心の距離どころか貴方と距離を置きたいわ…)」
避難所内の住民を装って侵入してきたスパイの心の中を見通し、炙り出して処刑するのは『スクール』。
避難所外の侵入者を始末する『アイテム』の分業体制である。群れを守るオスライオン(垣根帝督)と狩りに出るメスライオン(麦野沈利)の双璧という最終戦争前には有り得ない布陣だ。
心理掌握『………………』
『心理掌握』は現学園都市上層部の意向を受けた代理人でもある雲川芹亜に引っ張り込まれて来た。
望むと望まないに関わらず。そして行き場を無くした派閥の女生徒達の面倒を見るために。
フレンダ「結局、リタイアって訳よ!痛たたた!?もっと優しくして欲しい訳よ!」
芳川「自分に甘い子ね…それに私は元研究者であって医者じゃ…」
絹旗「超ドロップして来ました!元リーダー超おっかな…あああ超痛いです超痛いです超強く巻き過ぎです!」
木山「すまない。私は元科学者崩れのカウンセラーもどきであって医者では…(ふむ…また隈が広がってしまった…睡眠不足か…今日はここに泊まるか)」
冥土帰し「ふむ?今日は姫神君はおやすみのようだね?これくらいなら彼女の方が上手いんだがね?」
救護所に駆け込んで(逃げ込んで)きたフレンダ達を手当てするのは芳川桔梗。
彼女は以前からの知り合いと8月31日の事件が縁で冥土帰しの元で働いている。
木山春生も今は意識を取り戻した子供達の教師、『置き去り』の子供達の養母、この避難所では戦災後の学生達のカウンセラーとして各地を巡っている。
冥土帰しは魔術・科学サイド、第三勢力の関係なしに負傷者達を救った後も第七学区に残り医師として尽力している。
それはひとえに彼が患者のいる所ならば戦地でも向かうような性分もある。しかし
冥土帰し「(見えるかい旧き友よ?…人々の日々の営みが。君が作り、君が壊し、君が残したこの学園都市が――)」
最終戦争後、行方不明ながらも生存が確認されているのは『上条当麻』『一方通行』『浜面仕上』『××××××××』の四人。
フレンダ「結局、絹旗が現リーダーなんだからビシッと麦野に言ってやれば良い訳よ!元リーダーでちょっとキャベツが刻めるくらいでどや顔すんなって!」
絹旗「キャベツも刻めない現リーダーって超馬鹿にされるに決まってます…なんですかいっつもシャケ弁ばっかりなのにあの超理スキル…」
フレンダ「結局、旦那の帰りを待ちつつ大飯食らいを養ってるから必然的に腕も上がるって訳よ!」
絹旗「滝壺さんも浜面の帰り超待ってますもんね…あんなに可愛い彼女ほったらかして飛び出して行くとか超女心わかってないです!帰ってきたら超お仕置きです浜面」
フレンダ「…結局、前から思ってたんだけどアイテムって職場恋愛OKだったけ?そこんとこどういう訳よ現リーダー」
絹旗「元リーダーが寿退社みたいなもんじゃないですか!!超示しつきませんよ!!」ギャーギャー
だが生死不明となり、未だ遺体も目撃証言もない…冥土帰しと袂を分かった旧友であり、それでも見捨てられない患者の帰りを冥土帰しは待っている。
冥土帰し「(見えるかい?――アレイスター・クロウリー…)」
人々の営みの中を、静かに――待っているのだ。そして――
~とある高校・螺旋階段踊場~
“アウレオルス=イザード”
その名前は、もう思い出す事も少なくなってしまったけれど
それでも、私にとって決して忘れる事の出来ない名前。
私を救い出そうとした手で、私を葬り去ろうとした男。
私が手を結ぼうとした手で、私と手を切った男。
その名前が今、何故、どうして――目の前の女の人から口から出て来るのかわからなかった。最初は
オリアナ「お姉さんも、まさかこんなに貴女にラブコールが寄せられてるだなんて最初は思ってなかったの。けれど今は違うわ」
豪奢な金糸の髪を巻いた、同じ女としても敗北と嫉妬を覚える者もいるであろう曲線の持ち主はやや微苦笑を浮かべていた。
私では望むべくもない多彩な感情表現が、確かに異国の人間なのだなとその場に相応しくない感想を持ったりした。
