とある世界の残酷歌劇 > 第二幕 > 07


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絹旗は苦しげな呼吸を繰り返しながら階段を上っていた。

誰か、医師か看護士にでも見つかればきっと病室に連れ戻されてしまうだろうが、
不思議な事に院内はしん――と静まり返っていて、他の誰とも会わなかった。

その事に微かな疑問を抱きつつも絹旗はふらふらと階段を上る。
スリッパの立てるぱたんぱたんという平べったい音が狭い空間に反響する。

絹旗の体は絶えず揺れていて、ともすればふらりとその身を壁に寄り掛からせる事もある。
当然だが、まだ体力は回復していない。それを病室から出て数歩してようやく気付いた。
本来ならばまだ絹旗は病室のベッドの上で大人しくしていなければならなかったし、そもそも動けるはずがなかったのだ。
けれどどういう訳か、絹旗はこうしてふらつきながらも歩いていた。

ゆっくりと足が差し上げられ、階段を踏みしめる。
少女の矮躯は相応の重量しか持たず、それ故に負担が少ないのが救いだった。
ただ、絹旗が一歩踏み出すごとに、みしぃ、と建物が微かに軋む。

その能力を使って絹旗は強引に体を動かしていた。

とはいえ、それはあくまで運動補助具のようなものだ。
内臓にダメージを負っているものの比較的軽症だ。運動自体には支障はない。

けれどまた絹旗の体はふらりと左方に流れる。
ほんの些細な、指摘するにも揚げ足取りになるような事だが、確かに絹旗は、真っ直ぐに歩けていない。

……右手の欠損。原因は確かにそれだった。

体力を奪われているのも、何かにつけて動き辛いのも、平衡感覚を失っているのも、原因は全てその一点に集約される。



ただの怪我ではない。怪我、と一言で済ませることができるならどれだけ楽か。

なにしろ体の一部を失っているのだ。それも取り分け重要な部位を。
感覚が集中し、意識して多用する身体の先端。その欠落は大きな意味を持つ。

精神的にも、肉体的にも、意識的にも、無意識的にも。
利き手を丸ごと失うという事態を――人はろくに想像できない。

それほどまでに『手』の存在は欠かせない。
重要すぎて当然になり、失う事など想定できないのだ。

ほぼ完璧に処置がされ、そこに痛みはない。
ただ、同時に数時間前まであったはずの感覚もない。

最悪にも絹旗は右手を完全に喪失した。
実感として必要なはずの痛みと共に。

だからこそ絹旗の体は見た目以上に、そして本人も気付かぬままに大きな損失を受けていた。



斯くして右手は使えず、かといって左手も、体を支えるための手摺りを握ってなどいなかった。
左手の内には、小さな四角が握られている。

絹旗にとってそれは、なんというか――お守り――みたいなものだ。

病室を出る時に何故か持ってきてしまったそれは、本当は絹旗の着ていた服のポケットに突っ込んでいたはずだ。
しかし手術の際だろう、目覚めてみれば病院着を着ていて、ぼろぼろになった服と一緒に纏められていた。

――――まさか、見られただろうか。

そう不安になりながらも、絹旗はどこかで期待すらしていた。

こんなものを後生大事そうに持ち歩いている事を知ったとしたら、彼はどんな顔をするだろうか。

一時限りの使い捨てでしかないはずのそれを未だに持っているのは、どうしてだか捨ててしまうのが惜しかったからだ。
片手の中に納まってしまうような小さなそれが、他の皆にはない、自分だけの特権のような、そんな気さえしたのだ。

二度と使う事はないだろうけれど。

けれど、いつか使う事があると、どうしようもなく淡い期待を捨てきれずにいる。

……R指定の映画など、そうそう見に行く事はないのに。



左手の内に握られた偽りのプロフィール。
いっそ本当にその通りになれたらとたまに思う。

何も知らない、ただの少女だったなら。

もしかしたら――今頃どうしようもなく下らない映画をポップコーン片手に見ていられただろうか。

そんな妄想じみた事を考えそうになって絹旗は頭を振る。
現実は容赦なく残酷だ。ポップコーンを掴む手はなく、目の前に広がる世界は映画よりも下らない。
                i f
そんなどうしようもない夢物語は少なくともこの場に於いて何の足しにもならない。

