とある世界の残酷歌劇 > 第一幕 > 5


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寒風が髪を撫でる。

打ち捨てられたような屋上には、彼らの他に誰もいなかった。

科学と発展の街、学園都市。

その中にも時たま、こういうデッドスポットじみた場所が存在する。

元はオフィスビルだったのだろう。
それなりの高さを誇る、内部には小さく区切られた部屋が陣取りをするように配置された灰色のビル。

しかし人気はない。
辺りには真新しいビル群。彼らがいるものよりも遥かに高いそれらに見下ろされるように廃棄された建造物は存在する。
もはや前時代的ともいえるそれは、取り壊される事もなく忘れられたように煌びやかなビル街の中に暗い影を落としていた。

まさかそんなビルに用があるはずもなく、けれど彼はあえてそれを選び、まだ辛うじて電気の通っていたエレベーターを使い迷わず屋上へ出た。

――――矢張り、罠か。

絹旗は嫌な予感が的中していた事を実感として確かめ、彼を睨み付ける。

視線の先に立つのは、スーツ姿の少年。
一目にも高級品だという事が分かるそれの両のポケットに無造作に手を突っ込み、彼は笑みを向けた。

「――――初めまして」

海原光貴。そして。

「………………」

視線を虚空に投げる少女。

「…………御坂……美琴」

その名に反応することもなく、彼女は空虚な瞳をどこか知れぬ場所に向けていた。



屋上の硬い、けれど僅かに風化した床を足裏で確かめ、絹旗は海原から視線を外しはしなかった。

「ええ、初めまして。海原光貴」

ドアノブから手を離す。
きぃぃ――と軋んだ音を掻きながら扉はひとりでに元の位置へと角度を変えてゆく。

「ところで……なんで私の名前を超知ってるんです?」

ばたん、と大きな音と共に背後で扉が口を閉じた。

絹旗は険しい表情を変えず。

海原も笑みを崩さなかった。

「そういう貴女も、自分の事を知っている様子ですが」

「そんな超些細な事はどうでもいいんです。質問に、答えて欲しいんですが」

苦笑する海原。
少し残念がっているようにも見えるそれを浮かべ、彼は小さく肩を竦めた。

その笑顔がどうにも仮面じみた、本心を覆い隠すもののように思えて、絹旗は嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
違和感にも似た小さな猜疑心。そう、彼は本当に重要な事を何一つ表に出さず、絹旗と喋っているように思えた。

「いえね、特になんという事もない、下らない事情からなんですが」

断り、海原は少し考えるような素振りをして。

「ええ――友人に。そう聞きました」

矢張り、相変わらず同じような笑顔を絹旗に向けるのだった。



「へぇ。友人、ですか…………交友範囲が広いんですね」

一歩、僅かに足を進め、絹旗は言う。

「どちら様か訊いてもいいです?」

「さあ。貴女の友人ではないんですか?」

はぐらかすような返事。答える気はないのだろう。
元より、それが真実かどうかも分からない。

だから絹旗は、確かめるようにもう一歩足を進めた。

「……まあいいです。本題はもっと別の事ですから」

じゃり、と靴底が砂を噛む音が聞こえる。

「実は私、人を超探してるんですけど」

「なるほど。大変ですね」

頷き、同情を含めた笑みを向けられる。
その人を小馬鹿にしたような態度に絹旗は奥歯を噛み締める。

あからさまな挑発だ。乗ってやる必要はない。
そう頭で理解していても、両手は硬く握り締められていた。

いつになく、そう、普段の彼女を知る者が見たならば目を見張っただろう。
絹旗からどす黒い感情が陽炎のように噴出しているのが瞭然だった。
それは本人にしても明らかだった。

しかしそれを絹旗は目の前の少年の癇を逆撫でするような巫山戯た仕草に寄るものだと理由付けた。

まして、今この状況とは何の関係もない色事を端にするものなどでは断じてない――!

