とある世界の残酷歌劇 > 第二幕 > 06

廃ビル。

出入りする人の絶え、死んだコンクリートの塊と成り果てた建造物の外。
表口を横に、薄汚れた壁面を気にしながら彼女はそれに背を預け腕を組んでいた。

辺りは既に暗くなって久しい。表通りを照らす光の残滓が路地裏とも変わらぬ細い道を薄ぼんやりと浮かび上がらせていた。
彼女は目を瞑り、何かを考え込んでいるようにも見える態で寒風の吹き抜けるそこにいた。

スカートから見える足は防寒対策などしておらずそのままの肌を晒し、寒さに表面を粟立たせている。
けれどそんな事には委細構わず彼女はそこでただじっと壁に背を預け佇んでいた。

こつ、と足音が聞こえた。
それに彼女は薄く目を開け、しかしまたすぐに閉じる。

足音は続く。それは建物の中から聞こえてくる。
硬質の音が一定のリズムで響き、歩む速度のそれはゆっくりと近付いてくる。

彼女はそれを僅かに気にしながらもただじっと出入り口の横にいた。

そして、開け放たれたビルの四角い口から漏れていた音は徐々に足音は大きくなる。
そしてついにそこを飛び出し彼女の真横で鳴り、止まった。
                 う ち
「なぁに、出待ち? 結局、常盤台じゃあ今そういうのが流行ってるの?」

帽子から金色の髪を零しながら、フレンダと呼ばれる少女は後輩の少女――白井黒子に向けて悪戯っぽい笑みを向けた。



フレンダのおどけたような言葉に白井は特に何もとばかりに顔色一つ変える事も眉一つ動かす事もなく、
先程までと変わらぬ姿のまま、片目だけを薄く開き彼女を見るとお座なりな態度で返した。
                                                 じょうおう
「……まさか。それと、わたくしはあなたを待っていた訳ではありませんので。『心理掌握』様」

その返答が気に入ったのか、フレンダはくつくつと笑った。

「アンタからその呼び方が出るとは思わなかったわよ。結局、一年には私のシンパはいないしね」

「初めてお目にかかった時に直感しましたの。確かにあなたは間違いなく女王と呼ぶのが相応しい。
 ……もっとも、歴史に名を残す女王といえば大抵は、残虐非道の悪女ですけれど」

先輩に向かってアンタも言うわねぇ、とフレンダがまた笑う。

それを見て思う。白井は彼女の笑顔以外の表情を見た事がない。

白井がつい先日、初めて常盤台の女王たるもう一人の超能力者と対面してからというもの、
彼女はずっとわざとらしい笑顔を浮かべたままだ。

少し機嫌の悪そうな時もある。膨れ面をしている時もあったし、泣いている素振りをする事もあった。
けれどどうしてもその裏側に、何かが可笑しくてしかたないという薄気味悪い笑顔があるのだ。

まるでピエロの化粧のようにべったりと張り付いたそれを白井は気持ち悪いと思う。
人は誰しも仮面を被るとは言うが、彼女の場合――仮面しかない――そんな気配がするのだ。



「結局、あながち間違ってないのが怖いわね。優秀な後輩が多くて先輩としては鼻が高いわ」

「心を読まないでくださいます? 乙女の秘密に踏み込むのはマナー違反ですのよ」

「これくらいの距離だと勝手に見えちゃうのよ。…………嘘だけどねっ」

わざとらしい無邪気な顔で笑う彼女に白井は羞恥や恐怖や憤慨よりも先に、嫌悪感を覚える。
目の前にいるのが人ではないような気さえした。
人外の化け物という意味ではない。絵画や画面の中の人物を相手にしているような、そんな手応えのない会話。

言葉のキャッチボールという表現が頭に浮かぶ。
今のこれはまるで壁に向かって投げているような感じだ。要するに――張り合いが絶無なまでに無いのだ。

「ちなみに嘘っていうのは結局、見えるのがってのよ? 能力使った訳じゃないからね。
 それくらい表情を読むだけでなんとなく分かるし、あとはカマにかけただけ。やーい引っかかったー」

