とある世界の残酷歌劇 > 第二幕 > 04


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暗い。

リノリウムの階段は一歩毎にきゅっきゅっと音を立て、それがどうにも好きになれなかった。

耳障りに鳴く階段を踏みつけながら一歩、また一歩、ゆっくりと上っていく。

理解している。これは十三階段だ。

絞首刑場へ至る道。
それはさながらゴルゴダの丘への道程に等しい。
受刑者自らの足で歩ませるその高度は自らの罪の重さを苦痛として与えるためのものだ。

ならば自分の犯した罪は何だ。

そしてどうして彼らに裁かれなければならない。

何も悪い事はしていない、とは言わない。
けれど彼らに裁かれる理由はないのだ。

何故ならここは完全無欠に地獄そのもので。

この場にいる事自体が罪であり罰なのだから。

「………………」

やがて現れる扉。

重い、金属製の扉。

その前で立ち止まる。

小さく取り付けられた歪んだガラスに透ける扉の向こうは暗く見えない。
扉の前に立つだけでその先にある冷気が浸み込んでいるのを感じる。

この先に何があるのかは分からなかったけれど。

どんなモノが待っているのかだけははっきりと分かった。

掴んだノブはひやりと冷たく。

がちゃりと、回す手は思いの外軽かった。



寒々しい屋上には人影が二つあった。

片方は見覚えのある印象的な制服の少女。

片方はスーツ姿の少年。

扉の開く音に気付いたのか、少女が振り返る。
見覚えのある――いや、散々脳裏に焼き付いて仕方のない顔だ。

御坂美琴の顔と形をした人造の少女。
目の前で死んだはずの少女がそこにいた。

彼女はこちらの姿を認めると軽く会釈をし、一歩後ろに下がる。

そして傍らに立つ少年は、空を見上げていた。

黒い、闇そのもののような空。
早雲が流れ、僅かに影を落とすのが見えるその奥には闇が広がっている。

星の光は見えず、月の姿も見えない。
ただ街の光が薄蒼く雲を照らしていた。

そんな空を見上げていた少年が振り返る。

「――――こんばんは」

その顔は確かに覚えている。

海原光貴のものだ。



「わざわざ呼び出してしまってすみませんね」

彼は笑みをこちらに向け、申し訳なさそうな表情で目尻を下げた。

「………………オマエ、どっちだ」

問いかけ、浜面は対照的に険しい顔を向ける。

海原光貴。

あるいは『海原光貴』。

夕刻、浜面の目の前に現れた上条当麻の姿をした人物。
それは暗部組織『グループ』に属する『海原光貴』を名乗る少年だ。

しかしほぼ同時刻、絹旗の右手を潰したのも海原光貴。
それが本来の海原光貴という名を持つ少年だと、麦野を介して聞いていた。



念動力の大能力者である海原光貴と、

分解と変化の異能を操る『海原光貴』。



目の前にいるのは果たしてそのどちらなのか。





「どっちって――どっちでもいいじゃないですか。ねえ?」

少年は貼り付けたような薄っぺらい笑みを浮かべながら首を僅かに傾げた。

「自分が誰であれ、本質は変わりませんよ」

「本質?」

ぴくりと、その単語に浜面は眉を顰める。

「ええ、本質です。――――役割と言ってもいい」

そう頷いて彼は、差し出すように右手を伸ばし――。



その手に握られたのは、

まるで夜空のように黒い、

黒曜石で作られたナイフ。



「――――――テメエっ!」

「邪魔なので潰させていただきますよ。言うだけ無駄とは思いますが――大人しくしていてください」

言葉と共に殺意を乗せた力の奔流が迸った。





半ば反射的に浜面は屋上の床を蹴り横へ飛んだ。
屋上と院内を繋ぐ扉から飛び退くように、屋上の中央へ向かって。

身を低くし、倒れ込むような姿勢。
それはあながち間違った表現でもなく、浜面はごろごろと床を転がった。

ほぼ同時、つい寸前まで浜面が立っていた場所の背後、
スーツの少年と浜面との直線の延長線上にあった転落防止用のフェンスがばぎんと音を立てて吹き飛んだ。

(あのナイフ――昼に会ったヤツか!)