「結標淡希」

濁った粘液質の息を吐くように、絹旗はその名を告げる。

「どこにいるか、知りません?」



その問いに、乗せられた昏い気配に僅かに顔を顰め、海原は。

「――――さぁ?」

おどけた調子でそう答え。

みしぃっ――、と絹旗の踏みしめたタイルが悲鳴を上げた。

表面は罅割れ、無数の亀裂がスニーカーの周りから放射状に広がっていた。
靴底は本来あるべき位置を越え、僅かに沈み込むようにして内部にその身を埋めていた。

本能的に拒否したくなるような音はびうびうと風の吹く壁のない空間に確かに響き。
けれど、海原の背に庇われるようにして立つ少女はぴくりとも動かなかった。

その、眼前の二人は。

どうしてだか。

絹旗のよく知る二人と影が重なった気がして。



そして、そんな彼女の心中など知る由もなく、海原は微かに首を傾げ、





「――――――誰ですか、それ?」





その声に絹旗は視界が真っ赤になったような錯覚に全身の毛を粟立たせ。

次の瞬間、大きな破砕音を道連れとしてタイルを一つ踏み割り、倒れこむような前傾姿勢で疾駆した。



がづがづがづがづっっ!! と廃屋に確かな足跡を刻み付けながら絹旗は間隙を詰める。

距離はほんの十数メートルでしかない。
己の能力で踏み抜きを受け止め、加速しながら、しかし僅かに下半身を先行させ上体を起こす。
速度の異なる二点は、先行した上半身を足が追い抜き、垂直となる。

加速は止まず、胸と頭は後ろへ、腰が前へ。
それを助けとして右肩を後ろへと流す。

力を込められた右腕は停止に近い遅れを生み、背後へ靡くように伸ばされ、

そして鞭のように撓る全身をバネに、最大威力で以ってして右拳を振り抜いた。



絹旗の能力、『窒素装甲』。

それは、その名の通り大気の優に八割近くを占める窒素を、自身の周囲数センチをその領域として自在に操る、
装甲とは名ばかりの、絶対的な支配力と制圧力を持つ女王の権を表す異能。

斯くして女王の軍勢は命に従い彼女の示した先に歓喜に震えるその身を全力で突撃させる。





ゴッ――――――ンン…………、





まるで巨大な鉄塊同士が高速で激突したような轟音。

衝撃にびりびりと空気が跳ね、周囲のビルに伝播し、その場に一つとして向けられていない窓ガラスを振動させた。



絹旗の能力によって気体は風というには絶対的な硬度を得て特攻した。

銃弾をも跳ね返し、装甲車の正面衝突すら逆に相手を叩き潰すほどの鉄壁。
それでいて主の身には傷一つ付けず、それ以外を絶対的に拒絶する。

矛盾を体現したようなそれを、相応の速度と侵食力を以って人体に叩き付けたなら。

答えは明白だった。



しかし。

直撃するよりも前に受け止められていたならば。



「――――――!」

絹旗の拳は、確かに無色の兵卒を伴い目標に向かって高速で撃ち抜かれた。

だがそれは対象を打撃するには至らず、僅かに届かない。

絹旗の右腕は、眼前で遮るように翳された海原の右手によって受け止められていた。



――――否。

絹旗の放った一撃は届いていない。

拳の纏った硬質の気体は、海原の手に受け止められて、

――――それすらも間違いだ。



――――僅かに、届いていない――――。



無色透明の、気体と呼ぶにも躊躇うような質感を持ったそれは、微かに海原の翳した手の平との間に空隙の残していた。

「なっ――――――!」

思わず息を呑む。

魑魅魍魎のごとく有象無象の異能が跋扈する学園都市だ。
今まで幾度か、その攻撃が通用しなかった事はある。

だがそれは防御されたり、攻撃させなかったり、あるいは無力化されたりといったものだ。

しかし、これは。

(届いていない――――!)