「………………」

「反応ないとセンパイ寂しいなー。もうちょっと愛想よくしてもバチは当たらないわよ?」

笑顔のまま顔を覗き込んでくるフレンダに、白井は、はぁ、と溜め息を隠す事なく吐いた。

「お喋りですのね、あなたは。遠慮もなし、容赦もなし。緊張感もまるでない。あなた、それで本当に『心理掌握』なんですの?」



白井の言葉にフレンダは下から半ば見上げるようにしていた格好から背を伸ばし、大仰に頷いた。

「そうよー。そしてアンタのともだち。いいじゃない、仲良くしようよ。結局、人類皆兄弟で平和が一番って訳よ!」

「わたくし、友人は選ぶ性質ですので。お生憎様」

よくもまあ白々しい、と心中で吐き捨てながら白井は少し憂鬱な気分で僅かに視線を下げ俯いた。

友人は捨てた。そして自分が待っているのは彼女ではない。
言葉の端々が癪に障る彼女の言動はまともに相手をするだけ無駄だと結論付けた。

「つれないわねぇ。ほらほら、握手しましょ。おてて繋いで一緒に踊りましょ」

「遠慮しておきますわ」

そう、にべもなく返すがそんな白井の言を無視してフレンダは胸の前で組んだ手を強引に握ってきた。

そして強く手を引く。
その動作に白井は少し驚いて、よろめくようにしてフレンダの方に向かってたたらを踏んだ。



「ちょっと――――」

口から出かけた白井の言葉は、直後に生まれた音によってその先を絶たれる。

ばちん! という大きな、そして短い破裂音と共に石が跳ね、刹那の後、遅れて不自然な風が髪を嬲る。

「――――――」

その発生源は背後、今まさに白井が背を預けていたコンクリートの壁面。
ゆっくりと首を回し、それを見れば――そこには放射状の大きな皹が走っていた。

「……おーぅ、危険があっぶなーい」

そう相変わらずの巫山戯た調子でフレンダが嘯くが白井はそれに耳を傾けない。

皹の生まれ方とあの音。白井には覚えがある。
そしてやや離れた路上、同じようにして生まれた皹と抉れがあった。

それは跳弾によって生まれた弾痕だ。

「――――狙撃――――!」

息を呑む白井を見ながら、金髪の超能力者の少女は変わらぬ様子で微笑んだ。





――――――――――――――――――――





そこから少し離れた、とある研究施設の階段。
砂皿はその明かり取り窓から外に向けて構えていた銃のスコープから目を離した。

手にした銃はMSR-001、電磁石を用いた磁力狙撃砲だ。

日中に、ほとんど同じ場所を狙撃するのに用いたメイルイーターではなくこの銃を選んだ理由はひとえにその特徴にある。
磁力による、火薬を用いない射撃のために銃声や硝煙の臭いが発生せず、威力は通常のそれに劣るものの隠密性に優れる。

電磁系能力者の最高位である御坂美琴にはその予兆を察知されるかもしれないとは思ったが、夕の一件でどちらにせよ無駄だと判断した。

自分が撃ち殺した相手が件の少女ではないという事は垣根から知らされた。

クローン、と。そう言っていた。
だがそれが意味するものは、本物の超能力者の少女はまだ生きているという事だけだった。

能力に劣る――足元にも及ばないらしいクローンの少女でさえ、本来狙っていた海原からその能力で射線を逸らした。
まさか自分の肉と命すら犠牲にするとは思わなかったが、本来の標的には届かなかった。

その電磁を操る能力の贋作でさえあれだ。
真作がどれほどのものなのかは見当が付かない。
だが自分の唯一の武器である銃弾が通用しない事は目に見えた。

だから砂皿は素直に御坂美琴を標的から外した。

だからこそ今、白井黒子を狙ったのだが。



少し前。砂皿はドレスの少女と一度合流しようとしたが、携帯電話には出なかった。
どころか相手が圏外にいるというアナウンスが流れた。

きっとまた御坂か、クローンの少女の仕業だろう。なんとなく直感した。
となれば、彼女が狙われているか、もしくは交戦中という事になる。

直前に受けた連絡では、彼女は砂皿の撃ち殺したクローンの少女の死体を調べると言っていた。
一度使った狙撃ポイントは何らかの力によって粉砕され使えなかったので代わりの場所としてこの研究所を選んだ。
もっとも、一度使った地点から狙撃するなど愚の骨頂でしかないのだが。