オリアナ「貴女という果実に群がる悪~い虫から貴女を遠ざけなくてはいけないの。リンゴの収穫って知ってるかしら?虫や鳥を避けるために布をかぶせ、時に嵐から守るためにより分ける事も必要なのよ」
身振り手振りを交えながら流暢な日本語を話し、私に伝えようとする意図。
アウレオルスがかつて所属していたグノーシズム(異端宗派)なる一派が私を狙っている事。
この半壊した学園都市ではもう私を守り切れない事。
かつて私を血塗れにしたこの女性が『運び屋』である事――
オリアナ「貴女は甘~い蜜の滴る禁断の果実…彼等にとっての黄金の林檎…お姉さんのお仕事は、貴女というゴールデンアップルを安全地帯まで無事“運ぶ”事なの…花開いた貴女を誰にも手折られないように」
所々、淫猥な比喩や表現を織り交ぜて語られたその言葉の数々を私は吟味する。
運び屋、安全地帯、そして私。ここまで言われれば私にだってわかる。
姫神「私は。どこへ行けば良いの。貴女は。私をどこまで連れて行ってくれるの」
オリアナ「…イギリス、ロンドンよ…」
その女性は言った。私の吸血殺し(ディープブラッド)を封印するための十字架がイギリス清教の物であると。
大覇星祭の際の間違いと諍いの元になったというこの十字架…それを首から下げているという事はイギリス清教の保護を受けられるという事らしい。
オリアナ「お姉さんも噂でしか知らないけど、元ローマ正教のシスターはそうしてイギリス清教の加護を受けたそうよ?お姉さんの服の脱がせ方より強引な理屈ね…けど、それはこの際どうでも良いと思わない?」
女性は続ける。十字教の異端宗派がクーデターを起こすのには吸血鬼を呼び寄せる私の血が必要なのだと。
そうされる前に先手を打って私を保護・回収したいのだと。
勝手な理屈とも思った。保護された先で私がどんな扱いをされるだなんて誰にも保証出来ない。けれど。
姫神「わかった」
オリアナ「…お姉さん、あんまり物分かりよくスムーズに行くより少しくらい焦らされたり拒まれると思ったんだけど?」
姫神「もう。構わない。貴女が。敵だろうと味方だろうと。ここから連れ出してくれるなら」
渡りに船だと思った。捨て鉢でやけっぱちな気持ちもなくもなかった。
もう私は麻痺していた。だからこそ、かつてこの私を血塗れにした相手の言葉に唯々諾々と従った。
この女性が味方だと信じるも敵だと疑うもなかった。
多少、相手を軽んじるような発言をしてしまったけれど。
姫神「(――淡希――)」
その女性が言う。出発時刻、同伴するステイル=マグヌスという魔術師、小萌先生の名前で私は反応したけれど――
姫神「小萌先生には。会っていかない。泣いてしまうかも知れないから」
オリアナ「………………」
姫神「ただ。伝言だけ。伝えて欲しい」
私の頭の中は冷たく、胸は冷えていた。他人事の事務処理のように淡々と告げる。
自分の身の安全も、先行きも、絵空事のように聞き、話した。
現実感がまるでない。まるで抜け殻か操り人形のような私を、その女性は辛そうに見つめていた。
オリアナ「…最後に、お別れを告げたい人はいるかしら?しばらく日本に帰ってこれないでしょうから、お姉さん今夜中に出られさえすれば――」
姫神「…なら。一人だけ。最後に過ごしたい人がいる。でも。お別れはいわない。きっと。止めるだろうから」
思う。小萌先生とは違う、ただ1人の同居人の寝顔を。
命より先に死に絶えてしまった私の心は、彼女の元に置いて行きたい。
もう二度と、学園都市の土を踏めなくなっても良いように。
姫神「(ごめんなさい。淡希)」
荷物は置いて行く。身体一つで海を渡る。あの家に取りに帰る時間があれば、それだけ彼女と過ごす時間が薄まる。
とんとん拍子で進む摺り合わせと打ち合わせが、ひどく虚しく覚えた。そして
姫神「(もう。ご飯を作ってあげられない)」
安堵があった。私はもう淡希にご飯を作ってあげられない。
一緒に寝てあげる事も、キスしてあげる事も、何一つ出来なくなる。
だから、これは守られっぱなしだった私に出来る、たった一つの冴えたやり方。それが私の安堵。
姫神「(もう。一緒にいられない)」
このままだと、遅かれ早かれ淡希は私のために命を落とす。