防御されたのではない。
何かしらの異能に、それに限らずあらゆる要因によって、絹旗の一撃は受け止められたのではない。

事態はもっと単純だ。



絹旗の拳そのものが動きを止め、その制空権が至らなかった。ただそれだけの事だ。





絹旗の拳は、甲は、細い指は、見えない『何か』によって遮られていた。

その『何か』は絹旗の支配下にない。
もしそうであれば己が主の挙動を阻害するはずもない。

だからこの『何か』は絹旗のものではなく――――。

彼、海原光貴に因る物だ。

絹旗の手は海原の支配下にある、絹旗が御する事のできない物で阻まれていた。

彼女の脳裏に最悪の予想が過ぎる。

――――まさか、彼は自分と同じ――――。

否。それを瞬時に否定する。

海原光貴の能はそういう物ではない。

昨日垣根によって提示された資料。
その中には一切そういう事は書いていなかった。
腐っても滞空回線だ。間違った事は書いていない、はずだ。



――――能力は一人の能力者に一つきり。

そういう覆せない大前提が存在する。

だが、しかし。

それが『能力』でないのならば話は別だ。

学園都市にごまんといる異能の保持者。

そういう特異点が日常的に存在する世界だからこそ誤認しやすいが。

世界は学園都市だけではない。

外部から隔絶された密室、学園都市。

それは、地球上のほんのささやかな一区域でしかなく。

世界とは学園都市だけで完結しない。

そして世界には、彼女らが『能力』と呼ぶもの以外にも異能が存在する。



例えば、英国。

例えば、イタリア。

例えば、ロシア。

学園都市と敵対する、国家の裏側に巧妙に隠蔽された存在がある。
科学の最先端の、さらに先を往く学園都市に敵対する存在。

それらにも『異能者』は存在する。

『科学』を伴わない彼ら。

絹旗は知らない。

『能力者』以外の『異能』の存在を。

それらは神話や伝説や異形の物語を基にする、それこそ幻想の存在。
遥か古の時代より人々の間で幽かに囁かれる、それこそ幻想の存在。

――――曰く、『魔術』。



絹旗は知らない。

それは、幻想にあってなお、それは児戯に等しい。
本来の『幻想』とはそういう類のものではない。

絹旗は知らない。

純粋過ぎるが故に人の手に余る『幻想』の塊。
時としてそれは形取り、書物、あるいは絵画、絵物語として実像を結ぶ。

絹旗は知らない。

そんな純粋過ぎて濃密過ぎるそれは『原典』と呼ばれている。
そしてその中には、例えば『暦石』と呼ばれる石版を模した幻想が存在する。

絹旗は知らない。

『暦石』の内容の極一部を抽出し、巻物状に加工されたものが存在する。
それはとあるアステカの、魔術を行使する少女と共に、学園都市に持ち込まれていた。

絹旗は知らない。

その巻物が意味する幻想。
即ち、『武具を持つものへの反撃』。



「――――女性に手を上げるのはあまり気が進みませんが」

……暗部組織『グループ』の海原光貴という少年は、『海原光貴』ではない。

「まあ、事態が事態ですし」

彼は困ったような笑みを浮かべ、悲痛に笑って、





だがそれは滞空回線の情報の中に確実に含まれていて、垣根の提示した文書の中に正確に記述されていた。





――絹旗は知らない。



垣根の得たものは、『グループ』の一員である魔術師の少年のものであり。

そこには本来の『海原光貴』の素性も、経歴も、そして能力も、含まれていなかった。



――絹旗は知らない。



垣根は、『グループ』の海原光貴の姿を借りた少年と、その姿の元となったただの学生である海原光貴を混同していた。

本来存在しないはずの『海原光貴の姿を借りた少年』はそれ以上行方不明になれるはずもなく、失踪したのは間違いなく『海原光貴』だった。





――――絹旗は、知らない。





――――目の前にいるのは、『グループ』などという組織とは関係のない、単なる中学生の少年で。

――――そして、絹旗と同じく大能力に数えられる、『念動力』の異能を持つ間違いなく本物の『海原光貴』だった。