八月あたりまでは稼動していたようだが、研究が凍結したらしく今は使われていない。
どういった経緯でそうなったのかはどうでもよかった。
ただ、人気が無く外からも見えないというこの場所は絶好のポイントだった。

しかしようやくこの場に到着し、彼女がいるであろう屋上を見てみれば、そこに人影はなく、どころか自分の作った死体もなかった。
疑問に思いながら周辺を見回せば、ビルの下には白井と、そしてもう一人の少女がいた。

だから、とりあえず撃った。

彼女らが事態の原因であり、また自分たち『スクール』、ないし『アイテム』に対し殺意を伴う敵対行為を見せているのは明白だった。

最悪自分が放棄した御坂あたりと垣根か麦野が接触すれば真相は解明されるだろうと、
そういうどこか楽観的で短絡的な思考と直感で砂皿はトリガーを引いた。



だが。

(能力者というものは実に厄介だ)

心中でごちて砂皿は無意識に歯噛みした。
どのようにして察知したのか。砂皿の放った銃弾はすんでのところで避けられ血花を咲かせる事はなかった。

偶然にしてはあまりに出来過ぎだった。
それは矢張り、出来過ぎたタイミングで手を引いた見覚えのない少女の能力だろうか。
気取られるような行為は見せていないはずだ。もしかしたらあの少女もまた電磁系の能力者なのだろうか。
それとも、単に運が悪かったか。

もしくは自分が、外したか。

「……、……」

逡巡して、即座にそれはないと否定した。

暗殺を生業にしている者として、相手が誰であれその頭部を弾く事に躊躇いはない。はずだ。
けれど、スコープ越しに見えるその髪は――彼女の顔が頭をよぎる。

あの天真爛漫で、腐った泥の中にあってはならない黄金を。

頭を振る。狙撃が失敗したという事は相手に位置が露見する事と同義だ。
遠距離から狙撃する事しか能のない自分だと思うからこそ、その位置が露見する事は致命的だ。

落ち着いて、けれど迅速に装備を分解し離脱の準備にかかる。

――――けれど。



「残念、遅すぎですわ」



……本当に能力者というものは厄介だ。







――――――――――――――――――――







「運がよかったわね。私がアイツみたいな真似ができて。殺気に反応するなんて、結局、私くらいしかできないんじゃない?」

第五位は伊達じゃないっ! などと嘯くフレンダを無視して白井は尋ねる。

「では第五位様、狙撃手の場所を教えてくださいます? 一っ走り行ってきますの」

「あっち。見える? 三階と四階の間の階段踊場」

それだけ聞けば十分だった。

直後、白井の見ている景色は変わる。

その能力で刹那の間に直線距離で六十メートルほどの空間を渡り、白井は夜の空に飛び上がる。
街から空に向けて放たれる光の中にその身を躍らせながら、直後に再び白井の体は空を跳ねた。

数度の跳躍を経て、時間にして十秒余りで目的の場所へ辿り着く。
外観からして何かの研究施設だろう。装飾的なものを徹底的に除外した無機質な建造物だ。

地上十数メートルの空中から眼下を見れば、建物の壁面、垂直に数メートル毎に配された小さな窓の中に一つだけ開かれたものがある。
一瞬の自由落下を以って視角を合わせ内部の様子を確認し、白井は最後の一回の能力使用を行う。