浜面の目の前で垣根と死闘を繰り広げていた少年。
黒光りする石のようなもので作られた刃物と、意味の分からない『分解』を操る少年。

垣根の――――今や学園都市の頂点に立った少年に太刀打ちした少年。

ぞっとする。あの垣根に対してまともに戦ったというだけでとんでもないというのに。

今、浜面の隣に彼はいない。

浜面は一人だ。

その上最悪な事に浜面は無能力者で、何か異能を持っている訳でも突出した才能を持っている訳でもない。
『アイテム』に食い込めたのも運がよかった――いや、悪かったのか――ただそれだけだった。

代わりなんていくらでもいるし、価値なんてのは道端の石ころくらいにしかない。
ゴミだ。ウジ虫同然だ。吹けば飛ぶような一山幾らの雑草だ。

それでもただ。

(――――守ると決めた。それだけだ――――!)

受身なんて取る余裕もなく、無様に転がりながらも引き抜いた銃口は真っ直ぐに標的を見据え、浜面は迷わず引き金を引いた。

思ったよりも引き金は軽かった。



ばんっ! と想像よりも小さく間抜けな音と、そして確かな反動と共に銃弾が発射される。

距離は十メートルほど。
素人が狙ったところで命中させるのは困難な距離で、しかも無理な体勢で撃ったにも関わらず、
銃弾は過たず真っ直ぐに相手へと突き進んだ。

しかし。

ばぎん、と砕けるような音と共に虚空に火花が散る。

銃弾が爆ぜたものだ。
浜面の撃った弾丸は目標に到達することなく途中で砕け、その残骸を風に躍らせた。

少年は振り払うような動作で握ったナイフで宙を薙ぎ、そして腕は上から切り落とすような軌跡を描く。

(弾丸を撃ち落としやがるか――!)

力の入らない体制だったが、全身を使い再度転がる。

耳元すれすれを何かが通り抜け、再び背後で炸裂音がした。

「ざっ――けんなぁ――!」

二連射。火薬の爆ぜる音が輪唱する。
狙いは半ば適当の牽制。中れば御の字だ。
発射された弾丸は並行するように空気を切り裂いた。

しかし、スーツの少年は余裕すら見せる動きでステップを踏み軌道から身をかわす。

「っ――きしょお――!」

左手で地を叩き反動で身を起こす。
手の付け根あたりがびりびりと痺れたが気にする余裕はない。
仰け反るように立ち上がり、勢いを右の踵で踏み潰し、半身で銃を突き出し絞るように引き金を引いた。



またしても弾丸は虚空を貫通する。

浜面の視界に少年の姿はない。
遅れて石を叩く硬く軽い音。

右か、左か。

一瞬よりも短い時間、浜面は逡巡して。

己の勘が違うと叫んだ。

(――――――上!)

見上げれば切れ切れの黒天を背景に彼は跳躍していた。
背を逸らし頭を下げ、さながらサーカスのアクロバットのように。

煌く黒曜石の刃。

「っ――――――!!」

前方に飛び込むように跳ねる。
銃を持った右手を使えず、左手一本で衝撃を受け突いた掌を基点に円を描くように体制を立て直す。
ごぎん、と鈍く響く石の砕ける音には構わず浜面は天上を見据え射撃した。



火花が宙を跳ねる。
夜空に身を躍らせた彼はそのまま滑るような動きで着地し、再びナイフを振るう。

(――――――なんだ)

全力で身を捻り見えない力を回避しながら浜面は先程からずっと感じていた違和感をようやく自覚する。

(なんだこの――しっくりこない感じは)

再び二連射。
軽快なリズムが刻まれ、しかし矢張り中らない。

(何かがずれて――そう、ずれてる。何かがちぐはぐで、決定的に噛み合ってないんだ)

直感と本能と判断と決断に脳の処理能力の大部分を割きながら、しかし浜面はその片隅で思考する。

(根本的な部分がどうにもおかしい――――)

弾はあと九発。マガジンを補充している時間はない。
何より慣れていないのだ。戦闘中にもたついてなどいられない。

無駄弾を撃つ余裕はない。
残されたチャンスはあと九回。
たった九発の弾丸で彼を仕留めなければならない。



そもそもが、浜面はこんな真似は慣れていないのだ。

一騎打ちなどという時代錯誤な戦闘を浜面は好ましいとは思わない。
戦闘とは物量だ。人と、手数と、そして多方向からの多角攻撃。
戦力はその質量ではなく物量によって反比例的に跳ね上がる。