下らない妄想は捨ててしまえと絹旗は階段を踏みしめた。
夢の世界に逃げ込む事はできたとしても、それは現実からの逃避でしかない。
今、何よりも重要な事は。

「………………」

何をすればいいのだろう。

何が起こっているのか。分からない。
垣根はどうにも窓のないビルへ侵入したいらしいが、正直なところ絹旗にはどうでもいい。
ただ、絹旗の願いは。

(下らない映画を見て――それで、馬鹿みたいに笑っていたいんです)



決して叶わぬ事であるのは重々承知している。
けれど、それを願う事で人は生きていけるのではないのだろうか。

何も高望みをしている訳ではない。
どうしようもなく平凡で仕方ない、愚にもつかないような日常が欲しいだけだ。
ただただ笑って過ごせる日々が、年相応の楽しげな日々が。

暗部に身を窶している自分がそれを言うのは傲慢とは思えども。
どうしようもなく輝いて見える日々を思うからこそ、こんな地獄の中でも生きていけるのだ。

そして――――。

(願わくば――みんなも同じであらん事を)

そう。

人は皆、笑って生きていたいのだ。
悲嘆も憤怒も哀悼も狂気も必要ない世界を生きていたいのだ。
だからこそ、それが叶わぬと知ってなお抗い続けられる。



「あ――――」

不意に襲う酩酊。
ふらりと、体の力が抜け絹旗は身を横に流す。

階段を踏み外すほどではないがよろめいた体。
体力は最初から限界に近いのだ。忘れていたとは言わないが、高を括っていた事も否めない。

安静にしていなければならない体を無理矢理に動かしているのだ。気力だけでどうにかなるものでもない。
思わず手摺りを掴み、絹旗は歯噛みした。歩く事すらままならぬ。そんな自分が動けたとして、足手纏いでしかないだろう。
けれど何かせずにはいられないのだ。この妙な気配のような感覚もだが、何より絹旗は現状に抗いたいのだ。

手を拱いているだけでは木偶人形も同じだ。
少なくとも絹旗は、こうまで目の前で何かが起きているのに黙っていられるほど寛容でも無感動でもなかった。

そして何よりも。嫌な予感がするのだ。
虫の知らせに近いそれは最悪な事態を絹旗に予感させている。

何か途轍もなく嫌な、救いようのない最悪が起こるような気がするのだ。



急かすそれに焦れったさを感じながら絹旗は――――。

「…………あれ?」

違和感があった。

何かが違うのではない。
おかしいのでも、間違っているのでもない。

そう、何かが正しい――そんな違和感。

まるで騙し絵のような錯覚の中にあった。
なんて事はない、物凄く単純な解。

いや、単純だからこそ、簡単だからこそすぐには気付けなかった。

「――――――、」

――そしてようやく気付いた。

視線は右。

手。失われたはずの。

手首から先が切断され、傷口は真っ白な包帯で塞がれている。
そんな木偶にも等しい右腕が。

存在しないはずの指先が感覚を得ていた。

階段の手摺りを、見えない手が掴んでいるのだ。



それはあまりにも自然で、絹旗が一時の間錯覚してしまうほどに。

分かっている。
それは正しくは手ではない。絹旗の持つ能力、不可視の気体だ。

けれど。

何か、曖昧で不確かで、目には見えないけれど。
それでも確かなものを掴めた気がしたのだ。

「………………ええ」

形を変えてしまわないように気を付けながら左手が握る。

目には見えなくとも。形はなくとも。
確かに、絹旗の手は大事なものを握れるのだ。

そう確信した。

大丈夫だ。自分はまだ戦える。
まだ大事なものと、大事な人の為に。

絹旗最愛は生きていける。






そう思った矢先だった。



「………………え?」



絹旗は思わず声を出してしまった。

目に飛び込んできた光景がどうしようもなく現実味を帯びていなかったのだ。

赤。

それは一面に広がる赤だった。

闇の中にあってなお赤いその景色はどこか異国のようにも見え、絹旗は一瞬自分の立つ場所すら錯覚してしまう。

金属の軋む小さな音がして、やがてばたんと大きな音と共に扉が閉まった。
その事が嫌が応にも絹旗を現実に連れ戻す。

絹旗の立つのは極々平凡なコンクリートの地面で、それは病院の屋上だ。
背後の音は鉄扉の閉まる音で、体が感じるのは近付きつつある冬の風で、目の前に広がるのは。

真っ赤な、人の命そのものだ。



棒立ちになる絹旗の心の裏、ほんの少しの高みにいたもう一人の絹旗は妙に悟った思考でいた。
嫌な予感はこの事だったのだ。どうしようもない最悪は気付いた時には手遅れで、全てが終わった後だったのだ。