その先は建物内部、フレンダの示した階段の踊場。

銃を分解するために構えを降ろした砂皿の、すぐ背後だった。

「――――残念、遅すぎですわ」

小さく言って、白井は苦笑して殴りつけるように右手を伸ばした。



しかしその手はすんでのところで避けられ空を掻いた。

砂皿は反射的に体を右回りに九十度回転させながら膝を折り胸を上にし倒れるように身を屈める。
「――――っ!」

白井の能力、『空間移動』は対象を三次元軸を無視して移動させるという強力なものだが、それには幾つかの制限がある。

対象の重量や距離なども関係するのだが、彼女の場合、最大のネックとも言えるのが発動条件である『自身の接触』だ。
白井は自身の体を基点として能力を発動させるために、自身以外にその能力を行使するためには肌で直接触れなければならない。

触れてさえしまえば瞬時に物体を移動させる事ができるのだが、触れなければそれは適わない。

白井の指は、ほぼ水平に近い状態で高度を下げた砂皿の軍用ベストに僅かに届かない。
前にのめるようにして体制を崩す白井。
彼女の身に纏った常盤台中学の制服の胸に砂皿の構えた銃が向けられた。

砂皿の着ている、時期にはまだいくらか早い黒のロングコート。
その布地に隠されるようにして右腿のホルスターに差されていた拳銃を砂皿は瞬間で抜き取り構えた。

ぱん! ぱん! と乾いた火薬の音が階段に響いた。

しかし銃弾は空を穿つ。
弾丸は目的の地点を過ぎすぐ先の建物の壁に弾痕を刻みその内部にめり込んだ。

白井の姿は砂皿の視界から消えていた。

直感と本能で首を動かす。

上だ。

目が合った。



白井は瞬時に能力を自身に用い、その矮躯を空間跳躍させていた。

その距離はほんの数メートル。
砂皿の真上、建物の低い天井ぎりぎりだ。

ただし、移動の際にz軸を逆転させ天に足を、地に頭を向けた逆立ちの状態で。
両の手はまるで砂皿を押し潰さんとばかりに五指を大きく広げ、距離を稼ぐために限界まで伸ばされていた。

見上げるように見下ろす白井の視線と真正面から見上げる砂皿の視線が交差する。

直後、宙に浮いた白井の小さな体は自由落下を始める。

そして同時に折り曲げた膝を伸ばし白井は靴底で天井を蹴り付けた。
反動と重力により同方向へのベクトルを重ねた体は弾丸となって加速する。

「ぐうっ――――!」

呻き、砂皿は左手を床に叩きつけるように振り下ろす。
その拳の円運動によって生まれた力は即座に床で止められた。
しかし砂皿の腕で伝達された力はその胴を左方へと回転させる。

まるで跳ねるように身を回転させた砂皿は背を壁に当て衝撃を殺し、再度銃を向ける。
その銃の動きと連動するように白井が視界に物凄い勢いで飛び込んでくる。

しかし引き金を引くより早く、その伸ばされた手が床に触れる直前、白井の姿は掻き消えた



砂皿は確認よりも早く体勢を立て直す。

昨夜の会合の際、能力者との戦闘に慣れていない砂皿は敵対しかねない能力者についての対策を幾らか受けていた。
無論、それはリストの中に二人いる空間移動能力者に対してもだ。

空間移動能力の最大の長所はその名の通りに空間の制圧にある。

白井に限って言えばその最大射程は八十メートル超。自身を中心としてその空間は彼女の必殺の間合いだ。
ほぼゼロタイムで物体を移動させる能力の元では距離は無に等しい。

ただ同時に、それは欠点でもある。
裏を返せば制圧圏内から逃れるのが最大の防御だ。
しかし今の砂皿にはそれが可能とは到底思えなかった。

故に、代案を用いる。
空間を操る能力に対して、三次元に捕らわれる人の身では対抗できない。
だから能力者自身を無力化する他にない。

そして狙撃手たる砂皿にとって、それは対象の殺害と同義だった。

空間移動能力者の戦闘形態は二種類ある。

一つは今、白井が取ったような格闘戦。
相手に触れなければならないという制約の上にあるためだが、例えば触れずとも能力を行使できる結標淡希に対しても同じことが言える。