「――――非情に申し訳ありませんが」

彼は、海原光貴は、今にも泣き出しそうな悲哀に濡れた笑顔を絹旗に向け。







「――――――、潰します」







声と共に、絹旗の手をその纏う気体の壁を越えて直接に包んでいた何か見えない力が。



ぐしゃりと、瑞々しい果実を思わせる湿った音と、幾許かの硬質的な音を立てて、絹旗の右手の肉と骨と爪と血液とを一緒くたに圧縮した。










最初に感じたのは、冷たさだった。

限りなく氷点に近い冷水に手を突っ込んだような、凍て凝るような冷たさ。

それが右手の先から一面を埋め尽くす量の小さな小さな甲虫が大群の進行を思わせる感覚を伴って、
少女の細い腕の表面を、皮膚の内側を、掻き回すようにざわざわざわざわと這い登ってくる。

そして、遅れて感じる、ちり、と手指の先に生まれた、痒みにも似た小さな火種は、
這い進む悪寒という名の虫たちを導火線として瞬間で侵略した。

人体の想定していない圧力を拳の前面から受け、みちみちと内部に押し込まれた肉と体液は、
逃げ場を求めて手首より腕に、肩に至る血管と神経を逆流する。

その怖気でしかない感覚が右腕を埋め尽くし、肩に至り、頚を這い登り、頭蓋に達し、

ようやく、絹旗は熱とも痛みとも呼ぶにもおこがましい感覚に脳を灼かれた。



「――――――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



人として、得るに耐え難い悪夢のような感覚に絹旗は絶叫を上げた。





よもや自分の口が、喉が発しているとは思えない大音は、絹旗の耳には届いていない。

――――――!

――――――!

――――――!

脳の司るはずの理性はとうに沸騰していて、知覚も感情も全てが焼き焦げ意味を成さなかった。

全身の毛穴が開き喘いでいるような気さえした。
ぱくぱくと唇はひとりでに動き、見開かれた両眼は意志とは無関係に溢れ出した涙で溢れている。
音となる振動に耐えかねた喉は痛みを発し、けれどそれよりも圧倒的な痛みによってかき消される。

痛い! 痛い! 痛い!

もはやそれが痛みなのか熱なのか、判断がつかない。
いや、僅かに残された知性は、熱と痛みが同等である事を実感として理解した。

その熱痛と驚愕と混乱と否定と涙と叫びとで塗りたくられた絹旗の表情を、海原は悲痛と悲哀と悲嘆に濡れたどうしようもないほど泣き顔に似た笑みで見つめ、

――――みしぃっ、

と、意識してなおもその力を込めた。



……その感覚が唐突に消える。

作用点を失い、意識していた力が虚空を噛み、転ぶようにして霧散した。

海原の掲げる右手の先から力のかかる対象が失われていた。

「――――――」

視線を投げれば、数メートル先に絹旗が立っていた。

左手で、右肩を掻き抱くように掴み、その先には本来のそれから無理矢理に変形された拳の先端に付いた腕がだらりと垂れ下がっていた。

――ぼたり、――ぼたり、

と、決して少なくない量の真っ赤な血液が、もはや肉の塊と化したそこを割るように溢れ出て重力に従い表面を流れ伝い、
先端に溜まり表面張力の臨界を超えた雫が零れ落ち、灰色のタイルに激突し歪な円を描いていた。

全身は脱力し、屋上を吹き抜ける風にふらふらとその身を揺らしながら絹旗は立っていた。

その中で涙に爛々と光る両目だけは確かな力を持ち海原を凝視し、
食い縛られた口の端からは熱を帯びた吐息が胎動のように吐き出されていた。



――――ふーっ、――――ふーっ、



腕を蝕む激痛を意志の力で捻じ伏せ、もはや悪鬼の形相で絹旗は立ち、視線は海原を射抜いていた。





正気の沙汰ではない。そう自身思う。

外部からの圧迫を受け、それから逃れる手段として。

――自らの意志で窒素を操り、より強い圧力をかけ引き抜いたなど。

お陰で思考はいつになくクリアだ。不意に受けた痛みと己の覚悟を以って得た痛みは等価値ではない。
その痛みが何なのか理解し、決意として刻んだものであれば、それは力となる。