屋上の中心。風の吹く夜闇の中に赤の塊があった。
それが何かは闇と距離に紛れて分からなかったが、絹旗は直感的にそれを理解してしまった。

その大きさは、ちょうど人が蹲るほどの塊で。
床にべっとりと張り付いたものの端から伸びるそれは靴を履いた人の脚のようにも見える。

そして何より――強い風に片っ端から吹き飛ばされているが圧倒的な質量を屋上に広げるそれは――生臭い鉄錆の香だ。

生々しい、血液の臭い。

「あ――――ああ――――」

ようやく掴めたと思ったものはするりと指の先から零れてしまった。
その事を確かに胸中に欠落として、右手以上の喪失感として得た絹旗はどこか達観した視線で受け止めていた。

そう、ここは地獄だ。

全ては失われ、壊され、砕け散り、何もかもが残さず業火に焼き尽くされてしまう。

そんな世界だと理解していたはずだ。
だから何を今さら絶望する必要がある。



意識の乖離したまま絹旗はふらり、ふらりと赤に近付いていく。

それは確かに人だった。

粘質の赤い液体を被ったそれは悪趣味な前衛芸術にも見えるが、間違いなく人の形をしていた。

まるで血と肉と臓物の一杯に入ったバケツを頭からぶちまけたような格好で――そしてそれは恐らく間違ってはいない――
その人は微動だにせず、屋上の中心でぺたんと座り込んでいた。

肩に、腰に、腕に、足に、何やらべろべろとしたものが引っかかって風に靡いている。
その周囲には夥しい血の赤と、そしてそれを内包していたものの残骸であろう欠片がべっとりと広がっていた。

近付く度に、一歩を進む度に濃くなる血の臭いは、まだその中心の輪郭も茫としているにも拘らず最早むせ返りそうなほどだった。

さながらそこは屠殺場か、そうでなければ缶詰を開けたようだ。
フレデリック=ベイカーがそこで羊でも解体したのではないかと思うような有様は、あながち間違っていない。

その中で唯一、原形を止めてしまっているものがある。
矢張り真っ赤に染まった、長く横たわるもの。
それはどう足掻いても――人の下半身にしか見えない。



ぐっしょりと赤黒い血に染まるスラックスと革靴。
その爪先あたりは辛うじて元の色を残しているが、暗闇に溶けてしまってはっきりとは見えない。

その上部、人の上半身に当たる部分。
まるで粘土の塊を掌の付け根で擦り付けたかのように伸されていた。
極限まで薄くされた肉が屋上の床面にこびり付いてしまっていた。

その量を外見だけで判断できない。何しろ辺り一面に丁寧にびっちりと敷き詰められているのだ。
ただ――俯瞰視点から正確に表現するならば、それは人の上半身が一人分ほどの量だ。

無論、原形を留めていないそれを絹旗が海原光貴のものだと理解できるはずもなかった。

絹旗は夢遊病患者のように、まるで吸い寄せられるかのようにその中心部に向かって歩く。

スリッパの靴裏が湿った音を立てる。
さながらクレーターのように広がる血の海に踏み入れられた足が吹く風に半ば乾いてしまった水分を叩いた。
粘つくような不快感を僅かに裏面に残しながら、進む足を名残惜しそうに生々しい感触が引いた。
ぶよぶよとしたものを踏み付け、足は勝手に動く。一歩、一歩と近付いていく。



「――――――」

それは両足を正座から崩したように外にずらし尻を冷たい石面に直に密着させていた。
肩口の、血に濡れ乾いてしまい本来の質感を失ってしまったフェイクファーが風に微かに揺れる。

合成繊維で模られた背は引き伸ばされた血液にまるで油絵を塗りたくったのカンバスのような質感で、
ところどころが乾いた所為で罅割れている。それがどうにも気持ちが悪い。

地上から見上げるように伸ばされた僅かな光ではまともに見る事などできようもないだろうが、最早それとは数メートルもない。
徐々に血肉の中央にいる人影の陰影がはっきりとしてくる。