その意味するところは、相手への直接の能力使用。
防御できない空間移動を直接叩き込めば、それは必殺だ。

障害物を無視するその能力を用いれば、遥か上空へ飛ばし墜落させる事もできるし、地下や建材の内部へと直接送り込み埋め込む事も可能だ。
直接的な威力は持たないもののその威力は絶大で、生身の人間が八十メートルもの落下やコンクリート詰めから逃れる術はない。

そしてもう一つ。

二度に渡って奇襲が失敗した白井は戦法を変えてくる。
そう、根拠のない確信を長年の殺人者としての経験が言っていた。



立ち上がり、砂皿は投げ出された磁力狙撃砲を捨て拳銃を構える。

スナイパーを名乗ってはいるが、それは自身の事であり武器は関係ないと考える砂皿にとって愛銃などというものは存在しない。

もしあるとすればそれは自身の目と指だ。

単純であるが故に決断は早い。
砂皿は狙撃に特化した銃を捨て、重量と銃身と殺傷能力において格段に劣る拳銃を武器とする。

小さな音を耳が捉える。

視線は向けず、銃口だけを向けた。

果たしてその先には、階段の先、一つ上の階の廊下に降り立った白井が今まさにスカートを翻し、
砂皿を見据えながらその内側に隠された鉄矢に手を伸ばすところだった。

発砲。二連射。

炸裂と発射によって生じた衝撃によって銃口が跳ね上がり、異なる軌道を描いて二発の銃弾は飛翔する。

同時、砂皿は半ば転げ落ちるようにして階段を駆け下りた。



軽快なリズムを足が刻む。しかし足音はない。

狙撃手にとって己の姿を隠す事は必須課題だ。
長大な銃は相手に察知されずに一撃で仕留めるためのものであり、まして近接しての格闘戦や弾幕を用いた銃撃戦ではない。
故に隠密行動は自他共に狙撃手と称される砂皿にとってもはや息をすると同じほどに容易いものだ。

不自然な無音と共に砂皿は階段を滑るように移動する。
先には建物三階部分の廊下。しかし砂皿は階段の途中で急にその足を止めた。

刹那の後、砂皿の眼前に白井の鉄矢が唐突に生じた。

白井の空間移動によって放たれた三次元ベクトルを持たない弾丸。
それは階段を下りきったすぐの位置に奇妙な空を切り裂く音と共に現れ、一瞬の静止の後、重力に引かれ落下した。

それを砂皿は慌てる事なく掴み取る。

空間移動能力者のもう一つの戦法。
今の鉄矢のように対象物を弾丸として打ち出す射撃戦だ。

銃と違い遮蔽物を無視する十一次元狙撃によって打ち出された物体は、防御も装甲も無視し無条件に貫通する魔弾となる。
例えそれが小石であれ紙切れであれ、空間を割り開き出現するそれは弾丸の形状そのままの狙撃だ。
弾丸となった物体の強度や質量に意味はなく、故にそれら全ては等しく必殺となる。



砂皿と同じく、獲物を選ばぬ狙撃。
しかし砂皿の武器は銃に限られ、弾丸も限りある。

ただ、決定的に違う点がある。
それは白井の放つ弾丸はあくまで『空間移動』によるものだ。

十一次元ベクトルを用いる、通常は観測する事すらできぬ高位からの攻撃。
しかしそれは同時に、三次元下におけるベクトルを持たない事を意味する。

それ故、空間移動能力者の狙撃は必ず『点』となる。
対し、銃撃によるそれは『線』だ。銃弾は三次元空間を移動し、壁に遮られ、しかし『点』よりも圧倒的に大きな制圧圏を持つ。

さらに点に対しては三次元の上下、前後、左右の三方向への回避が可能だが、
線に対してはそれが正面から来る場合上下左右しかなく、前後への移動は無意味だ。

そして銃弾を見切る事など人には不可能だ。
戦闘のスペシャリストがそれを行うように見えるのは、単に銃口や視線を読んで先にその射線から体を逸らしているだけだ。
少なくとも数十メートル程度では弾丸が発射されるのを見てから避けるなど不可能だ。