卑怯と罵られようが構わない。
元々が無能力者だ。そうでもしないとやってられない。
相手の裏を掻くのもあくまで戦力を削ぎ落とす程度にしかならない。
こちらの戦力は絶対に一定以上に増えはしない。
だからこそそれを最大限に活かすために策を弄するのだ。

烏合の衆だろうが何だろうが数さえいれば意外とどうにかなる。
三人寄れば何とやら、だ。何だったかは忘れたが。

そもそもがそのための――集団だったのだから。

けれど今、彼らは――そして彼女らはいない。
浜面はたった一人でこの眼前の敵を撃破しなければならない。

たった一人。

圧倒的に差のある相手を前に。



「――――――、」

そういえば前に一度、そんな奴を見た事がある。

彼はたった一人で圧倒的な人数差をひっくり返して見せた。

思えば奴が諸悪の根源だ。
いや、どうみても悪いのは自分たちなのだが、彼さえいなければとたまに思う。

「――――――」

彼。

浜面の前に立ち塞がった少年。
                   ヒーロー
それはたった一人で立ち向かう主人公のような。

最後の最後で浜面を、一対一で殴り飛ばした。

上条当麻。

「――――――、」

気付く。

そう、上条当麻だ。
そして眼前のスーツの少年だ。

夕方、街中で繰り広げられた戦闘。
その時は垣根がいて、圧倒的な暴力を振り翳す彼にあの少年の姿を模した得体の知れない能力者は、

――――待て。

それ以上の事は必要ない。重要なのはそこだけだ。

そう。



――――どうして一度対面した相手にわざわざ姿を変える必要がある――――!





思えば、あの少年がわざわざ上条当麻の姿をしていた理由も知らない。

――そんな事は重要ではない。

どうして自分たちに敵対するのかも知らない。

――そんな事は重要ではない。

重要な事はただ一つ。

視界の奥。少年の背後にある転落防止用の鉄柵。



それが何か強い力を受けてあたかも交通事故の時のガードレールのように捻じ曲がり砕けいる事で。



「テメエは――っ!」

ようやく気付いた。

「本物の――海原光貴――!」

両手で銃把を包むように握り、衝撃を両肩で受け止めるように構え、浜面は銃口を真っ直ぐに彼に向け、

「ですから言っているでしょう」

スーツ姿の少年――海原光貴は、薄っぺらな笑顔を浜面に向け、

「どっちでもいいじゃないですか」

――気付いたけれど遅すぎた。

発砲。

砲声が静かな病院の屋上に響き、風のうねりにかき消され、しかし銃弾は真っ直ぐに飛び出し、

――――ごぎんっ、

と嫌な音を立てて、正面から放たれた『何か』が銃弾を吹き飛ばし浜面を直撃し骨が嫌な音を立てて砕けた。



力は見えなかった。

けれどその力が放たれた銃弾を吹き飛ばし、握った銃を押し上げ、伸ばされた腕をこじ開け、真正面から直撃する様子は見て取れた。

トラックにでも撥ねられたかと思うような硬い衝撃。

胸を強打され、その力に体が後ろに流れる。
受け止め切れなかった両足はふわりと地を離れ、

浜面の体は木の葉のように吹き飛ばされた。

「ごっ――――がぁ――――!」

屋上から叩き出すような一撃。
それは浜面をそのまま夜の空に弾き出し、重力のままに落下させるはずだった。

だが、背中に硬い衝撃。

空を飛ぶ事のできない浜面を救ったのは屋上に張り巡らされた鉄柵だった。
あまりの力にみしみしと鳴いたのは鉄柵か、それとも自分の体か。
そんな中唯一浜面が幸運だったと思えるのは、手にした薄っぺらい拳銃を取り落とさなかった事だ。



だが、同時に理解する。

(コイツはちょっと――厳しいかなぁ――)

力を失い、浜面は前のめりにどさりと倒れ込んだ。
受身を取る余裕すらない。先程のそれと比べればどうという事もないような衝撃に体が悲鳴を上げた。

肋骨は砕け、きっと内臓もイカれてる。
拳銃を握る手にも力が入らない。

――そんな事はどうだっていい。

それでも浜面は立ち上がった。

痛みを頭から蹴り出し、思考に掛かった霞を振り払うように顔を上げた。

勝ち目はきっと万に一つもない。
能力者と無能力者。正攻法では通用せず、策を弄する機会も手段も奪われた。

だが、だからと言って倒れる訳にはいかない。

(万に一つもなければ――――億に一つの可能性を掴み取ればいい――――!)