血塗れになってしまって見るも無残な様子ではあるが、その髪と雰囲気に覚えがある。

こちらに向けた背を回り込むようにゆっくりと移動する。
じわり、じわりとぼやけていた印象が記憶の中のものと結び付き形を成していく。

そして真横を過ぎた辺りでばらばらだったパズルのピースが一気に組み上がるように結実した。

それは――――滝壺理后だった。



「滝壺――――さん――――?」

震える声が唇の端から漏れる。

滝壺は寒さに身動ぎする事もなくその場に座り込んだままだった。
呆然と、どこか陶酔すら感じさせるような無機質めいた表情でいた。
その生気のない瞳は俯いたままどこかを茫と見詰めている。

そしてその口から溢れた血液が真っ白い肌を濡らし顎を伝い落ちていた。

「滝壺さん――――!」

思わず叫び、絹旗は両の手を滝壺に伸ばす。
右手の先が無くなってしまっている事も忘れたまま、見えない手で滝壺の肩を掴む。

しかし返ってきた感触はあまりにも頼りないものだった。
羽織ったウィンドブレイカー越しに伝わるそれは人の肌のものではない。

ぐにゃりとした、余りにも生々しくおぞましい――死肉の感触だ。



「ひっ――――」

思わず漏れた悲鳴と共に、半ば突き飛ばすように絹旗は手を離してしまう。

その衝撃に滝壺の体が傾ぎ――そのままごとんと屋上に倒れた。
重量の多く硬い頭部が速度をそのままに石の床に重々しい音を立て激突する。
にも関わらずその顔は相変わらずの無表情で――――。



滝壺は死んでいた。



「――――――!!」

声にならない絶叫が喉をごくりと蠢かせる。
「どうして」だとか「何が」だとかいう現実逃避に似た疑問が脳裏を掠める。
しかし本当に重要なたった一つの事実の前に絹旗の思考はショートしかけ、思わず数歩後ずさる。

目の前で、大好きだった少女が死んでいた。

びちゃりと湿った感触が足裏を叩く。
混乱しきった絹旗はそんな事に構っている余裕などなかった。

容赦ない現実と自身の叶うはずのない希望との軋轢に精神をごりごりと削られ心が悲鳴を上げていた。



認識したくない、理解できない、受け入れ難い現実を目の当たりにした時、人の精神は己を守るためにその奥底に閉じ篭る。
そして絹旗も例外ではなかった。反射的にシャッターを全力で下ろし、防衛機能のままにその心を封じ込めようとした。

しかしそれも叶わなかった。

他でもない滝壺――絹旗の世界の中心と言ってもいい、『アイテム』の中でも特別に親しい感情を抱いていた少女。
絹旗自身が最年少だというのに唯一敬称を付けて呼んでいた『滝壺さん』。
他の誰よりも――絹旗の中心に近かった、少女。

その向ける感情の比重故に大きい否定だが、同時に最も高い重要性のために絹旗は凝視してしまう。
見ようとしてしまった。

だから、間に合わなかった。
                        げんじつ
少女の心を一つ打ち砕くには十分すぎる悪夢が閉め損なった障壁の隙間から転がり込む。

ごろりと。

崩れた滝壺の体、その胸に抱き締めるように抱かれていたものが冷たい石床の上を転がった。

「――――――は、」

最初、絹旗はそれが何か認識できなかった。
いや、理解しようとしなかったのだ。

――人の心は防衛機能を持ち、精神の毒となる現実を受け入れる事を拒絶しようとする。

歪な球形。

所々が血の赤と黒に塗れ、カラフルでグロテスクな彩色をしたもの。
大半は肌の色で、やや乱れた短い糸のような人工の茶色のものが半分ほどを覆ったそれは。



「――――は――――ま、づら?」



――――よく知った少年の首だった。





「い――――」



時が止まったような錯覚。
自分の周りだけが時の流れから切り取られてしまったような疎外感と孤独感。

世界から隔絶されたかのようなそれはまるで箱庭だ。

実際、目の前の景色は見慣れた現実味を帯びていない、シュルレアリスムの支配する様相だった。
血と肉と闇とが彩る世界。それは余りにも地獄的だった。



「や――――」



だが地獄。

そもそも最初から分かっていたはずだった。
少なくとも絹旗が身を置く世界は地獄そのものだ。
煌びやかな表舞台の影で蠢く最低最悪の世界。

そう知っていたはずなのに――絹旗は今の今までそれを本当の意味で理解していなかった。



「あ――――」



どうしようもなく最悪と醜悪と狂気と瘴気の塊でしかない現実。
知識と感覚だけで分かったつもりではいたもの。


                じごく
真の意味で想像を絶する現実が今、絹旗の目の前に広がっていた。





涙が意思とは無関係に溢れてくる。
それは眼球を覆い視界を滲ませる。余りにも辛すぎる光景を直視しないために。
ぼろぼろと零れる涙滴を気にする余裕もないまま、絹旗は一つの事実に気付く。