手足を失うような取り返しのつかない怪我もするかも知れない。
しかし私が命を絶てば淡希の戦い全てを否定する。それを無駄にしないためには離れて生きれば良い。
もう十分だ。この一週間に満たない共同生活だけで、私は生きていける。たった一人でも。
姫神「(ありがとう。淡希)」
私は嘘をついた。ずっと一緒にいると、離れないと言ったのに。
けれど、あの時の気持ちは嘘じゃない。信じてもらえないだろうけど。
本当は、本当に、本心から――
オリアナ「…使ってちょうだい…せっかくの美人が台無しよ?」
そこで、その女性がハンカチを差し出して来た。
わかっている。けれど受け取れない。この頬を伝う物を拭ってしまいたくなかった。
受け取れば、置いて行く淡希でなく、離れて行く自分を慰めるような物だから―――
~螺旋階段踊場・オリアナ=トムソン~
オリアナ本来の仕事…それは吸血殺し(ディープブラッド)を英国まで護送する事。
人手不足のローマ正教から雇われ、手を結んだイギリス清教の勢力圏まで『運ぶ』事。
『水先案内人』は、学園都市の様子を見ながらもう少し脱出計画を練り上げるための仮初めの姿。
復興支援委員会に手渡したハザードマップはそのほんの一端。
これはオリアナの、ほんのささやかな善意であったが――
オリアナ「(お姉さんも人が悪くなっちゃったわあ…夜の駆け引きは嫌いじゃないけど、騙す悪女みたいにしちゃって)」
結果として、来日した翌日にはもう姫神を連れて帰国せねばならなくなってしまった。
モノレール襲撃事件、アンチスキルの1支部を壊滅させる手口からグノーシズム(異端宗派)にはなりふり構っていられない余裕の無さを感じ取ったが故である。
オリアナ「(イギリス清教の本拠地なら、どんなに必死にがっついても夜這いはかけられないわよ?乙女のカーテンは影は透けても分厚いものなの)」
必要悪の教会(ネセサリウス)本部ならば天草式十字凄教、アニェーゼ部隊、そして『聖人』神裂火織を初めとする腕利きの魔術師がごまんといる。
魔術に対する防衛知識も皆無に等しく、防衛機能もがた落ちしている現在の学園都市に匿うより何倍も安全だ。
オリアナ「(…お姉さんだって、これがエゴイズムと思わくもないけど)」
姫神をイギリス清教・ローマ正教が人手不足の中匿うのは慈善事業でも宗教的支援でもなんでもない。
小規模とは言えグノーシズム(異端宗派)に吸血鬼を呼ばれ、魔術的な軍事目的に使われてクーデターを起こされるのを未然に防ぐためだ。
だが、オリアナもその建て前(エゴイズム)を断罪するほど子供でもない。
どれだけ軽い物言いであろうと、彼女はプロなのだから。
オリアナ「(さーて…お姉さんのお仕事、始めさせてもらおうかしら?)」
まずはイギリス清教側のエージェントたるステイル=マグヌスとの打ち合わせだ。
ローマ正教はイギリス清教を、イギリス清教はローマ正教を、それぞれ手を結びながらも互いに監視を怠らない。
ステイルは協力者でもあるし同時にお目付役であり、ステイルからすればオリアナもそうだ。
オリアナ「(その前に…彼女の担任の先生にも伝えなくっちゃね。プラス、ラブメッセージ付きで)」
姫神秋沙には身寄りがない。それが国外に連れ出すにあたりこの際好都合だった。
月詠小萌は最後まで反対し続けたが、姫神と、生徒達と、避難所の人間の安全を引き合いに出して折れてもらった。
最後には童女のように姫神(せいと)の一人も守れない自分を嘆いていたが…
オリアナ「(…ごめんなさいね…)」
それは小萌が無力でも無能だからでも無知だからでもない。
魔術サイドという、住んでいる世界そのものの違いだからだ。
そう胸で呟きながら、オリアナ=トムソンは螺旋階段を下り姫神と別れた。
オリアナ「(長い夜になりそうねー…ふふっ、お姉さんも何かお腹に入れてこなくっちゃ)」
個人としての善なるオリアナがどれだけ少女の行方に胸を痛めても、『運び屋』のオリアナは冷静にプロとして動かなくてはならない。そう決めている。
――それこそがオリアナ=トムソンの中の、担うべき礎(ルール)なのだから――
最終更新:2011年03月27日 22:18