風は相変わらず強く、ならばこの場には大気が存在する。
彼らは女王の命を待つかのごとく、ごうごうとその存在を誇示していた。

しかし相手が厄介だ。

『窒素装甲』の一番の武器は絶対の防御力にある。
だが、俗に裏当てと呼ばれる拳法の技法に似た、その鎧を抜いての直接攻撃。

絹旗が物理干渉系の能力の中で唯一の苦手としている相手だ。
これならばまだ同系統の能力で相殺される方がやりやすい。

射程も違いすぎる。先程の一撃から絹旗はそれが『念動力』の異能である事はまず間違いないと中りをつけ、それは正鵠を射ていた。

念動力とはその名の通り物に触れず力を加える能力だ。
その特性上、高位ならば手の届かない場所、相応の距離を射程とする。
その支配圏が自身の周囲僅かでしかない絹旗とは圧倒的な差があった。



ふっ、と。

「――――――!!」

嫌な予感がして、絹旗は真横に飛んだ。

直後、絹旗の立っていた場所を中心に、空気が歪んだ気がして。

ごしゃりと。屋上に放射状の皹が走る。

慣れない回避行動に冷や汗を掻きながら絹旗は再び飛び込むような格好で跳躍する。
能力を自らに向け、半ば突き飛ばすような操作は想定以上の負荷を絹旗に強いる事になるが。

再び鈍い炸裂音。
砕けたタイルの欠片は粉となり、風に巻かれて飛んでゆく。
その間にも次の轟音が鳴り響く。

まるで見えない巨人が地団太を踏んでいるような、そんな場景。
その中を絹旗は右腕を抱え転がるようにして駆ける。



がん! がん! ごん! がん!

工事現場の杭打ちに似た音が連続する。
違うのは一点。それが地面ではなく絹旗に向けられて打ち込まれている事だ。

一見無造作に見えるも、一定のリズムを刻んでいる。

「ダンスはお嫌いですか?」

その最悪に癪に障る笑顔に、絹旗は、

(常盤台の超お嬢相手にでもやってろ――!)

がぎり、と。

跳躍した足をそのままに、屋上に一点、突出した箇所に踏み抜くように押し込んだ。
がぼっ、と。ウエハースでも砕くようなあっけなさでコンクリート製の壁は打ち抜かれる。
砕かれた破片が、がらがらと、相応の質量が絹旗に降り注ぐがそれらは全て彼女の纏う無色透明の鎧によって弾かれる。

「生憎と――――」

左足で暗い内側に着地し、そこを基点にくるりとアイススケートの選手のようにターンを決め、

「私は超安い女じゃないですからっ!!」

抉り取るように振り抜いた右足で、半ば支えを失い揺れていた分厚い鉄の扉を高速で蹴り飛ばした。



扉は大気にぶつかり、僅かに傾ぎながら、しかし強風に煽られながらも正面から海原に向かって突撃する。

「――――――」

それを海原は眉一つ動かさず。

――がごぉん!