ぼやけた視界の中。
それはきっと偶然だろう。いや、偶然以外の何物でもないはずだ。
けれど最低に悪趣味な神様とかいう演出家はこの場に於いて絹旗に最も効果的な偶然で舞台を脚色する。

四肢を力なく投げ出し横向きに倒れた滝壺。

ごろりと、浜面の、首。

それが偶然にも、お互いをその正面に、見詰め合うような絶妙な配置で転がっていた。

勿論そこに当人たちの意思などは関係していようはずもない。
生気の欠片も感じられない虚ろな瞳。真っ白な死人の肌。
それは血に彩られた惨劇の跡でしかない。

けれど確かに、二人は見詰め合っていたのだ。



そして同時に絹旗は悟る。





この二人の世界はそれだけで完結し切っていて、その間に自分の入る余地など一片たりともなかったのだ。










「――――いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

























――――ぶつん、







――――――――――――――――――――







意識を失い、崩れ落ちる小さな体を優しく受け止めた。

「――――絹旗」

直前まで狂気に焼き尽くされていた彼女の顔だったが、眠る幼子のような安らかな表情にはその残滓もない。

それをどこか悲しげな微笑で見詰め、聞こえぬと分かっていても語り掛けずにはいられなかった。

「私、アンタの事さ、友達だと思ってたんだ。アンタはどうか知らないけど、少なくとも私はそう思ってた」

普通ならここは涙の一つでも流す場面なのだろうが、生憎とそんな高尚な物は持ち合わせていなかった。
抱く手に力を込め、肩越しに頭を垂れ、意識のない絹旗を後ろから抱き締める。その程度だった。

「んで、友達には絶対に使わない事にしてたんだ。だってそんな事したら友達だなんて言えなくなるじゃん」

全身の力を失いだらりと垂れ下がった両腕の上から抱えるように回し胸の前で交差させた手は震えてなどいなかった。
それを意識して己を忌々しく思う。「どうして」だとかそんな事はもう言う気はないが、それでも最低だと思うことに変わりはなかった。

「――――でも、ごめん。結局、使っちゃった」

だからせめて無表情でいようと、フレンダは目を伏せた。



冷たい夜風の吹き荒ぶ屋上には惨劇の跡しかなかった。

その悲惨な場景は人の心を瓦解させるには十分過ぎる。
まして、ほんの中学生の少女ともなればなおさらだ。

自分も実は中学生だけど、と心のどこかで嘯いて、フレンダは抱き締めた少女の温もりをしばらくの間感じていた。
風はあまりに冷たい。人の温もりはそれを和らげてくれる。
けれど自分にそんな資格はない。それは家族か恋人か、せめて友人に求めるものだ。

「ごめん、ごめんね――――絹旗――――滝壺」

記憶を彼女たちの笑顔が過ぎった。
もう二度と自分に向けられる事はないと理解しながらもフレンダは追憶する。
これは飴であり鞭だ。その眩しすぎる記憶は感傷と共に責め立てる。
それを失わせたのは――奪ったのは、自分だ。