重要なのはたったの二択。

勝つか、負けるか。
ただそれだけだ。



不安材料は何一つない。

相手の能力は絹旗が教えてくれた。
撃ち抜く武器は麦野が渡してくれた。
失いかけた心は滝壺が支えてくれた。

そして自分はまだ立てる。

(俺は――アイツらを守るって決め――)

手は震え、足には力が入らず、息は血の味がする。
喉がぜひぜひと嫌な音を立て、意識は半ば白濁している。

その上視界までぼやけてきて、ありもしない幻影まで見える。

「――――――、」

幻影。そう、幻影だ。
さっきの衝撃で脳がバグって妙な幻が見えているだけだ。

そうでなければ。

こんな最悪な展開は、誰がどう見たって最悪だろう。

最悪を通り越して笑いすらこみ上げてくる。

――――なあ、オマエの出番はもうちょっと後だろ。

そう。彼女の出番はもっと後。

――――どうしてよりによってオマエが来るかなあ。

現れるにしてもタイミングが悪い。

凱旋するヒーローを出迎える役こそがヒロインの役回りだろうに。



「――――――はまづら!!」



見慣れたお気に入りのピンクのジャージの上から浜面のウィンドブレイカーを着込んだ少女が。

滝壺理后が、開かれた扉の前に立っていた。







――――――――――――――――――――







蓋を開ければどうという事もない。

浅い眠りから覚めた滝壺は、絹旗と、そして浜面のいるという病院にやってきた。

垣根の言っていた『冥土帰し』と呼ばれる医師。
彼のいた病院はすぐに分かった。矢張り高名な医師だったようだ。

夜の帳は下り、病院にはどこか辛気臭い気配が漂っていた。
入院患者への見舞いも帰ったのだろう。救急救命の部署は知らないが玄関とロビーに人気はない。

友人が担ぎこまれた事を小さな詰所にいた警備員(本来の意味での警備員だ)に告げると、その病室をあっさりと教えてくれた。

エレベーターを使おうと思ったがボックスの位置を表示するランプの数字は大きく、待つのが何だか嫌で滝壺は階段を上った。

院内は空調が効いていて仄暖かかったが、滝壺は上に羽織ったウィンドブレイカーの裾を合わせ目尻を下げた。

勝手に持ち出した事を彼は怒るだろうか。
それとも苦笑しながら頭を撫でてくれるだろうか。

外は寒く、シャツ一枚では凍える事は目に見えていたのでいつものようにジャージを着た。
上だけだとおかしいかなと思って下も履き替え、それでもやっぱり寒いだろうなと思って部屋にあった彼の上着を拝借したのだ。

それは確かに暖かく、それから少しだけ彼の匂いがした。



階段を一段一段踏みしめながら滝壺は思う。

浜面は今何をしているだろうか。

絹旗の手術は終わっただろうか。

「……、……」

立ち止まる。

垣根は絹旗の怪我は――潰された手はもう無理だと言っていた。
『冥土帰し』と呼ばれた医者の手であればどうにかできただろうと垣根は呟いた。
ならば逆説的に、彼でなければどうにもならない。そう言っていた。

大怪我をすれば相応の傷を負う。
致命傷を得ればあっさり死ぬ。

元々世界はそういう風に出来ている。
そういう意味では――『冥土帰し』と呼ばれた彼こそが異端なのだ。

死者を蘇らせる事は出来ない。
それは世界の大前提だ。

ならば、死ぬはずだった者を救う事もまた同じだろう。
閻魔帳に記されたものを覆してはいけない。
それを出来ると言うのなら、それは神の領域だ。
聖書に於いて神の子が見せたという奇跡に他ならない。
それは人の身で行うには余りにも過ぎた事だ。