耳障りな音と共に鉄板は真上から叩き伏せられ、コンクリートに杭のように打ち込まれ、海原の数メートル前でその身を固定された。

ビルに分厚い鉄板が生えているような、奇妙な光景。
だが、それには一切注意を向けることはなく、海原は前方を見据える。

視角封じ。よくある手だ。戦闘中に相手の姿を見失う事は致命傷となる。
だから海原は一度隠された絹旗の姿を目で追い。

――――――いない。



小さく舌打ちして、海原は眼球を動かす。

屋上には身を隠す場所などなく、崩れた瓦礫の向こうにもただぽっかりと空洞が広がっているだけだ。
正面にはエレベーターの両開きの扉が見え、そこまでの廊下を埃が舞っていた。

視線を僅かに下げる。足元。階下、室内に意識を向ける。
彼女の能力は分厚いコンクリートの壁を容易く貫くものだ。
通常ならば地下であるその位置からの奇襲は確かに効果を発揮するだろう。

だが絹旗の能力の射程は絶望的なまでに短い。
何せほぼゼロ距離。絶対の領地はそれだけでしかない。
長射程を持つのであればわざわざ鉄扉を蹴り飛ばす必要はない。

――まさか、逃げたか。

如何せん海原の能力は絹旗のそれとの相性が抜群に悪い。
絹旗の能力は『相手に触れさせない』事であり、海原はその正逆、『相手に触れずに干渉する』事だ。
いくら鉄壁を誇ったところで、小学生にも見えるその小さな矮躯を直接叩けば一溜まりもない。
故に撤退もありえない事ではなかった。

だが、気付く。

下げた視線の先、もはや傷のない場所が見当たらないほど無残な様相を晒す屋上に。
深々と刺さった鉄の板。
それはビルの屋上に生えているかのごとく半身を確かに屹立させ――。



「超ちっちゃいからって舐めんなあああああっ!!」



声と共に、その身を更に小さく、鉄板の影に隠れるようにして屈めた絹旗が、扉を無理矢理に押し割りながら飛び込んできた。





伸ばした左手。

より速く。より遠く。

それは何かを掴もうとするかのごとく、一心に伸ばされ。

張り詰めた指先は、海原を。





――――――ごしゃっ、





横殴りの一撃が少女の小さな体を攫い、それを真っ先に受け止めた左半身が嫌な音を立て。

「――――く――――そおおおおおおおおおっ!!」

流れに逆らうように風上へ。

宙に舞う枯葉のように絹旗の体は吹き飛ばされた。



がしゃがしゃがしゃ! と砕かれたタイルの欠片が巻き込まれ悲鳴を上げた。
耳に響く乾いた音を撒き散らし、ナイフにも見えるそれを跳ね上げながら絹旗は無様に屋上を転がり。



――――ごづっ、



と、鈍い音を立て、絹旗の身体は屋上の端に僅かに迫り上がった部分に後頭部から激突し、ようやく止まる。

しかし彼女の身体を、分厚い石の壁も、その刃のような石片も、傷一つ付ける事はできない。
どんなに重く硬く堅牢だとして、どんなに硬く鋭く尖っていたとして、この期に及んでなお絹旗は彼女の軍勢によって守られていた。

「――――――」

だが、のろのろと起き上がるその様子を見、海原は僅かに目を細めた。

綺麗事も言い訳じみた独善も吐くつもりはない。
彼女の痛ましい様子は全て自分の手によるものだ。目の前の血塗れの小さな少女は自分の力によって血に塗れているのだ。
それを全て自分は自覚的に、その結果どうなるかを正確に理解して行った。そしてその通りになった。

だから、これは彼女に対する憐憫でもなければ、偽善でもない。



「――――――ごめんなさい」



何の救いにもならないその言葉を、けれど投げかけずにはいられなくて口にして。

海原はゆらりと頭上に伸ばされた右手を。

己の意思によって振り下ろす。





「――――――――――え?」



海原は、どこか間の抜けた、短い声を思わず発する。

何が起こったのか理解できなかった。だからそんな声を出してしまった。

目の前は赤く、悪夢的なまでに赤く。

眼前で立ち上がろうとする絹旗が、かくりと折れ、頭から倒れ石の床に突っ込んだ。

だが、自分はまだ腕を振り下ろしていない。

その証拠に絹旗は無傷で。





――――血塗れなのは自分じゃないか。





どさりと、真っ赤な血花の咲いた屋上に、二つ目の重い音が響いた。









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