「――――浜面」

目を向けず、記憶の中だけでその顔を思い返し、フレンダは言葉を繰り返す。

「ごめんねぇ……っ……」



――――結局、この懺悔も偽者だけど。そうせずにはいられないという事もなかったけれど。



そんな冷めた事を思いつつも、それでも形式ばかりの言葉を繰り返した。





「…………そうね。結局、ただの自己満足よ」

そう囁く/嘆くようにフレンダは独白/告白を続ける。

「笑っちゃうわよね、ほんと。柄にもないって事は自覚してるわ」

は、と息を吐き出す。寒さに白くぼやけるそれはすぐさま風に流され霧散した。

「本っ当に滑稽だわ。結局、私はこれ以外に上手い方法が思いつかなかった訳よ」

けれど同時に、フレンダは安堵する理由を得る。

――――これで全ての退路は絶たれ、残るは地獄の底までひたすらに突き進むだけの至極簡単な道だ。

滝壺は死んだ。
浜面も死んだ。
絹旗にはこうして禁忌を用いてしまった。

原因の全てとは言わないが、量の問題ではない。そうなる要因を自分が作り出した。
この結末に至る道があると予感してもなお――自分はそれを決断した。

もう彼女の帰るべき『アイテム』は、存在しない。

残る一人に会った時、何て言おうか、と頭の片隅で考えながら、

「ごめんね。でも、私もさ――」

言い訳だと理解し自嘲しつつ、誰かが見る事もない表情を顔に浮かべ、呟いた。

「――――結局、自分の居場所を壊されて黙ってられるほど大人じゃないのよ」



びゅう、と冷たい夜風が吹く。

寒いと感じてようやくフレンダは絹旗の格好に意識を向ける。
彼女は薄い病院着しか身に着けていない。ただでさえ彼女は体力が落ちているのだ。

このままでは風邪を引いてしまうだろうとフレンダはせめて屋内に移動させようと閉じていたままの目を開く。
暗闇の中の世界は相変わらずの血と死しかない悪夢で、そしてどうしようもなく現実だった。

少ししゃがむようにして体を折り、片手を絹旗の膝の裏に回し、もう片方の手で上半身を支える。
矮躯といえどフレンダも同じようなものだ。重い、と思ってしまう。当人が聞いたらきっと怒るだろうが。

(……そんな事、結局もうある訳ないじゃない)

どこまで自分は能天気なのだろうか。気持ち悪い。

そんな侮蔑を自らに向け、フレンダは立ち上がろうとして――――。

「………………」

足元に落ちていた物に気付く。

四角い、名刺ほどの大きさの物だ。



少しだけ迷って、フレンダはしゃがみ込んだ膝を絹旗の尻に当て彼女の体を支えると左手でそれを拾う。

幸いにも床に広がった血は乾いてしまっていて汚れてはいなかった。

それは学生証だ。
記憶にある、絹旗が大事そうに持っていた紙切れ同然の重さしかないもの。
けれど彼女にとっては何よりも重いはずのもの。

視線を学生証に落とす。
そこには絹旗の顔写真が貼られ、そして偽りの名が書かれていた。


『 氏名 : 鈴科 百合子 』


「……結局、張ってた伏線は無駄になっちゃったけどさ」

小さく呟いて。

「大事なものなんでしょ? 結局、落としちゃダメじゃない」

学生証を絹旗の胸の上に置き、それを絹旗の残された左手に握らせる。
それから包帯の巻かれ手首一つ分短くなった彼女の右手をそれに沿えた。



絹旗の胸の上の学生証を落とさぬように気を付けながら再び抱き上げ、立ち上がる。

強く吹く風に髪を靡かせ顔を顰める。
ゆっくりと扉に向かって歩き、けれど二、三歩進んだところで立ち止まり肩越しに振り返った。

そこには血肉の海に沈む滝壺と浜面がいる。

「……ほんと、不幸だわ。結局、誰も彼もが不幸だった……としか言えないわね。
 運が悪かったのよ。そうでも思わないとやってらんないわ」

誰に向けてでもなく言いながら、でも、とフレンダは続ける。

「でも……アンタたちはむしろ、それで幸運なのかもしれないわね。
 もちろんそんな事が言えるはずもないんだけど、……こっから先を見なくてすむんだもの。それに、……、……」

それに、の後に続く言葉を言うのを止めフレンダは頭を振った。
柔らかく溜め息を付き視線を抱いた絹旗に向ける。
どんな顔を向けていいのか分からなかったのでとりあえず笑顔にしておいた。

「眠りなさい、絹旗。そしてせめて、その間くらいは幸せな夢を見なさい。結局、私はそれくらいしかアンタにしてやれないけど」

囁くように語りかけ、ようやくフレンダはゆっくりと歩き出す。

かつ、かつ、と靴底が床を叩く硬い音が響く。
やがて金属の軋む音に続きばたんと扉の閉まる音がした。







そして誰もいなくなった屋上。

二組の瞳がお互いをずっと見詰め合っていた。









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