けれどもし。

彼が、浜面がそうなった時は。

きっと自分はどんな事をしてでもそれを食い止めようとするだろう。
手段は選ばず、例え悪魔に魂を売り渡してでも食い止めようとするだろう。

きっとそれが人というものなのだ。

そこまで考えて滝壺は自嘲に顔を歪ませる。

こんな地獄の底にあってまだ己を人だと言う自分に。

そして、今現在の絹旗を知った上でこんな事を考えてしまう自分に。

何が仲間だ。何が友達だ。
所詮自分はこの程度でしかない。

綺麗事を言っているようで――その実エゴに塗れた最悪でしかない。

きっと浜面と絹旗を天秤に掛けられたら自分は迷わず浜面を選ぶ。
迷わない。考える余地はない。二人ともという意志すら現れない。

どちらかを確実に選べるのであればどちらも台無しにする可能性は切って捨てる。

それでもまだ――――自分は声を大にして彼女を友と呼べるだろうか。



そうして滝壺は明言せぬままなし崩しに日々を過ごす。

何が一番大切かなんて分かり切っている。
彼のためならなんだってできる。そうはっきりと言える。
けれどそれを言ってしまったら、それ以外の全てを失ってしまうような気がして滝壺は無言でいる。

明確な解答を出さぬまま、滝壺は全てを笑って誤魔化している。
それを自覚しているのだからなおさら性質が悪い。

麦野は気付いているだろう。
彼女は自己中心的でいるように見えて、その実他人の心の機微に敏感だ。

絹旗は気付いていないだろう。
気付かれていないはずだ。もしそうでないなら――考えたくない。

そして、彼女は。

「――――――」

どうだったのだろう。

あの底抜けに明るい金髪の少女は。



何故か急に寒気を感じて、滝壺はふるりと肩を震わせる。

いつまでも階段に立ちんぼでは埒も明かない。
絹旗の具合も心配だし、何より無性に浜面の顔が見たかった。

――――うん。

思考を意識して放棄し、滝壺は階段をまた上り始め――。



「――――――え?」



そして、あの呼び出しを聞く。

――なんで、

滝壺の体は否応なく再び停止し、思考は全てそれに向けられた。

――なんではまづらが――ミサカ――失踪――超電磁砲――行方不明?――追跡――ピンセット――
――屋上――罠――待ち伏せ――誘き出し――みさかみこと――かきね――一方通行――一〇月九日――



一〇月九日?



がづっ! と、拳を壁に叩き付けた。

何かが分かりそうな気がしたけれど、核心だとか真相だとか、そんな事はどうでもいい。
ただ一つ大切な事は何も変わってはいないのだ。

「――――はまづら――」

他の大事な事は何一つ口にはしないけれど。
大切な人の名を呼ぶのはこんなに簡単にできるのに。





「屋上――――」

どうにも嫌な予感がしてならなかった。
危険だとか罠だとか、そんな当たり前の事ではなく、もっと漠然とした気配がしたのだ。
それはまるで虫の知らせのような、意識する事自体が難しいような強烈な感覚。

何故だか分からないけれど予知じみた絶対的な嫌な予感がしてならなかった。

「――――――っ、」

言い様もない不快感と倦怠感に滝壺は膝を折り、その場に崩れた。

手摺りを握る指だけが取り残され、必死で滝壺の体を支えている。
加減を無視して力を入れ過ぎた余りもはや白くなっている指はぶるぶると震え今にも零れ落ちそうだ。

貧血のような寒気と喪失感。あの全身から熱の消えていくような感覚が滝壺を襲った。
視界はぶよぶよとして触れれば崩れてしまいそうで、鼓膜はさっきからどうどうと流れる飛沫の音を捉えている。
モザイク画のような色とりどりの世界は天地がひっくり返ってしまって天井に落ちてしまいそうになる。

「っ――――、げ――――ぁ――――!」

堪らずその場に嘔吐した。





びちゃびちゃと粘っこい水音が階段を叩く。

黄色い胃液が口から溢れ、嫌な味と臭いが舌と鼻を焼く。
生理的な嫌悪感を抱くそれに滝壺は僅かに正気を取り戻した。



――――はま――づら――、



そう、大切なのはたった一つ。

感じる寒気も、止まない耳鳴りも、舌の上を這う胃液の味もどうだっていい。
口の中に残るねばねばとした酸味を舌でこそげ取り吐き出した。

この不可解な予感も、行方の知れない少女の事も、病室にいるはずの絹旗も、

「――はまづら――――」

零れ落ちた胃液の中に混ざる赤黒いものもどうだっていいのだ。

得体の知れない感覚に苛まれながらも滝壺は手摺りに掴まり己の体を引き摺るようにして階段を進む。

上へ。上へ。上へ。

屋上へ。









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