空間を穿つ点と空間を走る線。

瞬間と瞬間。

確かに『空間移動』は強力な能力ではあるが――砂皿には己の銃がそれに劣るなどとは思えなかった。



掴んだ鉄矢を握り締めたまま砂皿は滑るように無人の廊下を駆け抜ける。

白井の能力の及ぶ範囲は八十メートル強。これはあくまで『身体検査』の結果に過ぎない。
データ採取の日付はまだ新しいものの、変動している可能性もある。

だがどちらにせよ、研究所の敷地はは大目に見積もっても数十メートル。
その全てが白井の射程圏内だった。敷地内のどこにいようと白井と隣り合っているに等しい。

しかし強力無比なその能力にも最大の弱点がある。

認知。

いくら瞬間で距離を詰め、あらゆる防御を貫通する術を持っていても相手を見つけられなければ意味がない。

十一次元座標などという想像すらも困難な次元を操る能力であってもそれを行使するのはあくまで三次元に捕らわれた少女だ。
故に五感が絶対となる。狙いを外した鉄矢を手に取ったのもそのためだ。
そのまま放っておけば鉄矢は重力に引かれ落下し、甲高い音を立てていた事だろう。

いくら十一次元において隣り合っているからといって、その手を離れたからには白井の触覚は通用せず、
『手応え』などという曖昧なものを得られるはずもない。

足音を響かせないのもそのためで、あえて階段を下ったのも視角を遮る行為だった。

あの瞬間においてこちらの視角はあってないようなものだ。
白井はいつでもその身を十一次元軸を介して移動させる事ができる。
対し砂皿は己の足でしか移動する事ができない。それは白井にとって絶対的な優位性だ。



だから一度、仕切り直した。

白井の有利を打ち消すために砂皿は自らの不利を用いる。
あえて白井から視線を外す事で不利を確実なものとしながらも、同時にその欠落を白井にも押し付けた。

視覚と聴覚という、人の外部を知覚するための感覚器官としてその多くを占める部位を削ぎ落とす。
触覚は行動に伴う振動だ。しかし砂皿はそれを極限まで小さくする術を持つ。
そして嗅覚は薬品の臭いの染み付いたこの場において役に立たず、味覚に関しては言うまでもない。

廊下を端まで進む前に、途中にある角を砂皿は速度を落とさず曲がる。
長い黒のコートの裾を引きながら砂皿は音もなく廊下を走り続けた。

だが、砂皿の不利は変わらない。

それは大きく二つ。一つは認識から攻撃へのタイムラグ。
砂皿は相手を認識してから銃を構え引き金を引くという動作を必要とする。
対し白井にはその予備動作は必要ない。
弾丸となるものさえあれば構える事なく射出でき、さらにそれは自身でも構わない。格闘戦に持ち込めばいいだけの話だ。

もう一つは白井の能力はあらゆる障害を無視するという点だ。
砂皿は足でしか動けないが、白井はそうではない。自前の足と、『空間移動』がある。
要するに、その先さえ分かっていれば『空間移動』を使う事に躊躇いは生まれない。



しかし幸運にも建物内はまるで迷路のように入り組んでいて、
まだ施設が生きていた頃の名残か所々にダンボール箱の山や用途不明の機械が積まれている。

この事実で白井の自身を跳躍させての先回りは封じられた。
もし障害物と重なれば、前述の『埋め込み』を白井自身が行う事となる。

仮にも、そしてあくまでも白井は中学生の少女だ。
音の反響で建物の構造を探ったり、嗅覚で獲物の逃走経路を計るなどできるはずもない。
その点においては砂皿が勝る。暗殺者としての経験という曖昧ものを、けれど確かに持っている。

砂皿が生きているのは偏にそのためだ。

彼女は殺人者ではなく、自身は殺人者。
もし仮に白井が『殺し』に慣れた人物であれば生きてはいられなかっただろう。

しかし砂皿は生きている。圧倒的な不利を抱えているにも拘らず。
そういう意味では――総合的に、優劣は対等だった。

瞬間の一撃必殺を用いる者同士、先に見つけた方が生き残り、そうでない者が死ぬ。



つまりこれは――――かくれんぼだ。





しかし、具体的には一方的な鬼ごっこが展開される。

砂皿は肩ほどまである色とりどりのコードの垂れ下がった用途不明の機械の影に身を隠し、
その半ばほどに僅かに空いた隙間から今来た方向を覗き見る。

視界の先、砂皿が曲がってきた角に白井が駆け込んでくる。

銃を両手で握り締める。
相手の姿は見えているが確実に中てるにはまだ距離が足りない。
しかしこちらから距離を詰める事もできず、砂皿はじっと息を殺していた。

白井は曲がり角に入ると同時にこちらに顔を向ける。

その視線から放たれるように、冷たい風が廊下を吹き抜けた。

「――――――っ!」

その意味するところを考えるよりも早く、砂皿は屈んだ体を更に低くし伏せるようにしゃがみ込んだ。

それが砂皿の命を救った。

直後、甲高い音と共に身を隠していたはずの合金の箱にガラス板が生えた。



白井は曲がり角に駆け込むと同時に、砂皿からは見えない位置、
一挙動前に壁に立てかけるようにして移動させておいた窓ガラスだったものを掠めるように撫でる。
そしてろくに確認もしないまま廊下の先、一メートルの高さに水平に出現するように打ち込んだ。

その数、五枚。
それら全てを数メートルの間隔で射出した。

内一枚が廊下に鎮座していた機械に突き刺さるものの、残りは落下し連続してがしゃがしゃと耳障りな音を立てて割れる。
大きな音が四連続するのを耳で捉え、狭い視界の中に飛び散ったガラス片の舞い方から逆算し他に障害物がない事を確認する。

白井はどのように戦えばいいかをほぼ完全に把握していた。
銃の長所であり短所である『線』の攻撃。その長所だけを抽出した戦闘方法を白井はものにしていた。

弾幕。

完全な連続として『空間移動』を行使することは出来ないながらも、可能な限り断続的に『空間移動』で弾丸を撃ち込む。

それは即ち『点線』だ。
銃と違うのは射線が一定でない事だ。
『空間移動』を使えば基点は白井自身だが、三次元下におけるその続きはどこへでも設定できる。
更に言えば、線に限らず、弾丸の大きささえあれば面としても打ち込むことができる。

縦横無尽に描かれるモザイク画。

白井の持つ『空間移動』の真骨頂はその名に冠した空間の制圧力にある。



だが空間。

それは無限の三乗に等しい。
アキレスのパラドクス然り、有限と有限の隙間には無限が潜んでいる。
その間隙を全て埋める事は不可能に近い。

「…………」

白井は廊下の奥を見遣り、ほんの少しだけ躊躇うように逡巡する。

視界には長い廊下と、腰ほどの位置にガラス板を生やした機械の塊。

――その裏には砂皿が息を潜めている。

砂皿は銃を握り締めたまま仰向けになり、腹筋運動をするように身を起こす。
銃口の先は真上。出来る限り最小限の動きで全方向に対応できるようにするために、直下と対極の位置。

ただひたすらに長いだけの沈黙に思える一瞬が過ぎた。

白井はもう一度だけT字路の二方向へ首を巡らせる。
僅かな焦燥。白井は二方を順に見て、その進路を決定しようとする。

直進か、それとも。



白井の取った行動はそのどちらでもなかった。

手にした細長い金属製の杭。金属製の矢。白井の主兵装だ。
それを白井は『空間移動』で打ち込んだ。

見えない位置を手探りで確かめるように。

砂皿の潜む、金属塊の裏へと。

そしてそれは不幸にも――もしくは幸運にも――砂皿の左腕、肘と手首の中ほどを貫いた。

「っ――――、――――!!」

激痛と呼ぶにも生易しいような衝撃が神経を伝い髄を焼く。
鉄棒は肉はおろか骨を貫通し、無理矢理こじ開けられた骨がぎしぎしと軋むのがはっきりと分かった。

しかしその痛みに砂皿は、声は出さなかった。

どこか漠然とではあるがそれを予感していた。
何がそれを予知させていたのかは分からない。

しかし砂皿はどこか、……そう、客観的というか――――まるで自身の写るテレビを違う自分がソファに座って見ているような――――感覚でそれを得ていた。

だから不意の出来事にも関わらず、砂皿は至極落ち着いた様子で、予め用意しておいたそれを使った。



――――ちゃりぃぃん……、



金属の小気味よい音が空間に響く。
ハガネイロが床を跳ね、どこか音楽的な済んだ声で空気を振るわせた。

砂皿の、痛みにろくに動かぬ左手に突き刺さったままの鉄矢。

それとまったく同じ姿形をした鉄矢を手放し、重力に惹かれるがままに落下した金属片は確かな音を放った。

先程、階段を駆け下りる際に掴み取ったものだ。

砂皿自身もこういう使い方を想定していた訳ではない。
ただ頭のどこかで理解していた。どこかで必要になると。

「………………」

白井は音を口内で転がすように息を吸うと、ふいと視線を逸らし、そのまま真っ直ぐに進路を変えず『空間移動』を使用した。

ひゅん、ひゅんという『空間移動』の生み出す風切り音が遠くなるのを耳に、砂皿は熱を持った息を吐き出した。

腕を貫く金属は骨を貫通している。尋常ではない痛みが砂皿の心拍に合わせてごりごりと神経を削る。
それでもなお平静でいられる砂皿が異常とも言えた。



できる事なら鉄矢を取り除きたかったが大量出血しては困るのでそのままにしておく。
もっとも引き抜くともなれば今の比でない、痛みという言葉がその万分の一も表現できないようなものが身を貫く事になるのだろうが。

身を隠していた機械からコードをぶちぶちと引き抜くと、それで左腕の付け根あたりにきつく縛り止血する。

もしあのまま、白井が直進していたら、あるいはこちらに曲がってきたら。

砂皿は彼女の知覚するよりも早く、そして容赦なくその頭部に弾丸を叩き込んでいただろう。
しかし白井のその念押しが、砂皿の左手を殺し、片腕と激痛というハンデを強要する事になる。

しかし砂皿は至って冷静だった。

狙撃主にとって大事なのは相手に弾丸を叩き込むというただ一点であり、以外の事はたとえ自身であろうとも必要ない。
そういう意味では砂皿は稀に見る最高のスナイパーだった。

痛みは確かに感じるし、反射的に嫌な汗が肌を伝い落ちる。
だが砂皿はそれをまるで他人事のように――どうでもいいといった風に無視する事ができた。

しかしながら主観と客観は食い違う。

痛みは確かに存在するし、左手は言う事を聞きやしない。
どころか、痛みは神経をごりごりと削るように他の部位にまでその影響を及ぼす。



だが、砂皿の意識はそれら全てを冷静に処理する。
視界の左下が赤い。無論それは錯覚だ。口の中に感じる鉄の味も同様。
ふらつく体と震える手足を意志の力で捻じ伏せる。

「………………」

十全とは行かぬものの充分だ。
片腕は動かす事ができないが、残る三肢は生きている。
戦闘には支障はないと判断した。

だが、それだけでは足りない。
元より圧倒的なハンデが存在するのだ。

能力者とそうでない者の差は圧倒だ。
まして白井のようなトリッキーな動きを得意とする能力には一朝一夕では反応する事すら難しい。
砂皿がこうして有効な手段を取り白井の動きや思考に対処できている事自体がおかしいのだ。

しかし砂皿がその穴を埋められたとしても、確実に殺すにはまだ足りない。

まるで詰め将棋を指しているような気分。
最初から最後までの道筋が決められているような――そんな気配さえ、

……いや、そんな事はどうでもいい。
重要なのは、白井の頭を弾けばいいというただ。一点だ。それ以外は必要ない。

砂皿は熱病に浮かされたような頭を軽く振り思考を切り替える。
こういう場面で有効な手段は――――ある。ただ問題は。

…………あまり気乗りはしないのだが。

砂皿は一つの手段を取るべく行動を開始する。
何、事は実に簡単だ。すぐに終わる。









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最終更新:2011年03月03日 23:02
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